エガちゃん
春。念願の国立大学に入学し、浮かれていた俺を、奈落の底へ突き落とす処分が下された。
――江頭孝介を三〇日間の停学処分とする。
入学してから僅か十日余り。国立とはいえ安くない学費を負担してもらっている親にこのことがバレたら殺されかねない。前期の単位はどうなるんだ。早くも留年確定なのか。だとしたら、余分な一年分の学費はどうするんだよ。
後悔先に立たず。今更、悔やんでも悔やみきれないが、それでもあのときは、あいつを殴らずにはいられなかった。
そう、俺が停学を食らった理由は、入部しようと訪れたテニス部の部室で、一人の部員を殴ったからだ。
俺が卒業した高校のテニス部は、強豪校として知られていた。どうせなら強い部に入りたいと思っていた俺は、テニス部を選んだ。ところが、この部ときたら、今どき珍しいほど先輩後輩の「上下関係」が徹底されていたのだ。
先輩方のために、学食の席取りや購買部へのパシリなんてのは毎日で、練習着の洗濯や部室の掃除なども下級生の役目。先輩の機嫌が悪いだけで殴られもした。他にもテニス部独自の掟が多数あり、頭は五厘刈りの坊主頭。炭酸飲料は決して口にしてはならず、甘食も許されない。男女交際なんてもってのほかで、俺の同級生は、バレて即退部処分となった。
そんな時代遅れで理不尽な部でも俺が続けられたのは、テニスというスポーツの虜になってしまったからだ。テニスと相性が良かったのか、俺はぐんぐん上達し、一年の秋には団体戦のレギュラーに選ばれ、二年生からは中心メンバーになった。その分、先輩方からの妬みも強烈だったが、辞めようとは思わなかった。
しかし、どうしても嫌で嫌で仕方がなかったことがあった。それは、新入生の歓迎会、予餞会など余興の場で、必ずある芸人の物真似を強いられることだった。黒タイツを履き、上半身は裸で「ふおー! うおー!」と奇声を上げながらへんてこなポーズを取り、辛子のチューブを一気飲みしたりした。毎回爆笑をとれたのはいいが、その芸人とは、顔も声も体格も似ていないのだ。ただ、俺のあだ名が「エガちゃん」ってことだけで、体を張った物真似を強要され続けたわけで、いつも、はらわたが煮えくり返る思いだった。
先輩方は、決まって俺のことを、エガちゃんとかエガシラとか呼んだが、同級生と後輩には、絶対にそう呼ばせなかった。俺が三年生になったときには、あだ名は禁句同然の扱いとなっていた。
それなのに――。
「あーっ! エガちゃん久しぶり!」
にこやかに俺を出迎えたのは、なんと高校のテニス部の後輩、加賀だった。俺は怒りに体を震わせた。
加賀は、しまったと顔を青ざめさせたが、すでに俺の右拳は唸りを上げていた。一発で背中から倒れた加賀の上に馬乗りになり、拳を振り上げた。許せなかった。後輩のくせに俺をあだ名で呼んだ加賀のことが。そのときは、二浪して入学した俺が、今では加賀の後輩になってしまっている現実なんてすっかり頭から飛んでしまっていた。
俺が拳を振り下ろす前に、パン! と小気味いい音がして、俺の頬には赤い手形がついた。
「警察を呼ばれたいの!?」
俺の頬にビンタを食らわせた女は、射るような目つきで言った。ようやく我に返った俺は、駆けつけた学生課の職員に連れられ、事情を聴取され、結果停学の処分が下った。
とはいえ、三〇日間ただ指を咥えているわけにもいかない。俺は、大半の出席が取られない大教室で行われる授業にはこっそり参加した。幸い停学中の身分がバレることはなかった。
これなら前期試験もなんとかなるだろう。しかし問題は、テニスだ。もうテニス部に入部することは不可能だ。そこで、仕方なく俺が選んだのは、学校非公認の「テニスサークル」だった。このサークル、週に一度しか練習がないうえに、参加は完全自由。テニスの上達が目的ではなく男女の出会いを最重要視した超軟派なものだった。当然、真剣にプレーしたい俺には物足りない。コートで一人黙々と練習に打ち込む俺は完全に浮いていて、当然友達もできなかった。
ようやく停学が明けて、初めて英語の授業に参加できることになった。教室には三〇人足らずの学生がいて、その中に見覚えのある顔が交じっていた。誰だっけ? と終始そればかりが気になってしまい、全然授業に集中できなかった。
授業の終わりを報せる鐘が鳴ったとき、俺の頭の中で電球が光った。テニス部の部室で、俺の頬をはたいたあの女だ! てっきり上級生だと思っていたのに、まさか彼女も一年生だったとは。
「まさか同じクラスとはね」
講義棟を出たところで、彼女の方から話しかけてきた。俺はバツが悪そうに軽く頭を下げた。
「先日はご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「あたしよりも加賀先輩には謝ったの?」
俺はぎくりとした。あの一件以来、加賀と鉢合わせしないよう部室付近は通らないようにしていたからだ。
「俺が加賀……くんを殴った理由は知ってるんですか?」
「まあ大体は。同じ高校で、あなたが先輩だったんでしょ?」
俺は頷いた。
「そんなことで人を殴るなんて。警察に被害届を出されなかっただけでも加賀先輩に感謝したほうがいいわよ」
彼女のあまりに横柄な口振りに俺は青筋を立てた。
「あんたになにがわかるってんだよ!」
「わかるわよ。あたしはご覧のとおりあなたよりずっと年上なんだから」
やっぱりそうか。同級生にしては老けて見えるし、なにより雰囲気が大人びている。
「教師になる夢を諦めたくなくて、働きながら勉強してお金を貯めたわ。あなただって二浪してでも教師になりたいからここにいるんでしょ? もっと自分の立場を自覚しなさいよ」
うっと俺は言葉を詰まらせた。教師になってテニス部の顧問になることが俺の目標だった。それを「傷害罪」で棒に振ってしまうところだったのだ。
「あ、智美」
横を通りかかった三人組の女子が彼女に声をかけた。
「あたしたち今からお昼に行くんだけど、智美も行く?」
「ごめんなさい、今日はちょっと。また今度誘ってください」
ぺこりと頭を下げる彼女に「うん。じゃ、また今度ね」と手を振って去っていった。
「テニス部の先輩よ。歳は五つも下だけど、単位の相談とか甘えさせてもらってるわ」
「呼び捨てにされてたけど……」
「あたしから呼び捨てにしてくださいって頼んだの。自分から言わないと先輩たちだって気を遣うのよ。歳は上でも、みんなと同じ後輩として接してほしいから。結構楽しいわよ。自分が若返った気分にもなれるし」
彼女は冗談っぽく笑った。
「うちに入部してよ。あなたが入部すれば、一気に強くなるはずだって加賀先輩も言ってたし、年上の同級生もいるのよ。気が楽でしょ?」
「でも……」俺は俯いた。「先輩を殴った俺が入部なんてできるのかな」
「もちろん! ただし、あなたから加賀さんに謝ってよ。そうしないと、加賀さんの方が先に謝りかねないから」
「そうですね」俺は苦笑した。加賀は高校のときから人懐っこい性格だった。後輩にも優しく接していたからよく慕われていた。
「入部したいです」
言葉に力がこもった。すると、彼女は満面の笑みで、
「うん! よろしくねエガシラ君」
握手の手を差し伸べてきた。俺はその手を握りながら言う。
「俺の名前はエガシラじゃなくて、江頭だから」
だから、エガちゃんってあだ名はよけい嫌いなんだ。
某配信サイトで企画されていたショートショートに投稿した作品です。