姫星リサリカ 1話目 ドミノ倒し
姫星リサリカの王宮。その最上層に造営された広大な空中庭園は、文字通りこの星系の「平和の象徴」だった。
透き通るような青空には、リサリカを守護するように同じ軌道を巡る二つの騎士星――エンデカとオルデカが、昼の月のように並んで浮かんでいる。
「今日も美しい空ですね、クロエ」
代々この星の名を受け継ぐことを宿命づけられた姫・リサリカは、白亜の手すりに寄りかかりながら優しく微笑んだ。彼女はどこまでも理想家であり、人民を愛し、また人民からも深く愛されていた。この美しく調和のとれた世界が永遠に続くと、疑うことなく信じていた。
「ええ、殿下。ですが風が少し冷たくなってまいりました。そろそろ中へ……」
侍女のクロエが肩掛けを手に振り返った、その時だった。
鼓膜を劈くような悲鳴が、色鮮やかな花壇の奥から響き渡った。
二人が視線を向けると、庭園の手入れをしていた温厚な老庭師が、警護に当たっていた近衛兵の首筋に深々と牙を立てていた。いや、それはすでに「庭師だったもの」と呼ぶべき異形だった。彼の体は風船のように異常に膨張し、皮膚を内側から突き破るように、ドス黒い肉芽がボコボコと蠢いている。
「……何をしているのです! やめなさい!」
リサリカは咄嗟に声を上げたものの、内心では凄惨な光景にその場へ崩れ落ちたい衝動に駆られていた。だが、為政者としての矜持が辛うじて彼女の足を踏みとどまらせていた。
だが、引きちぎられた近衛兵の首から鮮血が噴き出し、純白の床を赤く染め上げた瞬間、事態は急転した。
絶命して倒れたはずの近衛兵の傷口から、這い出るように黒い肉芽が爆発的に増殖し始めたのだ。瞬く間に理性を喪失した二体の化け物は、血の匂いに興奮したように、ひんむいた濁った眼球を一斉に姫へと向けた。
「殿下、いけませんッ!!」
リサリカが手を伸ばすより早く、クロエが力任せにその細い腕を引いた。
「クロエ! 彼らは……」
「あれはもう、人間ではありません! 走って!」
普段は完璧な礼儀作法を決して崩さないクロエの、悲痛で切羽詰まった怒号。それが、リサリカの信じていた「理想」が音を立てて崩れ去った最初の瞬間だった。
足に絡まるシルクのドレスのせいで倒れそうになるリサリカの体を、クロエは力強く引いて抱きかかえると、空中庭園に停めてあった警備用ホバーバイクへと強引に乗せた。自らも背後から覆いかぶさるように跨り、スロットルを全開に捻る。
背後では、化け物を止めようとした衛兵たちの悲鳴が次々と連鎖していく。逃げ惑う侍女たち、怒号を飛ばす兵士たち。昨日まで姫に微笑みかけていた優しい人民たちが、瞬く間に互いを喰らい合う肉の塊へと変わっていく。
姫が愛した美しい世界が、無残な咀嚼音と断末魔に飲み込まれていく。
ドミノ倒しのように連鎖する滅びの足音が、すぐ後ろまで迫っていた。
重低音を響かせ、ホバーバイクが空中庭園の柵を大きく飛び越える。だが、虚空へと逃れて一息つく間もなく、二人の眼下には王都の地獄絵図が広がっていた。
「ああ、なんてこと……」
リサリカは絶句した。王宮の高層階の窓からは、血みどろになった衛兵たちが、異形の化け物としがみついたまま、悲鳴とともに地上へ真っ逆さまに落ちていく。まだ制服を着たまま、自分が何に変貌しつつあるのか理解せぬまま肉体を波打たせる「化け始め」の者たちも、その窓辺で苦悶の声を上げていた。
地上では、さらに凄惨な光景が展開していた。まだ「発症」が始まったばかりの、混乱と恐怖の初期段階。自分が化け物に襲われていると気づかぬまま、昨日までの家族や隣人に組み伏せられ、生きたまま臓物を引きずり出される者。逃げ惑う群衆の中からも、ドミノ倒しのように次々と新たな発症者が姿を変え、牙を剥き始めていく。
リサリカが愛した秩序と調和の都は、殺戮と血の海に飲み込まれようとしていた。
「……落ち着いてください。まだ道はあります」
クロエは、姫の背越しに操縦桿を握り締め、自身の恐怖をも押し殺して呟いた。彼女は常に、王家の侍女として支給された高機能通信端末を携帯している。この端末は、王宮のメインシステムと常に接続され、最優先の通信経路を確保していた。
彼女は片手で端末を起動し、震える指で王宮近衛大隊の本部へと緊急アクセスを試みる。
『――こちら近衛大隊本部。リサリカ殿下は、ご無事ですか!』
スピーカーから、ノイズ混じりの、しかし確かに生きている人間の声が響いた。
「クロエです。殿下はご無事です。現在、空中庭園からホバーバイクで脱出中。安全な避難場所を案内してください」
『了解した。王宮地下、第3特区シェルターがまだ機能している。防壁を一時的に開ける。そこへ向かえ。北側の緊急ポートから進入するのだ』
「第3特区シェルターですね。了解」
クロエは通信を切ると、リサリカの体を背後から抱きかかえ、守るように腕の力を強めた。
「殿下、しっかり掴まっていてください。地下シェルターへ向かいます。あそこなら……あそこなら、きっと大丈夫です」
クロエの言葉に、リサリカはただ力なく頷くことしかできなかった。振り返れば、夕日に染まる王宮が、ドミノ倒しのように次々と未曾有の「同時発症」を起こし、ゆっくりと、しかし確実に崩壊していくのが見えた。




