Scene Two ノア・ロセター・ジュニアは街の治安を憂う
ノア・ロセター・ジュニアはオーダーメイドである黒塗装のロールスロイス・ファントムEWBの車窓の外を過ぎ去っていくハリウッドの賑やかな目抜き通りを眺めていた。まだ日が沈んでから少ししか経っていないからか観光客も路上パフォーマーもひしめき合うように通りを埋めていた。
「ロサンゼルスに飽きた者は人生に飽きた者だ。ロサンゼルスには人生が与え得るもの全てがあるから。」
不意に口から溢れたサミュエル・ジョンソンの名言、正確にいえば改変されたものにノアは笑みを浮かべた。ロンドンもロサンゼルスも同じLから始まる都市名だ、ジョンソンもこれぐらいは許してくれるであろう。
実際にこの街は何時でも活気に満ちて話題に欠かさない世界最高の街である。ノアはそういうこの街に敬意を表していた、世界有数の映画の街でありファッションや文化の発信地ともなっているこのロサンゼルスに飽きという感情は似合わない。
「社長、ザ・レイモンドで日丸商事の日峰副社長と会食のご予定が入っております。」
「確か客船内の船上パーティーの件だったね。要望の客船の停泊地、今はカリブだったかな。」
「はい、バハマに停泊しています。」
ふとノアの手の甲に紙のひんやりとした感触が伝わった、車の座席に新聞紙が丁寧に置かれていた。これも秘書であるミスター・ナイドゥのホスピタリティーであったりする。
「空港での銃乱射事件、日本人少年が無傷で保護されたそうです。」
「ほう、無傷の人間がいたのか。」
ノアは新聞紙を座席に置き直すと日本人少年に思いを馳せた。
「最近はこの街も物騒になったな、例えば土曜日の夜にしか現れない神出鬼没の殺人鬼。何ていう名前だったかな。」
「サタデー・ジョンです、社長。しかしご安心を、ジョンなど只の都市伝説に過ぎません。」
「そうだと良いがね、サタデー・ジョンがいる限り私もこの街も土曜日には安心して眠れないな。」
この街は観光客で溢れかえってもいるが道を逸れればそこには危険な世界が広がっている、そんな街である。そしてこの街には決して敵に廻してはいけない連中が数人いる。ノアは鼻を鳴らすと笑みを浮かべシートに深く腰をかけた。
その傍らには高級な雰囲気を漂わせる車内に似合わないゴシップ誌が一冊置いてあった。秘書はそれに鋭い視線を送ると口を開いた、
「また彼女ですね、あのパパラッチ。随分としぶといですね、大抵はこの辺で引くのですが。」
「ああ、君の言う通りミス・バークレイは執念深い女性だよ。英国紳士好みの魅力を持っている。」
「コートニー・バークレイ、駆け出しの頃から社長を追っていましたからね。」
ゴシップ誌にはスクープ写真を撮らせれば西海岸一と高評されている腕利きの女性パパラッチ、コートニー・バークレイの撮ったノアの密会写真が掲載されているのである。コートニーは何故かノアの事を執拗に追跡して写真を撮るので、社員は皆口を揃えて彼女の悪口ばかりを並べる。しかしノア自身は彼女の撮る写真をアルバム写真のように切り取り保管しておいている。彼女の撮る写真はその場の雰囲気と世界観を再築する素晴らしい芸術だと思っているからだ。
すると突然電話の着信音が鳴り響き秘書が「失礼。」と一言断ってから携帯を取り出し電話の通話ボタンを押して耳に携帯電話を押し付けた、
「はい、社長は今隣りにいますけど。・・・分かりました。社長、例の場所が見つかったそうです。」
「分かった。この話はロス市警に流しておけ、ただボスだけは生け捕りにしてカッシングの所へ放り込んでおけ。自然と色々なことをしゃべってくれるだろうからな。」
ノアは内心で興奮を抑えながら白い綺麗に並んだ歯を見せた。世界の大半はノア・ロセター・ジュニアの名前を若き実業家、セレブ、そしてホテル王の息子として認識している。艶のある黒髪を丹念に整え、イタリア製のブランド物のスーツを着こなすアメリカンドリームを生きる男という面以外のもうひとつのノアの顔を知る人はあまりいない。
もうひとつの顔、つまりロサンゼルスの暗黒街を支配する黒幕という顔を。