覚書/古代ローマ騎兵について
Ⅰ ローマとは
古代ローマは、王政、共和制、帝政の三期がある。
王政は、前7世紀にエトルリア人によるもので、前509年に王が追放されて(貴族)共和政に移行した。
共和制は、同年から紀元前27年にかけてで、ユリウス・カエサルの甥であるオクタビアヌスが帝位に就くことで終わる。
帝政は、同年から、335年のローマ帝国東西分裂の後、帝都ローマに拠った西ローマ帝国がゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって476年に滅ぼされるまでを指す。
以降も、帝都コンスタンチノプール(ビゼンチュウム)に拠った東ローマ帝国は、オスマン・トルコに滅ぼされる1453年まで続くのだが、中世として扱われる。
西ローマ帝国の跡地はその後、キリスト教ローマ教皇によって、カロリング朝を(復活)西ローマ帝国としたり、東フランク王国を神聖ローマ帝国としたりした。東ローマ帝国滅亡後のキリスト教東方教会は、モスクワ大公国を継承国家に定め、ロシア帝国とする。なお、その東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン・トルコ皇帝メフメト2世がローマ皇帝を称するが、この人一代で称するのをやめている。――これら継承国家はいわゆる「第三のローマ」である。
Ⅱ ローマ騎兵
共和制ローマではもともと、戦争参加は市民の権利であったので、武具は自前で買いそろえていた。高価な馬は平民には買えず、貴族・士族階級に独占される。大きな戦いになると、戦場の命運を決定する騎兵は、周辺騎馬民族であるガリア人やヌミディア人を傭兵として雇う。ガリア人は、ケルト系で今のフランスやベルギーあたりにいた人々で、ヌミディア人は現在のアフリカ北東部にいた人々だ。ヌミディア人の末裔は現在のベルベル人だと言われている。――昔、読んだ本のイラストが、バリバリのアフリカ系に描かれていたが、研究者達は、中央アジア起源だと言っている。つまりコーカサス系のアジア人ということになる。
では本題だ。
馬術に革命をもたらしたのは、馬具の一つである鐙だ。足掛けの輪・鐙があると、踏ん張ることが容易なので、馬上でも存分に武器を用いることができるようになる。
鐙は紀元前5世紀に、インドで発明された。鐙が東ローマ帝国を経由して、ヨーロッパに伝播したのは、7世紀になってからのことである。
それまでの馬術は騎兵が、馬の腹に脚を折り曲げてピタリと抑え込む方法を執っている。
――共和制末期・カエサルの時代を舞台としたネットフリックスのドラマ『ROMA/ローマ』の百人隊長ルキウス・ヴォレヌスと相棒の兵士ティトゥス・プッロのコンビもこの方法で騎乗していた。二人とも平民なので、実際、騎乗できたのかはやや疑問が残る。
余談ながら、帝政ローマと現代日本を往来する主人公ルーデウスを描いた漫画『テルマエ・ロマエ』主人公ルシウスも前述の馬術を行う場面があった。――ルーデウスの身分を示すものはないが、少なくとも市民権をもつ平民以上の身分であることは確かだ。軍事教練経験者であるエピソードがあったが、百人隊長だったという記載はない。とはいえ、武芸百般・馬術までたしなみ、建築を学ぶためギリシャ留学をしている過去からすると、平民ではなく、士族である可能性が高い。
ノート20240712




