友達の弟⑥
家に帰ると、父がめためたにされていた。
妹に。
「この時を待っていた」
という香子が、一体何を言ったやら、父はすっかり意気消沈していた。食卓におでこを着けて、頭を抱えている。
「香ちゃん…一体、何を?」
「真実を」
何を言ったやら…。
冷たい口調で言う妹もそれなりに苦しそうで、透子は父親ではなく香子を抱き締めた。
「お父さんもお母さんも大嫌い…」
「うん。お姉ちゃんが大学に受かったら、二人で家を出て、一緒に暮らそうね」
「落ちたらどうすんの…」
「落ちたら就職して、お金を貯めて、家を出る」
キッパリ言うと、父親がガバリと顔を上げた。
その父親の顔を見て、
「香子も連れて行くね。援助してくれたら助かるけど、駄目でも香子は置いていかないから」
「なんでそこまで」
と父が言った。
なんでそこまで。
「そう、言うから。お父さんが」
ぐっと、喉を塞ぐものを感じたが、泣かない。
…さっきまで蒼といたから。
透子が何より大事だと、言ってくれる人が出来たから。
「なんでそこまでって。いつも。私が着替え覗かれて、身体を触られて、死にたい気持ちになってても、なんでそんなことでそこまで騒ぐんだって、言うからだよ」
父親は呆然と透子を見ている。
その顔に十の言い訳が浮かんでいた。
だって、そんなに辛いと思わなかったから。
だって、そこまでだって、知らなかったから。
だって…
だって、目を逸らした方が楽だったから…
「私は香子にはそんな思いさせたくない。だから、この家には、お父さんだけ住めばいいよ」
透子がこんなにハッキリ引導を渡したのは初めてだった。
ショックの余り物が言えない父親が、言えるようになるまで待つこともなく、二人の娘はリビングの扉を閉めた。
自室で透子がスマホを見ると、さっき別れたばかりの蒼からLINEが来てた。
―もう、会いたい。
「ふああっ」
透子が奇声を発すると、どうやら何か話に来たらしい香子が、
「え、今の声、なに?」
とドアを開ける。
「なに?…その顔。さっきの今で、どういう状況?」
「ふわー…。結婚式と葬式が一緒に来た感じなの…」
「何それ?盆と正月的な?」
意味不明な姉の言葉は勿論シスコンの妹にも通じず、透子はモジモジしながら蒼のことを白状したのだった。
***
付き合うことになってから、初めて会う日。
どんな顔しよう…いや、普通でいい筈だ…ふ、普通ってなんだっけ?と悩みながら塾を出ると、事務室に寄る為に早く自習室を出たせいか、蒼はまだいなかった。
いつも蒼の待つ道路脇のガードレールの近くで、所在無く立つ。
パッパー!と自動車のクラクションが鳴り、白い車が近くに停まった。透子は思わずビクリと身体を震わせた。
「ママー!遅いよ!」
塾の前で迎えを待っていたらしい女子高生が、不満を言いながらその車に乗り込むのを見ながら、透子はドクドクいう身体の硬直を、ゆっくり解いた。
…塾の中で待とうかな。
女子高生とその母親の車をなんとなく見送りながら、透子は、そういえば高校受験の時は母がよく塾に迎えに来てくれたな、と思い出す。
透子の通っていた塾は飲食物持ち込み禁止だったので、塾が終わる頃はお腹が空いて空いて…
帰りにコンビニに寄って、肉まんを買ってもらって食べた。お父さんと香ちゃんには内緒ね、と言って。
出て行くまではむしろ、二人の娘を溺愛している過保護な母親だったと思う。
「飽きちゃったんだと思います」
水澤家にはそう、説明したが、出て行った当初からそう思い切れた訳では当然、ない。
寄り合いが原因に違いない母の突然の家出だったが、突然放り出されて、当時まだ小学6年生だった香子はかなり不安定になったし、透子も混乱した。
香子のこと、自分の受験の手続き、家事や寄り合いやなんかが一気に透子の背に掛かってきて、一時は担任に「受験校のランクを落とした方がいい」と言われるほど成績が落ちた。
疲れきってる時に、電車の中で誰かが何かについて言った言葉がすっと透子の心に落ちて、合点がいったのだ。
―あんなに好きだったのに
―飽きる時は一瞬だったわ
そういうことがあるんだ、と透子は思った。
その時に透子は、自分に原因を探すのはやめよう、と思った。
…だけどもたまに思う。
こういうふとした時に。
あの時迎えに来てもらった自分は、母にちゃんとありがとうと言っただろうか。
塾の入り口の階段を上がろうとして、透子は塾の入り口に立っていた誰かに声を掛けられた。
「あの」
顔を上げると、茶髪の私服の男子。…あ、見覚えある。
いつも一緒の自習室使ってる子だ。
「はい」
透子が首を傾げて返事をすると、真っ赤になって固まる。
「あの…?なにか?」
「あ、あ、あの」
「はい」
返事をするが、中々用件を言わない。
「あの、これ」
と何か差し出す。
「あ!」
先週失くしたブッククリップ。
分厚い参考書を開いたままにする為に必須の文房具だ。
「ありがとうございます。拾って下さったんですか?」
「は、はい」
「良かった〜、あって」
千円くらいの文房具だが、高校生には痛い出費だ。
「ありがとうございます」
と笑顔で再度言って、受け取ろうとしたのだが、何故か差し出した手にブッククリップを置いてはくれず、握ったまま透子の顔を見ている。
「あの?」
首を傾げる透子に、その男子が何か言おうと口を開いた時、
「透子」
透子の背後から蒼の声がした。
…わ、呼び捨てされた。
「あ、蒼くん…ごめんね、来てもらって」
振り返ると、制服姿の蒼が立っている。
「いいよ。彼女のお迎えだもん」
かのじょ!
「えへへ」
透子が顔を赤くしてヘラっと笑うと、蒼も目元に笑みを湛えて透子の頬を撫でた。
「…この人は?」
と蒼が茶髪の男子を見る。
「あ、落とし物を見つけてくれて…」
言いながら、そういえば何故透子の物だとわかったのか疑問が浮かぶ。
「あ、あ、…ど、どうぞ!」
答えが出る前に、手にブッククリップを押し付けられ、その男子は塾の中に早歩きで戻って行ってしまった。
「あ、ありがとうございました…!」
背中に声を掛ける透子の手元から、ブッククリップを摘み上げ、蒼は「ふうん」と不機嫌そうに眉を顰めた。
「知ってる人?」
「知らない…でもよく一緒の自習室使ってるから見たことある人だけど」
「ふうん…透子さん、自習室変えたら?」
「なんで?」
「同じ環境でずっと勉強するより変えた方が効果が出るってアメリカ人が言ってた」
適当なことを言う。
「変なの」
透子は笑ったが、蒼は、
「はあ。だってあいつ、絶対透子さん狙ってるじゃん」
透子はポカンと蒼を見上げた。
「…あ、なんだ、冗談か」
「何でだよ。マジだよ」
蒼は溜息を吐いた。
透子は呆れて、
「あのね、喋ったこともないよ、あの子」
「透子さんくらい可愛い子が同じ部屋にいたら好きになる」
初対面で威圧したくせに…と思わないでもなかったが、可愛いと言われて嬉しくて照れる。
「えへ」
「あ、なに。あいつに好かれて喜んでる?もう透子さん、俺のだからね。わかってる?」
「あ、ハイハイ」
「ハイは一回だよ、透子さん」
「あ、ハイ」
あんまり蒼が言うので、自習室を変える約束をしてしまった。
私服だったし、多分浪人生だし、恋愛なんかしないと思うけどな…透子は自分のことを棚に上げてそんなことを考えた。
「ごめんね、今日。何もないのに迎えに来てくれて、ありがとう」
最寄駅から家に帰る途中、透子は気にしてたことを言う。
「どういたしまして。何もないのに来られるようになりたかったんだよ、俺」
「どういうこと?」
「前は我慢してたからね」
「我慢?」
「本当は毎日会いたかった」
「そ、そうなん…」
「…同じ高校だったらなあ。でも透子さん、共学行ってたら絶対誰かに取られてたから、良かったんだけどさ」
蒼はそう言って、繋いでた透子の手を引っ張って抱き寄せた。
「わわっ」
ギュッとされる。
夜の住宅街。人はいないけど、これは…
「透子さん、顔上げて」
「かお」
反射的に上げると、蒼の唇が透子のに押し付けられる。
「ん…!」
急なゼロ距離に、身体が熱くなる。
ちゅ、ちゅ、と唇が押し当てられて、
「透子さん…好き」
と言われる。
「うん…わ、私も…」
好き、と言う前に、また蒼に唇を塞がれた。
糖度がすごい…
それから送られるたびに、「好きだ」「可愛い」と言われて、抱き寄せられ、キスをされた。
蒼の部屋に行くと、唇を貪られながら、ちょっと脱がされて、キスマークを付け直される。
けれど、それでも自制していたらしい蒼が、付き合い出して一か月程で暴走して透子の胸を食べたので、真っ赤な顔でプルプル震える透子が「受験終わるまでキス以上禁止」を宣告して蒼を絶望させた。
「透子さんの為なら何でもする」
と悲壮な決意を固めた蒼だったが―
「…その代わり、じゃないけど」
と透子を対面で膝に跨がせたまま、言い出した。
「…受験が終わったら、…一緒に旅行行こう」
透子は好きな男の子に胸を舐められた衝撃にまだ顔を赤くして胸元を押さえながら、
「旅行…というと」
と蒼を見上げる。
「…と、泊まる…の?」
更に赤面する。
「うん」
蒼が透子の頬を撫でる。
「俺、バイト頑張って、なるべくいいホテルか旅館、とるからさ。…そこで、透子さんを、抱きたい」
「だ」
直接的な言葉に、透子は一瞬頭が真っ白になる。
「いっぱい抱きたい。透子さん…全部欲しい」
何を?
とは流石に聞かない方がいい気がして、透子は上気した顔のまま蒼の顔を見上げて、
「じゅ…けん、受かったら…ね」
と釘を差す。
「うん。頑張ってね」
差したつもりでまんまと言質を与えていることに気付かない透子の頬を、蒼が愛おしげに撫でた。