第66話 海百合千草⑫
料理をしたことも、教えられたことすらないのだと思う。
千草ちゃんの手伝いはひどく危なっかしくて、
ただ野菜を洗ってもらうだけなのに
洗剤を使おうとするなど、目を離すことができない。
包丁やピーラーを使ってもらうのはまだ早いだろう。
私は千草ちゃんが洗ってくれた野菜を受取ると、調理していく。
それを見つめる千草ちゃんは興味津々といったように目を輝かせている。
その表情を目にする度に、愛おしさが募っていく。
いつもであれば、もっと早く進み工程も
今日はいつもの倍以上の時間がかかる。
だけど、それが全然嫌ではなかった。
一人寂しくご飯を手早く作るよりも、
こうして誰かと一緒に時間をかけてでも作ったほうがいい。
多分、今日作ったカレーは今までで一番美味しいものになるだろう。
そんな確信を抱きながら、私は千草ちゃんに笑いかけた。
どうして、お姉さまはこんなぼくにこんなにも優しくしてくれるのだろう。
野菜の洗い方を母親は一切教えてくれなかった。
それどころか野菜に触れようとしたれ、手を叩かれて文句ばかり言われた。
そもそも料理をあまりしない人だったけど、偶に自分の駄目だけにする時に
手伝おうと思っていたぼくの心はそういうことが積み重なって壊れた。
手伝おうとすれば怒られ、料理風景を見ていても怒鳴られる。
ぼくは手伝うことも、見ることもしてはいけないんだ。
そんな意識が無意識のうちに刷り込まれてしまっていた。
あの人が料理をする度に、ぼくは部屋の隅で膝を抱えて目を瞑っていた。
だけど、今は違う。
あんな悲しい時間はここには流れていない。
野菜を洗剤で洗おうとしたぼくにお姉さまは
「食材は洗剤で洗わなくてもいいんだよ。水でさっさと洗うだけで」
って優しく教えてくれた。
ぼくが洗った野菜を優しく受け取ってくれた。
お姉さまが野菜を切ったり剥いたりしているのをじっと見ていても怒らなかった。
むしろ照れ混じりの笑みを向けてくれて、自然にぼくも微笑むことが出来た。
お姉さまは優しいな。
こんなにも幸せなことをぼくが本当に味わっちゃってもいいのかなぁ。
ついつい、この穏やかで優しい時間の中、考えてしまう。
「千草ちゃん、これ混ぜてみる??」
見つめているとお姉さまが声を掛けてくる。
ぼくはその指差した鍋に近づく。
さっきお姉さまが切ってくれた野菜やお肉が茶色い液体の中を泳いでいる。
お玉を渡されたぼくはそのままカレーに突っ込むと、混ぜ始める。
そうしているとお姉さまの手がぼくの手に重なった。
「こうやって混ぜるといいんだよ~」
その言葉と共にお姉さまの柔らかい手がぼくの手を導くように動かしていく
クルクルクルクルと鍋の中を回していく度にいい匂いが鼻に入ってくる。
すごく美味しそうな匂いに胸が高鳴る。
だけど、どうしてだろう。
それとは別に心臓がドキドキしているような気がする。
けれど、その理由を知るのはなぜか避けたいと思ってしまう。
ぼくはそのドキドキを隠すように、鍋をかき混ぜ続けた。