第42話 ニート、考える
「あ、あのですね。め、眼鏡が・・・。」
男性は頭を深く下げながら、口を開き、ある一点を指さした。
そこにあったのは、無残にも粉砕された眼鏡の残骸だった。
どうやらお風呂に入り、身体と顔を洗って眼鏡をかけて湯船につかろうとしたところ
石鹸がまだ残っていた手の平によって滑った眼鏡がそのまま無情にも床に落下。
あっけなく、粉砕されてしまったらしい。
その上、今日に限って予備の眼鏡を脱衣場に置き忘れていたようで、
現状に至るというわけだ。
「こ、このままではお風呂から出られなくて・・・。
そ、そんな時に誰かがお風呂に入ってくる音が聞こえたので、
藁にも縋る想いで声をかけたんです。」
男性はなおも頭を下げ続けていた。
「そ、そうだったんですね。そ、それは大変でしたね。」
俺は自分が女性であることをバレないよう、できるだけ低い声を出す。
男性は俺が言葉を発するたびに首を傾げる動作を取りはしたものの、
気づいてはいないと思う。
それにしてもどうしたものだろうか。
粉砕してしまった眼鏡はもうどうすることもできないわけだが、
この男性をこのまま放置するわけにもいかない。
脱衣所に予備の眼鏡があるみたいだから、
それを取りに行った方がいいのかもしれない。
ただ、さっき偶然だけど触れてしまった彼の体は異様に熱くなっていた。
おそらく、のぼせてしまっているのだろう。
いつから入っているのかは分からないけど、
俺が服を脱ぐことに悪戦苦闘している頃から。
いやもっと前からお風呂に入っていることは間違いない。
仮に脱衣所に眼鏡を取りに行って戻ってくるとしよう。
脱衣場のどこのスペースに彼の着替えが置かれているのかを俺は知らない。
普通の家の浴場であれば、その場所を見つけることは容易であるに違いない。
だが、この家の浴場もとい脱衣場の規模は規格外の大きさを有していた。
そんな場所で何の手掛かりもないものを探すのは時間がかかってしまう。
そして、時間がかかってしまうということは、
この男性がのぼせて倒れてしまうかもしれないという危険性も孕んでいる。
俺はある結論に達した。
「手、掴んでください。一緒に出ましょう」
自分の手を彼の手に握らせると、そう提案をした。
男性は少し迷ったものの背に腹は代えられないと思ったのか
手をぎゅっと握りしめると、そのまま立ち上がった。
お風呂に入っていたことでよく見えていなかったことだが、
彼の身長はすごく高かった。
180cmはゆうにあるのではないだろうか。
対する俺の今の身長は160㎝にも満たないものだろう。
そのためか、ほんの少しだけ体が彼が立ち上がった瞬間に浮き上がってしまった。
だけどすぐに態勢を立て直したため、こけてしまうようなことはなかった。
俺は彼の手を後ろ手にすると、そのまま手を引いた。
「こっちですので、付いてきてくださいね」
男性は俺の身長が低いことに驚いたのか、
それとも目の前に人が見えないことに驚いたのかは分からないが、
少し上の方で目線をきょろきょろとしていた。
「あ、す、すみません。あなたの声や手の感触はわかるのに、
輪郭がどこにも見えなくて・・・。」
「こちらこそごめんなさい。背が低くて・・・。」
俺は彼を安心させようと思って、そんな言葉を発したわけなのだが、
ほんの少しだけ、なんだか嫌な気分になった。
女の子の体なので、身長が低いのはまあ仕方がないのかもしれないが
こういう風に高身長の男性に対して自分の身長が低くて謝るというのはなんだか
自分が本当に女子になったのだと痛感させられているようで・・・。
ただ、こういう風な感情を想起してしまうのは、
入れ替わってしまって何度目の事なのだろうかと考えて、ますます嫌になった。