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乙女たち  作者: 酒田青
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菫の恋

 三回生になって一月がたったある日、(みどり)が研究室に行くと、パイプ椅子を並べた上に(すみれ)がだらしなく寝ていた。またか、と思った。

「菫、さっきから起きないんだよね」

 並んだ書架の隙間にいた夏希がひょいと顔を出した。こちらも呆れ顔だ。翠はこの対照的な二人を見て、どうして二人は出会ったときに名前を交換しなかったのかと思った。艶のある黒髪を垂らした、自然な化粧の、控えめな服装の夏希。ベリーショートの金髪に、派手なアイメイクと真っ赤な口紅、何やらよくわからない派手な柄のTシャツにショートパンツの菫。おっとりとして優しい夏希。がさつで常に興奮気味の菫。研究室で調べ物をしていた夏希。研究室でパイプ椅子に寝ている菫。夏希に元気一杯の「夏希」という名前は少し似合わない。菫に可憐な「菫」という名前は全く似合わない。交換すべきだ、と翠はもう一度思った。

「呆れるねえ」

 翠が菫を見下ろしながらつぶやく。夏希は本を置いてやってきた。

「どうなの? 菫の女性としての魅力」

「ゼロですねえ」

「夏希の魅力を分けてあげたい」

「少ない魅力を分けたくないよ」

「またまたー」

「いやいやー」

 夏希は実際魅力的だ。美人とはいかなくても顔が整っていてかわいらしさがあるし、男子学生に人気がある。翠はまあまあ。パーマをかけた茶髪にカジュアルな服装なので、普通だとも言える。絶望的なのは菫だ。大人しい人間が多いこの大学では全くもてない。積極的にクラブなどに行くタイプでもなく、格好に関しては完全に趣味であるため、もてるはずの人種に全く出会えない菫は恋人がいたことがない。

「言ってみる? 魔法の言葉」

 夏希が提案する。

「ああ、あの言葉ね」

 翠がうなずく。せーの。

「田中君来たよ、菫」

 がばと起きた菫は、ものすごい形相をしていた。慌てて髪を整える。周りを見る。そこで翠と夏希に目をとめ、やっと気づいたかのように唇を尖らせる。

「またやったな!」

「えー、菫のためにやったんだよ」

 と夏希。

「そうそう。アホ面して寝てるからさ」

 と翠。

「田中君が来たら大変」

「軽蔑されるかも!」

「ああー! そっかあー!」

 髪をかきむしる菫に翠と夏希は大笑いした。全く素直である。彼女ははたと動きをとめ、バッグから折りたたみ式の鏡を取り出した。鏡の中の自分の顔に見入ると、ポーチから出した頬紅をブラシでつけ始めた。翠と夏希はにやにやしながら眺めている。

「今田中君が来たら、と思ってるでしょ」

 翠が言うと、菫は力強くうなずいた。

「当たり前じゃん。いつでも準備できてるのが乙女っしょ」

「なら研究室で寝ちゃ駄目だって」

 夏希の忠告に、

「だってバイトが……、夜勤が……」

 と菫はしょげる。彼女はレンタルDVD店でアルバイトをしている。

 脂取り紙で顔をぺたぺたと拭き、彼女にとっての最良の姿になった菫はパイプ椅子に座った。

「大変だよね、就職活動」

 菫の言葉の唐突さに、翠と夏希はまた大笑いした。

「何? まさか会話まで取り繕おうとしてる?」

 翠が言うと、菫はさあさあ続けて、と言わんばかりの笑顔を作った。

「えー、そうだね。就職活動」

 夏希は優しいのでつき合ってくれる。しかしすぐにくすくす笑い出し、

「わたしたち、まだ三回生になりたてだから誰も就職活動やってないでしょ!」

 と言った。菫はまあまあいいから続けて、という顔を作っている。

「そうだね、就職活動は大変だよね。わたしたちも苦労すると思うよ……多分……」

 翠は真面目な顔でそこまで言って、最後には笑い出した。菫と夏希も釣られて、最終的には三人で笑いまくった。研究室の外は光に満ちている。

「あれ? 先輩たちいたんすか」

 若い男の声に、翠と夏希はぴたりと笑いやみ、菫はぎくりと動きをとめた。開いた引き戸から顔を出しているのは正しく田中だ。翠と夏希は菫を盗み見る。唇をぎゅっと閉じ、瞬きをむやみにしている。先程入れた頬紅が必要以上に頬を紅潮させているように見える。乙女の顔だ。翠がにやつく。それを夏希がつつく。

 田中は背の高い、優しそうな顔をした青年で、今年日本文学ゼミに入ったばかりの二回生だ。礼儀正しく成績もよく、教授たちの覚えもめでたい。口調が軽いのが玉に瑕だが、こういうわかりやすい「好青年」こそが菫の好みなのだった。

「田中君、お菓子食べる? 研究室用にクッキー買ってきたんだ」

 夏希がバッグから取り出し、菫に田中を近づける餌としての袋入りクッキーをちらつかせた。

「あ、いただきます」

 田中が近づいてきた。しめしめと翠、夏希。菫は強張っている。ところが。

「礼子ちゃん。先輩たちがお菓子くれるからおいでよ」

 あっ、と三人は心の中で声を上げた。研究室に入ってきたのは今年フランス文学研究室に入った、かわいいと評判の女子学生だったのだ。長い黒髪。大人しそうな控えめな表情。少しぽっちゃりしている。これはもてるな、と三人は思った。

「あ、礼子ちゃんていうの。噂はかねがね」

 翠が冗談めかして言うと、礼子は怯えた顔を見せた。当然である。夏希が慌てて全員にクッキーを配ると、礼子は小さくお礼を言い、それ以上近づいてはこなかった。田中が礼子を気遣うように書架へ案内する。

「あ、あれじゃない? 礼子ちゃんが探してた研究書」

 田中の声がする。礼子の声は聞こえない。よほど小さな声らしい。翠、夏希、菫の三人が息を詰めて耳を澄ましているのがわかるからだろうか。田中と礼子は目当ての本を持ってきてテーブルの上の「貸し出しの記録」ノートに名前とゼミ名と日付を書きつけると、そそくさと去った。

「あ、夏希先輩。クッキーありがとうございました。いつもかわいいすね」

 去り際の田中の言葉を、菫はしかと聞いた。

「駄目だ。彼女だよ」

 肩を落とす菫に、二人はまあまあ、とか、いやいや、とか、曖昧な言葉をかけた。

「多分彼女じゃないよ。礼子ちゃん、フランス文学ゼミの同級生の彼氏がいたはず」

 夏希が思い出すようにそう言うと、菫は目を輝かせた。

「マジ?」

「マジマジ」

「でもさあ」

 翠が口を挟む。菫がどきりとしたように見る。

「わかりやすいよね。田中君の好み。黒髪で、大人しい可愛い子が好きみたいだし」

 菫ががっくりと首を垂れる。

「わたしと真逆じゃん!」

「そうだねー」

「まあまあ菫」

 夏希が慌てて割り込む。

「菫もきっと、黒髪にしておしとやかにしたらすごくもてるよ」

 この言葉は「菫にも魅力がある」という意味の言葉で、決して「黒髪になっておしとやかになれ」という意味ではないのだが、菫は誤解した。

「黒髪かあ」

「うん」

「ナチュラルメイクとか、いいかもね」

「うん!」

 翠は、まさか、と思った。が、その通りだった。

「よし、わたし黒髪にしてくるわ」

「え?」

 夏希が間抜けな声を上げた。やはり、と翠。

「今から髪染め直してくる。講義とか関係ねー。夏希、あとで家に行くからナチュラルメイクのやり方、教えてね」

「えー!」

 絶句している夏希を尻目に、菫は荷物をまとめて早足で歩き出した。手にはクッキー。

「じゃね。お楽しみに!」

 菫が引き戸を閉めると、呆然とした夏希、半笑いの翠が残った。


 翠がアパートに帰ると、少し広めのリビングで菫が待っていた。二人はルームシェアをしているのだ。菫のベリーショートの髪が真っ黒に染まっている。翠は菫の後ろから近寄り、顔を覗き込もうとした。

「じゃーん!」

 菫がいきなり振り向いたので、近づきすぎた翠はのけぞる。それから驚く。

「眉がある!」

 菫が得意げに笑った。金髪に合わせて眉もブリーチしていた菫は、眉がなかったのだ。それが、ある。

「化粧も自然じゃん。どうしたのどうしちゃったのー」

 アイメイクは控えめなのに、目が大きく見える。頬紅は薄いのに、血色がよく見える。童顔の菫の顔が引き立ち、なかなかかわいい。これがナチュラルメイクの魔法か、と思った。それを察したのか、菫は勢いよくしゃべりだした。

「ナチュラルメイクってすごいよ。まずね、ベース。ベースメイクを丁寧にやるのがコツ。ファンデーションは二色使う。顔の内側と外側ね。内側に明るい色、外側に暗い色。フェイスパウダーも忘れちゃ駄目ね。肌をきれいに見せるわけ。で、ハイライト。出てるように見せたい部分にこの白いパウダーを乗せるわけ。チークは二色使う。顔に奥行きを作り、頬を立体的に見せるのね。練りチークが一番自然に見えていいよ。アイメイク! アイメイクはあくまで薄く。ただしたくさんの色を丁寧に乗せるのね。マスカラは一度塗り。でもビューラーとマスカラ下地でしっかり睫毛を上げなきゃ駄目。アイラインは細く! 太いと自然に見えなくなる。口紅は、ピ・ン・ク。もちろんリップライナーで縁取りして、グロスで立体的に……」

「わかったわかった。すごいね」

「わたし夏希を尊敬するわー。こんな難しいテクを使って、かわいい顔をますますかわいく見せてたわけだ。確かにねー。すっぴんと顔違うなとは思ってた」

「難しいの? それって続けられるの?」

 翠が訊くと、菫は、

「続けてみせる!」

 と叫んだ。


 菫は結果的に三週間ほどナチュラルメイクを続けた。翠と夏希はなかなか頑張るなと感心したものだ。服も夏希に借り、ジーンズに短めのワンピース、時々スカート、と努力した。自分で何着か買いもした。好みではない服のために、と翠は心配したが、夏希は同じような服を着たがる菫をかわいく思った。

 菫は田中に話しかけた。田中は近代文学好きのインテリなので、合わせるために好きでもない欧外を読んだ。たどたどしいながら、話ができた。田中は、仲間ができて嬉しいす、と笑い、菫の心を爆破しそうになった。

 しかし終わりの日がやってくる。

 その日、翠と夏希は研究室でうだうだしていた。世間話を、たまに菫の恋の話をする。

「菫、偉いよ」

 翠が言うと、夏樹が微笑んだ。

「確かに」

「あそこまで頑張る菫、初めて見た」

「かわいいよね」

「かわいい。あんなに一生懸命なのに田中君が気づかなかったら、そりゃあもう酷いよね」

「そうだよね」

 引き戸が開く音がした。二人は話題が話題なので用心のため黙り、振り返った。菫だった。絶望した顔をしている。

「どうしたの?」

 驚いて夏希が訊いた。翠も無意識に立ち上がる。

「田中君にさっき会った」

 菫は力の抜け切った声で言った。

「菫先輩、最近かわいいすね、って言われた」

「よかったじゃん」

 翠が笑うと、菫は首を振った。

「あ、彼女っす、と彼は言いました」

 何故か丁寧語。翠と夏希は息を呑む。

「礼子ちゃんです。この間うちの研究室に来ましたよね、と彼はさわやかに笑いました」

「ええー!」

 二人は同時に叫んだ。

「え、だって」

 と翠。

「彼氏は?」

 と夏希。

「この間別れたそうな」

 と半笑いの菫。

「ええー!」

 ともう一度叫ぶ。

「だよねだよね!」

 と菫が叫ぶ。

「ありえないよ。もう絶望だよ。わたしの人生終わったよ……」

 そうつぶやいて落ち込む菫を、翠と夏希は励ました。

「大丈夫! 田中君の次行こう、次!」

 と翠が言うと、菫はため息で答える。

「今はそれどころじゃない」

「今日はさ、買い物に行こうよ。菫の好きなもの買おう」

 夏希が言う。

「あ、それはいいかも……」

 心なしか、菫は元気になってきたようだ。現金だな、と二人は笑う。と、そこに誰かが現れた。

「あれ? おれ邪魔だった?」

「あ、徳井君」

 夏希の恋人、徳井である。完璧な人間とは徳井のことを言う。顔もよく、成績もよく、将来有望な法学部の院生だ。性格もいい。

「菫がね、失恋したんだ」

 夏希があっけなく言うと、慌てる菫をよそに翠も言う。

「田中君ていう素晴らしい青年だったんだけど、彼女ができちゃったんです」

「田中? あいつまた彼女できたの?」

 また? 三人は黙り込み、徳井ににじり寄った。うろたえる徳井。

「えっと、夏希と同じゼミの田中だろ? 二回生の。あいつ男子には評判悪いよ。次々に女子をとっかえひっかえしてる。顔がいいのと優しそうに見えるのとで女子にはもてるみたいだけど、あいつはやめたほうがいい。痛い目見るよ。彼女とられたやつ、何人か知ってる」

 菫は呆然としている。翠は考え、夏希は結論に達した顔。

「わたし、実を言うと田中君嫌いだった。そうか、言葉の端々に出てたもんね、女の子好き」

 夏希が言うと、翠はやっと納得した。

「女の子を見るとかわいいかわいい言ってたもんね、必ず」

「そうそう」

 夏希が相槌を打つ。菫は、顔を憤怒の色に染めている。そして、突如叫ぶ。

「許さん!」

 菫は走り出した。翠、夏希、そして徳井は、菫が田中を殴りにでも行くのかと思った。失恋の腹いせに。しかしそうではなかった。

 その日、行方の知れなくなった菫を心配し、夏希は翠たちのアパートに来ていた。翠と夏希はソファーに座り、テレビを前にそわそわと落ち着かなかった。玄関のドアが開いた音。

「ただいまー」

「あ、菫、どこ行ってた?」

 翠が立ち上がって訊く。リビングを塞ぐドアの向こうにいる菫は、

「バイトー」

 と気の抜けた声を出す。親にしつけられたとおりきちんと手洗いうがいをしている菫の物音。二人がほっとして顔を見合わせる。

「夏希来てるんだね。靴あった」

 そう言いながら現れた菫は、金髪に派手な化粧に服装だった。ぽかんとする二人を、菫はおかしそうに見る。

「やっぱねー、一番辛かったのは金髪やめたことだよね。田中のせいでアホなことした」

 恋が終われば「田中君」も「田中」である。翠と夏希が苦笑する。

「わたしはもてようがもてまいがこのままでいくわ。うん」

 菫はうなずき、ソファーの後ろから二人の真ん中に乗り込んでどっかり座り、テレビのボリュームを上げ、お笑い番組をげらげら笑って観始めた。翠と夏希は、くすくす笑って顔を見合わせる。それを上回る大声で、菫は大笑いした。いつもの菫だ、と二人は思った。

《了》

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