第19章:一つの鍋が繋ぐ、人の心
国王の「うまい」という一言を皮切りに、重臣たちも、おそるおそる、しかし抑えきれない好奇心と共に、すき焼きに手を伸ばし始めた。
熱々の肉を、黄金色の溶き卵にくぐらせて口に運ぶ。その度に、広間のあちこちから、驚嘆と官能の溜め息が漏れた。
「おお……! 肉が、口の中でとろける……!」
「この甘辛いタレと、卵のまろやかさが、信じられないほど合う!」
「野菜にも味が染みて、たまらなく美味い! このネギの甘さと言ったら!」
あれほど頑なで、険しい表情をしていた老宰相も、今や目を細め、夢中ですき焼きを頬張っている。武骨な将軍も、子供のように目を輝かせて、次の肉が焼けるのを待っている。
鉄鍋の中では、肉の旨味、野菜の甘み、割り下の風味が一体となり、時間が経つごとに、さらに奥深い味わいへと進化していく。人々は、その味の変化にまた驚き、感動し、酒を酌み交わし始めた。
唯一、頑なに腕を組んでいたのは、王太子ジュリアンだった。彼は、こんな田舎料理に屈するものか、という意地とプライドで、すき焼きに手をつけずにいた。しかし、周囲に満ちる幸福な喧騒と、抗いがたいほど美味しそうな香りに、彼の額には汗が滲んでいた。
そんな彼に、アリアは静かに、煮えたばかりの豆富を取り分けた。
「殿下。騙されたと思って、一口だけでも、いかがですか」
ジュリアンは、アリアを睨みつけた。しかし、目の前の湯気の立つ豆富から放たれる香りに、ついに彼の抵抗は限界を迎える。彼は、悔しそうに顔を歪めながらも、フォークを手に取り、その豆富を口へと運んだ。
「……っ!」
熱々の豆富に染み込んだ、全ての具材の旨味が凝縮された汁。その圧倒的な美味しさに、ジュリアンの碧眼が見開かれる。悔しい。腹立たしい。しかし、どうしようもなく、美味い。彼のプライドは、うま味の暴力の前に、粉々に砕け散った。
それからは、彼もまた、他の者たちと同じように、無言で、しかし猛烈な勢いで鍋をつつき始めた。
会場の空気が、すっかり和やかになったのを見計らい、アリアは静かに語りかけた。
「皆様。すき焼きは、こうして、一つの鍋を皆で囲み、同じものを食べ、分かち合う料理です」
その言葉に、皆が顔を上げ、アリアに注目する。
「誰かが肉を入れ、誰かが野菜を入れる。身分も、立場も、考え方の違いも超えて、ただ『美味しいね』と笑い合う。そこには、敵も味方もありません。すき焼きには、人の心を一つにする力があると、私は信じています」
アリアの言葉は、すき焼きによって心と胃袋が満たされた彼らの胸に、じんわりと染み渡っていった。
国王は、空になった鍋と、満足げな顔で談笑する重臣たち、そして、いつの間にか顔を上げて自分を見ているジュリアンの姿を見渡した。そして、深く、長いため息をついた。
「……アリア嬢。君の言う通りかもしれん。我々は、一番大事なことを忘れていたようだ。民も、王族も、貴族も、皆がこの王国で共に生きる、一つの家族のようなもの。誰かが飢えている時に、自分たちだけが満たされようなど、間違っておった」
国王は、レオンハルトに向き直り、深々と頭を下げた。
「辺境伯。そして、辺境の民よ。我々の過ちを、許してくれ」
その光景に、誰もが息をのむ。一国の王が、臣下に頭を下げたのだ。
「食糧の献上命令は、ただちに撤回する。それどころか、逆に、王都から可能な限りの援助を送ろう。アリア嬢が開発したという、その素晴らしい保存食の技術を、どうか王国全土に広めてはくれまいか。報酬は、望むままに支払おう」
それは、完全な和解の言葉だった。
アリアの一皿が、一つの鍋が、戦争の危機に瀕していた国を救った瞬間だった。頑なだった人々の心は、温かいすき焼きによって溶かされ、再び一つに結ばれようとしていた。
この日、「すき焼き外交」は、王国の歴史に、最も美味しく、そして最も平和的な交渉として、永遠に刻まれることとなった。




