友達の弟①
高三の最初に、グループ研究が課せられたのは、親睦も兼ねてのことだったと思う。
折角だからそれぞれの家に遊びに行って皆でやろう、と同じグループの誰かがが言い出した時、水澤紫だけが顔を曇らせたのに、倉橋透子は気付いていた。
ははーん…
部屋が、汚いのかな?
わかるわかると思いながら、紫自身が異議を唱えなかったので透子もそのちょっとした違和感は忘れていたのだが―
委員会があって一人だけ遅れて紫の家のピンポンを押した透子の前に、玄関ドアを開けて現れた不機嫌な超絶イケメンを見て、透子はその違和感を思い出した。
「…誰?」
「あ、…」
訂正する。超絶不機嫌な超絶イケメン、だ。
短く刈った黒髪に、長身。切れ長の目は紫に似てる。
「なに?」
「私…あの、紫ちゃんの友達で」
「だから?なんで家まで来んの?」
畳み掛けるようにイケメンに責められる。
「い、いや、今日…一緒に勉強しようって、約束して」
「は?知らない」
恐らく紫の弟であろうその男子はにべもなくぶっちぎる。
「あの…中に、もういると思うんだけど」
「いない」
えー。
「帰って」
えー。
怖い。このイケメン、怖い。
「いや、あの…」
「こういうの迷惑だって、なんでわかんねーの?」
「あ、ハイ…すみません」
「帰って。二度と来ないで」
「あ、ハイ…」
基本的にイエスマンの透子は、恐ろしさに震えながら一礼すると、踵を返してダッシュした。
こっわ!
男兄弟、こっわ!!
動揺の余り家までスマホも見ずに帰って、妹に泣きついて、落ち着いた所で紫からの着信に気付いた。
「ごめん!!弟が、追い返したんだって?!」
電話で開口一番、紫が謝った。
「ゆ…ゆかりちゃーん…」
とベソをかく。
「ごめん、ほんとごめん。透子ちゃんの委員会終わるの教室で待ってたの」
透子は教室に寄らずに校舎を出たので、行き違いで透子だけが先に紫の家に着いてしまった。
「蒼もさあ…あ、弟ね。あいつも今日はバイトで居ないはずだったのに、急にシフト変わりやがって」
「お、弟くん、めっちゃ怒ってたよ」
「ごめんごめん。殴っといた」
殴っ…?
儚げな美少女の紫が、不穏なことを言う。
「詳しくは明日説明するけどさ、弟がいる時は私は女友達を家に呼ばない約束してるの。だから、透子ちゃんが勝手に来たと思ったみたい」
他の面子も鉢合わせちゃって、大変だったんだ、と愚痴って紫は電話を切った。
「昨日はごめんね」
翌日、改めて紫に謝られた。
「蒼はさ、昔からモテるから、よく女の子に付き纏われちゃって嫌な思いしてたんだ」
「イケメンだもんね」
透子がうんうんと頷く。
「私の友達とか、蒼目当てでうちに来たがってさ…ストーカーみたいになった子もいて、それで蒼が居る時は友達呼ばないってことにしたの」
と言ってから声を潜めて、
「でないと、ああなるから!」
と言って、駆け寄ってくる二人のクラスメートを目で示した。
ああなる?
「紫〜!おはよ!昨日はありがとう!」
「紫、また今日も行っていい?イケメンの蒼くんにまた会いたい!」
「会いたーい!」
同じグループの綾菜と瑞香。
すごい、すっかりファンになってる。
「ダメ!今日は、綾菜のうちでしょ?」
ピシャリと紫が断る。
「えー!でもうちにはイケメンの弟はいないもん」
「勉強に弟は必要ありません」
「お願いお願いお願い!…透子だって昨日は結局参加できなかったもんね?行きたいよね?」
と透子に水を向けられる。透子は青ざめて、
「絶対ヤダッ!」
と悲鳴を上げた。
「…え、絶対ヤなの?」
「なんで?」
なんで?と紫も同じ顔をしている。
「紫ちゃんの弟…めっちゃ怖い」
透子が真顔で言うと、紫が吹き出した。
「出禁もくらったし、絶対行かない」
「出禁?!」
紫が笑いを引っ込めて目を剥く。
「二度と来るなって…」
「あいつ!」
紫が険しい顔をするのを、慌てて透子が、
「いいのいいの、行かないし、もう関わらないから、いいの」
と言って、
「だから、グループ学習では絶対紫ちゃんちはナシだから!出禁だから!」
と他の二人に言うと、紫が少し安心したようにホッと息を吐いた。
そんなことがあったのが高三の4月。
関わらないと決めた不機嫌イケメンに再度の邂逅を果たしたのは、8月の予備校の夏期講習の帰りだった。
透子は国語、特に現代文が大の苦手だ。
「現代文はねえ…結局、本をたくさん読んできた奴が勝つ世界なんだよねえ」と予備校の講師に言われて以来、遅いとわかっているがせめて通学・通塾中は父親の書棚から適当に抜いた本を読むようにしている。
その日も、電車で眠気と戦いながら本を読んでいた。
ゴツッという音が目の前からして、ハッと覚醒する。
目線を上げると、真向かいに座って寝ている、黒いスーツに真っ赤な柄シャツを着た金髪の男性の膝から、スマホが滑り落ちて床に落ちた音だった。
赤柄シャツの男は、気付かずに眠りこけている。
その隣に座っていた中年の男性が、屈んでスマホを拾い、そっと男の膝に置いた。
――その瞬間、男が起きた。
「てめえ」
突然大声を上げる。
透子だけでなく、車両にいる全員がビクッとした。
「俺のスマホなに触ってんだっ」
善意で拾っただけの隣の男性は、青ざめて絶句する。
「パクろうとしやがったのかっ」
「いや、わ、私は…」
「ぶん殴られてえのかっ」
「わ、私はただ…」
「汚ねえ手で触りやがって!」
話が通じない。
そもそも人の話を聞かない種類の人間だ。
中年男性もそう思ったようで、サッと席を立つと丁度駅に滑り込んで開いたドアから早歩きで出て行く。
ところが、
「てめえ!逃げる気か!おい!」
柄シャツの男も、追いかけて出て行く。
透子も思わず立ち上がり、二人を追い掛けてホームに降りた。
おい!
てめえ!
殺すぞ!
聞くに耐えない言葉を叫びながら早歩きで中年男性を追い掛ける柄シャツ男。
透子は走って行って、男性の腕を掴もうとする柄シャツ男の前に出て、「違うんです!」
と叫んだ。
「ああ!?」
「ひいっ」
怖い、怖すぎる。
「こ、この人は、お、お兄さんの携帯が床に落ちたから、拾っただけなんです!」
「なんだてめえは!」
「ひいい」
話、聞く気ない。
「む、む、向かいの席から、み、見てたんです!」
「嘘つけ!てめえ!犯すぞ!」
首を掴まれる。ぐ、と呼吸が詰まる。
…怖い!
殺されるかも!
怖い!
「やめろ!」
声とともに、首が解放される。
誰かが、透子を掴んでる男の手を掴んで、捻じ上げている。
「いてえ!やめろ!てめえ!」
「誰か、駅員さん呼んで!」
透子を助けてくれた男子高校生が大声を上げると、ハッとしたように周囲が動き出した。
透子は震えて、その場に座り込む。
「大丈夫ですか?」
その男子高校生が心配げに上から声を掛けてくれる。
透子は感謝の気持ちを込めて彼を見上げて――
「ひいいっ」
叫んだ。
何ヶ月前かに透子を恫喝した、水澤紫の弟だった――
結局、駅員に引き渡した途端に、柄シャツ男がひどく暴れて、駅員が怯んだ隙に男は逃げてしまった。
透子と蒼と最初に絡まれた中年男性―岡本さんという名前だった―で駅員さんに事情を話して、終わった。
岡本さんからはお礼も言われたが、透子は何もしていない。
またあの男に会ったら怖いので、情報交換の為に連絡先を交換してもらった。
帰りの電車で、何故か蒼と並んで座って帰ることになった。
蒼は部活帰りなのか、Tシャツに紺のジャージ姿だ。
「あ、の、あ、ありがとう…ございました」
透子がビクビクしながら、蒼に御礼を言うと、蒼は眉間に皺を寄せた怖い顔で、
「いや」
と言ってから、「いえ」と言い直した。
「あの、姉の友達ですよね、前に家に来た」
「あの時は大変申し訳ありませんでした」
即謝る。すぐ謝っちゃう。謝ればいいと思ってる。
典型的な日本人。
「いや、俺が…早とちりして。無礼なこと言って、すみませんでした」
ぺこりと彼も頭を下げた。
謝られると、余計慌てる。
「いえ!大丈夫です。ゆかちんから事情は聞きましたので」
「事情…」
「モテてモテて困るって」
「…」
蒼は顔を覆って、はあーっ、と溜息を吐いた。
「あのやろう…」
悪態が聞こえて、透子はまたビクリとする。
蒼は、そんな透子をチラリと見て、
「直接…謝りたかったんですけど。姉が、あなたが俺を怖がってるからって」
ゆかちん!
そんなこと正直に言わなくていいんだよ!!?
「いや〜、ははは」
愛想笑い得意。典型的な日本人だから。
「も、もうあんまり怖くないよ。助けてくれたし…」
本当に怖いのは今日の柄シャツみたいなクレイジーなやつだってわかった。
「あんまり…」
呟く蒼をよそに、透子は、
「あ、私、ここで降りるんで」
と席を立つ。
「え、あの」
何か言いたげな蒼に、
「今日、本当、ありがとう!」
と振り返って笑顔で手を振った。
それがイケメンとの今生の別れ…
に、ならなかった。
約二週間後、夏休み明けのことだった。
透子は、池袋の線路を潜る地下通路で、再会した。
…赤柄シャツの男に。
いや、再会時は、紫のテカテカするシャツだった…それはどうでもいい。
向こうから二人組で歩いてくる男のうちの一人が、あの男だということに、透子は大分近付くまで気付かなかった。
気付かないでいれば、安全だったかもしれない。
あの男だ、と気付いた瞬間、「あっ」と声を上げてしまって、それで向こうにも気付かれた。
「あっ…てめえ!」
透子はすぐに踵を返して、ダッシュした。
逃げ足なら負けない…逃げてばかりの人生だからー!
後ろから男が追いかけてくる足音が反響して、めちゃくちゃ怖い。
なんで?!
なんで追い掛けて来んの?!
最初に逃げた透子が言うべきではないかもしれないが、男が走って追いかけて来る理由がわからない。
地下通路を出たところで、勢いよく誰かにぶつかった。
「痛っ…!!」
「…!!」
制服の、男子高校生の集団だった。
「す、す、すみません!」
「あんた…」
ぶつかった男子高校生に抱き止められ、その男子が何か言ったが、後ろが気になって透子はそれどころではない。
体勢を立て直してすぐまた走り出そうとすると、その男子高校生に腕を捕まえられた。
「ちょっ…!」
「待てって、そんな焦って、どこに…」
と悠長に問い掛けられた瞬間、
「いた!てめえ!このクソ女…!!」
「キャー!」
赤柄シャツ男改め紫テカテカシャツ男が地下通路を出て、透子を見つけてー
「あ!…くそ!」
と何故か舌打ちして、逆に逃げて行ってしまった。
「あいつ…」
と、透子の腕を捕まえていた男子高校生が呟いて、震える透子はその時初めて、自分を捕まえているのが水澤蒼だと気付いたのだった。
「追い掛けられたの?」
透子が震えてその場で座り込んだのを、蒼とそのお友達が支えてくれて、近くのベンチに座らせてくれた。
「う、うん…ぐ、偶然…見つかって…」
「…すげえ確率だな」
「こ、怖かったー、あ、あ、ありがとう、蒼くん」
びびりの透子はすっかり青褪めて、小さくなってる。元々小さいのだが。
「蒼、知り合い?」
と蒼の友達が訊く。
「姉ちゃんの友達。こないだちょっと、あって」
「おいおい、大丈夫か?また仕込みじゃないの?」
と別の男子が言う。
「仕込みって何?」
とまた別の男子。
「前にさー、蒼を好きな女子が、ストーカーされてるって嘘ついて…」
「ああ、あれか、アレはウケたなあ」
透子の頭上で交わされる会話に、透子は萎縮しきった心を余計に萎ませる。
なにその疑惑。
しんどい。
「あ、あ、あの、わ、私、もう、大丈夫だから、あの、行って、いいよ。私、ちょっと、ここで休んで行くから…」
そう言うと、話をしてた男子達がしまったという顔をする。
聞こえるよ、そりゃ。
「大丈夫たって、あいつがまた来るかもしれないけど」
と怖いことを蒼が言う。
「…」
透子は目を泳がせて、
「あ!だ、大丈夫…お、岡本さんに、連絡するから」
「誰だよ…ああ、岡本さん。岡本さん?」
蒼が眉を寄せる。
「岡本さんに連絡して何になるの?」
「…」
確かに…。
「岡本さん、仕事中だろうしなあ…」
と呟く。
あのあと何回かLINEした。岡本さんは、目白で会計事務所を開業している公認会計士だ。
「あの、でも…とにかく、大丈夫。ひ、人目も…あるし、帰れるよ。大丈夫。大丈夫…」
透子が真っ青な顔で大丈夫、大丈夫と繰り返すので、蒼の友達も気まずそうに、
「な、ちょっと、これ放っていくのは可哀想じゃない?」
「お姉さん、家どこ?蒼はあれだけど、俺で良ければ送っていってあげようか」
「俺も、どうせ暇だし」
なんてことまで言ってくれる。流石に甘えようとは思わないが、透子は感謝の眼差しで彼らを見上げた。
が、
「あのな、さすがに姉ちゃんの友達を放っておかねえよ、俺も」
と蒼が言って、
「お前ら、店先行ってて。このヒト送ったら行くわ」
「えー、蒼が来ないと女子が怖いんですけど」
「蒼、俺も一緒行こうか?」
「いや、一人でいいよ」
と話が進んでいくが、
「あの、大丈夫…。家に帰る前に、スーパーも寄らなきゃ行けないし、一人で帰ります…」
大分震えも収まったし、ダッシュで帰ろう…。
「いいから、行…行きますよ」
ギリギリで年上だと思い出したようで、蒼が不自然に敬語に切り替えると、透子の腕を掴んで立たせた。
「ごめんね、友達と遊んでたのに」
「別に」
西武池袋線に乗り込んで横並びに座って、すぐ謝るが、蒼は素っ気ない。
…怒ってそう。
あんま、喋らない方がいいかも。
早く、電車、出発して。
池袋は始発なので、停車時間が長い。
「あ」
と思い立って、
「あの、岡本さんに、連絡するね」
と一言断って、メッセージを送る。
―池袋で赤柄シャツ男に遭遇!地下通路のとこです。
―マジですか。透子ちゃん、大丈夫だった?
すぐに返信が来る。
―実は、これまた偶然、こないだ助けてくれた男子がいて、助けてくれました。岡本さんもお気を付けて。今日の奴は、紫シャツです。テカテカ光るやつです。
―相変わらず、趣味が悪いね。こないだの彼、水沢くんだっけ?よろしくお伝えください。透子ちゃん、帰り道気を付けて。
―水澤くんです。さんずいのほうのサワ。今送ってくれています。お互い気を付けましょう!
「…岡本さんに何送ってるんですか?」
と、蒼が隣で気にする。
「ん?気を付けてって」
とメッセージ画面を見せると、岡本さんからポコンとヒグマモンがOK!と言ってるスタンプが届いたところだった。
「…」
蒼は変な顔をして、
「どっちのサワもサンズイですけど…」
とめんどくさそうに突っ込んだ。
「…塾が池袋なんですか?」
沈黙に耐えかねて透子が「ほぼ初対面 会話 怒らせない」で検索しようとしていると、蒼の方から話し掛けてくれる。
「あ、ハイ」
透子が背筋を伸ばして答える。
「週何日行ってるの?」
「毎日行ってる」
「毎日?」
「あー、授業は火木なんだけど、自習室があるから。質問があったら、暇な先生に聞きに行けるし」
「何時まで?」
「日によるけど…だいたい19時までいる」
なんだろう、この聞き取り。
「あの地下通路は通らなきゃいけないんですか?」
ああ、心配してくれてるのか。
透子はやっと察して、嬉しくなる。
「ううん。今日はちょっと買い物して帰ろうと思って…。普段は西口だよ」
「塾、誰かと一緒に通ったら?」
「うーん…」
透子は首を傾げて、
「友達がいない方が勉強に集中できると思って、誰も通ってないとこにしたんだよね」
「…」
はあー、とイケメンが溜息つく。
ほんとイケメン。おっかないけど。
さっきから同じ車両の女子高生二人がこっち見てるし。
見てるってか、…盗撮しようとしてない?
さりげなくスマホこっちに向けて…さりげなくない、それ、さりげなくない。
「あ、蒼くん」
透子は咄嗟に自分の、参考書でパンパンの鞄を蒼の前に掲げて、撮影を妨げた。
「は?なに?」
突然目の前に鞄を押し付けられ、蒼は目をパチパチさせてる…あ、その顔はちょっと年相応で可愛いな、なんちゃって、嘘ですスミマセン。
「ええと」
また怒られそう。
「この鞄、いいでしょ」
「は?」
「めっちゃ入るの」
「へえ…あの、近過ぎてよく見えないんですけど」
「よく見て」
透子がチラッと盗撮女子高生の方を見ると、めちゃくちゃ透子を睨んでる。
ひえー。わかるよ。こんなイケメン見かけたら、写真撮って、「#西武池袋線#国宝級イケメン」って投稿したいよね?でもさ、国宝級イケメンにも肖像権あげて?
別に私はお二人が思われてるような関係性ではないんですよ?でも年下を守る義務というのが年上には無条件に発生するわけでして…
透子が心の中で言い訳を繰り広げていると、
「…あのね、ほんと、何?」
蒼が鞄を掴んで、心から呆れた顔で透子を見下ろしていた。
君の肖像権を守っていました。
とはやはり言えず、得意の愛想笑いで透子は切り抜けた。
いいよいいよと断ったのだが、蒼はスーパーにも付き合ってくれた。
「ごめん、荷物持って貰って。すごく助かった」
「いいですけど、これくらい」
と両手にエコバッグをぶら下げながら蒼が言う。
「こんなに何に使うもんですか?鶏肉って」
と言う。
「明日、寄り合いなの」
「寄り合い?」
「うちのお父さん、仕事は学者なんだけど、地元の消防団に入ってて。月一でその寄り合い…まあ、宴会、をうちでやるの」
「へえ」
と蒼が眉を顰めて、
「お母さん大変ですね」
お、良い子。この話でお母さんを思いやれる子。
透子は曖昧に微笑んだ。
「そう。私と妹は逃亡するけど、明日は」
「逃亡」
「家にいると酔っ払いに絡まれる」
おっぱい大きくなったねくらいは平気で言うのだ、あの昭和軍団は。
「酔っ払い…。逃亡って、どこに?」
「妹は友達んち。私は…中央図書館かなあ」
明日、塾の自習室に行くのは怖いし。
「ふうん」
蒼はそれだけ素っ気なく呟いたけど、心配してくれてる気がして、透子はちょっと嬉しい。
一人でにこにこしてると、家に着いた。
「あ、家ここ。蒼くん、今日は本当にありがとう。御礼は今度、ゆかりんに渡すね」
透子はぺこりと蒼に頭を下げた。
「お礼なんていらないし…ちなみに、何をくれるつもり?」
警戒してる。
「うーん…カルピスとか…」
「お中元か?要りません」
「カルピス嫌い?じゃあ…ハムとか?」
「お歳暮か?要らないです」
じゃあ、果物とか?
「見舞いか?」と言われそうな事を思案していると、透子の後ろから
「おー、透子」
と声を掛けられる。正確には、大声を掛けられる。
透子は内心うんざりしながら、振り返った。
「…井草さん。寄り合い、明日ですよ」
消防団の若手の井草佑太が、手にビールの缶が透けたコンビニ袋を下げて透子の家にやって来たところだった。
「わーってるよ、なんか手伝ってやろうかと思って…ん?誰だ?」
井草が蒼の顔を見て眉を顰める。
「友達です。…蒼くん、今日は本当にありがとう。さようなら」
慌てて蒼の手から鶏肉の入ったエコバッグを受け取って、追い払うように早口で別れを告げた。
蒼はチラリと井草を見て、「じゃあ、また」と言って踵をかえして坂を下って行った。
「なー、誰だよ、今の」
井草が透子の後ろからズカズカ家に入ってきて、言う。
「友達の弟です」
「なんで友達の弟と帰ってきたの?」
としつこい。
「色々ありまして。…井草さん、父なら奥ですよ」
と追い払おうとする。
「あんだよー、反抗期だなあ。兄ちゃん寂しいぞ」
「お父さーん、井草さん来たー!」
いつまで経っても透子の側から離れようとしない井草を追い払う為、父親を呼ぶ。
「おー、佑太、なんだ、今日から飲む気か」
父親が嬉しそうにやってきて、ダイニングに座った。
井草はまだ透子に何か言いたそうだったが、家主が来たのに無視するわけにも行かず、向かいに座る。
「いやー、なんか透子を手伝ってやろうかと思って」
「そんな殊勝な事を言って。ビール持ってきたくせに」
「バレましたか」
と笑う。
透子は買ってきたものを冷蔵庫に押し込めると、急いで2階の自室に戻った。
溜息を吐く。
ノックがしてドキリとしたが、ドアを叩いたのは妹の香子だった。
「お姉ちゃん、井草さん来たの?」
「うん」
「げえ」
香子は舌を出して、
「明日さえ乗り切ればいいと思ってたのに、なんで来ちゃうかな」
「本当にね」
「お姉ちゃん、気を付けてよ」
と香子が警告した。
井草は一年ほど前から親と一緒に透子の家に来るようになって、どういう訳か透子を「俺の妹分」と言って、追い回すようになった。
「透子は俺の妹みたいなもんだから」
「兄ちゃんには何でも言えよ」
と言うのだが、正直、どうしてそういうことになったのかさっぱりわからない。
透子としては、頼ったことも増して甘えたこともないつもりなのだ。
嫌なものは逆さに振っても嫌、な香子にはそういうことを言わないので、透子のノーと言えない典型的な日本人気質が悪いのかも知れない。
透子は内鍵を掛けると、服を着替えて、イヤホンをして、机に向かった。
翌日、朝から大量の唐揚げを揚げて山積みにして、「そんなことしてあげなきゃいいのに、あのクソ親父」と悪態をつく妹と一緒に家を出る。
今日は友達の家に泊まるという香子と別れて、中央図書館に行くと、
「臨時休館…」
まじか。
蔵書整理の為の臨時休館だった。
「ついてない…」
家には絶対居たくないし、塾も今日はちょっと怖い。
一日中いられる勉強できる場所を考え込んでいると、スマホが震えた。
紫からの着信。
「もしもし?ゆかりん?」
「おー透子。あのさ、今日うちに遊びに来たら?」
「え?」
「…あ、ハイハイ…間違えた、勉強。一緒に勉強しよ」
誰かに何か言われた様子の紫が言い直す。
「いいの?…あ、でも、蒼くんが嫌がるよね。今日いないの?」
「いるいる。蒼が呼べって言ってるんだよ…いてっ」
「蒼くんが?」
「やめろっつの。…そう、蒼が、図書館は今日休館だから呼べって…痛いって。何よ、事実でしょうが」
紫は電話しながら蒼とも何か遣り取りをしているようだ。
「そうなんだよ。えー、助かるけど、本当に蒼くん大丈夫かな?」
と透子が言うと、「ほら、こう言ってるよ」「直接言ってあげな」という遣り取りが聞こえた後、
「…もしもし。あの、前のアレは無しで」
と突然蒼が電話に出る。
「来ていいから」
とだけ言って、電話を切られた。
お言葉に甘えてノコノコ水澤家のピンポンを押す。
インターホンに応じず、ドアがすぐ開いた。
不機嫌そうな、水澤蒼。
…え、やっぱ駄目だったんじゃ…
「遅くないですか」
「え?」
「電話した時、どこにいた?」
「図書館前で…」
「中央図書館、練馬でしょ。家まで来るのに1時間以上掛かるって、どういうこと?」
…何故だか怒られている。
「ご、ごめん。一回家に帰ったから。…手ぶらじゃなんだと思って」
多めに揚げてあった唐揚げをタッパーに詰めて持ってきたのだ。
ギリ、寄り合いで人が集まり出す前に出られた。
「あおー、あほ。早く上がってもらいなよ」
後ろから紫の声がした。
「透子、らっしゃい」
八百屋のようなことを言って、中に手招きしてくれた。
水澤家はご両親もいて、透子は恐縮する。
「休日にすみません」
ぺこりと頭を下げると、子供によく似た切れ長の目の綺麗なお母さんが、「いいのいいの」と鷹揚に笑う。
「紫を勉強させてくれるんでしょ?よろしくね〜」
「はい。あの、これ、つまらないものですが…」
「うっそ!唐揚げじゃん!戴いちゃっていいの?」
「はい、あの、美味しいかわかりませんが」
「美味しそう!おにぎり握るから、お昼はこれとおにぎりにしよう」
と目を輝かせて水澤母が言うと、水澤父がキッチンで何か作業しながら、「ご馳走だ!」と両手を挙げた。
「透子ちゃんも一緒に食べようね」
と言ってくれて、透子はまたペコペコ頭を下げながら、紫に連れられて紫の部屋に行った。
が…
「え、ゆかりん、これ…」
「ようこそ我が城へ」
ドヤ顔の紫の部屋は…
控えめに言って、汚部屋だった。
衣服が床に山積みになっていて、机の上は教科書や漫画で山盛りになっている。
ベッドの上も雑誌?やら冊子やらで、寝る時どうしてる?
唯一不自然な程綺麗なのは、紫のハマってる二次元キャラのグッズ置き場。
素晴らしい展示台になってる。
「どう?カメダンのアクスタ、全制覇!」
「すっご!!あ!如月…なんだっけ、この子。ゆかりん最推しの。ゲット出来たの?」
「そう!貢いだわ〜」
「だろうね、震える…じゃなくて」
透子は呆れた声で、
「これ、どこで勉強するの?!」
「え?」
紫は驚いたように、「ホントに勉強する気?」
透子は愕然と紫を見る。
紫も呆然と透子を見る。
「透子さん、リビング使って」
と後ろから蒼が申し出る。
なんと、紫は才色兼備を絵に描いたような見た目で、めちゃくちゃ勉強嫌いだった…
「知らなかったの?」
「知らなかったの?」
ダイニングテーブルを借りて、紫と向かい合って参考書を広げながら、本人とその弟に言われる。
「知らなかった…授業は真面目に受けてるよね?」
透子は授業風景を思い出そうとする。
「授業中だけは真面目に受けてる。それ以外では一切勉強しないけど」
「…」
地頭がいいのだろう。
それでうちの高校の授業に付いていけるのだから…
「透子さん、姉が夏休み毎日何してたと思ってる?」
蒼が、リビングのソファから声を投げる。
「エ、ゆかりん何してたの?」
「毎日学校の補習行って、帰りにアニメイト巡ってた」
「…」
補習って、一学期の期末に赤点取ったら受けるやつ…
透子が紫に目を向けると、紫は頬を赤めて目を伏せた。
それは褒められて恥ずかしがる慎ましい才女の表情そのもの。
「べ、勉強しよう、ゆかりん」
透子が動揺しながら言うと、紫はそのままの表情で下唇をにゅっと出した。
紫は思ったよりも…
不真面目だった。
始めの30分くらいはとりあえず参考書に向き合っていたが、「トイレ行ってくる」と嘘を吐いて自室でマンガを読んでたり、一生懸命パラパラ漫画を描いていたりする。
「ゆかりん、ここはね」
と透子が教えてあげると、ウンウンと聞き、理解しているようなのだが、透子が自分の勉強に戻ってしまうとすぐソワソワ逃げようとする。
「お昼にしよ、透子ちゃん」
と水澤母に声を掛けられると、「よっしゃ」と紫が物凄い勢いでダイニングテーブルを片付けた。
透子は疲れた表情で、
「すみません、図々しくご馳走になってしまって」
と準備を手伝う。
「とんでもない。オカズも戴いた上、紫に勉強までさせてくれて」
と言う。
確かに、その大変さは想像を絶した。
「いっただっきまーす!」
誰よりも元気に手を合わせた紫が、真っ先に唐揚げを食べる。
「美味しい!」
「ほんと?」
透子はホッとして、自分も手を伸ばした。
「本当だ、美味しい!」
水澤母と父も、褒めてくれる。
透子は頬を紅潮させて、
「良かったです」
と言った。
蒼も無言で二個目に手を伸ばしている。
「お母さん、お料理上手だね」
水澤母が褒めてくれるが、
「はあ、まあ。…いえ、これは、私が…。すみません」
透子が言うと、蒼が本気で驚いたように
「え、透子さんが作ったの?これ…昨日の大量の鶏肉ですよね」
「うん。まあ、揚げるだけだから」
「5キロくらい買ってなかった?」
「そんなには」
透子は苦笑する。
「3キロくらいじゃない?」
「いや、変わんねーし」
紫と水澤母が何故か同時に突っ込んだ。
「今日、寄り合いなんで」
と言って、また一から寄り合いの話をする。
「へええ。お母さん、大変じゃん」
と紫も蒼と同じことを言うので、透子は相合を崩し、
「…お母さんね。出てっちゃったんだよー。この寄り合いが嫌で嫌で」
とついポロリ。
水澤家の食卓が凍った。
「…あっ、いやいや、離婚はしてないよ!?まだ」
あ、まだ、って言っちゃった。
「一人で練馬に住んでるんです」
透子の母親がブチ切れて出て行ったのは3年前。
父親が「人と人との絆」にハマって、何事も縁が大事だ、助け合いが大事だ、と家に人を呼ぶようになって、2年くらいで母親の堪忍袋が爆発した。
「無理ないんです。家に人が来ればもてなすのお母さんだし。消防団の人や近所の人はお構いなくなんつって、平気で冷蔵庫開けて倉橋家は第二の実家です、なんて言うけど。店屋物でいいったって、何もしないわけにいかないし」
と、つい、愚痴る。
食器を用意する、飲み物を用意する、氷入れに氷を補充する、酔っ払いが寝たら客間に布団を敷いて、汚れた食器を洗って…その全てをやってから、「デリバリーでいい」と言って欲しい。
「そりゃあそうよ!逆によく二年保ったね!」
「艶子さん、オニギリ握りつぶさないで」
共感のあまり激昂する水澤母を、水澤父が宥める。
「でも今もあるってこと?その、寄り合い」
紫は気遣わしげに透子を見た。
「頻度は大分減ったけどね…」
母が派手に寄り合いの最中にブチ切れて出て行ってからも、父は逆に意固地になったかのように人を呼び続けたが、おさんどんがいないとやはり手が回らなかった。
そこで悔い改めて家にやたら人を呼ぶのを止めればよかったのに、父親は今度は透子と妹の香子に手伝うように要請してきた。
母がそれで完璧に、キレた。
「あのセクハラ軍団の酌を私の妖精ちゃん達にさせるなら離婚する」
と、要約するとそのようなことを怒り狂い捲し立てて、父親を土下座させた。
あの時の母は、目白の鬼子母神のようだった。
「まあ母はちょいちょいうちに帰って来てますし…正直、一人暮らしが思ったより楽しいだけだと思います」
透子は空気を盛り上げるように言う。
「わかるう。一人暮らししたい。私も家出しようかなあ」
「艶子さんが家出するなら僕もそっちに住む」
と水澤父が言い、「意味ねえじゃん」と紫と蒼に突っ込まれる。
透子はお腹が痛くなる程笑った。
頑張ったからお昼寝したい、と紫が主張して、透子は一人でリビングに残された。
水澤夫妻は二人で映画を観に行った。
…私、帰った方がいいかな?
と思っていると、蒼が隣に座った。
「宿題でわからないとこがあるんですけど、透子さんわかる?」
と数学のノートを見せてくる。
数学ならいけるかも、と思い、「どれどれ」と覗き込む。
「因数分解かあ。どの問題?」
「これ。3問目」
「…ええとね、これはさ、最初このカッコの中をこっちに逃して…」
次はこれ、次はこれ、と蒼が言い、透子が丁寧に教える。
「あー、ようやく理解できた」
と蒼が天井を仰ぐ。
「蒼くん、計算の途中経過ちょっと省く癖があるね。面倒でもいちいち書き出した方がミスが減るし、見直しもしやすいよ」
「そうします。…透子さん、教え方うまいね」
「えっ、そう?!」
そんなこと初めて言われた。
「ま、まあ、高一の数学だし、誰だって…」
「姉ちゃん見て、それ、言える?」
「…」
なんとなく、透子は2階にいる紫を見上げるように天井を見て、
「…うん…、だね…」
と遠い目をして頷いた。蒼が吹き出した。
「っはは!」
蒼が笑うのを初めて見た透子は、なんだかフワフワした気持ちになって、自分もニッコリして、
「でも、数学は得意科目なんだ。現国は無理だよ」
「現国?現国なんて簡単じゃん」
「そういうんだよね、得意な人は」
と、自分の現国のテキストを開く。
「悪夢の呪文みたい。この選択肢」
唇を尖らせる。
「…、見せて」
と蒼が身体を寄せて、覗き込んできた。
身体が近くなって、透子は少しドキッとして肩をすくめた。
「あー、この本読んだことある」
例文に目を通してすぐ蒼が言う。
「マジすか」
この呪文の塊を?
「選択肢の違う部分にライン引いてくとわかりやすいよ」
こうやって、とやってみせてくれる。
「ぱっと読んで、極端過ぎる選択肢はまず省いていい」
「うん」
「選択肢自体に虚偽がある場合も省く」
「うんうん」
なんと、高一に勉強を教えて貰ってしまった。
「これ、どっかの過去問?」
「うん、志望大の」
「どこ?第一志望」
身体が近いせいで、顔も近付く。そのせいで勢いに押されて、
「…二子橋大学」
と正直に言ってしまってから、顔を赤くして、
「…高望みなんだけどね」
「そうなの?」
「うん。未だにC判定だし…でも」
「でも?」
透子はぎゅ、とテーブルの上の自分の両手を握り締める。
「…頑張ってみようと思って」
握り締めた拳を見ながら透子が呟くのを、蒼が不思議そうに見た。
「…まあ、透子さんなら、大丈夫なんじゃないですか」
上から聞こえて来た言葉が、今までで一番優しい声音で、透子は蒼を仰ぎ見た。
「唐揚げ3キロ作る子は何でも出来ますよ」
と微笑みながら、透子の頭をするりと撫でた。
…ズッキュウウウン。
「ぅわわっ」
動揺のあまり声が出る。
「え、何?」
「いや、ちょっと…ちょ…ま……そういうとこやぞ!」
逆ギレした。
スタンド出現しましたやん。
「え、何が?」
蒼は本気でドン引きしてる。
「…いや、大丈夫。今、かなり、危なかったけど」
「だから、何が」
二人並んで勉強して、教え合ったり相談したりしてると、紫が降りてきた。
「わー、まだ勉強してる。一日中勉強する気?」
「受験生だからね…わあ、もう15時か。蒼くん、付き合わせてごめん。受験生でもないのに」
透子は謝ったが、
「教えてもらってるのは俺だし」
と蒼は肩をすくめる。
「まあもう休憩しよ!15時だしさ!」
と休憩と休憩の間に休憩を挟もうとする紫が仕切って、しばし休憩することにした。
「いや、しかし、二人が仲良くなってくれて嬉しいよ」
と紫がクッキー缶を見つけてホクホク顔でお皿に盛りながら言う。
「蒼のこと、めちゃくちゃ怖がってたのにね、透子」
蒼が途端に気まずそうな顔をして、透子は焦る。
「い…今は、全然怖くないよ!」
「本当〜?こいつ、無愛想だからさあ」
「でも、優しい良い子だよ」
と本心からしみじみ言うと、何故か、水澤姉弟が固まる。
「…え、なんか変なこと言った?」
「…いや」
紫が先に、封印が解けたように動き出し、クッキーを摘む。
「家族とばあちゃん以外に蒼が良い子って言われるの初めて聞いた」
「えっこんなに良い子なのに」
思わず漏らすと、
「うはっ」
と紫が美少女らしからぬ笑い方をして、
「良かったね、蒼。ヨイコだって!うはは」
「…姉ちゃん、食べながら喋んなって」
蒼が不機嫌そうに眉を寄せて注意した。
しぶる紫を無視して休憩を終わらせて、暫く紫に付きっきりで教える。
「勉強し過ぎて手が震える」
とアル中のような症状を紫が訴えるので、透子もお暇することにした。
「じゃあ、おじさんと艶子さんにもよろしくお伝え下さい」
と透子が靴を履いて紫を振り返る。
「また来てねん。今度は遊びに」
「…受験終わったらね。蒼くんにも、お礼言っといて」
2階の自室に上がってしまった蒼に言付けを頼む。
「あおー!透子がありがとうだってー!」
その場で紫が叫ぶ。
「意味ないじゃん」
透子が呟くと同時に、2階から蒼が降りてきて、
「透子さん、もう帰るの?」
「うん。長々とお邪魔しました」
ぺこりと頭を下げる。
「まだ居ればいいのに」
と、優しいことを言ってくれる。
「ありがとう。でも、ゆかりんもう限界だし」
「遊ぶんならいいんだよ?!こっから五時間ぶっ通しでマリカやろうぜ?!」
紫が騒ぐ。
「それどんな罰ゲーム…。ゆかちん、また一緒に勉強しようね」
と言って、「お邪魔しました」と家を出る。
水澤家を数歩出たところで、「透子さん」と蒼が追い掛けて来た。
忘れ物したかしら、と透子が振り返って蒼を見ると、Tシャツにジャージ姿の蒼が、
「家まで送る」
「は…」
ポカンと口を開けてしまった。
「なんで?」
「…またあいつがいたら危ないし」
「あいつ?」
「金髪の狂犬」
…変なあだ名付けてる。
「だ、大丈夫だよ…まだ、明るいし」
「明るくても出るだろ、お化けじゃないんだから」
「そうかもしれないけど…いや、でも、そこまでしてもらうわけには」
「駅前のコンビニに用があるし」
取ってつけたような事を言って、蒼が歩き出すので、透子は慌てて追い掛けた。
「あ、あのね、実を言うと、まだ帰らないの」
「は?どういうこと?」
蒼が眉を寄せる。
「駅前のゼイサリアでもうちょっと勉強しようかと…」
「…うちじゃ集中できない?」
嫌味ではなく、気遣わしげに蒼が聞く。
「そんなことないよ!そうじゃなくて、あのね、今日…寄り合いが終わるまでは家に帰りたくなくて。だから、図書館開いてても、17時以降はファミレスかカラオケで勉強しようと思ってたの。寄り合い、下手したら21時くらいまで続くことがあって…」
塾に行けたら、自習室は22時まで開いているのだが。
「…」
蒼は無言で透子を見つめていたかと思うと、はああ、と深い溜息を吐いて、
「え!?ちょ、ちょっとちょっと、蒼くん!」
腕を取られて、引き摺るようにまた水澤家の敷居を跨ぐ。
「ねーちゃん!」
と玄関で蒼が大声を出す。
「あん?どした?蒼…透子?」
吹き抜けになっている2階の廊下から顔を出して紫がこちらを見下ろしてくる。
「透子さん、今日泊まりたいって」
「え?!」
「え、まじで?透子、マリカ?マリパ?スマブラ?!」
喜色を浮かべて紫が顔を引っ込める。
階段を降りてくる音を聞きながら、透子は焦って、
「蒼くん?!泊まらない!泊まらないよ?!」
「なんで?」
「なんでって…なんでって…」
むしろ、なんで?
「き、着替えもないし」
と混乱して本質から外れたことを言う。
「姉ちゃんの借りたら?」
「下着とか…」
とつい、言うと、透子の顔を見つめていた蒼の視線が、一瞬透子の胸を掠った。
「…っ」
途端に顔が真っ赤になる。
釣られて透子も真っ赤になった。
「…なに?どうした?」
階下に降りてきた紫が呆れたように二人を見た。
結局、夕飯までご馳走になって、帰った。
帰り道は当然のように蒼が送ってくれた。
「透子さん、塾、どうすんの?」
蒼が電車の中でそう聞いたのは、駅のホームで透子が素早く、あの男がいないかチェックしたのに気付いたからだろう。
「うーん…行く。行くしかないもん」
「毎日?」
「ちょっと減らす…かなあ…」
悔しいけど、怖いものは怖い。
「…おれ、バイトは池袋だし、たまにフットサルを池袋のグラウンド借りてやってるから、帰り送ろうか?」
「え?!」
透子は慌てる。
「いや、いいよ!流石に悪いよ!」
「別に、KAI塾なら帰り道だし」
「ダメだよ、そんなこと、してもらう理由がない」
透子が言うと、蒼はちょっと黙っていたが、
「…昨日、家の前で会った人、彼氏?」
「え?」
家の前…?
「あの人が迎えに来てくれるんなら、」
「昨日って、井草さん?彼氏じゃないよ!」
冗談じゃない、と言った風に首をブンブン振る。
「あいつじゃなくても…誰か、付き合ってる奴がいるなら…」
「ぎゃああ!いません!」
自慢じゃないが彼氏いない歴=年齢ってやつ…
いやいや、そんなに珍しくもない。付き合ったり別れたり廊下を駆けながら涙を流したり放課後の教室のカーテンの陰でキスしたりするのは選ばれし一握りの人間だけ!きっと!
「いないんだ」
ふうん、と蒼が口角を上げて、
「じゃあ、俺が一緒に帰ってもいいですよね?」
「ん?いや、だからね」
「まだ俺のこと怖がってる?」
「もう怖くない!全然怖くない。だけどね」
透子がズレる論点を正そうと言葉を紡ごうとすると、蒼がはあ、と溜息を吐いて、
「透子さんさ」
と語気を強めて呼んだ。
「ハイッ」
「甘く見てるよね」
…何を?
首を傾げると、
「昨日はあの男が徒歩だったからまだよかったけど、車に乗ってたら透子さん、引っ張り込まれてたよ」
恐ろしいことを言い出す。
「まさか、そんな」
「ないって言い切れる?あいつは気狂いだし、あそこは池袋だ」
池袋の人ごめんなさい。
でも、確かに、池袋ってそういうことが日常的に起こるイメージ、ある。
透子は顔を青くして、蒼を見上げた。
「俺と一緒に帰るのが嫌?」
「まさか!でも…でも…迷惑じゃ」
「迷惑じゃないから言ってる」
「…本当に?」
こう言った時点で、透子は降伏したようなものだ。
蒼は「決まり」と言って、スマホを出した。
「?なに?」
「…透子さんの連絡先。知らないと困る」
そう言われて初めて、連絡先を交換していなかったことに気付いた。
電話番号とLINEを交換すると、蒼ははあ、とまた息を吐いて、「やっとか」と呟いた。
「何が、やっと?」
「…こっちの話。透子さん、ここでしょ、降りますよ」
と促されて電車を降りた。
「ただいまー」
家の前で蒼を見送って玄関に入ると、
「おかえり。遅いぞ、透子」
と井草が出迎えた。
…まだいた。
「井草さん…お父さんは?」
「酔い潰れて寝ちゃったよ。放っといて帰るわけにもいかないだろ」
透子の父は潰れて寝てしまい、来客も三々五々に帰ったようだ。
お父さんたら。透子は呆れて、
「ごめんなさい。あとはやるので、井草さんももう帰っていいですよ」
「居間、散らかしっぱなしだし、片付けるだろ。手伝うよ」
と言って透子に付いてくる。
「大丈夫。約束で、片付けは全部お父さんがやることになってるから、明日起きたらやらせる」
「ああ?ひっでー娘だなあ!ちょっとは片付けてやれよ」
ちらりと見ると、和室もリビングもダイニングも酷い有り様だった。
「約束だから」
と言って井草を追い払おうとするが、
「なあ、透子。昨日の男誰だよ」
と何故か付いてくる。
透子は自室に行けず、廊下で立ったまま困ったように、
「誰って…友達の弟ですって」
「なんで家まで来た?」
「送ってくれて…」
「おかしいだろう!」
と急に大きな声を出す。
透子はビクリとした。
「付き合ってもいないのに。透子はほんっと、そういう所が抜けてるんだよなあ!」
…何を言われてるかわからない。
大声を出す男性はそもそも身近に居ないので、苦手だった。
透子はただ早く自室に上がりたくて、愛想笑いをする。
「男は怖いんだからさ。もう少し気をつけねーと。あいつだって俺が来なきゃ、家に上がり込んでたかもしれない」
うんうん、と一人で頷いて、
「やっぱり俺がいないと駄目だなあ、透子は」
と手を伸ばす。透子は何故かゾワリとして、一歩後ろに下がって、その手を避けてしまった。
「…透子?」
井草が呟いて、また透子に近付き、手を伸ばして…
「…透子?帰ったのか?」
父の声。
ハッと井草が手を引っ込めた。
「か、帰ってるよー!お父さん、井草さんずっと居てくれたみたいよ!」
透子にしては珍しく、大声を張り上げた。
「おお、悪いな、佑太…」
もそもそと横になっていた和室から起きてくる。
「いえ、いいんです。先生、片付け手伝いましょうか?」
「ああ…いやあ、悪いね」
二人で話してる横をすり抜け、2階の自室に上がり、内鍵を掛ける。
はあ、と息を吐いた。嫌な汗をかいていた。
リュックを下ろすと、蒼からラインが来てるのに気付いた。
―明日は?
塾に行くのか、という意味だろう。
端的な文が蒼らしい。
透子は少し気分が上がって、スマホを見ながらほっと微笑む。
―明日は家で勉強する、ありがとう。
―わかった。月曜日は俺、池袋でバイトだから、一緒に帰れる
送る、じゃなくて一緒に帰るという言い方をしてくれる。
「優しいなあ…」
―バイト、何時まで?
―19時まで。透子さん、塾何時までいたい?
―19時まで。
―笑
こんなやり取り、なんか、デートの約束みたい…
と考えて、透子は赤面する。
何を考えてるんだ。
消えろ、下心!