刃物
今俺は美少女に包丁を持って攻められている。
こう言うと語弊があるか。
実際は攻められてないし、責められてもいない。
まあ単に蓮が今包丁を持ち台所に立っている。
だが切るものがない。
「先生。本当に何か切るものないの?」
「ない。肉じゃがは温めるだけだし、ブロッコリーも茹でてある。残念ながら切るものはない」
「何か切りたいよう」
「すまんが家でやってくれ」
「先生に切ってあげたいんだよー」
「間に合ってます。でもやっぱこうだよな、うん」
俺は一人頷く。
そうだ、こうだ。
「何一人で納得してるの?」
「嫌、やっぱりさ、女の子が持つなら包丁だよな。カミソリとか死ぬ道具にしても可哀想すぎるわ」
「何の話?」
「お初の話」
「また曾根崎心中?」
「だってさ、本当に痛そうなんだよ。わざわざえぐったって書いてあってさ、二人とも泣いててさ、お初はまだ十九でさ、徳兵衛は二十五だったんだよ」
ここまで言って私は今十六だよと言われたらどうしようかと思ったが蓮は包丁をまな板の上に置いて、困ったように笑った。
「先生って優しいよね」
「は?えっと何で俺の話になるんだ?」
「だって、その、曾根崎心中って作り話でしょ?」
「実際にあった心中事件を近松門左衛門が脚色してるわけだから、作り話だな」
「お初さんはこの世にはいない人なわけじゃない?」
「いないわけないだろ、実際いたし」
「うーん、でも物語の中の人、なわけじゃない?」
「まあ」
「先生よく言うよね?可哀想だって、まるで生きている人の様に扱うでしょう?それが優しいねって」
「どこが?」
「だって私そんな風に親身に思えないもん。可哀想なんだろうけど、何と言うか、風の様に流れていく感じ。通り抜けていっちゃうというか」
「言いたいことはわかるけど、俺は別に優しくないよ。どっちかっていうと、生きてる人間にそんなに興味がないから、そうなるんじゃないか」
「それでも優しいよ。私ちっとも優しくないなって思うよ。さっきからね、先生がお初お初いうの嫌なんだもん」
「ごめん、何で?」
「女の子の名前でしょ、嬉しくないよ」
そんなに?
それなら蓮だってそうじゃないか。
お初がこの世にいると思っている。
「先生。ごめんなさい。私重いよね?」
「重いな」
「だって先生が知り合いみたいに話すんだもん」
「悪い。最近な、先生涙腺緩いんだ。もう年だからさ、自分より若い子が死ぬの嫌なんだよ。大学生の時読んだ時はさ、徳兵衛も年上だったから、しっかりせえよって思ったけど、こう頑張ってもどうにもなんないことってあるんだよな、それにさ、読み返してみると本当に死にたくなかったんだろうなって思えてさ、可哀想なんて言葉で済まないくらい可哀想なんだよな、他に言いようもないっていうか」
「うん」
蓮が俺の横に身体をぴたりと付けてくる。
まるで雨宿りをしていて、寒さに体を寄せ合おうとするような動きで、適切な距離を取るのが義務であるはずなのにその身体を引き寄せ、体内に深く深くしまっておきたくなってしまう。
「何だろうな。こう物語ってさ、特に曾根崎心中は一瞬を描いてるよな。この二人にはそれまでの人生がそこそこあったはずなんだよ。でもまあ短い話だからかな、人生における一番煌めく瞬間を切り取っているから面白いんだろうな。二人にだってありきたりな取るに足らない日常があったはずなんだけど、そういうのを一切省いて、心中を魅せるための物語になっているからかな、ほら、ロミオとジュリエットもそうなんだよ。あれ、たった数日の話なんだよ。小説ってさ、長い長い人生を書いてるものあるけど、主人公の一番面白い人生の瞬間をこう火花みたいに描いてるわけなんだよ。だからかなあ、面白くない場面がないわけだから。だから俺が優しいって言うのは違うんだよ。興味があるってだけだから、面白いと感じてるだけだから」
ジュリエットの年齢に関しては蓮には言うまい。
言うとまたとんでもないこと言い出しそうだし。
「先生優しいって言われるの嫌なの?」
「うーん、実際俺は優しくないからな」
「優しいよ」
「優しくないよ」
「私よりずっと優しいよ。私すっごく嫉妬深いもん。本当にヤダ」
「嫌じゃないよ。えっと、何、お前は俺が授業中とか葵上とか言ってるの嫌なわけ?」
「ううん。授業中は平気。先生の声うっとりする。皆に読ませたりしないで先生に全部読んでもらいたい。先生の声大好き」
「あっそ」
「先生、お初みたいな悲劇のヒロインが好きなの?」
「嫌、そういうのはないけどさ、何と言うか、物語ってのは悲劇に常に向かっているんだよ。破局待ちっていうか、オチつけないといけないからさ、めでたしめでたしでは中々終われないし」
「確かに皆別れて終わるよね。死んじゃうのだって別れでしょ?一緒に死んだってもう会えないわけだし」
「そうだな」
「私悲劇的要素なくて、嫉妬深いだけの面倒な子だけどいい?」
蓮が俯き小さな声で言う。
俺にだけしか聞かせたくないようなかき消されてしまうような音。
まあこの部屋には俺と蓮しかいないから、蓮が何か言ったなら俺に向けて言う言葉でしかないんだけど。
「悲劇のヒロインとかそういうの先生は怖いからいい。先生の手におえない。先生は彼女の死体を抱いて咽び泣くとかできないし、したくない。先生はそんなに痛みに耐えられるようにできてないんだ」
「でも悲しいお話大好きだよね」
「実際に起きたら耐えられんよ。どれほど真に迫ってようともそれに作者さえいたら物語として成立するから大丈夫なんだよ」
「何でこんななんだろ。先生が一人なのが悪いんだよ。先生が百人くらいいたら一人くらい私のお部屋のクローゼットに隠しておけるのに」
「お前、怖い。俺なんて百人いてどうすんだよ」
「私眼鏡かけた背の高いの日本人男性皆先生だったらって思うんだよ」
「怖えよ」
「先生そういうのない?私特徴ないからないかー」
「俺みたいのが百人いることは驚かないけど、お前みたいのが百人もいたら生態系のバランスが崩れる。代わりがいないから恐ろしいんだよ。まあ、人間に代わりなんかいないよ。だから失うと悲しいんだよ」
「うん、そうだね」
「なあ、蓮」
「うん」
「そろそろ食おう。肉じゃが温めるから」
「うん」
「味噌汁あおさ入れるだけでいか?」
「うん。あおさ大好き」
「な、じゃあ食おう」
「うん」
俺も重いよ。
お前は美少女だから重くても包丁持ってもいいけど、俺はそうはいかないよ。
もう三十近いし。
俺も蓮根見てもお前を思い出すし、最近では蓮根が喋り出す。
そして曾根崎心中のお初のセリフには同じ蓮の上に生まれ変わろうってセリフがあるんだ。
俺は昨日このセリフを寝る前に読んでしまい、蓮が蓮の上にいてお初と徳兵衛を迎えに来てくれるなら、あれ、ハッピーエンドなんじゃとさえ思えてきて、曾根崎心中の二人が来世で仏になり幸せになるのは本当かもしれないと思えてきたんだ。
お前を思うとどんな悲劇だって力技で幸せな結末に導ける気がするよ。
お前がいたらお初も徳兵衛もロミオとジュリエットも死なずに済むんじゃないかと思うよ。
お前は本当に綺麗で美しいけど、悲劇が魅入るようなとこがないんだよ。
何ていうか健康そのものなんだ。
まあ多分俺がそれを望んでいるからなんだけど。
一瞬の煌めきなんかいらない。
一度も火花散らせる瞬間なんかなくていい。
切り取った一場面がどれだけ素晴らしかろうと美しかろうと、悲しいことはいらない。
ありふれた日常が永遠に続けばいい。
本当はお初と徳兵衛だってそれを望んでいたはずなんだ。
誰だって自ら悲劇に飛び込んだりはしないだろう。
「先生、美味しそうだね」
鍋の中でぐつぐつと温められる肉じゃがを見て蓮が微笑む。
「ああ、肉いっぱい買ったからな。たんと食え」
「うん。嬉しい。いい匂いだねー」
幸せだ。
肉がいっぱい入った肉じゃがのいい匂いと、世界一可愛い女の子の期待に満ちた頬の輝き。
徳兵衛とお初にもこんな瞬間があったんだろうな。
そうでなければ共に死のうと思わないだろう。
でも俺は欲深いからまだまだ蓮とやりたいことがありすぎる。
爺さんになっても婆さんになっても一緒にいたい。
そのためにも何事もなく二年が経つといいなと思う。
小さすぎる望みだが、今の俺からしたら絵馬にも護摩木にも書けないけど切実だ。
そりゃ主人公になれないわけだ。
相手役のヒロインは世界一輝いている花のような美少女なのに。




