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乙女たち  作者: 酒田青
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翠の趣味

 田中が礼子から別れ話を切り出された七月。今日も(すみれ)夏希(なつき)は書架でぎゅうぎゅう詰めの研究室で話をしていた。

「最近、(みどり)冷たくない?」

 と菫。金髪は少し伸び、ベリーショートからショートボブに変わった。

「そういえば」

 と夏希。長い黒髪を緩く結い、かわいらしさは相変わらずだ。

 エアコンさえない研究室で、二人は汗を拭き、薄いノートや下敷きで顔をあおぎ、暑さをしのいでいた。

「家でもね、あんまり話しないの」

「そうなの?」

「ぼんやりしててね、何か隠し事をしてるみたいなんだけど」

「ああ、何かぼーっとしてるよね。何だろう。恋、かな」

「ああ、前の彼氏と別れて一年ちょいだしね。そろそろ恋してもおかしくないかも」

「なら言ってくれればいいのにね」

「まさか」

「まさか?」

「不倫の恋で言えない、とか」

「まさか」

 夏希が笑う。菫は何か難しい顔をしている。

「不倫の恋であっても言ってほしいよね」

「いやいや、違うってば」

「いやー、わからないよ」

 と、てっきり翠が不倫の恋に陥っていると思い込んだ菫をよそに、話は戻る。

 一月前のことである。

 翠は携帯電話のインターネット機能で、暇つぶしにネット小説を読んでいた。小学生が書いたという無茶苦茶な筋の「実話」小説である。アハハ、と笑い、イヒヒ、と床に転がり、最後まで退屈せずに読めたが虚無感がすさまじかった。そのネット小説のサイトを適当に回ったが、どれもこれもおかしな小説ばかりである。十代の少女たちが集まるサイトであるため、二十一歳の翠がそう思うのは当然だった。また、翠は大学の日本文学ゼミの学生である。様々な文学作品を趣味や課題で読みなれている翠が不満を覚えるのも、また当然だった。

 ネット小説って、こんなものなのかな、と翠は思った。わたしでも、書けるんじゃない? いや、むしろわたしのほうがもっとすごい小説を書けるんじゃない?

 ネット小説を読む者によくあるパターンだった。

 翠はパソコンを開き、ぱちぱちと文章を書いた。なかなか面白い、と自分で思った。またぱちぱちと書いた。小学生よりは上手に書けている、と思った。さらにぱちぱちと打ち、すごい、と思った。

 わたしってすごい。もしかして、これをネットに載せたらすごくたくさんの人に読まれるんじゃない?

 できた文章を、コピーとペーストをして先程のサイトに載せた。わくわくしながら待つ。

「あ、コメント」

 雨の日曜日、菫のいない部屋で、翠はつぶやいた。小説に初めてコメントがついたのだ。

「『面白いですね! わたしの小説も読んでください!』か。ふーん」

 ただの宣伝だった。他の作品のコメント欄でも見たことのあるパターンだ。翠はがっかりした。しかしへこたれることなく、こう思った。

 ここは十代の子供が集まるサイトだし、わたしにも合った大人の小説サイトがあるはず。

 翠は検索サイトで「ネット小説」と入力して探し始めた。最初に目についたサイトは、使いやすそうで、年齢層も高めだった。翠は少しの期待と共に、先程の文章を載せた。

 一時間後、翠はすっかりこのネット小説サイトにはまっていた。コメントが来たのである。

「文章が洗練されていますね」

 と言われたのだ。舞い上がった翠は続きを書き始めた。何やら筋のはっきりしない物語だったが、とにかく長々と書けた。翠は菫がアルバイト先から帰ってくるまで、いそいそと書き続けた。

 小説は大受けとまではいかなかったが、続きを載せるたびにコメントが来るので、嬉しくなった翠は菫のいないときを見計らっては書き、夜な夜な投稿していた。

 そして今、翠は小説の続きをぼんやりと空想しながら研究室に向かっていた。歩きながら、道行く学生たちの様子も目に入らない。最近はずっとこの調子だった。楽しすぎて目の前が見えないのだ。小説を書くこと自体が面白くて仕方がなかった。サイトに載せれば反応が来るのも楽しかった。翠は、この趣味を一生やめられないような気がしていた。

「あ、翠」

 研究室に行くと、菫と夏希がいた。翠はふわふわと想像の世界に浸りながら挨拶をする。

「翠、グミ食べる?」

 夏希が差し出したグミキャンディーを、翠はぼんやりしながらむしゃむしゃ食べた。菫と夏希が顔を見合わせる。

「弓田先生の講義、課題出てたよね。翠、どんなの書いた?」

「あ、忘れた!」

 翠が叫ぶと、菫たちは目を見開いた。菫が少し戸惑ったように言う。

「何を? あ、家に置いてきちゃった? 今からなら間に合うよ」

「課題自体の存在を忘れてた」

「えー!」

 二人は驚きのあまり声を上げ、相変わらず何かぼんやりしている翠を見つめた。翠はぼんやりしながら研究室の備えつけのパソコンに向かい、スイッチを入れていた。ここで課題レポートを書くつもりなのだろう。そのまま無言で待つ。

 菫と夏希は顔を見合わせ、もう一度翠を見た。三人の中では比較的しっかり者の翠が課題を忘れるというのはかなり珍しいことだったからだ。

 菫が意を決したように翠に近づいた。

「翠、どうしたの? 最近おかしいよ」

「そうだよ」

 夏希が賛同する。

「ぼんやりしてるしさ」

「どこか悪いの?」

 翠は黙っていた。二人がもう一度声をかけると、はっとしたように翠は二人を見た。

「ごめん、聞いてなかった」

 菫と夏希は、おかしい、という目で互いを見た。

 その日の夜も、翠は小説を書いていた。もしちゃんと二人の質問を聞いていたとしても、翠は誰にも言う気がなかった。墓場まで持っていく気だった。自分の小説は素人の趣味レベルのものだとわかっているし、何より文学部の学生である菫と夏希に読まれたりしたら、恥ずかしくてたまらない。誰かにばれたりしたら、死ぬ。そこまで強く思っていた。

 翌日、研究室に行くと田中が一人でパソコンを使っていた。何だ田中か、と翠は思い、

「お疲れ」

 と声をかけた。田中が振り返る。

「あ、翠先輩。お疲れっす」

 満面の笑顔だ。何こいつ、と翠は思った。礼子ちゃんと別れたばかりなのに、いやに明るいじゃないの。

「田中君は学期末の課題?」

 興味はないが、一応声をかけてみた。

「いえ。何となく見てたんです」

「何を?」

「翠先輩の小説」

 がん、と鈍器で頭を殴られた気がした。

「え、何言ってるの、アハハ」

 死ぬ。死んでしまう。とうとうばれた。よりによって田中に。

 そう思いながらもごまかそうと笑っていると、田中はにこにこ笑いながら、

「この間このパソコンで小説書いてたでしょ。よほど慌ててたのか、消えてませんでしたよ。ネット小説のページ」

 ああ、おしまいだ。首を吊って死のう、と翠は思った。

「大丈夫ですよ。おれ、誰にも言いませんから」

 嘘に違いない、と翠は思った。

「だっておれも書いてるし」

 驚いて田中を見た。相変わらずにこにこしている。

「翠先輩、おれリアルに小説書いてる人に会うの、初めてなんすよ。すっげー嬉しいっす。あの、おれの小説読んでくれません? おれ、ネット小説には興味がないんですけど、その代わり孤独なんすよ。翠先輩と小説を交換して、読み合ってみたいんですけど、駄目っすか?」

「田中君、わたしの小説読んでどう思った?」

 翠は用心のために訊いてみた。田中は彼にしては珍しい真面目な顔になり、

「翠先輩、執筆歴浅いでしょ。話の筋がなくてめりはりがないと思うんすよ。でも、文章がきれいですよね。おれよりずっときれいだと思うっす」

 翠はそれを聞いて決心した。

「そうだね。田中君の言うとおり。明日、昼休みにここで会おうよ。田中君の小説、読んでみたい」


 田中から渡された小説を読み、翠は興奮のあまり眠れなくなったくらいだった。ものすごく面白いというわけではない。世に出ている小説全体と比べたらそんなにすごくはない。けれどプロのレベルだと思った。要するに、田中は小説の書き手として優れていたのだ。

 翌日、翠は田中に会い、にっこり笑って、

「すごい!」

 と言った。田中は嬉しそうににこにこ笑い、

「嬉しいす」

 と言った。

「田中君は近代文学を読みなれてるからね。文章は古めかしいんだけど、その代わり読み応えがあるよね。ていうか、和歌が混じってるのを見て、やっぱり日本文学ゼミ生だなって笑っちゃった」

「そうだろうと思いました。翠先輩のは、翠先輩が研究発表の題材にする現代女性作家の影響が如実に出てて、新しい感じっすよね」

「わたしのほうが年上なのに、作風では田中君のほうが年上みたいな感じだよね」

 二人でくすくす笑う。

「でさ、田中君は」

 そこで研究室の入り口が開いた。

「あ」

 菫と夏希だ。呆然と翠たちを見ている。翠のほうも気まずい。田中だけは相変わらずにこにこしている。

「えーと、珍しいね。翠と田中君の組み合わせ」

 と、夏希。菫はまだぽかんとしている。

「ああ、翠先輩と鷗外の話をしてたんすよ」

 と、田中のごまかし。それはまずい、と翠は思う。鷗外の話をするといったら、菫が田中君を落とそうとしたときに使った手だからである。

「おれ、ご飯食べに行きますね。皆さんお弁当ですか?」

 夏希が戸惑い気味にうなずく。

「翠先輩もお弁当でしたよね。じゃあ、一人で行ってきます」

 田中は機嫌よく出ていった。残された三人は沈黙。

「よくないよ、翠」

 菫が決意したように言った。

「田中君は、よくない」

「いや、違うよ菫……」

「そうだよ、翠。田中君はこの間礼子ちゃんと別れたし、大丈夫だと思うかもしれないけど田中君はよくない。笑った顔の下は悪魔だよ。徳井君が言ってた」

「夏希まで……。いや、狙ってないよ、田中君。ただ、鷗外の話で盛り上がってただけだよ」

 先程の田中の嘘を使うしかないのでそうすると、ますます胡散臭くなった。二人の目が悲しげになる。

「隠してたのは、このことだったのか」

 と菫。

「え、何?」

「確かに、隠したくなるかもね」

 と夏希。

「何を?」

「最近隠しごとしてるでしょ、翠。それって田中君のことだったんだね」

「わたしの件があるしね」

 菫がため息をつく。

「いや、あの、その」

 小説を書いている。その一言さえ言えればどんなに楽か。しかしその一言が出てこず、翠はしどろもどろになった。

「少なくとも田中君は翠を狙ってるよ。気をつけないと」

 夏希の言葉に菫がうんうんとうなずき、翠は、そうなのかな、と少しだけ思った。


「ねえ、田中君」

「何すか?」

 一週間ほど、メールのやり取りだけで小説の批評をし合っていた二人は、やっとのことで直接会うことができた。食堂の片隅で、田中はコロッケ定食を食べている。翠はオレンジジュースを飲んだり飲まなかったりだ。

「田中君って、もてるらしいね」

「そうでもないっすよ」

「いや、彼女、大学に入って六人目らしいじゃん」

「そんなにいたかな」

「彼女、できては別れを繰り返してるじゃん」

「そうかもしんないっすね」

 軽いもんだな、と翠は思った。

「田中君は女の子たちのこと、大して覚えてないんだね」

「いや、覚えてますよ」

「すぐ別れるでしょ」

「おれ、諦めがいいんすよ。好きになるのも早いけど」

「呆れたねえ」

「何すか。翠先輩はおれのこと、好きじゃないでしょ」

「うん」

「ならいいじゃないすか」

「いやあ、うーん」

「心配されてますか? 菫先輩たちに」

「えっ」

 田中はコロッケを一口ほおばり、咀嚼して飲み込んだあと、にっこり笑った。翠は周りが気になって仕方がない。こんな人目につく場所で、二人で昼食を取り、しかも自分がにっこり笑いかけられているのを見られたら大変だと思ったのだ。

「大丈夫っすよ。おれ、翠先輩にだけは手を出すまいって決めたんすよ」

 きょとん、とする翠に、田中は苦笑した。

「おれにとって小説を書くことって大切だから、その仲間を軽く扱うことはしたくないなって。もし好きになったら、いつもより慎重になろうって決めてるんす」

「何それ」

 翠はようやく笑った。田中はそれを見てふっと笑い、

「いや、マジっすよ」

 とつぶやいた。


「えと、田中君の作品、最近マジじゃない? 何か、すっげー面白いんだけど」

「そうすか? 嬉しいす」

 久々に堂々と研究室で話をしていた翠と田中は、いつも以上の盛り上がりを見せていた。

「読み終わってすごく気持ちいいんだよね。清涼感っていうの? 田中君本体とは大違い」

「酷いっすよ」

 手にはお互いの原稿を持っていた。田中によると、印刷したほうがわかりやすいとのことで、早速プリントアウトして読みあっていたのだ。

「で、ここのところ」

「どこっすか?」

「地の文がだらだらしてるんだよね」

「あー」

 扉が開く。翠と田中は慌てて原稿を後ろに隠した。また、菫と夏希だった。運の悪いことに、田中の原稿を二人で読んでいたために、二人の体はくっついていた。

 しんと静まり返る研究室。

「あ、えっと、あのね」

 翠がうろたえていると、菫がふう、とため息をつく。

「翠、家に帰ったら話があるんで」

 夏希はただ悲しげな目を翠に向ける。翠はどうすればいいのかわからない。

 そのあと四人で夏希のくれたガムを噛んだ。会話は弾まなかった。


「翠先輩、本当のことを言ったほうがいいですよ」

 田中から来たメールに、そう書いてあった。アパートに向かいながら、翠はため息をつく。

 言いたくない。恥ずかしい。言ったりしたら死ぬ。

 アパートの居間の扉を開くと、菫と夏希がいた。二人とも真面目な顔だ。

「翠」

「はい」

「座りなさい」

 菫の命令口調にむっとする心の余裕はない。素直に床に座る。ソファーに座った菫と夏希。

「田中君は駄目だって言ったっしょ」

「うん。でも田中君、わたしには興味ないみたいだよ」

「それでも駄目でしょ、田中君は」

「いや、誤解です……」

「田中君はね、礼子ちゃんとつき合ってるときに浮気したらしいよ。それに必ず重なるんだから。礼子ちゃんと南ちゃん。南ちゃんと翼ちゃん。翼ちゃんと優花ちゃん。きりがないよ」

 夏希があの悲しげな目で翠を諭す。

「そりゃあ酷い……」

 翠はそう言うしかなかった。

「そういう酷い男なんだから、好きになっちゃだめだよ」

「そうそう」

「いや、うーん」

「翠? ちゃんと誓ってよね。田中君のことは諦めるって」

「うーん」

「翠」

「あー、でもな」

「どうしたの? 翠。はっきり答えてよ」

 夏希の珍しく強い口調に、翠は押し出されるようにして言葉が滑り出てくるのを感じた。

「小説、書いてまして」

「え?」

 同時に二人が声を上げる。

「小説?」

 と夏希。

「小説書いてんの?」

 と菫。

「……うん」

 そう答えるしかなかった。もう言ってしまったのだ。翠は顔から火が出るほど恥ずかしい。

「ネット小説にはまって、書いてんの。田中君も書いてるっていうから、批評し合ってたの」

「えー?」

「マジマジ?」

「うん」

「読ませて!」

 菫が目を輝かせて迫ってきた。翠はたじろぐ。

「読ませてよ、翠」

 夏希の穏やかな懇願に、頭を抱える。

「……わかった。でも、誰にも言わないでよね」

 結局翠は二人に自分のペンネームを教え、ネットに投稿した小説を読ませた。二人はふんふんと真面目な顔で読み、結構面白そうに言った。

「翠、小説うまいじゃん!」

「うん!」

「そうかな」

 翠は照れてにやにや笑った。しかしすかさず菫が、

「でも、やたら長くない? この小説」

 と言い、夏希がそうそう、と相槌を打つ。

「翠、あらすじも決めずに書き始めたでしょ」

「確かに!」

 菫が大声で賛同する。

「ここのところ直したほうがいいよ」

「そこね、あー、思った」

「あと、ここ、誤字」

「ここは、脱字」

「登場人物の名前、テキトーじゃない?」

「もっと気をつけたほうがいいよ、翠」

 翠は、はいはいと何事も神妙に聞き、二人の言うとおりに直した。

 菫と夏希は翠の小説の編集者になった。ネット小説だからとちょっとの妥協をしても許さない、鬼のような編集者である。翠は二人に言ってよかったのか悪かったのか、未だにわからない。

 夏休みをまたぎ、十月になった。田中はある日、翠を研究室に呼び出した。何だ何だと翠が行くと、田中は珍しく興奮気味に言った。

「翠先輩に読んでもらった小説、新人賞に入選しました!」

「マジ?」

「はい!」

 翠は笑って田中の背中をばんばんと叩いた。田中はにこにこしている。

「あー、また田中君だ」

 菫と夏希がやって来た。翠は田中の制止も無視して言った。

「田中君の小説が入選したから、わたしたち三人におごってくれるって!」

「ほんと?」

「嬉しい!」

「え、いや、何で?」

 うろたえる田中を囲み、三人は喜びの雄たけびを上げた。

《了》


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