03
「友利さんとそこの方、ここは図書室ですよ」
司書の山内さんの、地を這うように低い声が、私と彼の会話を止めた。
「す、すみません!」
私は咄嗟に謝って、貸出手続を行う。
カウンターの向こうの彼は、ひとこと謝って、山内さんに頭を下げている。申し訳なさで一杯だ。
しかしそれが功を奏したのか、山内さんも図書館ではお静かに、と言っただけで後ろに下がってくれた。
彼に一言謝り、貸出期間を告げて、本を渡す。
「ありがとうございます」
彼は山内さんがいるであろう方向を見て、すこし怯えたような顔をしてそそくさと行ってしまった。
***
図書館を後にして、アパートに帰ろうとしたところ、十分ほど前に、教授から一枚の画像と共にメッセージが届いていたことに気付いた。
『八角くん、研究室に財布忘れていましたよ、それともしかしたら例のインクで図形を書いた紙が返却を頼んだ本に紛れていたかもしれません、回収しといてください』
画像には、研究室の机の上に置いてある、黒い折り畳みの財布が写っていた。
財布は取りに行けばいいとして、あの紙が本に紛れていたとは。回収しなきゃなあ。
僕は図書館に急いで戻ることにした。
「え、さっき返却した本ですか? いいですよ、まだ書庫に戻す前だったので。少々お待ちください」
友利さんはカウンターの奥へ向かう。
「お待たせしました。これでいいんですよね?」
そう言って、彼女は僕の前に本を五冊置いた。
「ありがとうございます」
僕はお礼を言って本を手に取り、紙が挟まっていないかパラパラとページをめくる。
例の紙は三冊目の、液体について扱った材料工学の本で見つかった。半分に折られたコピー用紙を開くと円がひとつ描かれていた。その円は時折楕円になったりしていた。これで安心だ。
「ありましたか?」
「ええ、おかげさまで。ありがとうございます」
僕は彼女にお礼を言う。
「それはよかったです」
そう言って、彼女は先程の本を抱えて書庫へ向かった。
「あ、あの」
気が付いたら僕はそんな彼女を呼び止めていた。
「なんでしょう?」
彼女はいつもの眠たげな表情ではなく、少し目を丸くしていた。なんで僕は呼び止めているんだ。しかしここで「やっぱなんでもない」というのも憚られる。いっそのこと連絡先でも聞いてしまおうか。もう自棄だ。僕はさっきの格闘家のような風貌の山内さんが近くにいないことを確認して、ない勇気を振り絞った。
「もしよろしければ――」
***
「連絡先を教えていただけませんか?」
先程、私と一緒に山内さんに注意された彼が、私を呼び止めたと思ったらいきなり連絡先を尋ねてきた。私が驚きのあまり何も言えないでいると、彼はあたふたしながら、たどたどしく言葉を続けた。
「や、その、あなたのことは前々からここで対応とかしてもらっていて、覚えていないと思うのですが……いや、それで一度お話してみたいなと思っていまして。それでさっき話したときに、もう少しお話したいなと思って。で、その迷惑でなければの話なんですが……」
そんな彼のたどたどしさに、思わず笑ってしまった。それを見た彼の顔は少し青ざめている。私はあわてて表情を元に戻した。
これは真面目に考えなきゃ失礼だよね。普段私に声を掛けてくるのは森くんくらいだ。しかも彼みたいに軽薄な感じはしない、むしろなんで連絡先を尋ねてきたのか疑問に思えるくらい朴訥とした雰囲気だ。私はまあ、なんというか、すぐに「そういうこと」をしたがるようなタイプではないだろうとは思った。
私はさっきからずっと抱えていた本をカウンターに置いて、メモ帳から一枚取って、名前と連絡先を書く。
「すみませんが、名前を教えてください」
すると彼は、自分が名乗ってなかったことに気付いて、慌てた様子で名乗った。
「八角計です、八つの角に計算の計で」
「珍しい苗字ですね、あとこれ。どうぞ」
私はさっき書いた連絡先を渡す。
「私は友利翼です。よろしくお願いします、八角さ――」
そう言いかけたところで、いつの間にか近くにいた山内さんが、咳払いをした。