あの日から、あなたが
気にかけて下さりありがとうございます!
短編なので、一気に飽きずにお読みいただけます!
~プロローグ~
『ニャーニャー……ニャー……』
よく晴れた穏やかな午後。時折小高い丘から吹く風は、満開を迎えた桜の花びらを、住宅街まで運んでくる。丘にはこの桜以外には何もなく、小さな町が一望できた。毎年この季節になると、市内外から多くの見物客が訪れる。美観を損なわないために、花見は禁止されるほどだ。
『ニャーニャー……』
はぁ、はぁ
幼稚園から帰った少年は、休むことなく走る。まだあどけない可愛い顔立ちは、よく女の子と間違えられた。少年は一気に丘までかけ登り、大きな桜の木にたどり着く。呼吸を調えるため肩で何度も息をつき、ようやく桜を見上げる。額の汗が太陽に反射してキラキラと光る。
「ねこちゃん」
『ニャー』
桜の木の、真ん中よりやや上の枝から、子猫が少年を見下ろしていた。登ったはいいが、降りられなくなった様だ。
少年は周りを見回し何やら考えていたが、思いきった様に小さな手で樹に触れ、よじ登り始めた。少年の目は枝で怯える子猫しか見ていない。あっという間に子猫の佇む枝までたどり着き、満面の笑みで子猫に手を差しのべた。
「迎えに、来たよ」
猫は少年の飼い猫ではない。たまたま幼稚園バスで通りかかり、登っていく子猫を見かけただけ。子猫はするすると少年の肩にしがみつく。
「しっかりつかまって! 」
少年が子猫を肩に乗せ桜の麓に降りたとき、柔らかい風が吹き、花びらが舞った。子猫の救出を誉めている様に……
「へへっ、もう高いとこブッブーだよ?」
得意気に猫に話しかけている。
少年は再び樹に触れる。大人の手のひらほど、皮が削れている。降りる時に、買って貰ったばかりのスニーカーで傷つけてしまったらしい。少年は突然悲しそうな顔になる。
「ケガさせて、ゴメンね」
ぎこちなく樹をさすりながら、何度も何度もあやまる。
『ありがとう、だいじょうぶ』
少年は少し驚いた表情で手を止めた。
キョロキョロと周りを見回し、そして満開の桜の木を見上げる。青い空と薄ピンクの花びらが、太陽の光に当たって輝き、とても綺麗だった。
~卒業間近~
2月某日、3年A組の教室の窓から放課後の校庭を眺めている吉井 花。花の視線の先には、幼馴染みの松本優の姿がある。優は悪友とふざけながら楽しそうに過ごしている。花はため息をつく。
「あーあ、今日も告白出来なかったなぁ」
花は突然後ろで声がして、驚いて振り返る。声の主は、花のもう一人の幼馴染みの市川涼香だった。
「もう! 涼香、しぃー!! 」
花は右の人差し指を口に当てて慌てて言った。花の真っ白な頬に、柔らかな栗色の巻き髪が落ちる。そしてまた窓に向く。涼香は花の隣に立ち、同じように外を眺める。花とは対照的にキリッと結ばれたポニーテール。
「早く伝えないと、誰かに先越されちゃうよ」
優は2人の幼馴染みである。彼は今時の高校生らしく、髪は茶色に染め、眉毛も整えられている。耳にはイヤホンでいつも音楽を聴いている。入学当初からその容姿は評判で、上級生の女子からの告白も耐えなかったと言う武勇伝があるほどだ。
「うーん、でも残された日々が気まずくなるじゃない? 」
「それってダメだった時の事言ってるの? 」
また言ってるとでも言いたげに、涼香は両手を広げて肩をすくめる。
「だって優君人気あるし、告った子みんな断られてるって……1年の頃に鈴木先輩も振ってるじゃない」
鈴木先輩。この高校で一番綺麗だと言われていた。
「ふーん、じゃぁ誰かと付き合っても平気なんだ? 花は何もしないで後悔しないんだ? あの時もし私が先に告白していたら、もしかしたら……って、後で私に泣きつかないでね」
「涼香ぁ~」
ちょっときつめの口調で言うと、花は泣き真似をする。
「おーい! 優君達、教室戻っておいでよ~! 調理実習で作ったカップケーキの余りがあるよぉ!! 」
花たちのすぐ隣の窓から、クラスメイトの高倉明美の元気の良い声がした。優は一瞬花達を見たが、すぐ声の主に気が付き、明美に向かって大きく手を振った。
「オッケー」
優の警戒心の無い笑顔は、子供の様に可愛かった。放課後の柔らかな夕日が、優の茶色の髪を照らしている。風になびくその様子は、言葉では言えないほど美しかった。
「あ、明美ちゃ~ん! 」
「あんたがうじうじ言うから、涼香困ってるじゃん。ほら! 気を取り直して!! 花も一緒に作ったんだから、早く準備して」
「うん! ありがとう! 」
明美は手際よく机を4つ向い合わせに並べ、その上に甘い匂いのカップケーキを並べていく。カップケーキは数種類あり、試食した中ではチョコチップのトッピングが一番よく出来ていた。花は嬉しそうにしている。嬉しそうな花を見ているとこちらも幸せな気分になれる……が、涼香はその様子を見て小さく息を吐いた。
(少しだけ、苦しい)
教室の時計を見ると、既に17時近かった。
「あっいけない! 私、家の手伝いがあるから先に帰るね」
優の事で頭がいっぱいの花に、涼香の声は届かなかったようだ。涼香は苦笑いして荷物を肩にかけ、足早に教室を後にした。まるで、今から始まる事から逃げるように……
(私何やってるんだろ)
玄関までの長い渡り廊下は、暖かな春の夕日が差し込んでいた。いつの間にか、影が長くなっている。水飲み場の蛇口から滴る水に夕日が映り、キラキラと光らせる。涼香はこの光景が大好きだった。
綺麗だな……しばらくその様子に見入っていた。
「なんだ、涼香は一緒に食べないの? 」
背後から声を掛けられ、水滴に見とれていた涼香はハッとして振り返った。
(会っちゃった……)
「あ、優君。うん、もう授業で一回食べてるし。それに、家を手伝う約束してて……修行中の身ですので」
最後はおどけた口調で言った。
「そっか……」と少し言葉を切って続ける。
「しっかし涼香は凄いよ、あの店の女主人になるんだもんな」
「そんなことないよ、産まれた環境がそうだっただけ。優君の方がずっと凄いよ、やりたかった仕事の夢叶えちゃうんだから」
涼香が笑顔でそう言うと、優は少し照れたようだった。
「ありがとう、まぁこいつと同部屋なんだけどな」
隣にいた悪友の肩に腕を回した。
「こいつって言うなよ! 涼香ちゃん、先が思いやられるよ~」
「情けない顔っ!! 」
涼香がしかめ面で大袈裟に言うと、3人は爆笑した。優がふと、思いついたように言う。
「そうだ。俺が向こうに行く前にさ、ガキの頃みたいに、またあの桜の丘に行こうぜ」
それまでそよそよと吹いていた風がぴたりと止まった。そして次の瞬間、強い突風が3人の間を通り抜けた。涼香のプリーツスカートの裾が、揺れた。
~幼馴染み~
優と花、涼香は幼稚園からの幼馴染みだ。家が近所と言う事もあり、家族ぐるみで仲が良かった。
優は祖父母、両親、妹の6人家族。祖父は街一番の高齢で住民からの信頼も厚い。今の祖父で4代続く旧家である。
花は両親との3人家族。花は産まれてすぐ喘息を患い、空気の綺麗なこの小さな街に家族で移り住んできた。その名前の通り、花のように可憐で小さな女の子だった。
涼香は祖父、両親、妹の5人家族。涼香の家は有名な染め物屋で、特に『市川の桜色』と呼ばれる染物は先代が苦労して造り出した色で、今や海外から注文が入るほど世界的にも評価されている。涼香はこの家の跡取りとして、染め物の才能を受け継いでいた。
3人はとにかく、毎日一緒に過ごした。外が薄暗くなるまで、時間を忘れて遊んだ。宿題も忘れて遊んだ。
ところが小学校も高学年になると、優は2人と距離を置くようになっていく。周りからからかわれる事など余り気にしてはいなかったが、お互いに思春期を迎え、意識するようになっていた。既に優に恋心を抱いていた花の落ち込みは、それはひどいものだった。涼香はそんな花の心に寄り添い、言葉こそ少なかったが、花が立ち直るには十分な存在だった。
(優君が上京するまで、あと2ヶ月かぁ……)
家の手伝いを終える頃には、すっかり夜になっていた。涼香は夜空を見ようと、2階の自室の窓を開けた。ひんやりとした空気が部屋になだれ込む。思いがけず、星が綺麗だった。
(星にも寿命があるんだったよなぁ)
花は、楽しく過ごせただろうか……
すっかり冷えきった体を自分で抱き締めるようにして、涼香は窓を閉めた。机に座ってぼんやりとする。そして、思い出した様に一番上の引き出しから、鍵の掛かったキレイな箱を取り出す。中には、大切に綿に包まれた可愛い猫のネックレスが入っていた。しばらくネックレスを愛しそうに見つめ、またもとに戻した。
「お姉ちゃん!明日デートに着ていく服選んで! 」
勢い良く妹の美羽が入ってきた。
「はぁ? デートの服くらい自分で決めな」
呆れて言い返すと、美羽は涼香に向かって拝むように手を合わせ、上目使いに言った。
「お姉ちゃんの方がセンス良いんだもん。ね? お願い、大好きだから! 」
「そう言う顔は彼氏にやりな」
大袈裟にそう言って、2人で大笑いした。姉妹は本当に仲が良かった。妹の美羽は要領が良く、いつも涼香に頼ってばかりだ。涼香は美羽の自慢の姉で、大好きだった。
(楽しいな……)
笑い転げながら、2人はいつもそう感じている。
~猫のネックレス~
小学校からの帰り、3人はあの桜の丘にいた。3人は向かい合わせに円を描くように、ちょこんと座っている。今日は12月24日、クリスマス・イブ。天気は良いが風の強い冬らしい日だ。給食で出された小さなバターケーキと各々が選んだプレゼントを持って。
「クリスマス会しようよ! 」
そう言いだしたのは花だった。3人で下校している時、何の前触れも無く突然だった。おませな花は一度で良いから、大人みたいに優とクリスマスを過ごしたいと思っていたのだ。
「うーん、私は良いけど……」
「僕も良いよ」
2人の返事を聞いてホッとした表情をみせた。
「給食のケーキは食べずに持ってきてね。それと、プレゼントを用意して下さい♪ 」
花からの宿題だった。優には少しハードルが高かったかもしれない。優は母親に相談をした。母はニコニコ笑って、少し離れたデパートに優を連れて行ってくれた。母のアドバイス通りプレゼントを選び、満足だった。
花が用意したレジャーシートは、少し冷たかった。花はかわいらしくラッピングされた細長いプレゼントを取り出す。涼香は平たくて正方形の、ややシンプルに包まれたもの、優は赤いリボンのついた、小さな箱をそれぞれに渡す。
「メリークリスマス!! 」
プレゼント交換が終わり、ケーキを頬張る。赤鼻のトナカイを歌い、笑った。いくら風が吹き付けても、3人は寒くなかった。
いよいよプレゼントを開ける。花からはお揃いのシャープペンシル。星のチャームの着いた可愛い物だった。涼香からは市川の桜色で染め上げられた綺麗なハンカチ。そして優からは、可愛い猫のペンダントがついたネックレスだった。
「うわぁ、可愛い! 」
花ははしゃぎ声をあげた。もちろん高価なものではなく、どちらかと言えばオモチャに近い物だったが、2人にとっては初めて男の子から貰うアクセサリーだった。
「大切にするね! 」
2人が言うと、優は嬉しそうに頷いた。花はネックレスをしまおうとはせず、手に握りしめたまま帰途に着いた。嬉しそうに何度も何度も眺めながら……
~花の気持ち~
それは3人が中学にあがって初めての夏。緑の眩しい季節が来ていた。その年は梅雨が長かったせいか、とても暑い日が続いていた。涼香は陸上部に入部した。もともと運動神経が良く、小学校ではリレーのアンカーを任された程だった。その部活が終わるのを見計らって花が部室のドアを開ける。
「涼香、部活終わった? 」
「は、花?! まだ残ってたの?! 」
驚きと同時に嫌な予感がした。こう言う時の嫌な予感は大体、当たる。涼香は、この後聞かされるであろう恋の話を簡単に予測出来た。
(ついに聞かされるのか……)
所々にしか付いていない外灯。2人は薄暗い道をとぼとぼと歩いていた。重々しい空気が襲う。
(何か話してよ……息苦しくなる……)
「涼香……私、優君が好き」
そろそろ家が見えてくる位の外灯の下で、花がやっと口を開いた。言ったあと照れるように笑う花は、薄暗い該当の灯りで見ても赤くなっているのがよく分かる。
ズキン……覚られてはいけない。花を悲しませるわけにはいかない。私にちゃんと自分の気持ちをさらけ出してくれた花。花の方がずっと正直で優にふさわしい……でも、どうして?私の方が先に好きになったのに……! 花は優の何を知っているの?! いや、待って……選ぶのは優だ。まだ分からない……まだ、決まった訳じゃない……
「……涼、香? 」
黙ったままの涼香の腕に、不安げな表情で花が触れる。はっと我に返る涼香。
「えあ! ごめん、え? そうなの? 全然気がつかなかった」
ホッとした表情で微笑む花。
「そうなんだ……私絶対バレてると思ってた、えへへ」
「……花と優君ならお似合いだよ」
「えっやだ、ホントに? 」
「うん! 応援するね、協力する! 」
涼香はガッツポーズをとりウインクした。
「ありがとう、涼香! 」
花は涼香に抱きついた。余り涼香の顔は見てはいなかった。今涼香がどんな表情をしているのか、なぜか、見る勇気が無かったのだ。
外灯で、ジジっと虫の焼ける音がした。
私はずるい。友達として応援するふりをして。自分の気持ちを隠して……これじゃまるで、花がフラれるのを待っているみたいだ。
でも花がフラれなければ私の願いは叶わない。こんなの友達じゃないじゃない。私は……卑怯だ
涼香は花に気付かれない様に深くため息をつき、唇を噛んだ。
~人魚姫~
「今日は絵本を読みますよ~」
まりえ先生は、まだ働き始めたばかりの初々しい保育士。明るくて元気なまりえは、園児にも保護者にも人気のある先生だった。優たちも例外ではなく、まりえ先生の事が大好きだった。特に先生の読む絵本の時間はお気に入りで、先生の正面の一番前に3人並んで座るのがお決まりだった。
「今日は、これ“人魚姫”を読みますよ」
「あ、知ってる~」「読んだことある! 」「うちにもある~」
教室のあちこちから声があがる。園児達は言われなくても、自らまりえの前に座り始める。まりえは満足そうにうなづき、園児たちを夢の世界へ連れ出した。
「……人魚姫は海の泡となって消えてしまいました……おしまい」
まりえが一呼吸おいて本を閉じ園児を見回すと、園児達から拍手が起こった。そしてざわざわと園児たちが感想を言い合っている。
(そうそう、良い光景だわ)
まりえは生き生きと話す園児を見て、微笑む。
「人魚姫、かわいそう……」
ポツリと涼香の声。まりえはよいしょと涼香の隣に座り込む。驚いた事に、涼香は少し涙ぐんでいたのだ。
「どうしてそう思ったの? 」
涼香の頭を優しく撫でて聞いた。
「……せっかく人間になったのに、王子様に選ばれないから……」
「そっか……そうだね。ふふ、涼ちゃんは優しい女の子なのね」
涼香が顔を上げると、まりえは微笑み、続けた。
「でも先生ね……人魚姫も、きっとどこかで幸せになってるんだと思うんだ~」
涼香は目を丸くする。まりえは頷いて、
「だって、女の子はいつか必ず誰かの特別になるんだもの」
と言った。
(いつか必ず誰かの?)
「僕……僕は絶対人魚姫を選ぶよ! 」
聞いていた優は、涼香を元気付ける様に言った。それを見た花も
「私も!! 」
と言い、教室は明るい笑い声で一杯になった。
ふと、まりえは考える。
(ひょっとして、涼ちゃんは好きな子がいるのかな……)
そんなまりえの思いをかき消す様に、教室には給食の匂いが届き始めていた。今日の献立は何だったかな……
涼香は優の言葉に満足していた。
(優君は人魚姫を、選ぶんだ!)
物語の結末など、既に忘れてしまっていた。
~優のためらい~
「松本君、ちょっと時間貰えない? 」
下校時刻の夕暮れ時、優は校庭を友人達とふざけながら歩いていた。後ろから小さな足音が聞こえていた。段々とそれは近づき、さらには小さな息遣いも聞こえてきていた。
「松本君、ちょっと時間貰えない? 」
優達が振り返ると、そこには校内で一番の美人と評判の鈴木美桜が立っていた。美桜の肩は息遣いの度、上下に揺れる。その肩から腰まで、滑り落ちる様な滑らかな黒髪。色白の頬は、微かに紅く染まっていた。優達はしばらく美桜の美しさに見とれていた。はっとした友達の一人が
「優、行けよ」
と、ニヤニヤしながら背中を押す。
「ありがとう! 楽しく帰ってるのに、ごめんね」
美桜は本当に嬉しそうに、ふんわりと微笑んだ。
「いえいえ! 良いんですよ、どうぞどうぞ」
美桜に微笑まれて、気分が良かったようだ。
「じゃあ……」
優は照れながら美桜を連れて、校門とは別の方向へ歩き出す。
「座ろうか? 」
美桜は体育館横の日影になった芝生を指差した。優は言われるがままに座った。
(この場所は……)
黙ったままの優に戸惑う美桜。少し目を閉じて、ゆっくり口を開く。
「急にごめんね。私、3年の鈴木美桜。お話しするのは2度目なんだけど覚えてる? 」
「入学した時、校内を案内してくれましたよね」
「覚えててくれたんだ! 嬉しい」
美桜は口元で手を合わせ、言った。
この高校では、新入生とペアを組んで校内を案内する恒例行事があり、その時優の相手が美桜だったのだ。忘れるはずがない……優しく優の手を引いて、彼女はずっと楽しそうに案内してくれた。後で同級生に間接握手を求められ、気持ちが悪かった事も……
「私ね……あの日から、ずっと松本君の事が好き、なの」
「えっ?! 」
う、嘘だろ?! え? こういう時、何て言ったら良いんだろう……?
「ああ、そう、なんですね……」
長い沈黙。ふふっと美桜が笑い声を漏らす。
「え……すみません、やっぱり俺変ですよね、慣れてなくて」
「あ、ごめんなさい、つい……噂通りだったから」
美桜は楽しげにコロコロ笑っている。つられて優も吹き出していた。
「どんな噂っすか? 」
「松本はそう言うの、全く疎いし興味が無いから多分ダメだよ、やめとけって」
「ひっでー」
優は頭をかく。その様子をにこやかに見つめる美桜。
「迷惑ついでに、お願いがあるんだけど? 」
「はい」
そう言うと、美桜は少し迷うようにうつむいた。その迷う表情もとても魅力的に見えた。
「あの……目を、つぶっててくれない? 」
「えっ」
それって……
美桜は恥ずかしそうに、まだうつむいたまま。優は美桜を見つめる事しか出来なかった。艶やかな、少し赤みがかった唇。美桜は芝生に置かれた優の手に、自分の手を重ねる。
(冷たくて細い、指だな……)
まだ目をつぶっていない優に、美桜はゆっくりと顔を近付ける……
「あ、美桜さんっ! ち、ちょっと待った!! 」
突然優が顔を背ける。美桜は驚いた後、とても悲しそうに顔を曇らせる。
「……あの……ごめんなさい、嫌だよねぇ……あはは」
(私ったら、恥ずかしい……好きでも無い女とそんな……)
今にも泣きそうなまま、作り笑いをする美桜。優は焦って
「違うんです……あの……こういうのって逆ですよね? 」
と言った。首をかしげ優を見つめる美桜。その視線から逃げるように目を反らして言った。
「だから……」
美桜の方に向き直り、頬に触れる。
「それは……俺から、します」
優は美桜が何か言おうとするのも構わず、美桜の顎を少し上に向けた。美桜が少し目を伏せる。軽く鼻先が触れ、暖かな吐息が絡んだ……美桜の柔らかな唇に優の唇が触れる。
「……ん……」
触れた途端、美桜は小さく声を出した。頬を染め目を伏せる美桜は、至近距離で見てもこの上なく綺麗だった。優はそのまま、美桜の細い腰に腕を回した。肩に置かれた美桜の手が、かすかに震えた。
女の子って、みんなこんなに柔らかくて華奢なんだろうか……みんなこんなに甘く、いい匂いがするんだろうか……
どの位、そうしていたか分からない。
「そろそろ帰ろうか、送りますよ」
優は立ち上がり、美桜に向かって手を差し出す。
(もう少し居たかったな……)
美桜は少し間を置いて手を取った。綺麗な夕焼け……他愛の無い話をして歩く。時々美桜はふんわりと笑う。それにつられて優も笑った。2人の手は繋がれたままだった。
美桜の家は桜の丘の近くにあった。玄関の前で立ち止まる。2人は黙ったまま、どちらも言えないでいた。
優がゆっくりと手を離す。
「じゃあ」
「あっ、松本君、今日は楽しかったわ、ありがとう」
「いや、応えられなくてごめん」
「……謝らないで。私が勝手に好きになって。どうしても気持ちを伝えたかっただけなの」
美桜は真っ直ぐに優を見つめ、
「何もせずに後悔するなら、やるだけやって後悔した方が……」
そこまで言った時、美桜の両目から大粒の涙がこぼれ落ちる。はっとして、思わず手を差し延べかけ、思い止まる。
「松本君に出会えて本当に良かったわ、送ってくれてありがとう。帰り道、気を付けてね」
そう言って笑顔を見せると、家の中へと入って行った。
(これで、終わるんだ……)
美桜は自分の部屋に駆け込み、声を殺して泣いた。失恋くらいで家族に心配はかけたくない。今日だけ…今日だけ弱い私でいさせて。
美桜と別れて帰る間、優はずっと考えていた。
(俺はこれで、本当に良かったんだろうか。美桜の気持ちを聞いた時の、くすぶるような感覚……俺はなぜ、自分からキスをしたんだろう。いや、そもそもなぜ断らなかったのか……彼女に対する同情? それとも……? )
頭の中は美桜の事以外、何も考えられなくなっていた。
美桜とはそれ以上の進展は無かった。もちろん、それ以来2人で会う事も無かった。2人が手を繋いで歩いていたと学校中の噂にはなったが、それもすぐに忘れ去られて行った。
(俺はいつからこんな風に、恋愛感情に疎くなったんだ……)
優は美桜と初めて合ったときの事を思い出していた。
~校内案内~
入学間もなくして、校内案内の知らせが来た。在校生と新入生が2人一組になって学校を見て回るこの学校の恒例行事である。これは半日行われ、案内の順番、場所等は組む在校生に一任される。中には、これをきっかけにしてカップルになる事もあるらしい。
「どうせなら、鈴木さんと組みたいよなぁ」
ヒソヒソと男子生徒が話している。
「俺も! 良いよなぁ、うち近所なんだよ」
教室に入ってきた在校生の中に、ひときわ目立つ美少女がいた。優はそれほど興味は無かった。
「……注意事項は以上です。はい、在校生は新入生を案内してあげて下さい、解散! 」
担任が言うと、その美少女は優のもとへ近付いてきた。そして優を見てふんわりと微笑む。
「松本 優君? 初めまして、私、鈴木美桜です。入学おめでとう、今日はよろしくね」
と言って手を差し出した。
(ええっと……これは、どういう……)
優の困った表情を読み取り、美桜は優の手をぎゅっと握る。そしてまた微笑んで
「時間が勿体ないわ、行きましょう? 」
と言った。優の心臓がどくんっと鳴る。その音は鳴り止むことは無く、美桜と過ごす間、ずっと止まらなかった。
美桜の動きは無駄がなく、案内もとても上手かった。時々優を見ては、楽しそうに可愛らしく微笑む。
終盤に差し掛かった頃、美桜は体育館横の木陰の芝生に座った。優も促されるまま座る。
「分からないところは、無かった? 疲れてない? スケジュールこなすのに必死で、松本君の事気遣ってあげられなくて、ごめんなさいね」
「あ、いえ、鈴木さんの説明解りやすかったです」
「ふふ、良かったぁ」
美桜はほっとして笑う。
「先輩だからね、分からないこと質問されたらどうしようって、内心ドキドキしてたんだぁ! 」
優桜の飾らない言葉に、優は彼女が同性からも絶大な人気がある事に納得出来た気がした。
(可愛い人だな)
はっとして思わず一人で赤面する。
(可愛いって……俺何を……)
美桜の横顔をぼんやり見ていると、美桜の肩にてんとう虫が止まっているのが見えた。優はそっと美桜の肩に触れた。
「えっ?! 」
驚いた様にこちらを見る美桜。白い頬が赤く染まる。
「うわっ! すみません! あの、こいつが止まってて……」
と言って、焦っててんとう虫を見せようとしたが、案の定、指の先に留まることなく飛び立ってしまった。
「えっ! いや、ちょっと! ホント居たんですよ! 」
その焦る姿を見て。美桜は思わず吹き出し、楽しそうに笑う。
「驚いてごめんなさい。ふふっ、ありがとう」
「僕も、いきなり触ってすみません」
2人で顔を見合わせて笑った。
女の子とこんなに楽しく話したのは、いつぶりだろう?そして、この心臓の鼓動は、一体?
お昼のチャイムが鳴り響く。
『お昼になりました。校内案内は以上を持ちまして終了となります。新入生、在校生は速やかに校舎へお戻りください』
「戻りましょう」
美桜の一つに束ねられた黒髪に日の光が反射して、とても綺麗だった。
教室に戻った優は、クラスメイトからの質問攻め、握手攻めにあって、うんざりした。美桜は優の周りに居ないタイプの女性だった。優の気持ちを考えず、一方的に気持ちを押し付けてくる人ばかりだった。あんな風に俺の事を一番に考えて、楽しませてくれる……あ、俺また美桜さんの事を考えてる……
~閉じ込めたもの~
優は小さな頃から女の子に人気があった。その端正な顔立ちと、他の同世代の男の子に比べおっとりとして優しい性格をしていたせいだろう。
常に女の子が、優の取り合いをする。
「優君は私と結婚するのよねー」
「私よ! 」
「私よっ!優君!どっちが好きなの!! 」
と言った具合に。
優は、優しくて争い事が嫌い。なぜいつも自分の周りは、こんな風にいざこざが起こるのか。嫌だなあ、面倒だなぁ。どっちが好きなのって何だよ。好きでも嫌いでもない、もう本当に嫌だ!女の子なんて、みんな嫌いだ。僕の事好きとか言う女の子は、もう僕の視界に入らない。そうだ! そうしよう。
幼馴染みの涼香や花は、そういう女の子とは違う。いつも楽しく遊んでいるから。好きかと聞かれれば、2人共好きだ。恐らく2人も同じだろう。だけどそれは恋愛のそれでは無い。僕たちは幼馴染みなんだから!
こうして優は、一般的に【硬派】と言われる部類になり、恋愛感情に疎く、好きと言う感覚が欠如してしまったのだ。
~卒業式当日~
「涼香、私今日告白するの」
卒業式から戻った教室は、別れを惜しむクラスメイトの声でざわついている。すすり泣く声や励まし合う声、スマホのシャッター音などが入り混じっていた。
(ああ、ついに……)
いつになく緊張気味の花。
「あの桜の丘に呼び出したの。あそこは思い出がたくさんあるでしょ? だから勇気を貰えそうな気がして」
「桜の、丘……」
「もうさ、今日で最後じゃない?えへへ、ダメ元で。うふふ」
ひっきりなしにしゃべり続ける花。
「ダメだったらラインする、あ、もちろんokの時も連絡するから! 」
そこで話すのを止め、黙り込んでいる涼香の腕にそっと触れる。
(似たような事、前にもあったな……涼香、あなたやっぱり……)
「涼香、ごめん。私自分の事で一杯で……今日は卒業式でみんな寂しい思いをしているのに……」
「あ、ああ、ごめん、考え事してた……そっか、いよいよなんだね」
それから何を話したかなんて、涼香はまったく記憶に無かった。
よりによってあの場所で……思い出の場所? 誰と、誰の? もう私には何も望めないの? もう遠くから優の笑顔を見ることさえ許されないの? やめて、やめて! お願い!!
「私だって好きだったのよ、もう、ずっと前から」
涼香の目から、初めて大粒の涙がこぼれた……
涙が床に落ちたその時、閉じられていた教室中の窓がビリビリと音をたてる。生徒達の悲鳴。そして一斉に激しく開き、突風とともに、おびただしい数の桜の花びらが部屋中に舞い込んだ。それまでの悲鳴が歓声に代わる。
「なにこれ……綺麗」
~桜の記憶~
私は桜の木だった。あの時、子猫を助けに来た優のキラキラと輝く瞳、その名の通りの優しい気持ち、私に触れた暖かな手。私はこの子を愛しく思うようになっていた。来る日も来る日も、優がこの場所に来ることが、密かな楽しみになっていた。でも、いつも夕方になると帰って行ってしまう……
私はいつしか、優と同じになりたいと思うようになっていた。同じように話し、同じものを見て、同じように年を取っていきたい。強く願っていた私は、一つの条件付きで人間の姿で傍に居ることを許された。
もし優が私の気持ちに気づき応えてくれるなら、私は永遠に人間の命を手に入れることが出来る。でももし、他の誰かを選んだ時は、私は桜の木に戻ることも出来ず、花びらとなって散ってしまう。もちろん、誰の記憶からも消されてしまうのだと。
人間の姿になった私は、記憶の操作をし、優の家と親しい市川家にお世話になる事にした。当たり前の様に、両親はその日から私を「涼香」と呼んだ。まるで本当にここで産まれたかの様だった。私は幸せだった。間を空けず、私は優と出会う……初めて会う優は、私にくしゃっと笑いかけ「涼香ちゃん」と呼んでくれた。手をつないで歌も歌った。何気ない毎日が、この上なく楽しく、嬉しかった。いつかこの気持ちに気が付いて、応えてくれると信じて疑わなかった。
「私、優君が好き」
花のこのひと言を聞くまでは。
花はその容姿も可愛らしさもさることながら、性格もとても良い子だった。一人っ子の花にとって、私は姉のような存在になっていたに違いない。
本当は最初から気が付いていた。花の視線、声色、表情さえも、全て優への気持ちに溢れていた。私はそれに気が付かないふりをしていた。怖かったのだ……花の気持ちを認めてしまったら、もう私には密かに優を想うことも許されないと思ったから……なぜって、私は一緒に過ごすうちに、花の事を大切に思うようになっていた。そう、自分の命と同じくらい、いや、それ以上に……
ふふっ……
「なんか、幼稚園の時に聞いた人魚姫の話に似てるな……まりえ先生、あの時私になんて言ってたかな……」
そうだ、"誰かの特別になる"だ……
ふふっ
「誰かの、じゃないんだよな、先生。誰かじゃなくて優君じゃなきゃダメなんだよなぁ……」
今ごろ花はどうしているだろう……優君と上手くいったかなぁ
花なら大丈夫ね、きっと。どっちみち、花の気持ちを聞いた時点で、私が優君の傍に居られる道は残っていなかったもの。仮に花が失恋して優君が私を選んでくれたところで、花を差し置いて付き合うなんて出来っこない。ふふっ……バカだな、私
美羽は私がいなくても大丈夫かしら?跡取りとして……くすっ、あの子センスないから……
涼香は疲れていた。
あてもなく、地上かどこかもわからない所をふらふらと歩いている。雨が、降り始めていた。それは次第に強まり、すぐにどしゃ降りになった。怖いくらい薄暗い空。昼間と言う事を忘れるほどだ。
『ニャー』
いつの間にか足元に猫がすり寄って来ていた。涼香は猫の横に腰かけた。気を抜くと、眠ってしまいそうになる。雨に体温を奪われていく。
猫の頭を愛しそうに撫でながら
「そうだ、これ……猫ちゃんにあげるわ」
ポケットから優に貰ったネックレスを取り出し、猫にかける。大人しくされるがままの猫。
「もしあなたがあの時の助けられた猫ちゃんだったら、あんただけは、私を覚えていてくれない? やっぱり寂しいよ……なんてね」
涼香はゆっくりと目を閉じた。
「ふふ……楽しかった」
涼香の目から、大粒の涙がこぼれた。
涙が地面に落ちた途端、それは一筋のまっすぐな線となり、一瞬の速さで桜の木まで繋がった。桜の木がまぶしい光に包まれ、すぐに元通りの静けさに変わる。それと同時に雨が止み、青空が広がった。嘘のような青空に、くっきりとした虹がかかっている。
桜の花びらについた無数の雨粒に、虹が写っていた。
『ニャー……』
桜の木の枝に、ネックレスが巻き付いた猫がいた。
~1年後、花の告白~
「ここからの眺めは変わらないなぁ~」
桜の丘から街を見下ろし、優は両手を上にあげ大きく伸びをした。春らしくシャツ一枚の襟元を風が吹き抜ける。今日も良く晴れていた。桜は今が見頃で、風が吹くたびにはらはらと花びらが舞う。卒業して一年後、優は妹の結婚式で里帰りをしていた。参列していた花と、桜の丘へ来ていた。
(あれから一年かぁ……)
花は卒業式の後の事を思い出していた。
「さっきの雨、凄かったね」
「そうだな」
気まずい沈黙……緊張のあまり会話が続かない。花は大きく深呼吸した。
「私、優君の事が好き! です……」
思いきって、幼い頃からの想いをやっと告げた。優は驚かなかった。いや、むしろ少し笑っている。
「な、何で笑ってるの!? 」
緊張と恥ずかしさで半泣き状態の花。
「ごめんごめん。いや、花、それさ、俺に気付かれてないと思ってたの? 」
「へ? 」
「笑ったりしてゴメン。花、ありがとう」
真っ直ぐに花を見て、続ける。
「俺は、誰かを好きとか恋愛とか、正直まだ分からないんだ。こんな歳になって可笑しいんだけどさ」
ダメなんだ……涙を流し始める花。
「もし何年か経って、俺がここに戻ってきた時に、花がまだ同じ気持ちでいてくれたら、その時にまた、一から始めよう? 」
そう、あの日、優は誰も選ばなかったのだ。
「あれ? あの猫何か光ってる」
いつの間にか桜の枝に一匹の猫がいた。確かに光っている。優は猫に近付いて抱き抱えた。
「お前、何巻き付けてるんだよ」
優しい笑顔と声で猫に話しかける。光っていたそれは、猫のペンダントがついたネックレスだった。
(あれ……これ、どこかで……)
「あ! このネックレス私も持ってる。ほら、優君がくれた……」
「うん、そうだよな。覚えてる……」
何だろう……記憶の奥底で何かを思いだしかけている。
『ニャー』
猫は優の足に体をこすり付けている。
「優君なつかれてる」
除き込んだ花が笑う。猫はひとしきりじゃれた後、再び木に登って行ってしまった。しばらく考えていた優が口を開く。
「花、俺たちってさ、最初から2人だったのかな」
花は少し考えて、ふっと笑った。
「そうだよ、当たり前じゃない。他に誰がいたのよ、変な優君」
(いや、俺は花と2人きりで遊んだ記憶が、ない)
「そんな事よりもさ、優君。ここで卒業式の後、2人で話したこと覚えてる? 」
「ああ、覚えてる」
上の空でこたえる。
(ちょっと待って……何か大切な事を忘れている)
「いつ戻って来れそう? 」
「花がもう少し大人の女性になった頃かな」
「はぁぁぁ? 何それ! これでも大学では結構モテてるのよ! 」
花の怒った口調で、我にかえる。
「なんだ花、良いヤツいるんじゃん。俺の事なんて忘れて、花の事だけ思ってくれるヤツにしとけ」
「もー! またフラれてるじゃんっ! 私は優君の特別になりたいのっ! 」
花は優を追いかける。幼馴染みから、抜け出せない……
優は思い出していた。
"いつか、必ず誰かの特別になるのよ"
そう言われていたあの子。
しっかり者で、やたら友達思いの……
花と別れて一人で丘に残り、優はまた美桜の事を考えていた。
彼女は元気にしているだろうか。もう、誰かと幸せになっているのだろうか。俺はなぜあの時、彼女の気持ちを受け入れなかったんだろう……おそらくあの日、俺は彼女に恋をした。そして、手放してしまったあの日から、俺はずっと彼女だけを想い続けている……会いたい。
優は満開の桜の樹に触れ、見上げる。
「なぁ、お前なら何か教えてくれるんじゃないのか?」
"涼香"
空は青く、雲一つ無く澄みきっていた。風もなく驚くほど穏やかで、静かな時間。いつの間にか桜の麓で居眠りをしている優。その傍らで、さっきの猫が丸くなっている。
~エピローグ~
美桜は頬を伝う涙で目が覚めた。
大学の課題が終わらず、遅くまで起きていたせいで寝過ごしてしまった様だ。時計の針は11時を指している。
「あれは、私だ……」
私は桜の木だった。優に会いたくて人間の姿を手に入れた。
そうだ……思い出した。でも、じゃあどうして? どうして私は人間の姿でいられているのだろう……あの日、私の気持ちは彼に受け入れられなかった。だとしたら、なぜ? 私はいつか消えるの? 美桜は怖くなった。いても経ってもいられず、急いで身支度をした。私はどこへ行って、どうするつもりなんだろう? それでも、何かをせずにはいられなかった。
美桜は家を飛び出し、桜の丘へ向かった。あそこなら……あの木なら何か教えてくれるはず。だって、あれは私なのだから。丘までの道が、今日ほど遠かった事はない。
美桜は肩で息をしながら、桜の樹にたどり着く。桜の丘は今日も穏やかだった。
(え? 誰か寝てる? )
芝生の上で猫と添い寝をする、見覚えのある茶髪。閉じられたまつ毛、筋のとおった鼻……まさか……
美桜の心臓が高鳴る。美桜はしゃがみ、震える手で顔を確かめようとそっと茶髪をかき揚げる。どうしてここに?
「松本君……」
美桜の声で、優は静かに目を覚ます。
「……えっ!? 美桜さん?? 」
自分を心配そうに見下ろす顔に驚いて飛び起きる。
「どうしてここに? 」
2人の声が重ねる……顔を見合わせて吹き出していた。
「って言うか美桜さん、何で泣いてるの」
泣き顔の美桜を見て、心配そうに聞く。
「あ……夢を見て……長い……」
優は微笑みながら美桜の頬に手を添えて、涙を拭う。
「美桜さん……本物だ……」
「ね、寝惚けてるの? かな? 」
美桜は、優の3年前とは比べ物にならない程大人の仕草に戸惑っていた。
「俺、ずっと美桜さんに会いたかった」
切ない表情でそう伝えると、一呼吸おいて続けた。
「……あなたが好きだ」
思いがけない言葉に、美桜は目を丸くした。
(聞き間違い? 今、何て? )
「あっいきなりすみません……でも、聞いて。俺はあの日からずっと、あなたの事ばかり考えている。いや、違う……」
少し考えて、小さく息を吐く。
「あの日、あなたに学校を案内してもらった時、既に俺は、あなたを好きになっていたんだ」
「松……」
胸の高鳴りがおさまらない。おさまらないどころか、さらに加速する。優は立ち上がり、美桜の手を引き、立たせる。
「目を、つぶって? 」
「え……」
美桜は暗示にかかったように動けなかった。少しの間ためらいがちにうつ向いたが、おずおずと顔をあげる。そして優を見つめ返し、ゆっくりと目を閉じる。
「美桜……好きだ……」
優しく名前を囁いて、優は唇を重ねる。あの日と変わらない華奢な体を強く抱き締める。懐かしい美桜の甘い香り。ただあの日とは違い、深くて長いキスをした。角度を変える度、微かに漏れる彼女の甘い吐息が優の耳にも届いていたが、優は止めようとしなかった。時々彼女が離れようとするのを、優は何度も引き寄せた。
しばらくして優は美桜を抱く腕を緩めた。彼女は小さく肩で息をして、ようやく自由になった唇を手で覆う。
「ごめん」
彼女の気持ちを探るように、遠慮がちに顔を除き込む。美桜は恥ずかしすぎて優を見られなかった。
「……大丈夫? ごめん……会ってすぐなのに……」
美桜はうつ向いて黙ったまま、首を横に振った。
「あの時と同じ気持ちで居てくれてると、思ってるんだけど? 」
「松本君……なんか……こんな雰囲気だったかなって……あの…何か大人っぽくなってて、恥ずかしい……」
「美桜に、だけだよ」
美桜の唇を指でなぞる。
美桜は恥ずかしさのあまり、頬を染めてまたうつ向く。そうしないと、どうにかなってしまいそうだった。優は長い指で美桜の滑らかな黒髪を耳にかけ、その指で顎をそっと持ち上げた。美桜は驚いて優を見つめる。
「……好きだ……」
そう言ってもう一度ゆっくりとキスをする。美桜の閉じられた両目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「意外と泣き虫なんだな」
優は困ったように、彼女を抱き締め頭を撫でる。
「泣くのは良いんだけど、俺の前だけにして」
泣いて真っ赤になった大きな目で優を見上げる美桜は、まるで幼い子供の様に愛らしかった。優は視線を外し一度ため息をつく。
「あの、さ……もう限界っ……可愛いんだよ!! 泣き顔も、何もかも全部! 俺以外のヤツに見せたくないから! 」
優は真っ赤になって下を向いた。
「……俺の事、どう思ってるの? 」
うつ向いたままそう問いかけるのは、3年前の優だった。
「私も、松本君の事ばかり考えてた……松本君の事が、今も大好き」
言い終わると同時に、優は美桜を抱き締める。
「やっと、つかまえた。もう絶対手放したくない」
折れそうな位強く抱き締める。2人はもう一度、甘くとろけるようなキスをした。お互いの気持ちを確かめ合ったその時、急に強く風が吹いた。それは2人の火照った頬には心地好いものだった。
『私はここで これからも ずっと……』
お互いにその声をはっきりと認識していたが、あえて2人は何も言わない。声の主には見当がついている。風に舞った花びらが、太陽の光と共に2人の上に降り注ぐ。お互いの花びらを払い合い、意味ありげに見つめあい、そして笑い合う。
優はあの日、誰も……ただ、誰も選ばなかった。
桜の木の下で、2人は寄り添い座っていた。会えなかった時間を埋める様に。時折緩やかな風とともに、はらはらと花びらが降り注ぐ……
-完-
ありがとうございました!