01
ビーカーの中は、黒いインクで満たされている。
白衣を身に纏った尾形教授は、一枚のコピー用紙を取り出し、漫画家が使うようなつけペンにインクを染み込ませて、コピー用紙に円と四角を描いた。
するとどうだろうか。円は楕円状になったかと思えば、もはや円とは呼べない図形になり、四角は角が丸まり円になった。
「よし、成功ですね」
いつも不安そうにしている彼女はひとこと言って、微笑んだ。
それを見た周りの研究者や院生たちは、ハイタッチしたり、ガッツポーズをしたり、思い思いの喜びを表現していた。
これは歴史を変えるかもしれない。僕はそう思っていた。
***
暗い教室の壇上に、白髪頭の老教授の声が響く。
「有史以前、文字は自然の一部として、世界に息づいていたといいます。そしてそれは猿とも人ともつかない生き物が、木の枝を拾って、それを道具として使い始めたように、あるいは火で夜を照らしたように、いつからか人は文字を使役するようになったそうです」
壇上の教授は生徒に配ったレジュメの書き言葉の序文を、話し言葉で読み上げる。
「では、それまで人はなにを用いて記録していたか。という問題になりますね? その答えはいくつかありますが、文字の祖としては数万年前に登場したピクトグラフィーが解りやすいですかね。つまるところ絵文字です」
スライドに画像が映し出される。そこには三角やら丸やらの図形が組み合わさっているが、正直、なにがなんだかわからない。
「紀元前四〇世紀ごろ、ユーフラテス川下流のウルクにおいて、粘土板に刻まれた絵文字はそのまま描かれた対象を意味し、それから発音が与えられたようです」
スライドは地図に切り替わっていて、ウルクと書かれているあたりをレーザーポインターで指し示す。
「わかりやすく説明するならば、絵文字Aが足を表し、やがて絵文字Aに足を意味する音が与えられたといった感じですかね」
ふと隣に視線を飛ばすと、友人が舟を漕いでいる。耳をすませば、あちらこちらから寝息が聞こえる。気がする。
しかしそんな事は意に介さずに、教授は話を続ける。
「それが当時すでに複雑に発展していた商業の計算に用いられ、やがて絵文字は一五〇〇以上となり、当時のシュメール語に対応していきました。しかし絵文字には問題点がありました。それは時折、それらが勝手に動き出すことです。その絵文字が粘土板の中を歩き回るのは可愛いもので、ジャッカルやハイエナの絵文字が、ガゼルやウサギの絵文字を襲って捕食してしまうといった記録もあります」
私は粘土板の中の肉食獣が、ウサギに噛み付く様子を想像しようとしたが、できなかった。
「では、当時のウルクの人々はどう対処したかというと、絵文字を簡略化し、それらに直接、音を与えました。つまり絵文字Aが足を表す過程を省きました。それが功を奏したのか、絵文字は勝手に動き出さなくなりました。これが記録に残る最初の文字の使役です。ここから、人と文字の歴史は始まったと言っていいでしょう」
レジュメを見ると教授が話したところで、丁度文章は終わっていた。
暗幕が開いて、教室の照明が点けられた。今日はここまで、と教授は講義を切り上げた。
木曜日の四限、文字の歴史を取り扱った講義、面白そうだなあと思って履修したはいいものの、聞きなれない単語ばかりでよくわからない。ユーフラテス川ってどこよ、ウルクってどこなのよ。
「おつかれ、友利さん。このあとお茶でもどう?」
そんなことを思っていたら、近くに座っていたらしい、同じゼミの森くんが声を掛けてきた。私に気があるのか知らないけれど、最近やたらと声を掛けてくる。
「ごめんね、森くん。これから図書館行かなきゃだから」
私はやんわり断りを入れる。
「図書館?本借りるなら待つし、なんなら一緒に――」
ああ、もう。森くんしつこい。
私は人の良さそうな笑顔を浮かべてトドメを刺す。
「司書課程の授業で実習なの。ごめんなさいね」
「そっか、ごめんね……じゃあまた来週!」
来週? また誘う気かこいつは? そう考えると思わずため息が出た。