覚書/百石取り江戸旗本屋敷の規模とお姫様の定義
日露戦争を扱った司馬遼太郎の小説に『坂の上の雲』という作品があり、NHKが年末特別ドラマシリーズを放送していた。その中で、日本陸軍・騎兵の父と呼ばれた、秋山好古という人物がいる。秋山は独身時代、東京に居を構える、幕府旗本出身の官僚宅に下宿していたことがある。ドラマでは広大な屋敷の一遇にある茶屋のような小屋に住んでいた。
旗本・佐久間雄四郎正節は70俵5人扶持で、維新後は文部省職員となり東京外国語学校の書記を務め、語学塾の訓蒙学舎を設立した人物だ。秋山が妻にしたのは、佐久間の長女・佐久間多美である。
幕府旗本や各藩藩士たちは、主家から家領か給料を貰って生活していた。家領というのは知行地で規模は石高で表される。給料は俸禄で俵・扶持で表される。
佐久間の俸禄は70俵5人扶持を石に換算すると、37石に相当するとも、78石に相当するともされている。俸給が37石で、知行地に換算すると、四公六民だから、知行地100石弱の旗本に相当する。それが78石になるという意味なのかもしれない。
足軽の俸給は20‐40俵だそうだから、旗本とは言っても、馬には乗れないが、足軽よりは上位の徒歩侍の家系なのだろう。
幕府は旗本以下の家臣に、邸宅や長屋を与えていた。旗本の邸宅は、一石につき一坪というのが目安らしい。維新後、徳川宗家は静岡の駿府城に移ったので、解雇されていない者もそちらに移る。仮に佐久間が主家と袂を分かち、屋敷に住み続けたとしよう。すると100石の旗本屋敷は100坪(330㎡=18×18m)の屋敷となる。――よくある町屋の敷地規模だ。
もう一つドラマで気になったことがある。
下宿時代の秋山は、大家・佐久間の娘・多美を「お姫様」と呼んでいたが、旗本でそう呼ばれていたのは、知行1200石以上の大身の旗本でないと、そうは呼ばれない。
∴ つまるところ、実際の佐久間屋敷の規模は小さく、多美はお姫様とは呼ばれてはいなかったのではなかろうか? NHKドラマではかなり盛っている可能性がある。
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追記
AI による概要
明治維新後、解雇された旗本は、必ずしも江戸屋敷に住み続けられたわけではありません。維新政府は、旧幕臣の処遇として、家禄を保証する代わりに、江戸屋敷を明け渡すよう命じることがありました。そのため、多くの旗本は屋敷を離れ、新たな生活を模索することになりました。
詳細:
家禄の保証と屋敷の明け渡し:
明治政府は、旧幕臣の生活を安定させるため、家禄(旗本の俸禄)を保証する一方で、江戸屋敷などの土地や建物を明け渡すことを求めました。
屋敷の明け渡しの理由:
江戸屋敷は、旗本の家格や身分を示す象徴であり、維新政府は、旧体制の象徴である屋敷を明け渡させることで、新政府への忠誠を求めました。
生活の変化:
旗本は、屋敷を明け渡した後は、新たな居住地を確保する必要がありました。地方に移住したり、東京に住み続けたりする人もいましたが、生活は大きく変わりました。
一部の例外:
全ての旗本が屋敷を明け渡したわけではありません。一部の旗本は、維新政府との交渉や、特別な事情により、屋敷に住み続けることができた場合もありました。
生活再建の困難:
維新後の生活再建は、多くの旗本にとって困難なものでした。家禄収入だけでは生活が苦しく、新たな仕事を見つける必要がありました。
要するに、維新後、解雇された旗本は、必ずしも江戸屋敷に住み続けられたわけではなく、屋敷を明け渡して、新たな生活を模索する必要があったということです。
ノート20250718




