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始まり始まり

 蒸し暑い空気が頬に当たり、急いで一年A組のドアを開けようとした。


 鍵を差し込んで回すと、「カチ」という音と共に施錠されてしまった。


「……?」


 暑さのあまり、施錠が解除されたにもかかわらず、それに気づかなかったようだ。もう一度、鍵を右に回した。


 自分の不甲斐なさに若干辟易しつつ、ドアを引いた。


 扉を開けた途端に、誰かがつけっぱなしのままにしていたエアコンの冷気が外気の生温かい空気と混じり合って、俺の頬に当たった。


 首元から流れ落ちる汗を拭っても、不快さはイマイチ拭えない。


 手持ち無沙汰になった教室の鍵は、教卓の上へと無造作に置き、早々にエアコンの温度を20度まで下げた。


 後から教室に入ってきたクラスメイトの1人が「寒っすぎるだろ」と抗議の声を上げるのが聞こえた。


 ワイシャツに袖を通しながら、「体育が終わった直後だし、これくらい良いだろ?」と答えた。


 それから、続々と男子生徒がクラスに到着し、テキパキと着替え始めた。


 2、3分して、女生徒たちが続々と更衣室から帰ってきた。


 彼女たちは愚かな男たちを惑わせる香水や制汗剤の甘い香りを漂わして、ガヤガヤと席に着いた。


 そして事件が起こった。


「あれ……お財布がない」


 桃山玲が隣の席の関に向かってつぶやいたことをきっかけに、関が「誰か玲ちゃんの財布知らないかー?」と大袈裟に声を上げた。


 ガヤガヤとした喧騒が、クラス内を支配し始めた。


「なんだかきな臭いな」と流星が俺に振り向いて言った。

「とりあえず、面倒なことには関わらないのが一番だろ」

「まあ……そうだな」と流星はポリポリと赤い髪を掻き「ちょっと、事情聞いてくる」と席を立った。


 教室の真反対に位置する廊下側では、すでに数人の男子生徒が立ち上がり、桃山玲を囲うようにして財布探しを始めていた。当の本人は黒く長い髪を耳にかけて、少し屈んでバックの中身を確認しているようだ。白い頸をこちら側に見せつけているようなそんな錯覚さえ抱いてしまった。



 桃山玲は、今にも消えてなくってしまいそうな存在だとおもった。儚げな女の子。そう思ったのが第一印象だった。


 少し垂れ目の二重、色白い肌に、背中まで綺麗に整えられた黒い髪、旧家の御令嬢として、品のある立ち振る舞い。


 容姿端麗、品行方正であるが故に、クラスメイトからはまるで蝶よ花よと育てられる幼い子供のように過保護に扱われている。


 もちろん桃山玲が自分自身のその扱いを意図して、放置しているのかは判然としない。ただ、おっとりとした雰囲気と誰にでも優しい性格は、男子生徒たちを勘違いさせるのには十分だった。


 現に、昨日の放課後、知らない男子生徒がわざわざ一年A組の教室に現れ、人気のない教室ーー正確には俺が唯一帰り支度をしていたのだが、桃山玲に告白をし、その場で振られる光景を見たことがある。


 あの時、桃山玲の瞳は、一瞬俺に向けた後、口元に笑みを浮かべた。まるで、わざとその光景を見せつけているかのように。


 そんな気色の悪い光景をかき消すようにして、視線を窓の外へと向けた。


 ツンツンと制服の袖が引っ張られ、横に視線を向けると、明石紫音は、好奇心の強そうな大きな瞳でじっと見ていた。


「……なんだ?」

「玲ちゃんの財布がないみたいなの……」

「そうみたいだな」

「そうみたいだな、じゃないでしょ。藍沢は何か知らないの?」

「知らん」


 そう断言してから、俺は明石の視線から逃れるように窓の先へと戻した。しかし、どうやら明石は逃してくれないらしい。


 明石は電光石火の如く、俺の耳元に近づいた。ミディアムボブの髪がふわりと舞い、柑橘系の甘い香りがかすかに鼻腔をくすぐった。


「藍沢雄太くーん……あの蜜月のこと、バラされたくなかったら、こっち向きなさい」

「っち」

「あ、舌打ちしたー。言っちゃおうかなー」


 チラッと横目に伺うと、明石はにやにやと口元を僅かに歪めていた。


 くっそ、俺を揶揄っているのは明らかだ。


 明石は「私何か言ったかしら」と言わんばかりのおとぼけた面で僅かに首を傾げた。その表情に同期するように、ミディアムボブの黒い髪がかすかに揺れた。


「何をさせるつもりだ?面倒ごとには––」

「ふふ」と含みのある笑みを浮かべてから、明石は咄嗟に席から立ち上がった。椅子がフローリングに掠れて「キー」と甲高い声のような悲鳴が一瞬響いた。まるで俺の内心を代弁しているみたいだなと、どこか他人事のように思った。


 いや、そんな現実逃避をしている場合ではなかった。


 この後の面倒ごとに対処しなければならないのだから。


 教室の喧騒が一瞬にして静まり、明石紫音の元へと四方から視線が向けられた。


 そしてーー明石はやたらと気合いの入った声で言った。

 「その問題、私たちミステリ研究会が引き受けます!」と。



 夕焼けが室内に差し込み、薄暗い教室を照らしている。

 エアコンの程よい冷気が室内を循環している。閉じられた窓の外からは、校庭で部活動に勤しむ生徒たちの声が微かに聞こえてくる。


 放課後、俺––––藍沢悠太は一年A組に残っていた。いや、強制的に残されていた。目の前の黒板に『状況』と白いチョークで書かれた文字を見つめた。


 隣の席から、明石紫音が頬杖をつきながら言った。


「それで、藍沢は何かわかった?」

「わからん」

「真剣に取り組んでいない場合でも、あのスキャンダルはバラすからねー」

「っち」

「ふふふ」と明石は、甘い声で微笑んだ。


 厄介な女だ。

 見た目は清楚そうな外見をしている。が、内面は外面を裏切るかのように面倒な性格の持ち主だ。


 ぱっちりとした二重に、桜色の唇、色白く華奢で細い輪郭、ミディアムボブの黒髪が肩にかかる程度に伸ばしており、一見すると清楚な女優のようだ。本人曰く、中学生の頃には大手芸能事務所にスカウトされたこともあるらしい。


 確かに、外見上は非常に可愛げのある女であることは認めよう。しかしクラスメイト--いや生徒だけでなく教師も含めて、明石紫音の外見に騙されていることに誰1人として気がついていない。


 俺はそのことをよく知っている。

 現に、健全な男子高校生の弱みを握り、甘い声で脅していることは事実なのだから。人の弱みに漬け込み、脅すなど人としてやってはならないことであろうに、明石紫音という女は躊躇なくそのような行動をする女だ。


 目的の達成のためには、手段を選ばない悪魔のように性格がひん曲がっているとしか表現のしようがない。


 今すぐにでも、クラスメイトたちに声を大にして言ってしまいたいくらいだ。


 しかし、俺のようなちょっと成績の良い程度の人間が、「あいつ--明石紫音という女は中身最悪で災厄な人間なんだ」と声高に主張しても誰も取り合ってくれないことは目に見える。


 残念ながらこの世の中というのは、人望も容姿も整っている生徒の方が圧倒的に有利である。

 そのくらいのことは、たかだか16年ほどしか生きていない高校生の俺でもわかった。


 そんなくだらない思考を遮るようにして、明石は少し甘えるような声で言った。


「私のような美少女と放課後の教室で二人きりだからといって、変なこと想像しないでよねー」

「安心しろ。俺はお前のような腹黒女に興味ない」

「と言うことはまさか--男に興味があるの?」

「それは100%ないわ、バーカ。俺の理想は--雷がなったら『きゃー』と言って抱き着いてしまうくらい純情可憐、純真無垢な女の子かにしか興味ないからな!」


「うわーないわーひくわー。てか、今時そんな女の子いるわけないじゃん。それに、そんな女の子がいたら、明らかに狙ってやっているからね?」

 明石は馬鹿にするような冷め切った声色で言った。

 少し細められたブラウンの瞳は、心底軽蔑するような視線だ。


 ふ、明石という女は所詮、その程度らしい。やれやれ、胸が小さいと思考も小さくなるらしい。


 ガタと足元が揺れた。

 この女、俺の椅子を蹴りやがった。


「今、変なこと考えたでしょ」

「いや、気のせいだろ」


 一瞬、貧しいそれに視線を向けたのが悪かったのかもしれない。普段は察しが悪いくせに、貧な乳のことになると察しが良くなるのはどうにかして欲しいものだ。


 それにしても、腹黒の部分に反論がないところを見ると、自分自身で腹黒いという自覚はあるのかもしれない。いやこの際、自覚があろうとなかろうとどちらでも良い。ただ厄介な人間に目をつけられてしまったことに変わりない事実である。


「……まあいいわ。ところで、私と玲ちゃんの共通点が何かわかる?」

「貧――ひっ!?」


 明石は俺の言葉を待つことなく、ドタンと椅子を蹴った。まるで人を殺めたことのあるような鋭い視線で射抜かれた。


「乳」まで言っていないというのに、どうやら「貧」と聞こえた瞬間に反応したらしい。


 高校生クイズでもそこまで反射的な回答はしないであろうが、俺は渋々喉から出かかっている言葉を飲み込んだ。


 決して今にでもどつかれそうな雰囲気から逃れたいわけではないのだ。単に話を進めたいからに過ぎない。


 俺は明後日の方に視線を逸らしながら答えた。


「そうだな、非常にお二人とも可愛い容姿をしているかと。そういう意味では、同族ではないでしょうかね」


「ええ、そうよね?」と明石は念を押した。


「あ、はい。もちろんです」


 こいつ、間髪入れずに「可愛いこと」を肯定しただけでなく、確認するように語尾を強めやがった。


「なんで敬語なのよ?逆に馬鹿にされているようで腹が立つのよね」

「いや、馬鹿にはしていない。それよりも、話を続けてくれ」


「まあいいわ……あなた、さっき私と玲ちゃんが『同族』と表現したわよね」


「そうだな……気を悪くしたのならすまん」


「いえ、怒っているだとかそうではなくて、『よくわかったなー』と思ったの」


「それは……どういう意味だ?」


「コホン」とわざとらしい咳払いを小さくした後、明石は小さな桜色の唇を動かした。「ほら、私って可愛いじゃない?」と少し照れるように頬を朱色に染めた。


「っぷ」と俺が吹き出すと「笑うところじゃないでしょ!?」と明石は若干上擦った声で言った。


 相変わらず、明石はよくわからないところで照れるようだ。ここ1ヶ月ほど一緒に行動を共にすることが多くあったが、いまだに感性が掴めない。


「すまんすまん。そうだな見た目は可愛いよ。どうぞ続けてくれ」


「ほんと……揚げ足取り。私が可愛いのは事実なのだから、仕方ないでしょ」と不貞腐れるように唇をアヒルのように尖らせた。そして気を取り直す呪文のようにまたしても「コホン」とわざとらしい咳払いをした。


「とにかく、私は可愛い故に苦労を抱えているわけよ」


  論理が飛躍しており、共感できなかった。が、この明石の言いたいこと--おおよそのニュアンスは汲み取れた。


「つまり、お前も桃山玲も可愛い故に問題を抱えており、その問題が同じである、という点で同族であるということか?」


「そ、そうね。さすが将来は私の助手となる人間ね。よく私の言いたいことを汲み取ったわね!」


「全然、これっぽっちも嬉しくない賛辞をどうもありがとう。それよりも、その問題とやらをご教授いただけないでしょうかね、ミステリー研究会の会長さん?」


「何よ、察しが悪いわね」


 この女はいちいち人をディスらないといけない病気にでも罹っているのか。しかし、一々不遜な態度に声を上げるほど、俺は子供ではないのだ。寛容寛大な心で続きを促した。


「大変申し訳ございませんが、察しの悪い私めにどうか明石紫音様の抱えている問題とやらをご教授いただけないでしょうか」

「ふふ、やっと私の高貴さがわかったようね。やれやれ、どうしてもというならば教えてあげるわ」


 こちらが下手に出れば、調子に乗りやがって--

 俺は沸々と煮える怒りをなんとか押し殺して、明石の言葉を待った。明石は何を勘違いしたのかわからないが、後輩に手取り足取り教える優しい先輩のような声色で言った。


「好きでもない人に告白されてしまうの」

「ふーん……え、それだけ?」


「何よ、まだわからないの……察しが悪いわね?好きでもない殿方から告白されるということは、同性から嫉妬だってされる、ということでしょ?」


「いやだから、それと今回の事件がどのように関係しているのかわからないのだが……まさか桃山玲の財布が紛失したのは、その嫉妬した誰かとでもいいうつもりか?」


「そうよ。でもそれだけではないわ!さあ、そろそろ部活も終わる頃だから、行くわよっ」


 明石紫音はない胸をこれでもかと強調するようにして、立ち上がった。


 なぜ4月の俺は軽々しく学級員長などと言う面倒な役回りを引き受けてしまったのだろうか。それにーーこいつにあれを知られてしまったことも誤算だった。


 くそ、早く帰宅したいと強く思った。

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