翌年 七月二十七日
「こんにちは。すみません、一〇三号室に越してきました、坂井と申します。あの……今日はご挨拶に伺いました。お時間よろしいでしょうか……?」
金属の扉越しに、はいはぁい、という溌剌とした声が聞こえた。人の良さそうなその声に、典子はホッと胸を撫で下ろす。気恥ずかしそうに足元にしがみついている息子・和也の頭に手を添え、中の住人が現れるのを待った。
「はいはい、お待たせしまして。木村と申します。まぁ、可愛いお子さん」
扉の向こうから、白髪の女性が姿を見せる。典子の母と同じくらい……歳は七十二、三といったところだろうか。
「あの、坂井と申します。越してきたばかりで何分、分からないことだらけでして……小さい子供もおりまして、ご迷惑をおかけすることもあるかと存じますが、どうぞよろしくお願い致します。これ、つまらないものですが……」
典子は持っていた風呂敷包みを解き、菓子折りの箱を手渡した。
「いえいえ、こちらこそよろしくねぇ。坊やはお幾つなのかな」
「三歳になったばかりです。ほら、ご挨拶なさい」
和也は初対面の相手を前に、表情を硬くする。不貞腐れたように唇を尖らせ、コンクリートの地面に視線を落とす。そんな息子の様子を見て、典子はこら、と和也の頭を小突いた。
「いいのよ、おばちゃん、気にしてないからね。恥ずかしいんだよねぇ」
ニコニコと微笑む木村に、典子は問いかけた。
「あの……二〇三号室の方はいつ頃帰られるかご存知ありませんか? 何度か挨拶に伺ったんですが、いつもお家にいらっしゃらなくて……」
「あぁ、二〇三号室、ね」
途端に木村の表情が曇る。声のトーンも心なしか下がった気がする。
木村は周囲をきょろきょろと見回し、典子に近づくように、ちょいちょいと手招きする。
「もうずっと前から見かけないの。大学で研究してる人だったのは確かなんだけどね」
和也は急に態度を変えた木村を見て、呆然としていた。首を傾げ、立ち尽くす。
「何だか変な臭いもするし……ゴミでも溜めてるんじゃないかしら。何度か人が訪ねてきたりもしたんだけど、返事なんかしやしない。引きこもりってやつよ。大学で何かあったのかしらねぇ」
はぁ、と典子はあやふやな返事をした。どうやら木村は裏野ハイツの住人について、かなりの情報を持っているようだ。ボロを出してはいけない、と典子は無意識の内に身構えた。
「ねぇ、ママ、あれ」
和也が典子のスカートの裾を引っ張った。子供にとっては大人同士の会話など、退屈なことこの上ないのだろう。
「和也、もう少しだから。待っていてね」
「でも、ママ」
「待ちなさい」
和也は不満気に眉根を寄せ、小さな声で呟いた。
「あの部屋に、何かいるよ……」
二〇三号室の扉の隙間から、ジェリー状の液体が浸み出す。
その液体はつつつ、と和也の足元まで流れくると、そっと和也の爪先に触れた。




