夏希の苦労
就職氷河期である。
夏希、翠、菫の三人も、例に違わず就職先が見つからないという事態に陥った。菫はともかく、夏希と翠は三回生の夏休みから就職活動を始めた。漠然とした焦りから始まった就職活動だが、自己評価がどうの、夢がどうの、企業とのマッチングがどうのというどんどん自分に要求を突きつける人生の転換期とやらに、夏希と翠は頭を抱えていた。やがて夏希が決心をし、翠が自暴自棄になった夏休み終わりに、遅ればせながら菫が就職活動に参加し、一通りの苦悩をしてから、三人の中では最も楽天的に就職活動に挑むようになった。夏希がようやく企業を絞り、翠が就職活動自体を嫌悪し始めたころに、菫はいきなりアパレル会社への就職を目指すことに決めたのである。他の二人にとっては晴天の霹靂だった。そんな二人に対し、菫は「だって洋服好きだからさ」とへらへら笑ってみせた。こういう人間こそが人生を楽しむことができるのかもしれない。
そのような重苦しい就職活動事情はさておき、話は進む。
三人は四回生になった。更に、季節は初夏。就職活動に忙しく、講義を落とさないようにするのが精一杯だった三人は、迷い、諦め、決め、それぞれに苦しんでいた。しかし就職活動以外にも人生は流れているのである。彼らは現実逃避のためにあると言っても過言ではない、サークル活動、趣味のネット小説、ショッピングなどに逃げ込むことが度々だった。
そのサークル活動でのことだ。夏希は映画研究サークルの活動という名目で、部室で映画を観ていた。立派な映写機などは揃っていない狭い部室。テレビに映し出される十五禁映画を観ながら、夏希は嫌な思いをしていた。隣の男子が手に触ろうとするのである。
部室にはすし詰めと言っていいくらい部員がいた。だから誰にも見られないのをいいことに、夏希の手に自分の手を載せる。避けると触らないが、姿勢を変えるためにうっかり手を長椅子に置くと、すかさず手を載せられる。その手が湿っていて、生ぬるくて、気持ちが悪い。夏希はこういうことには慣れているので、少しその男子から離れて最後まで映画を観続けた。
そのあと、更に嫌な思いをすることになるのである。
夏希は興ざめした気分で帰ろうとしていた。こんな気分になるのなら来るんじゃなかったと思った。荷物をまとめていると、後輩の女子学生たちがこう言い合っているのが聞こえてきた。
「夏希先輩、嬉しそうじゃなかった?」
「部長に手を握られて、よかったよねー」
手を握っていたのはサークルの部長だった。眼鏡をかけた、いわゆる映画オタクである部長は、女子学生によくこういう嫌がらせをするので、ある者からは敬遠され、ある者からは自分のことが好きだと勘違いされる。結局はただの助平な男に過ぎないのだが、酔狂な女子が彼のこういう行為を目にするたびに嫉妬を覚えるのである。夏希は物腰の柔らかさで誤解を受けやすく、あまり親しくない女子からはこういうことを言われることがあった。
いつもなら諦めて流すのだが、就職活動で疲れきっていた夏希は泣きそうになってしまった。急いでドアから逃げ出した。
夏希の苦労。それは誤解を受けやすいことだ。髪を染めないの? と訊かれることがある。それに対して夏希は、髪を染めるのは好きじゃないんだ、と答える。しかし周囲には歪んで伝わって、清楚なふりをしたいから髪を染めないのだと言いふらされることになる。また、夏希は誰にでも優しい。嫌われたくないというのもあるが、優しくしてしまうのが性分なのだ。それを八方美人だと言われてしまう。夏希はこういうことでの気苦労が多かった。
キャンパスを歩いているうちに、涙も乾いてきた。文学部棟も近づいてくる。気分が明るくなってくる。中に入り、階段を上り、長い廊下の途中にある日本文学ゼミの研究室に入る。すると書架に囲まれているテーブルの置かれた場所に、就職活動のために髪を黒く染め直した翠と菫と、何故か田中がいた。急に清々しくなりながら、夏希は挨拶をする。
「お疲れー」
翠と菫の二人はやや疲れた顔ながら、楽しそうに挨拶を返した。夏希はほっとする。翠と、菫と、恋人の徳井。この三人は一緒にいると一番落ち着ける。田中は違う。田中は夏希の一番嫌いな、女たらしだからである。
「お疲れっす」
田中もにこにこと挨拶をした。目の下には隈があり、どうやら作家デビューして以来、執筆にピイピイ言っているらしい。
「田中君、新しい作品を書いてるらしいよ」
田中と仲のいい翠が嬉しそうに言う。
「でもデビューしてからはわたしに読ませてくれないよね、田中君」
「編集者の人がいるし、情報漏れが気になるんで」
田中が困ったように言うと、菫が、
「うちの翠ちゃんが情報漏れさせるっていうの?」
と詰め寄る。田中が慌てて、
「とんでもない」
と答える。言葉に詰まってうなっている田中の前で、翠が、
「田中君、最近わたしに冷たい……」
と泣き真似をする。慌てる田中。
「皆さんおれのことからかいすぎっすよ。ささ、夏希先輩、おれの隣にどうぞ」
立っている夏希に、田中がパイプ椅子を勧める。夏希は、
「やだよ。田中君の隣には翠が座ればいいでしょ」
と突っぱねる。残念無念といった顔をした田中に、翠が畳み掛ける。
「わたしだってやだよー」
「翠先輩くらい来てくださいよ」
「やだやだ」
こうして皆で田中いじめをしている内に、夏希の心は完全に晴れていた。
「あ、発表が」
菫が改まった様子で姿勢を正した。何だろう、と三人は彼女を見た。菫は誇らしげな顔でこう言った。
「アパレル会社に就職が決まりましたー!」
「本当?」
と夏希。
「よかったねー」
と翠。
「おめでとうございます」
と田中。研究室は急に浮き足立った空気になってきた。
「実は」
と夏希。他の三人が彼女を見る。
「わたしも新聞社に就職が決まったんだ」
「マジ?」
と菫。
「エリートだわあ」
と翠。
「おめでとうございます」
と田中。祝賀会のようなムードになってきた。
「わたしは」
と翠。他の三人が彼女に注視する。
「院に進むことにした」
「そうなの?」
と夏希。
「三人の中で一番成績いいもんね、翠」
と菫。
「またしばらく翠先輩と一緒ですね」
とうきうきした様子の田中。翠は苦笑いをし、
「田中君、またよろしく」
と答える。菫と夏希は、大丈夫かな、と顔を見合わせた。
「田中君が翠に手を出さないか心配」
菫が言うと、夏希が答える。
「わたしも心配だな。田中君は軽いから」
「大丈夫だって!」
翠が本当に大丈夫そうに答えるので、田中は幾分か傷ついたような顔で、
「酷いっすよ。皆さんおれのこといじめすぎっす」
と抗議する。三人はそれを見て、一斉に笑った。悪魔の如き三人の先輩に囲まれ、田中は懊悩している。
夏希は、楽しいな、と思った。こういう日々がもっと続けばいいな、とも。
アパートに帰ると、同棲している徳井が缶ビールを飲みながら居間で勉強していた。
「ビール飲んでたら頭に入らないでしょ」
夏希が呆れて言うと、徳井はにやりと笑って、
「いや、むしろこのほうがいいんだよ」
と言った。徳井は司法試験に向けて勉強中なのである。
「今日、いいことと悪いことがあった」
「何?」
「サークルで男子に手を握られた」
「夏希は隙があるからだよ」
特に気にした風でもなさそうに、徳井は言った。夏希はむっとする。
「隙なんてないつもりだけど」
「お前は優しすぎるからな。優しさにつけ込むんだよ」
「そうなのかな」
「優しいだけじゃこの先辛いよ」
「うん」
「で、いいことは?」
「翠と菫、院とアパレル会社に決まったらしいよ」
「よかったじゃん。お前も決まったし、しばらくは安泰だな」
「そうだね」
夏希の声を聞いて、徳井が顔を上げた。
「嬉しそうじゃないね」
「本当はね、わたし、翠と菫と別れるのが嫌だなって」
「それは仕方がないだろ」
「ずっと三人で研究室で話していたいなって」
「駄目だよ」
徳井が真顔になり、夏希をじっと見つめた。
「覚悟しないと、駄目だ」
夏希はそれを聞き、暗い気持ちになった。三人で、話す。三人で、笑う。それだけのことが続けられないなんて。けれどこれは現実逃避だとわかっていた。辛くても受け入れなくてはならないのだと。
本当の友達は、翠と菫だけだと思う。だから、余計離れたくなかった。別れが辛い。
翌日、研究室に行くと翠と菫が揃っていた。二人でくすくすと笑い合っている。夏希が来た瞬間、互いに目配せを送り、夏希は一瞬疎外感を覚えた。これは気のせいだと振り払う。
「お疲れ」
夏希はいつものように、バッグからお菓子を取り出した。チョコレート菓子だ。
「ありがとー」
何か言う前から菫が手を出してむしゃむしゃ食べだした。
「ちょっと、普通出されてから食べるものでしょ」
翠が注意する。夏希はくすりと笑う。いつもの菫と翠だ。
「田中君、最近来なくなったね」
と菫。
「締め切りだってさ」
と翠。
「忙しいんだね」
と夏希。田中を話のネタにして、盛り上がる。
「田中君の彼女、もう大学だけで十人目だって」
「ありえない!」
「田中君のどこが魅力なんだろうねー」
「作家デビューしてから更にもてるようになったらしいよ」
「やっぱりステータスかあ」
「そういうのはあんまり魅力感じないなー」
「何言ってんの、徳井先輩という完璧な男性を手に入れといて!」
「そうそう!」
「そうかな」
「田中君、作家だけでやってくのかな」
「だとしたらすごいね」
「大変だよね、専業作家も」
話題は自分たちのことに移る。
「わたしたちも、もう大人だね」
「二十歳超えて二年経とうとしてるしね」
「信じられない」
「就職かあ」
「翠は院でしょ」
「翠は将来何になるの?」
「多分先生か、司書」
「へー」
「翠はオタクだから、研究者でもいいんじゃない?」
「誰がオタクだよー」
「翠」
「うん、翠」
「そうかな。研究者ね。ありかも」
「わたしは入社してからすっごく偉くなるよ!」
「わたしはまだわからないな」
「夏希、ばりばり記事書くんでしょ?」
「でしょ?」
「かなあ?」
「何だか曖昧だねー。引越す?」
翠がそう尋ねたとき、菫がぎくりと翠を見た。翠は菫を見る。夏希はまたあの疎外感を覚えた。何だろう。
「引っ越さないよ。徳井君はまだ司法試験受からないし、わたしも引っ越す必要ないし」
夏希は答える。それを聞いて、翠と菫がにやにやと笑っている。
何だろう。何だろう。もしかして、わたしは二人からも好かれていないのだろうか。仲間はずれなのだろうか。
夏希はにこにこ笑いながらも、不安だった。翠と菫はうなずく。
「わたしたち、ばらばらになるじゃん?」
と翠。菫がうんうんとうなずく。夏希はよくわからないままうなずく。
「だから、ね」
「うん」
と翠、菫。またあの疎外感。夏希は暗い気分になりながら続きを待った。二人は声を揃える。
「夏希んちの隣の部屋に引っ越すことにしましたー!」
「え?」
きょとん、と夏希。
「だって、ねえ?」
「ねえ?」
「話が見えないんだけど」
と夏希。混乱してきた。
「だって寂しいじゃーん!」
と翠。
「じゃーん!」
と真似する菫。
「え、隣?」
夏希は混乱しつつも二人の言うことが見えてきた。隣?
「そうだよ。毎日会って、話して、遊んで」
と翠。
「毎日?」
と夏希。
「今まで通り!」
と翠。
「うん!」
とうなずく菫。
「嬉しいけど……、毎日は嫌かな」
夏希が本音をポロリと言うと、二人は擦り寄ってきた。
「何言ってんの! 酷い!」
「一緒にいようよ!」
夏希は苦笑いした。二人はもう引越しの話などを始めた。夏希と徳井の部屋の隣にある空き室を、すでに物色済みらしい。この二人には敵わないな、と思う。これが自分の本当の苦労かもしれないとも。
ずっと一緒か。それもいいかもしれないな。
夏希はそう考え、にっこり笑った。
《了》