友達の弟【おまけ】
5コマ目が終わって、透子は大学の本棟と呼ばれる建物の1階の食堂に降りて来た。
食堂と言っても、昨今の大学の食堂はまるでオシャレなフードコートのようだ。
縦に長いテーブルと椅子だけが、昔の食堂の風情を思い出させる。
実家から持って来たノートPCを開いて、立ち上げる。古い型なので、立ち上げに少し時間が掛かってしまう。
その間に蒼にLINEを送った。
―講義終わったよ。食堂のうしぎゅう前で座ってます
とだけ送って、PCでメールをチェックする。
家庭教師をやってる中学生から、何個か質問が来ている。
メールを開けて、透子は苦笑する。
「図形と図形がインフィニティで繋がってる意味がまず、わかりません」
インフィニティじゃなくて、もしかしてこないだ教えた相似の記号だろうか…
「俺は陰イオンを食べて陽イオンを出せるようになりました」
この子は何を言ってるんだ?
とりあえず質問ではないようだ。中二病かな…?
メールを読み解くのも一苦労だ。
透子のアルバイト探しで、一番の難関は蒼だった。
「飲食も、接客も、絶対駄目」
だという。理由は「透子が可愛いから」。
「じゃあテレオペのバイトは…」
「絶対駄目」
「なんで?」
「男がいるから」
…大学にもいますけど…。
とにかく蒼の論理だと、一人で部屋に閉じこもってやるバイトが理想らしい。
そんなバイトあるかい。
「じゃあ、家庭教師はどう?」
と言ってくれたのは掛け合いを聞いていた艶子だった。
「家庭教師?」
「知り合いがいい子がいないかって探してるの。月3万くらいで週2来てくれる子」
「行きます!」
「お母さん!それ女の子だろうね」
蒼が横槍を入れたが、女の子と男の子の双子ということで、なんとかOKが出た。
その双子に運良く気に入られて、双子の友達の家にも教えに行くことになった。
蒼が警戒するほど自分はモテないのだけど…。
蒼こそ、モテ過ぎてて透子はいつもびびってる。
二人で歩いてても女性に声を掛けられるし、先日行った蒼の学祭では蒼に片想いしてる女子四人に囲まれた。
あれ程モテると、嫉妬するのが追い付かないように思う。
子供達の難解な質問メールに回答を打っていると、すぐ隣の席に誰かが座った。
透子はてっきり蒼だと思って、嬉しそうに顔を傾けて見上げると…
「透子ちゃん」
透子が所属している天文サークルの先輩の高坂。
茶髪のクルクルパーマになってる…こないだまでピンクの直毛だったのに。
よく髪型が変わる先輩だ。
「高坂さん…お疲れ様です」
「今誰かと勘違いしたでしょう。ワオン君かな?」
「?誰ですって?」
透子は聞き取れなかったかな?と首を傾げる。
「ワオンくん。彼ピッピだよ」
と高坂は笑みを深める。
「…」
全体的に用語がよく聞き取れない。
「PayPayですか?」
「なんで?!彼ピッピって言ったんだよ!かれし!」
「蒼くんですか?」
透子がびっくりして高坂の顔を見返した。
「そー、そのワオン君。ワオンワオン透子ちゃんの周りで吠えて、犬みたいだから、ワオンくん」
「語感的に電子マネーの話かと思いました」
「なんでだよ!」
と高坂が爆笑する。
高坂の言ってることが全く分からないが、何だかウケたので透子もヘラッと愛想笑いを返した。
すると、
「透子」
と真後ろから声を掛けられる。
「あ、蒼くん…」
首を真上に上げて、制服さえ着ていなければ大学生で通じるくらい大人っぽい蒼を仰ぎ見て、透子はほにゃりと微笑む。
「待たせてごめん」
「全然待ってないよ。来てくれてありがとう」
「おー、噂をすれば、ワッオーンくん」
と高坂が言う。
蒼は無表情で、「どうも」と返す。
「透子、ずれて」
「ん?」
「席、ズレて」
「うん…」
席を動かされ、透子が座っていた椅子に蒼が座る。
蒼が透子と高坂に挟まれた形になってる。
「わあー、相変わらず、嫉妬深いねえ、ワオンくん」
「相変わらず…?」
蒼が訝しげに眉を顰めて、高坂を睨む。ややあって、ちょっとたじろいだように、「た、高坂…」と呟いた。
「さん」と取ってつけたように加えた蒼は、どうやら以前会ったのに髪型が変わった高坂を認識していなかったようだ。
「髪の毛ピンク先輩って覚えてたんで。…覚えにくい髪型になりましたね」
「髪の毛で覚えるのやめてくれる?」
「あの髪色にしといてそれ言われても…とりあえず、ヒトの彼女の隣に座るのやめてもらえます?」
「わー狭量。食堂だぞ。いいだろ、隣くらい」
「俺が許容できるのは電車の席までです」
「わー狭量」
高坂は呆れてると言うよりは面白がっている表情で、しょうがねーなと席を移して透子の正面の席に移動する。
「それでね」
と急に話題転換して、
「透子ちゃん、こないだのミーティング、来なかったじゃん?透子ちゃんは今年の乙女座に決まったよ!」
高坂がニカッと笑う。
「乙女座?」
「なんです、それ」
蒼が警戒したように言う。
「学祭でうちが出す冊子だよ。天文の紹介と一緒に、各星座毎に学内のイケメンとか可愛い子を写真入りで紹介…」
「絶対駄目です」
「透子ちゃんは乙女座の乙女として…」
「絶、対、駄目です」
蒼が静かに、断固として断った。
「横暴だよ、ワオンくん」
「高坂さん、でも、私も写真はちょっと…」
透子が言うと、
「でも俺も一年の時載ったし、その冊子の売り上げがサークル費になるんだよ?」
困った子を見る目で高坂が言う。
「写真ったって、勿論エロいのとかじゃないし、ミスコンとかに出る派手目の子じゃない子を載せるから裏ミスみたいになってて地味に売れるんだ。うちのサークル以外の一年生にもお願いするのに、サークルの人間が嫌ですってのはちょっと、ね」
「でも…」
「ゆうちゃんも最初ちょっと乗り気じゃなかったけどサークルの為に頑張るって言ってるし、皆嫌だけどやるんだよ?」
別の1年生の女子の名前を出されて、透子は表情を曇らせた。
「…透子が我儘言ってるような言い方やめてもらえますか?」
蒼がテーブルの下で透子の手を握る。
「誰が見るかわからないのに、後輩に強要するのはちょっと違うんじゃないですか」
「ちょ、待て待て。強要じゃないって、勿論」
高坂が言う。
「でも、皆やるんだから、透子ちゃんが一人だけやらないって言うと風当たりがキツくなると…」
「それが強要でしょ」
蒼が味方してくれて、透子は逆に落ち着く。
「高坂さん、それに載る代わりにやれる仕事とかあれば…」
「そうそう。それも皆言うんだけどねー」
高坂も困ったように言う。
「実際、載ってくれるのが一番助かるんだよね。透子ちゃんが嫌なら、誰か可愛い友達紹介してもらっ…」
言いながら、ポンと手を打った。
「…そうだ、じゃあ、ワオン君。ワオン君でどう?透子ちゃんの代わりにさ!射手座を空けるから!」
「はあ?…俺は大学生ですらありませんけど」
「番外編みたいな感じでさ!ワオン君が載ってくれたら透子ちゃんは免除するよ、どう…」
「絶対駄目です」
強い言葉で遮ったのは透子だった。
「でもさ…」
「絶、対、駄目、です」
珍しく強く言う透子に蒼が目を見張る。
「高坂さん、すみません。私、サークルの趣旨を分かってなくて。大変申し訳ないんですが、サークル、辞めようと思います」
「エッ」
「…透子?俺は写真くらい、まあいいけど」
蒼が言うと、
「蒼くん、載りたいの?」
「な、わけないけど。透子の為なら」
「私の為なら、断って」
「あ、ハイ」
透子がいつになく強い。
「いやいや、ごめん、そんなに嫌なら、載せなくてもいいよ!勿論ワオンくんも…」
高坂が焦って言う。
「写真のことだけじゃなくて…バイトで忙しくて、中々ミーティングにも参加できないし。悩んでたんです。ご迷惑掛ける前に辞めます」
「…っし」
何故か机の下で拳を握る蒼。
「えええー、俺怒られちゃうよ、部長に〜」
「今度ちゃんと謝りに行きます」
「そういうことじゃなくて…ええ〜。何も辞めなくても」
「でも、風当たりも強くなるし」
とさっき高坂が言ったことを言うと、
「うああ俺ってほんとお馬鹿っ!…ちょ、ワオンくんのその笑顔、ムカつくんだけど」
「え、俺笑ってます?」
「そんな笑顔初めて見るレベルで笑ってる」
「ほんと、すみません」
高坂がその後何を言っても透子の意思は翻らず、肩を落として去っていった。
「良かったの、サークル」
帰り道。
思いっきり喜んでいたくせに、蒼が気遣わしげに言う。
「俺がサークル嫌がってたから…」
「ううん」
透子が風に吹かれて道に転がる落ち葉を踏みながら、首を振る。
「正直言うと、蒼くんが嫌だって言う前にもう辞めようかなって思ってたの」
「え、そうなの?」
「バイトが結構面白いし…蒼くんに会う時間も取れないし。サークルも、飲み会が多くて、ちょっと合わないなあって」
「じゃあ、なんで…」
なんで、と蒼が言うのは、蒼が「透子がサークル行くの嫌だ」と言った時にちょっと喧嘩になったからだ。
「だってさ、蒼くんが、高坂さんが私を狙ってるとか言うから」
と透子が蒼を睨む。
「ちょっとムカついたの」
「えっ、俺に?」
蒼が焦った顔をする。
「蒼くん、その話になった日に、何人の女の子に声掛けられてたか覚えてる?」
「ん?」
蒼が眉を顰める。
「透子しか目に入らないから覚えてない」
蒼が正直に言うと、透子が「おっと」と警戒したように身構えて、
「…その手はくわないよ。蒼くん、あの時3人に声掛けられたんだよ。二人組と、私がトイレ行った隙に1人!」
その手ってなんだ?
と蒼は一瞬考えたが、大事なのはそこじゃない。
「…透子…それって、ヤキモチ?」
「…私が言いたいのはね、」
透子が顔を赤くするので、
「え、…マジで?」
蒼の声が心を表すように弾んだ。
足元で落ち葉がカシャリ、と気持ちよく散る。
「あのね、私が言いたいのは、蒼くんこそ色んな子に好かれてるのに、私みたいなのにいらない心配を」
「透子は世界一可愛いよ」
「そ、だから、そういう…あれではなくて…」
抵抗を続けるが、もう全然敵う気がしない。
「可愛いし、すっごい優しいし、性格いいし、頭もいいし」
「そういうあれでもなく…」
透子が顔を両手で覆った。
「そういうのもすごい可愛いわ」
「もう意味わかんないし…」
「あー…映画じゃないとこに行きたくなって来た…」
予約した映画館に向かうとこなのに、蒼が悩ましげに溜息ついた。
「え、どこ?」
「…いや、我慢するけどさ。はあ…透子がもう少しブサイクだったら安心出来るんだけど、俺は」
と蒼がしみじみ言うが、
「それはこっちのセリフです!」
思わず透子は言って、
「もうー」
と肩を落とす。
「どした?透子」
かすかに笑う透子を蒼が覗き込む。
「蒼くんと言い争ってると、最後絶対バカップルの会話みたくなるんだよ…」
ふふふと笑う透子の手を握ったまま、蒼が立ち止まった。
「ん?」
透子が蒼を見上げると同時に、蒼が透子の腰に手を回し、強く引き寄せ、透子の唇に自分のを押し当ててきた。
「…!」
大学から駅までの街路樹の並ぶ道。
黄昏時を過ぎて、暗くなり始めているその樹の陰に引っ張り込むように、蒼が唇を重ねた。
「…っ、ぉ、くん…」
唇を離されて、透子が震えるように囁くと、
「不安なのは俺の方だ」
何故か怒ったように言って、透子をぎゅうっと抱き締めた。
「透子、俺に、飽きないで…」
耳元で懇願するように囁くその声は、確かに何かに怯えているように聞こえた。
「…っ、あお…」
飽きるわけない。
私の全てなのに。
「…透子」
ガバッと肩を掴まれて、顔を覗き込まれる。
信じられない、というように蒼の目が見開かれてる。
「今の、…本当?」
言われて初めて透子は、心の中だけで呟いたつもりの言葉を口に出していたことに気付く。
「ぅ、にゃああああ」
羞恥に震えて変な声が口から出た。
蒼は破顔した。
「ていうか…」
再び歩き出しながら、透子は恐ろしいことに気付く。
「…き、聞いてたの?起きてたの?」
ー飽きないで。
暗示に掛かればいいのに、と蒼と寝て起きたいつかの朝に、耳元で懇願していた言葉。
「やっぱりそうか」
蒼がギュ、と繋いだ手を一瞬強く握った。
やっぱりそうか?
「夢かなあって思ってたんだけど…透子が俺に縋るなんて、俺に都合良過ぎだし」
「…」
しまった。しらを切れば良かったのか…。
「あのさ、俺も、透子と同じ気持ちだからね」
「同じ?」
蒼が立ち止まって、
「俺だって同じように不安だってこと」
「うん…そ、そうなんだね」
その可能性は考えつかなかった。
「あと、透子が俺の全てだってのも」
「くっ…」
透子は繋いでない方の手で目元を覆った。
恥ずかしい。心のポエムを読まれたような気持ちだ。
「早く大人になりたい」
ポツリと蒼が言った。
「大人になったら何になるの?」
透子が蒼を覗き込むと、蒼は嫌な顔をして、「また子供扱いして」とブツブツ言う。
「何になるかはわからないけど、やるべきことは決まってる」
「やるべきこと?」
「香子ちゃんに土下座して、お姉さんを下さいって言う」
ぶふっと透子は吹き出した。
なぜ、香子に。
透子は笑いながら、
「もう蒼くんのものなのに」
と言うと、蒼が固まった。
「…あおくん?」
透子が見上げると、
蒼は無言で透子を引っ張って歩き出す。
「ん、蒼くん、ど、どうしたの?」
「…」
「蒼くん、ね、どこ行くの?映画館、こっちだよ」
「…」
「ね、蒼くん…ま、待って、蒼く…あの、なんで、なんで…」
以前にも蒼と入ったことのある建物に引っ張りこまれながら透子が落とした「なんで」が木枯らしの中で枯葉と一緒に宙を舞う。
約4時間、蒼が満足するまで、透子はその答えを思い知らされた。
読んでくださった方、ブクマ、評価、いいね頂いた方、ありがとうございます。
ただただ感謝です。




