輸血C型肝炎患者 ガンに死す若き記者の半世紀
輸血C型肝炎患者
ガンに死す若き記者の半生記
一
「俺も三十八か。早く家庭を持たないと」
彼には二年ほど付き合っている女性がいるのである。女性は今年二十五歳の同僚で政治部の所属である。彼は彼女と結婚出来ればと思ってはいるけど、歳の差を考えると中々言い出せ無い。彼女に会うと妙に緊張して口ごもったり、その反動から彼女に馴れ馴れしく成ったりする。会っていると恋人と云うより妹の様な感覚に成る。彼女も色々頼っては来るが、それは彼を兄の積もりなのではないかと彼は考える。
「明日の日曜に彼女に会うからそれとなく打診してみようか」デート場所の上野駅公園口に、約束の時間の三十分前の九時半に着く。彼女は十時ジャストにエメラルドグリーンのセーターにピンクのスカートと云う出で立ちで登場。
「何時もと違い随分シックな洋服ですね、お上品に見えて素晴らしいですよ」
例によって口ごもりながらも彼が一生懸命褒めそやす。
「あら普段はお上品ではないと云う事ですね」
不味い事を言ってしまったと思っても後の祭りである。
「噸でも無い。何時もお上品だけど今日は一段とお上品と言う事ですよ」彼は弁解に必死である。
「あまりいじめちゃ可哀想だから止めとくは」彼女はクスクス笑っている。
「左の都立東京文化会館は右の国立西洋美術館ル・コルビュジエの弟子の前川国男さんですよね。師弟が設計した素晴らしい建物が向き合って建っていると云うのは珍しいんじゃないですか。建築主は知っていたんでしょうか」彼は得意げに話す。
「両方の建築主とも知っていたでしょう、粋な計らいですね。両方共コンクリートむき出しの処があって、似る部分もありますね」
彼女が話すと、更に続けて、
「じゃ先生の方を見ましよう」彼女は話終えるとさっさと歩き出す。
二人は国立西洋美術館の常設展松方コレクションを見る事に。四、五十分館内の絵を観て回った後、公園のベンチに座り話始める。
「杉田さんは何か気にいった絵はありましたか」彼の問い掛けに沈黙の侭である。
「私はルーベンス、クルーべ、ルノアールが良かったですね。クルーベは陰影の強い絵でジプシー女の心情を見透かした様な絵ですね。ルーベンスはなんと云っても女性の豊満な肉体ですね。ルノアールも同じで衣装は身に付けていますが、矢張り豊満な肉体ですね。しかし尤も素晴らしいのはロダンの彫刻ですね」
彼があまり女性の豊満な肉体という言葉を繰り返す事に彼女は不快感を覚える。彼も不味い事を言ってしまったと後悔する。
「食事をしましょうか」彼女を誘って忍ばずの池の湖畔にある東天紅に入る。メニューを見て彼は個別の料理を注文したいと思うが、結局彼女の好むコースを注文し合わせて生ビールを二本注文する。
食事も進む内、彼は意を決する。
「杉田さん私と結婚してくれませんか」平身低頭彼女に頭を下げる。突然の事で困惑ぎみながら気を取り直し、
「少し考える時間を頂けますか」と話す彼女。
「ゆっくり考えて下さい」
話終わると彼は気持ち悪くなりトイレに駆け込む。トイレで履くとその中に可成りの血が混じっている。彼は自分の体が尋常成らざる事に成っている事に気づく。元の席に戻ると、
「杉田さん申し訳無いのですが、さっきの話は無い事にして下さい。体調が尋常では無い様です。本当に申し訳御座いません」
突然の唐突な彼の申し出に戸惑いながらも、言う通りに従う彼女。二人共早々に食事を中止し分かれる。
二
毎朝新聞記者大山秀夫は、若い時から体が弱かった。大学1年の19歳の時に肺結核になり、翌年1955年に肺切除の手術をした。この時、輸血1600CCをし、三週間後に黄疸になった。黄疸は一週間程で直ったと思っていた。これが後に彼の体を蝕む事に未だ気が付かない。
1960年3月大学を2年遅れで卒業し、毎朝新聞に入社した。翌年1961年から編集局社会部に配属となるのである。最初に担当したのは血液銀行の実態でした。当時輸血用の保存血液は、認可を受けた血液銀行と呼ばれる処だけが、血液の採取、販売を出来たのである。
彼は担当部署トップであるデスクの部下として、デスクの手足となって動いたのである。彼は最初のうちは血液銀行に別段の関心も持たなかった。ある日、彼は東京都内の某研究所が、その敷地内に運営する、血液銀行に行って愕然とするのである。
血液銀行そのものは、他の血液銀行と差ほど変わらない。驚いたのはその環境である。塀に囲まれた血液銀行の前は道路である。その道路に沿って、平屋が長く続いている。その長屋は、東京の山谷地区を思わせるドヤ街である。血液銀行の出入り口は長屋の目の前である。その血液銀行の出入り口の最も近くの長屋近辺には7~8人の人が屯している。付近の道路は一部ションベンの臭いが漂っている。ちり紙、吸いかけのタバコが散乱している。屯している7~8人もほとんどが薄汚れた衣服を着ている。体つきは痩せた人、太った人等色々である。只し、共通しているのは顔色の悪さである。人から赤みをとって、青白さだけの様な顔色である。驚くのは、夢遊病者の様な足下が、覚束ない人がいることである。恐らく売血が生活の重要な手段なのであろう。中にはヒロポン中毒患者を思わせる人もいる。
彼は社に戻ると、デスクに開口一番「イヤー、すげえよ、すげえ」回りも、何のことか分からず、一瞬呆気に取られる。
「輸血の血っていうのは、売血っていうのは分かっているけれど、血を売る人の事までは、知らなかったよ。健康な人なんていない、みんな病人ばかりだよ」更に彼は続ける。
「俺の体の中に、こんなひどい血が流れているんだと思うと、いやになっちゃうよ」まくし立てる彼に、回りの連中も徐々に分かり懸けて来る。
「君は輸血の経験があるのか」デスクが聞いて来る。
「六年前、肺結核の肺切除手術をしたんですよ。その際に、1600CCを輸血したんです。何で1600CCも輸血したのか不思議に思うでしょ。肺臟には沢山の毛細血管があって、肺切除手術の後、出血が三日位続くんです。出血した血を体外に吸引すると同時に、輸血をするんですよ」
「そうか」回りの連中も感心しながら聞き入る。
「輸血の血が必要なのは分かるけどさ。売血の人の体に、もっと注意せんとね」更に続る。
「驚くのはね。ふらふらして足下が、覚束ないのもいるんですよ」
「キャンペーンは売血と血液銀行の実態、これで行こう。売血は3人に焦点を当てよう。一人は日雇い。二人目はヒロポン中毒者。三人目は体の弱そうなサラリーマン」デスクの声が鳴り響く。
そして3日後にキャンペーンを始めた。売血の実態を取り上げた、日本初のキャンペーンであった。通常手術の際の輸血は、出血で不足した血液を保存血液の輸血で補うものですが、保存血液はその98%弱が売血で、輸血した血液は売血の保存血液でした。扱うものが人間の血液という本来商売の道具にすべきものではないものであり、当然企業倫理が存在してしかるべきものであります。民間の企業である以上或程度利益を優先するのは当然としても、民間の血液銀行は利益を優先する余り、形振り構わず採血する様になり、無軌道な商売の道具として血液が売買されて行くようになったのであります。売血者はドヤ街に住む定職のない者も多く売血を繰返し、中にはアル中やヒロポン(当時の覚醒剤)中毒者もいたのであります。キャンペーンの主体は売血者と血液銀行の実態でした。一回、二回目は血液銀行の実態。売血はデスクの言う通り3人に焦点を当てます、一人は日雇い。二人目はヒロポン中毒者。三人目は体の弱そうなサラリーマンとこれもデスクの指示通り。キャンペーンは五回である。三回目は日雇い。四回目はヒロポン中毒者。五回目は体の弱そうなサラリーマン。初めての事もあり、キャンペーン記事は大きな反響を呼ぶ。輸血をしたくないと言う人も出る程である。
三
彼が新聞社に勤めた昭和30年代は、朝鮮戦争以来続いた長期に亘好景気も昭和30年代半ばにピークを打つ。その後不景気が日本全体を覆い、政府はその打開の為大きな国家プロジェクト工事に入る。一つは新幹線であり、もう一つは高速道路である。オリンピックの諸種の競技場の建設も同じように次々に入っており、オリンピックが近づくに連れ工事は竣工へと導かれる。彼はデスクに自身の考えを話す。
「新幹線はすばらしい。高速道路は日本橋の上を見上げると大蛇がうねっている様で気持ち悪いですよ」
「大蛇かよ。良いよ、それを記事にすれば」デスクは彼が感じる直感を勝っているのである。
彼は記事において新幹線についてはスピードと乗り心地の良さを絶賛した。それと同時にスピードにはリスクも伴う事。その上で安全には十分過ぎる事は無い、スピードを追求すると同時に、いやそれ以上に安全にも手を緩めない様に警告の内容である。一部の高速道路に付いては土地の賠償費用の掛からない水路の上を利用している事に付いて、費用の面で或程度やむを得ない点は有るにしても回りの景観をもう少し配慮すべきである。として日本橋の高速道路を取り上げる。
四
2度目の売血キャンペーンは2年後に行われた。今回は輸血を受ける側、病院の様子である。
「これは俺向きキャンペーンだな。俺は詳しいからな。輸血をすると三週間でゲエゲエだからな。吐くんだ、吐くの」彼は得意げに同僚に話す。
「何で吐くんだよ」同僚が問いただす。
「輸血の血で黄疸になるんだよ」彼が答える。
彼は水を得た魚の様に、取材と記事にと達筆をふるう。記事を覗いて見よう。
「劣悪の環境下で採血された売血による保存血液は、当然劣悪な輸血血液用として患者に提供され、黄疸の血清肝炎になり、血清肝炎は発症率50%と云う異常な状態であります。 (血清肝炎はその後、輸血後肝炎とし厚生省も追認しました。但しこれは後の事です)。提供された患者の2人に1人が激しい吐き気と怠さを伴う黄疸の血清肝炎になるのであります。昭和24年から実施された売血による保存血液は、医療技術の進歩により大量の肺結核患者の手術の為、昭和30年代になると輸血血液量が急増します。例えば或人を例にとると、最近左肺上葉切除を行いました。その際の総輸血量は1600CCで内訳は手術の際は800CCで残りは800CCです。残りと云うのは縫い合わせの出来ない細い血管(毛細血管)の多い肺は手術後も3日間位出血を続けます(肺から直接パイプで外部に出します)。手術後の出血を補う為に補充した血液量が800CCでしたと云う事です。総輸血量1600CCと云うのは肺手術としては特に多い量ではありませんが一般外科手術と比較すれば、大量の輸血と云う事になります。輸血した血液は全て保存血液であり、当然売血であったと云う事になります。そして1ヶ月程で定石通り血清肝炎になるのであります。この様に輸血血液量の急増に伴う売血者の増加に歩調を合わせる様に血清肝炎患者は増大するのであります。病気を治す目的で手術した患者は輸血後1ヶ月程で又別の病気になる。それも大量の病人であります。抑も売血制度と云うのは、国の方針に基づいて行われた事であります。国の方針に基づいて行われた以上、患者に提供された血液が安全かどうか当然把握する義務がある筈であります。先程の人が肺の手術をした最近では、病院では血清肝炎患者が大量に発生するという異常事態が延々と続いているのであります」
彼はこの様に売血からなる保存血液を輸血用血液として使用する病院の実態を赤裸々に報道するのである。2度目の売血キャンペーンは最初の売血キャンペーンを上回る大きな反響を呼ぶ事になる。
昭和39年10月10日、戦後最大の国家プロジェクトの東京オリンピックが開催される。彼は偶然開会式前日に入場券を入手する。入場券を所有している親戚の者が急用で急遽行けなくなり、彼が入場券を譲ってもらったのである。彼はデスクに頼んで急遽休ませて貰う。翌日デスクに礼を言うと、
「勿論仕事で行ったんだから何か書いてくれるんだろう」デスクは笑いながら茶かしている。
「素晴らしい。素晴らしいんだけど何か物足りない」彼は更に続ける。
「まるで時計の針の様に正確に進行する。言葉に成らない程素晴らしい。物足りない原因は遊びが足りない事だと思う。遊びが無いと窮屈に成る。これは私だけの一人よがりな見方かもしれませんが」
「夕刊記事でも新聞全部が絶賛している。君の様な記事も必要だからそれを記事にすれば良いよ」今回もデスクが背中を押してくれる。
五
3度目の売血キャンペーンは売血に変わる方法を検討していた。その最中とんでもない事件が起こった。
1964年(昭和39年)3月、本人が日本生まれの日本育ち、しかも夫人が日本人と云う大の親日家で学者のライシャワー米国駐日大使が大使館前で精神病患者に右大腿部を切られるという事件がおこりました。
「ライシャワー大使の傷は予想外に大きいみたいですよ」
三週間後、彼はデスクに話した。
「輸血した可能性があるということか」デスクが彼に聞いた。
「売血を止め、代わりに献血を、これでキャンペーンをやろう」デスクは大声で叫んだ。
二日後にキャンペーンは始まる。キャンペーンが始まって五日目にライシャワー大使の病状の発表が行われる。事件の際の輸血が原因で血清肝炎になったという内容です。
「ライシャワー大使の回復を祈りましょう。キャンペーンの最中の発表です。これは凄い事です。売血の実態、それに変わるのは献血だけ。これを世界に発信しよう」タイミングの良い時に政府の発表にデスクの声も弾んでいる。
輸血血液用の常習売血者から採血された血液は過度な売血の為、赤血球が少なく血液比重が不足していた為、血漿の黄色い部分が特に目立ち黄色く見えた事と黄疸の血が黄色い事から"黄色い血"という言葉で、過度の採血から貧血に陥り死亡していく売血者と、その血液による輸血で血清肝炎にかかる患者の実体が、毎朝新聞のキャンペーン記事は国内外を問わず世界的に報道される結果となったのであります。
この事件と報道がきっかけとなって、提供者のモラルが期待出来る献血制度へと血液行政は大きく蛇を切る事になりました。ライシャワー事件から5ヶ月後に政府は血液事業正常化の為、閣議である重要な決定を行います。この政府決定により急速に売血から献血への転換が行われます。1964年8月21日政府は血液事業正常化の為、次の様な閣議決定を行いました。
献血の推進について政府は、血液事業の現状にかんがみ、可及的速やかに保存血液を献血により確保する体制を確立するため、国及び地方公共団体による献血思想の普及と献血の組織化を図るとともに、日本赤十字社または地方公共団体による献血受け入れ体制の整備を推進するものとする。
閣議決定以後、献血は急速且つ確実に推進され、献血による血液確保体制が確立される事となります。
「やったな、祝杯を挙げよう。我々のキャンペーンが実を結んだんだ」デスクは叫んだ。
閣議決定から2年半後に売血から献血に移行し、5年後の1969年には売血は終息しています。
六
1968年は学園紛争の多い年となり、二年後の1970は米軍カンボジャ侵攻、三島自殺等重大な事が色々あって、彼も動きまくり書きまくる。しかしなんといっても万博、大阪万博である。
「一言で云えば面白い、楽しい。科学と技術のオンパレード、但し科学と云っても全然難しくない。私の様な理科の苦手の人間でも簡単に理解出来る。オリンピックには多少堅苦しさもあるけど、万博にはそれは無い。色んなパビリオンを見て、時々レストランに行っては生ビールを飲むのは楽しいよ、面白いよ。
岡本太郎の絵は良く分からないんだよな。太陽の塔も何か異様な創造物と云った感じがするね。但し広い会場には、不思議にマッチするのかなと云う気もする。万博と云うイベントは楽しい娯楽施設の様な処がある。太陽の塔は漫画チックな処があるのでネーミングが合うのかも知れないね。色々見て回ったけれど、俺にとって一番面白かったのは、オランダ館とイサム野口の彫刻かな。どこの館もやたらに大画面のスクリーンが多すぎるよ。様は馬鹿でかい物が多すぎるよ。そんな中でオランダ館は一味違うんだよな。小さい画面が沢山あって、一階二階三階それぞれから見る事が出来る。一階二階三階から見る物は、それぞれ違った印象を与えるんだ。大きいスクリーンの多い館の中で、一際ユニークで面白いと思ったよ。オランダは小さい国だけど利口な国だと思ったよ。イサム野口の彫刻の中で、人工の滝の様な彫刻があるんだ。バックがコンクリートで、水が上から下に叩きつけるんだ。俺は彫刻には興味がないけど、この人工の滝はすばらしいよ。自然の大きな滝を彫刻という小さな創造の形に造り換える、そんな印象を持ったよ。そういうイサム野口の彫刻はすばらしいと思う。俺は仕事で来ているんだけど、仕事抜きで来たら楽しいだろうな。レストランで飲んだ生ビールの上手かった事。俺に家族はないけど、家族で来たら楽しいだろうなって思うよ」
彼は大阪万博の大雑把な印象を捲し立てる。
「万博は、人類の進歩と調和がテーマだろう。進歩は分かるが調和は難しいな。偏らない調和のとれた進歩と云う事か。そう言う意味では大山君のスクリーンの話は正に調和だよな」デスクが彼を持ち上げる。更に話を続ける。
「調和というのは要するにバランスの事だよな。新しい事にばかり目を取られと、どうしても偏る。偏らないバランスのとれた進歩と発展」一旦話終えた後再び話始める。
「万博の様な大きなイベントは大山君の話の様に楽しむ事も大事かもよ。仕事、仕事と窮屈に考えるより、半分は楽しむ姿勢の方が良いと思うよ」
デスクの話に同僚も頷きながら同意する。彼、大山が意を強くしてデスクに話す。
「デスク早速スクリーンの話を記事にして良いですね」
「もちろんだよ。万博の場合大事な事は感動する事だよ。感動を大事にしてそれを記事にすれば良い記事が出来ると思うよ」
デスクの話は説得力が有り同僚達も納得する。
「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、日本においては1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業や専門家が映像・音響などの制作に起用され大阪市などでは万博開催へ、道路や鉄道・地下鉄建設など大規模開発が進められ整備がなされた。日本館、アポロ12号[2]が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館やソ連館などの、人気パビリオンでは数時間待ちの行列ができるなどして大変混雑した。
七
1973年4月彼は社会部のデスク補佐に成る。デスク補佐に成ると同時に時々コラムも担当する。その最初のコラム。
「生産者は物を作り売る事で利益を得る。勿論生産者は製造会社の場合もある。売るものが物では無く知恵で有ったり労力であったりもする。いずれにしろ金額に見合う価値に対して買い手はお金を払う。売り手と買い手に自然の流れがある。この流れが不自然に感じられる事がある。少し前に家庭で使うトイレットペーパーが不足しました。家庭の主婦がトイレットペーパーを求める為、スーパーは勿論あらゆる雑貨の店頭から、トイレットペーパーは消えてしまう。主婦はトイレットペーパーを求め、血眼で奔走する。見つけ次第ケース単位で買う。その結果、品物が欠乏し価格は高騰しました。現在はプラスチック類が不足している。プラスチックは繊維からポリ袋に至るまで、多岐に亘って家庭に浸透しています。仮に企業が買い占めや出し惜しみによって品不足がおきているのであれはその企業は必ずや痛い思いをする事になろう。企業が利潤を求めるのは当然である。但しそれには企業倫理なり道義に反するものであっては成らない。分かり安く言えば企業は法令遵守しなければ成らない」
最初で最後のコラムとなる渾身のコラムは、大きな反響を呼ぶ。
八
(冒頭の)彼女のデートで吐血した翌日、彼は都立病院の人間ドックで診て貰う。その結果肝臓ガンと診断され、直ぐ入院と云う事に。彼の病室のベットの横に手作りの掛け軸が掛けてある。手作りだけにお世辞にも立派とは言えない物の、書かれている物は中々である。達筆な筆で力強く正義感の三文字が書かれている。正義感とは、ひたすら仕事に真摯に取り組んで来た彼にふさわしい文字である。
彼は検査前にどのような病気であれ、結果に対しては正直に話しをしてくれる様に頼む。担当医が来て彼に話しをする。
「貴方は肝臓ガンです」気の毒そうに静かに話す医師と、驚愕の彼。
彼の血清肝炎(後に輸血後肝炎に改称)は実は大部分ウィルスによるC型肝炎で、C型肝炎という病気はウィルスが1988年にアメリカで発見された未だ比較的新しい病気です。後に慢性化し、慢性C型肝炎は20年~30年で約半数が肝硬変へと進展し、肝硬変はその後10年位で肝癌を発症します。肝癌患者の70~80%が慢性C型肝炎患者から進展した肝硬変からと言われております。これらの事が解明されるのは1988年以後の事であり、1973年当時は未だ解明されなかったのであります。彼の場合1955年に肺切除の手術をしました。この時、輸血1600CCをし、当時の輸血血液は売血で三週間後に黄疸になりました。その後黄疸は輸血後肝炎となり輸血後肝炎はC型肝炎で後に慢性化し、慢性C型肝炎がその後肝硬変更に肝癌に進行したのです。1973年当時肝癌は発見出来ても、肝癌の原因や売血輸血血液の輸血から肝癌の発病迄の過程なり関連は未だ分からなかったと云う事です。
彼が医師に尋ねる。
「ガンは軽いのですか重いのですか。治療はあるんですかないんですか」
「重いです。治療は放射線ですが」
「放射線で直るんですか直らないんですか」
「直るのは無理ですが多少の延命効果はあると思います」
「延命効果はどれ位ですか」
「数ヶ月」
「放射線治療を遣らなければ寿命は後どれ位ですか」
「申し上げ難いですが半年位」
彼は医師の話に肩を落とし落ちる涙を必死に堪える。
「俺は三十八歳で人生を終わるのか。人生を終えるのならもっと遊んでおけば良かったな。いや遊ぶのより結婚をしたかったよな。結婚もしてない、家族の暖かさも経験しないで人生を終了するのか。いや結婚して妻がいたり、家族がいたりしたら死んでも死に切れないな。独身で良かったのかも」
彼は最初堪えていたが、ショックに切なさも加わり涙が頬を伝わっていくのを留めようが無かった。
「俺の両親は亡くなっていないし、一人っ子だから兄弟も無い。この点は僅かだが救いかな」
彼の両親は晩婚で父親は四十五歳、母親は三十八歳で結婚し二年後に彼を出産する。母親はその五年後に結婚前の小学校の教師に復職の帰りに、信号無視の酔っぱらい運転に引かれ不慮の死をとげる。彼が正義に拘るのは母親の死の影響かも知れない。その後父親は再婚せず男手一つで彼を育てる。その父親も彼が新聞社に就職した年に、病床の中で親の責任を果たせた事に満足する様に亡くなっている。享年七十一歳である。
彼は定年退職し同じ癌に成ったとはいえ七十一歳で人生を全うした父親には遠く及ばず、四十五歳で不慮の死を遂げた母親にも及ばないことに無念さと堪えきれない悲しみに打ちのめされる。それでも彼は悲しみの淵から少しずつ光明を見いだそうと必死にもがき始める。今後の治療に思いを馳せる。
「俺は絶対放射線治療はしないぞ」
彼はある決意を固める。放射線治療はしないと云う決意である。彼の父親も肺ガンになり、放射線治療を受けるもその苦しみを間の当たりに観ているからである。
「二ヶ月か三ヶ月の延命の為にあんな苦しみを味わう位なら治療しないで楽に死ぬ方がよい」
二ヶ月程すると彼はげっそりとやせ細る。彼自身死が近づいている事を悟っている様である。そんなある日、社のデスクと新入社員が見舞いに来る。デスクも彼のあまりの痩せ方に驚くものの表には出さず、
「元気そうじゃないですか」デスクを観て半身起きあがろうとする彼を軽く押さえて、
「無理しない方が良いですよ。大山君に新入社員を紹介したくて連れて来たんだよ」
「新入社員の岩田です。よろしくお願いします」
新入社員の岩田がふとベットの横の壁に掛けてある掛け軸の「正義感」の文字を見て、デスクに耳打ちする。
「正義感なんて今時古いですよね」デスクは慌てて目配せと、かすかに首を横に振るも時既に遅く、これが大山の耳に入ると彼は半身を起こし、
「おい若いの。新聞の目的は何だ。真実を報道する事だろう。しかし真実を見つけるのは簡単じゃ無いぞ。真実はどうやって見分けるんだ。真実とそうでないのとの違いを。正義感と云う眼鏡を通して初めて真実が見えるんじゃないのか。それに記事を報道する際に記事を書く記者も人間だから、間違いそうになったりぶれたりする事はある。その時正義に基づくか正義に確信のある記事を書けば、絶対に間違った報道にはならない。正義感は真実を見る、書く、の両面で記者を支えるんだよ。正義感はかくも重要なんだよ。正義感を持ちなさい、正義感を」
年寄りが子供を説得する様に、ベテラン記者の新人記者への話は終了する。話終えるとぐったりとベットに横になる。
翌日出社のデスクに編集局長が驚愕の事実を知らせる。
「大変だよ。夜中に大山君が自殺したよ。直ぐ病院に行って」
唖然とするも何が何だか分からないデスク。取るも取り敢えず病院に向かう。病院に着くと婦長が応対し、
「大山さんは昨夜二時に病院の屋上から飛び降り自殺しました。異常な物音に夜警備員が気づき、当直医が緊急マッサージをしましたが既に死亡していました。遺体は警察が解剖の為、運んで行きました。屋上にスリッパと遺書が並べられていました」話す鎮痛な表情の婦長。
遺書は表の左下にデスクの名字、真ん中中央に、尊厳死の遺書、と書かれている。
「デスクを驚かせて大変申し訳御座いません。私は決して自殺したのでは有りません。今日デスクは見舞いの際、元気そうじゃないですかと仰って下さいました。しかし内心では余りの窶れ方に驚かれたと思います。私は死に向かっている訳ですから相当窶れるのは覚悟していました。しかし二ヶ月でこれほど醜い顔になるとは思いませんでした。父は七十一歳で死亡しました。元気な時に比べ最後は可成り窶れました。その父と比べても、私の方が醜い顔をしています。父は七十一歳、私は三十八歳。三十三歳も若い私の方が醜いのは耐えられません。どうせ生きても後三、四ヶ月が限度です。体の痛みだけが苦しみでは有りません。一日一日と醜く成るのも体の痛み以上の苦しみです。私はこの苦しみから解放される事を望み、尊厳死する事を選びました。デスクを始め皆様の健康と幸せを心から願っております」
享年三十八歳の大山、若いあまりにも若すぎる一人の新聞記者の死である。彼の死から数年後に、彼が死亡した年に大きな社会問題となったプラスチック不足。そのプラスチックの原料ナフサの供給元である石油化学会社大手数社が、公正取引委員会から業者間による価額調整カルテルを行なった、として告発されその後の裁判で石油化学会社大手数社は有罪となります。彼の常々云う処の「正義」に反する行為が法により裁かれたので有ります。
有罪判決のあった日に彼の最初にして最後となってしまった毎朝新聞のコラムが彼の墓前に置かれていました。一輪のバラの花を添えて。
<了>




