変わる母校
*弓懸け:ゆがけ。妻手につける弓具。鹿の革で作られた厚手の手袋状のもの。親指の付け根にある溝に、弦を懸けて引く。
*ハヤケ:早気。弓をいっぱいに引いた状態「会」を充分保てず、早急に矢を離してしまう悪癖のこと。
*ゆるみ:ゆるみ離れ。会の状態から離れに移る際、弓懸けが弦に引っ掛かってしまう悪癖のこと。
鴫立高校に来るのも久しい。
卒業式以来かもしれない。
生徒たちの姿はすっかり変わっていた。
髪を染めている人が多い。
Yシャツではなくポロシャツを着ている生徒も歩いていた。
校章がプリントしてあるから、れっきとした制服なのだろう。
弓道場を見て、私は唖然とした。
弓道場の外壁が塗り替えられている。
昔はペンキがところどころ剥がれていて、
下地のトタンが赤く錆びていたのに、
アイボリー色に新しくなっていた。
矢防ぎ用の低木樹が伐られ、
代わりに防矢ネットが巡らされていた。
今まで弱小だったから予算が出なかったけど、
私たちの代以降、関東大会や全国大会に出る機会が増えて、
学校も弓道部のアシストに回るようになったらしい。
そんな噂を思い出した。
すっかり変わっている。
「こんにちは」
弓道場の変貌に見とれていたら、
袴を着た女子に声をかけられた。
当然ながら現役女子高生である。
輝いていて、眩しいくらいだった。
加えて袴姿である。
「国宝級」と銘打っても私は一向に構わない。
私も数年前まで
この子と同じ弓道女子をやっていたのかと思うと信じられない。
挨拶を返し、靴を脱いで場内に入る。
ここは私が高一の頃に改装されたんだけど、
記憶のなかにある光景よりも少し色あせていた。
当然後輩の顔も名前も知らない。
変なおばさんが乗り込んできたとでも思っているのだろう。
長い行列のなか、蒸し暑いだろうに、
射つ順番を待つ後輩たちに感心する。
「待ってましたよ、美苗さん」
袴と道着を着た学が姿を見せた。
弓懸をはめた右手で白鳥の羽根の矢を一手持ち、
左手には練心の弓を持っている。立派な弓士に成長したものだ。
ここで学が私の紹介をしてくれた。
誇張した紹介だったから訂正が大変だった。
私は天才でも秀才でもない。
ただ仲間と引く弓道が好きなだけなのだ。
「大窪の、憧れの先輩って人?」
部の誰かがいった。
「まあな」
学のちょっと誇らしげな返答に恥ずかしくなった。
私なんて憧れるほどの人間じゃないのに。
今、非正規雇用だし。
「エースが憧れてるってことは、相当ヤベえんだろうなあ」
「エースは俺じゃなくて美苗さんだよ。関東個人に出場したんだからな」
おお、というどよめきが起こって、身を縮ませる。
「たまたまだよ、たまたま」
部の雰囲気は掴みきれていないけど、
少なくとも学が部内で慕われていることはわかった。
練習が再開される。
しばらく様子を見たり、ガラじゃないけど指導したりもした。
全体を見た印象として、射形が崩れている部員が多かった。
あたってるのならいいけど、実力が伴っていなかった。
弦音がむなしく鳴り響くだけで、的を射抜く音はしない。
音がしたと思えば、それは学のものだった、というのがほとんどであった。
「美苗さん、俺、丸山先生のとこ行ってきまっす」
丸山先生。
聞いたことのない名前の先生だった。
今の弓道部の顧問らしい。
私の恩師はこの四月に定年で辞めてしまったのだそうだ。
学がいなくなると、知り合いは誰一人としていなかった。
道場の隅っこで雑談に興じる男女の笑い声が耳に障る。
列に並ぶ部員の話し声も、次第に大きくなっていくように思えた。
こんなことは思いたくないけど、
弓道に対するやる気が見られなかった。
単にお喋りしているからそう思ったんじゃない。
もっと感覚的な、弓道をやっていた人間の勘みたいなものだけど、
それは確かなものだった。
どんなに指導しても、それを実践しようとしていなかった。
弓道には、ハヤケとか離れのゆるみとか、
直そうとしてもなかなか直せないものもあるし、
頬付けとか胴造りとか、
ちょっと意識すれば改善できるものもある。
なのに、そういう意識すれば直るものでさえ直そうとしていないように思えるのだ。
「なかなか出来ないね、君の頬付け」
「それやると、離すときに弦でほっぺ叩いちゃうんです」
「でも、やらないと安定しないよ?」
「いいんです。頬付けしないほうがあたりますから」
そういって、二射とも外した彼は休憩しにいってしまった。
よくいえばプライドが高いんだろうけど、逆にいえば頑固でもあった。
なんとなく、ここに居場所はないように思えた。