はじまり
荒野にて
暗闇で目を覚ます。まだ眠っているのかと体を無理に起こそうとすると、何かに遮られて手が伸びない。
手を沿わせるように動かすと、どうやら壁のようなものらしく、体の真上にまでそれが続いていることから、どうやら自分が何かしらの入れ物に入れられていることがわかった。
どうしたものかと思案し、とりあえず出てみる他にすることが無いと判断し、脚を曲げて足の裏で踏ん張るようにして天板を外すことにした。3度目の挑戦でそれは叶い蓋が外れ、日の光が飛び込んでくる。
眩しさに目を瞑り、しばらくの後に周りを見渡すと、そこは一面の荒野であった。横を見れば川があり、どうやらそれで流されてきたらしいことがわかる。その見た目はどう見ても棺桶で、首をひねるほかなかった。
自分のことを見てみると、血がベッタリと付いた黒い服を着ていて、不思議とそれに忌避感がはない。今の今まで何をしていたのか全く思い出せず、しばらくの間途方に暮れるしか無かった。
これから何をするべきか。どこへ向かって歩くべきか。何も持たず、体一つで川に沿って歩いていく。
「暑い。暑すぎる。どうにかして人里を見つけなければならないというのに、辺りには草と岩しか見当たらない。幸い水だけはあるようだから、この川を上っていけばあるいは……」
何もないところ、それも命を脅かされる暑さの中で数時間歩き続けるのは精神的にも肉体的にも苦しいものだ。
「せめて一人じゃなければなあ。」
そんなことを口にするけれど、もしもほかに人がいたとして今の格好で友好的に接してくれるものなどいるはずがない。人につくまでには洗わないとなあなどという悠長な考えをしながら、自分のこれまでについて振り返る。
「常識は残っていて、知識は消えていないみたいだ。自分の中から、不自然に記憶だけが抜け落ちた状態らしい。」
誰かが意図してそうしたとしか思えない、明らかに人為的な記憶の失い方。何物かの恨みを買ってこうなったのだろうか。少しの違和感を抱えつつも、考えても無駄なことだと判じて自分の元の境遇について考える。
血塗れではあるけれど、整えられた黒いコート。腰のベルトにはいくつかの棒のようなものが挿してあり、言語化はできないが不思議とその使い方を知っている気がする。
棺桶の中に雑に入れてあった弓──今は肩に背負っているが、矢がどこにもない。服装はどう見ても漁師のものではないし、戦士としても矢がないのは不用意が過ぎるのではないか。過去の自分への指摘をして、再び思考へと戻る。
血がついていたということは、何かしらと戦っていたということ。矢がないということはそれを使い切り、負けてしまったということだろうか。
少なくとも、そう悪い育ちはしていなかったし食い扶持にも困ることはなかったのだろう。身体はそこそこに鍛わっているし、弱そうなところもない。そんな思考を重ねながら。とぼとぼと歩いていくことを再開する。
小高い丘を奥にみつけて、ちょうどいいので登ってみることにした。なかなかに登るのには苦労したが、有力な情報は手に入った。
「何にもないなぁ!ここ!」
なるほど何も無いことが分かるということは、無駄足を踏まなくて住むということだと無理やりに合点して、溜息をつきながら下へと降りる。川には魚のようなものも見えたし、しばらくの間は辛いけど何とか食べていけそうだ。半ば諦めを抱いて、ここから先のことに思いを馳せていると、
「そこの君!なにかお困りかな!」
自分がさっき降りてきた丘から、陽気な声が飛んでくるではないか。
「困っているんだろう?自分の名も分からないそこの君。」
あまりにも胡散臭い。ここは何もない荒野で、人が寄り付くはずもない。登り始めた時にはこんな奴はいなかったし、いたら直ぐに気づくだろう。
男は吟遊詩人風の格好で、羽の着いた帽子を被った美男子であった。足は長く、全体的に細い印象を受ける。どことなくただよう胡散臭さはその喋り方だろうか。いやそもそも、なぜ初めて会ったはずの人間が自分の今の境遇を知っているのだろうか。
「あんた、誰だよ」
「私かい?私はしがない旅の吟遊詩人!おっと意味が被ってしまったね。名前はアミス!なんで君のことを知っているかって言うと君のファンだからだ!」
おかしなことを言うやつだ。血塗れで自分のことが分からない男が言うのもはばかられるが、そんなやつのファンを自称するのも相当におかしいだろう。
「ファン?もしかして俺、有名人だったのか?」
「そうだとも!君は我々の中で相当に評価されていて、相当に好まれている。だけど君についてのことは君自身が知るべきだろう。だから私はそのための導を君に授けよう。そのためにここに来たんだ。」
怪しげな吟遊詩人はそう語る。自分のことを知っているということはつまり、
「あんた、俺の名前を知っているのか?それから出自や今なぜここにいるのかも知っていたりするのか?」
「ああ。君の名前と出自については知っているよ。でも、今は言えないね。君自身の手によってそれは自覚されるべきだし、君はきっと、自分の手でそれを思い出せる。自分自身の手で記憶を取り戻さなくちゃ、おもしろくないだろ?」
「ところで。君、今一人で退屈なんだろう?ある程度のところまでは着いて言ってあげよう。嫌だと言われても付きまとうんだけどね!」
「はあ……」
「その溜め息はなんだい!さあほら歩くぞ!」
半ば引っ張られるような形で丘を後にし、仕方ないなあと言わんかのように彼は着いてくる。
「それにしても暑いねえ。君、暑くないのかい?」
「言われてみれば確かに格好の割には暑くはないな。」
不思議とそれに対する疑念も湧いてこない。
「やっぱり記憶を失っただけでそれ以外は何も無くなっていないのか……」
「何か言ったか?」
「ああいやこちらの話さ!君は気にしなくてもいいとも!」
首を傾げるが、この短いやり取りの中でもどうせ聞いたところで肝心なところは答えてはくれないだろうと割り切って、無視して話を続ける。
「あんた、このあたりにはどれくらいいるんだ?」
「そこまで長くはないなあ。あまり長居するのもおかしいからねえ。帝都から来たとだけ言っておくよ。」
「帝都か……最寄りの集落は?」
「しばらく行った先に村があるけれど……あそこはやめておいた方がいいよ。排他的すぎるからねえ。そこでなければそれ相応に進まないとだめだけれど……まあ川を上っていけばそっちには着くよ。」
「助かる。」
短く返して、ふと横を見る。羽のついた帽子と言い、整えられた服装に、汚れていない靴。本当に吟遊詩人かどうかも怪しいなと思って、それを口に出そうとして、
「おっと、君はそのまま川を遡るといい。そうすると大きな大きな塔を目にするだろう!そうしたらそれを登りたまえ。それが君の物語のスタートで、君の今の目標だ!」
なんて意味のわからないことをまくしたてて遮られた、
「ではこれでさらばだ迷える仔羊よ!また困ったことがあれば呼ぶがいい!私は君の道のりを応援しているよ!」
「あっおい待てまだ話は」
「いいや話すべきことは話した!さらば!」
胡散臭い男、自称吟遊詩人のアミスは、そんな勝手なことを言って去ってしまった。
追いかけて走ってみたけれど、奴の姿はどこにも無い。
「マジでなんだったんだあいつ……」
あまりに都合が良くて間のいい男は、まるで舞台装置のように唐突に現れて唐突に去っていったのだ。まさに風のように現れて、風のように去る男。
何故か再び会うだろうという半ば確信に近い予想をさせるほどに強烈だった。今はどこに行こうかも決めていなかったし、今は藁にもすがりたい気分だ。
もう一度あれを呼ぼうとは思わないし従うのも癪だが、川を再び上っていくという行動の動機にはなり得るものであったので、仕方なく再び歩み始める。
しばらく進んで、また丘を見つけたので上ってみる。見渡した先には、荒野の中に巨塔──荒野には似合わない純白の巨塔が、そびえ立っていた。
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