幸せ
「先生、ごめんね」
「何が?」
「私もね、先生とこう、教養溢れる会話と言うか哲学論争と言うか、言葉の応酬がしたかったんだよ」
「えっと、何で?」
「そういうお話できた方が先生楽しいかなって」
「別に今楽しいよ」
「そう。先生はそう言ってくれるよね。私のこと甘やかして」
「甘やかしてるつもりはないけど」
「私は先生の読んでいる本とか理解したいんだよ。だから手始めに日本の偉人が出てくる乙女ゲームを始めてみました」
若い子の発想は凄い。
年の離れた彼女の趣味を理解したいからといって俺は自分が乙女ゲームをするというのは中々思いつかない。
大体チュートリアルが長いし、欲しいキャラは中々でないし、本読んだ方が早くないか。
「えっと、で、どうだった?俺乙女ゲームとかやったことないんだけど、どういう偉人が出てくるの?」
「先生の大好きな在原業平とかー」
蓮は待ってましたとばかりに少し得意げな顔をして見せた。
こういう顔は珍しく、この顔が見れただけで俺からしたら何も話さなくても面白いからいいのになと思った。
「へー」
「紀貫之とかー」
「聖徳太子とか」
「乙女ゲームだよな?」
「うん」
「どんなキャラ設定になってるわけ?」
「在原業平は金髪」
「まあそうなるよな。在原業平と名前の付いたイケメンだろ?」
「うん。僕から離れるなって言ってた」
「何で?」
俺は吹き出すのをこらえた。
こうなってくると一事が万事そんな感じだろう。
「こんな気持ちになったのは初めてとか言われたよ」
「在原業平に?」
「うん」
「もう在原業平ですらないだろ。それどの口が言うかーってやつ」
「あんなに好き好き言ってたのにね」
「そうだねっ」
「ガチャでね、木曽義仲ばっかり出るんだよ」
「そっか、二学期から平家物語やるから丁度いいな。どんなキャラ?」
「長髪のイケメンで恥ずかしがり屋さん」
「成程」
わからん。
その人選もわからん。
まあ別に本人だと思わなければ、面白いのか?
「ちなみに近松門左衛門はいないよ」
「ああ、そう」
「先生げんなりした?」
「嫌。面白いよ。お前がしなかったら多分その情報一生知らなかっただろうし」
「先生とこう掛け合いたいんだよ。こう問答みたいなことしたい」
「そんなのするの高僧だけだよ。俺とお前で人類は平等ではない、嫌そんなことはない皆が救われるはずだとか言い合うの?」
「うーん。何か違う」
「大分違うだろ。何かしらんが、何の影響なわけ?」
「わかんない。あっ、そうだ」
頬を紅潮させ、閃いたみたいな顔をしているがどうせ碌な事じゃないだろうな。
まあ何でも面白いからいいけど。
「先生ちょっと私のことお姉さんだと思って喋ってよ」
「はー?」
「私のこと年上だと思って喋って。先輩って呼んでもいいよ」
「先輩って」
「お姉ちゃんって呼んでもいいし」
「お姉ちゃんって」
「あっ、そうだ、家庭教師の先生だと思って。もしくは塾の先生。個別指導の」
「何にせよ年上なわけだ」
「うん」
「そう言えば、神谷先輩。去年何歳まで平気って俺に聞きましたよね?」
「え?」
「去年、先生は付き合うなら何歳くらい年離れてても平気ですかって聞かれましたよ。付き合う前、夏休み」
「あー、よく憶えてますね」
「憶えてますよ。何言ってんだろって思ったから」
「佐藤君はまあ二十歳くらいかなって言いました」
「言いましたね」
「私それ聞いたとき、それならいけるなって思ったんです。すぐ打ちのめされましたけど」
「俺なんて言いましたっけ?」
「いいですね。その敬語キャラ。そのままいってください」
「どうも。じゃあ神谷先輩もそれで」
「佐藤君、母親より年上なのはちょっとって言ったんですよ。二十歳っていうのは上の話で下は想定してなかったんですよ。酷すぎません?」
「酷くありません。俺の年で二十歳ってなると小学生になりますからね。犯罪の域を超えています。考えもしないですよ。というより神谷先輩の質問が悪いです」
「その後年下はって聞いたら三歳くらいかなって言いましたよ」
「言いましたね。そりゃそうでしょ。俺二十七ですよ。大学生とか有り得ませんし」
「今佐藤君は高校生と付き合っているわけですが」
「すみません」
「本当にがっかりしたんですよ」
「そうでしたか」
「後そんなこと生徒に聞かれたら普通自分のこと好きだと思いません。告白されるとか思ってませんでしたか?」
「思ってませんでした」
「そういうとこですよ佐藤君」
「どういうとこですか?」
「私が告白したときびっくりしてましたよね?」
「びっくりしました」
「本当の本当に私に好かれてるって思いもしなかったんですか?」
「思いもしなかったです」
蓮は呆れたとわざとらしく顔を作った。
今日はやけに芝居がかって面白い。
全く見てて飽きない。
こんな面白い生き物俺は他にあんまり知らない。
「もうすぐ夏休みですね?」
「そうですね」
「去年は嬉しかったです。夏休み先生に会えないなって思ってたのに部活で学校行ったら先生毎日いるし」
「夏休みなのは生徒だけで先生は毎日出勤ですよ。給料出てるんですから」
「そうなんですね」
「中学もそうじゃなかったですか?」
「中学の時は体育館しか行かなかったから顧問の先生以外見たことなかったなって。佐藤君は本当に何も思わなかったんですか?担任でもない生徒が話しかけてるのに」
「なかったですね」
「そうですか」
「はい」
「でも凄いですね?」
「何がですか?」
「そんな何にも思ってなかった生徒と今こうして付き合っているんですから」
本当にな。
自分でもつくづく不思議だ。
自分ですらよくわからない。
でも目の前のこの完璧な風景を見ていたい。
何一つ欠けていない根拠のない世界を。
「もうすぐ佐藤君のお誕生日ですね」
「そうですね」
「お誕生日は一緒に過ごせますか?」
「その日は研修です。夕方までかかるから無理です」
「部活お休みなのにー」
「別にこの年になるとおめでたくないからいいですよ」
「佐藤君は敬語キャラが合っていますね。正直最初の彼女さんが羨ましくって吐きそうです」
「吐かないで下さい」
「じゃあ当日じゃなくっていいので一緒にケーキを食べましょう。お祝いさせてください」
「いいですよ」
「ケーキ作ってきますね。何がいいですか?」
「何でもいいんですか?」
「はい。何でもいいですよ」
「じゃあガトー・ショコラで」
「はい。嬉しいですね」
「何がですか?」
「去年はお誕生日お祝いなんてできなかったし」
「そんなに誕生日って重要ですか?」
「そうですよ。そう言えば私の誕生日先生おめでとうって言ってくれましたよね」
「先生に戻ってますよ」
「憶えてます?」
「二月のことですからね。憶えてますよ」
「あの時先生本当に狡いなって思ったんですよ。悪い大人だって」
「え?」
「好きな人に誕生日おめでとうなんて言われたら益々好きになっちゃいますよ。何とも思ってないならそんなこと言っちゃダメです」
「その時はもう何とも思ってましたからいいです」
蓮は泣きそうになっている。
もうさっきまでの奇妙なお姉さんごっこはできそうもない。
「いつ頃から私のことが好きでした?」
「それは自分でもわかりません」
蓮には夏休みの終わりに告白された。
勿論断った。
その頃だって今と同じだけ仕事してたけど、思考の大半を蓮が占めるということはなかった。
思えばあれが最後の平穏な日々だったんだな。
今は何というか自分でも引くくらい恋の中に突き落とされている。
「告白されるまで私のことどう思ってました?」
「いい子だと思ってましたよ。生徒ですから。普通にいい子供だと思っていました」
「でもちっとも好きじゃなかったんですね」
「まあ生徒ですしね。そんな風には見れなかったです」
「何があったんですか?」
「さあ、自分でもよく分かりませんが、神谷先輩が諦めなかったからじゃないですか」
「私が?」
「はい。何度も諦めずに来てくれたからじゃないですか。わかんないけど」
この敬語キャラは正解だ。
意外と言いやすいし、恥ずかしくない。
もう今日蓮が帰るまでこれでいこう。
「私大きなこと言ったこと憶えていますか?」
「大きなことですか?」
何だっけ。
何というか最初の方は雑事に追い回されていたし、正直そのうち飽きるだろって思ってたからどうも記憶があやふやだ。
何か失礼だったな。
蓮はずっと真剣で本気でこれ以上ないくらい思い詰めて、毎日一喜一憂して泣いていたのに。
今なら、今の俺ならあの頃の泣いている蓮に言ってやれるな。
諦めなかったらそのうちこの眼鏡落ちるぞって。
今までを取り返そうとばかりに君に夢中で、のたうち回ってるぞって。
それはそう遠くない未来だよって。
そうだよ、即落ちじゃないか。
八月の終わりに告白されて、二月の終わりには付き合ってるんだもんな。
もっと我慢しろよ、この眼鏡。
我ながら情けない。
でも手を取らなかったらこの目のに広がる景色はなかったわけで、やはり二月の俺は正しかっ他のではないかと思う。
ずっと泣いたまま放置することなんて俺にはできない。
たとえそれがその子のためであろうともだ。
結局俺だって自分が幸せになりたいのだから。
「先生?」
「憶えていますよ。付き合ってくれたら私が必ず先生を幸せにしてみせますって言いましたね」
「憶えてたんですね・・・」
「憶えていますよ。そんなこと言われたの初めてでした」
「前の彼女さんに言われませんでした?」
「言われませんよ」
「言いましたか?」
「何をですか?」
「前の彼女さんに自分が貴方を幸せにすると」
「言いませんよ。だから凄いと思いましたよ。若いって」
「若さですか?」
「どうでしょうね。でも正直心が動かされました」
「どこがですか?」
「本当にそう思ってるんだなって、真面目に相手のこと考えてるんだなって思ったんです。それなら答えないとなって思ったんですよ。何でかわからないですけど」
「わからないんですか?」
「わからないですね。何でこんなに蓮が好きなのかもわからないし、こんな風にわからないって思ったのは初めて」
「わからない・・・」
「わからない」
でも、それこそが恋かもなって思う。
他人に見せるものじゃない。
他人に理解できるものじゃない。
自分ですら持て余す、持っているのに見えないもの。
でも確かにあるもの。
ああ、そうか。
だから歌にするんだ。
言葉にするんだ。
誓詞を書くんだ。
それだけじゃ済まなくなって身体の一部を切り落としたりするんだ。
最後には命さえ明け渡すんだ。
貴方のことをこんなに思ていますよって証明するために。
恋心だけはどうやったって身体から取り出したり出来ないから。
どれだけ好きと言っても愛していると言っても、言葉だけでは風に乗って流されてしまうから。
何という不思議。
「確かに私も何で先生のことがこんなに好きかわからないかも」
「な?」
「な?じゃないよ。本当に先生は」
「もっとわかりやすいといいのにな。このチョコパイみたいに」
俺はチョコパイの袋を開け齧り付く。
美味い。
他に言葉などいらない程単純で明快。
でも全てがこれで成り立ってしまえば、この世に歌などなくなってしまう。
それは惜しい。
誰かが誰かを愛する気持ち、それはどれだけ読んでもいいものだ。
何度見たって新鮮な驚きがある。
好きと言うこれ以上ないくらいわかりやすく、獰猛で色でいったら白か黒しかない世界の様に選択肢など最初からないかのように潔い、それなのに様々に乱れ合って狂い合ってもつれあう、なのにこれ以上ないほど古典的。
そんな感情、大人になってまでやるとは思ってもいなかった。
他人事で十分というより他人ごとだから素晴らしかった。
自分ならどんなに追い詰められていたとしても心中したりしないし、七年も帰ってこない人を待ったりしないし、帰って来たとしても命を落としてまで追いかけたりはしないし、愛する人のために自ら盲目になるなんて考えられない。
恋なんて自分にはないことだと思っていた。
「本当にわからないのがこんなに苦しいなんて思わなかった」
「そうだな」
「私先生を幸せにできてる?」
「できてるよ」
「全然な気がするけどなー」
「できてるよ」
蓮がチョコパイの袋を開けてはむっと一口齧り付く。
俺の目の前に幸せが広がる。
「今幸せだって思いましたよ、先輩」
「もう先輩はいいです」
「そうですか」
「そうです」
「はい」
「先生、美味しいね」
「美味しいね」
「私も今幸せ」
「そりゃ良かった」
「まだいくらでも時間あるもんね?」
「ん?」
「私達。これからずっと一緒だもんね。私先生のこと絶対幸せにしてみせるからね。本気だから」
「期待してる。割と本気で」
「うん」
期待か。
自分以外の人間に期待か。
それ自体が幸せか。
自分以外がいつもいるんだもんな。
それは確かに幸せだ。
私と付き合ってくれたら私が先生を絶対に幸せにしてみせます。
多分これだったんだろうな。
真っ直ぐに俺を見て、そう言った蓮を見て、ああ俺もこの子と真剣に向き合わないと。
その時初めて一対一になった気がする。
対神谷蓮に。
沢山いる生徒じゃなくなってしまった。
これ以上ないくらい単純だ。
明日も晴れるといいなと思うくらい、痛切でもなく、願望ですらない、雨が降ったら傘を差して出かける、そんなとこだ。
俺の何を見て幸せにしたいと思ってくれたのか。
そんなに幸薄そうに見えたのか、まあそんなことはどうでもいい。
俺が幸せにしてもらいたいと思ってしまったのが事の起こりだ。
でも間違ってなんかいない。
幸せにしたいと思う彼女がいて、幸せにしてほしいと思う俺がいるなら成立する。
どちらかがすればいいんじゃない。
二人で幸せになればいい。
まあ手近なところでの幸せ、二人で美味いものをたらふく食って。
ひたすら人に言えない話をする。
密室で、二人っきりで、日曜日の昼下がり。
秘密を重ねていく。
人に話せないことなど何も起こらないくせに。




