第一章 〜 八
そうして正巳が佳一に連れてこられたのは、地元の駅に程近い土地に建つ十七階建のマンションで、家の間取りは3LDK。
その広さから家族が一緒に住んでいるのだろうと思ったのだが、通された居間に自分達以外の人の気配はなかった。
「…?」
そういえば玄関には靴が一足も出ていなかったことを思い出し、小首を傾げる。
そんな彼の様子に佳一がどうしたのかと声を掛けてきたが、正巳は適当にごまかし、フロアを汚さないように靴下を脱いだ。
「あ、それ洗濯機に入れておいて下さい。風呂もすぐに用意しますから」
「ぇ…、いや、でも…」
「入ってください。いくら四月だって夜は冷えるのに、そんな薄着で走っていたんですよ? ちゃんと暖まってきてください」
「…ぁあ…」
「夕飯は食べましたか?」
「あぁ、それはちゃんと…」
伯母が作り置きしていってくれたものを、居間のソファで転寝する前に食べていた。
ほとんど食欲もなく、食べたと言い切れるほど量は取っていないが、どのみちこれから食べる気もしない。
そういえば今は何時なのだろうと気になって部屋を見渡し、壁に掛かっている時計の示す時刻に目を瞠る。
「十二時半…っ?」
「え。あぁ、今の時間ですか」
「おまえ、こんな時間に外で何していたんだよ!」
「それを先輩が聞くんですか?」
外に出ていたのは正巳も同様だということを佳一は言いたかったのだが、事情が事情だけに正巳にしてみれば自分と佳一はまったく違う。
そういう顔をするものだから、佳一は苦笑交じりに答えた。
「散歩していたんです。夜の散歩」
「散歩?」
「そ。時々、外を出歩きたくなるんです、ここに一人でいると気が滅入ってしまって」
「――」
一人。そう口にした佳一の言に、正巳の心臓が大きく跳ねる。
「…一人…って、おまえ、家族は…?」
それはどういう気持ちで尋ねた問いかけだったのか。
何か…。
何かを求めるように、思わず口をついて出た言葉。
それにハッとして口を覆った正巳を、だが佳一は相変わらずの穏やかな表情で受け止めていた。
「そこの襖、開けてみて下さい」
「…?」
テレビが置かれている居間の角に平行して、隣に和室があるのだろう。
言われたとおりに襖を開けると、居間の明かりを取り入れて照らし出される和室の様子。
真正面にあったそれは、他の何よりも先に正巳の視界に飛び込んだ。
「仏壇…?」
位牌は四つ。
仏花と、菓子と、家族の写真…。
「……!」
写真に写っているのは若い両親と、今に比べると数倍の初々しさが漂う中学生くらいの佳一だ。
仏壇に立てられた四つの位牌は、両親と、祖父母のものだろうか。
「両親は三年前に事故で他界しました」
「事故…?」
同じなはずがないけれど、似た境遇に目を瞠る正巳の様子をどう解釈したのか、佳一は静かに微笑うだけ。
「……っ」
その静けさが正巳にはたまらなかった。
どうしてそんなふうに、静かに微笑えるのだろう。
無理なく、自然に。
三年も経てば、自分もこれほど冷静に、他人に自分の両親のことを語れる日が来るのだろうか。
分からない。
今の自分に未来があるのかどうかも、自分のことも、あの家に何がいるのかさえも解からなくて、理解出来なくて。
今まで押し込んできたものが溢れてくる。
佳一の微笑は、…残酷なくらい、優し過ぎた…。
「なんでおまえ……っ、苦しくなかったのか……っ?」
「え…?」
「なんでそんな…っ……そんなふうに微笑って…そんな顔されたら俺がバカみたいじゃないか…!」
「先輩?」
「俺…っ…俺ばっかりこんな淋しがってンのバカだろうが……!」
苦しい。
苦しくて、辛くて、あの家に一人でいるのは耐えられなかった。
「辛いの判っていて一人で残って……っ…、そうでもしなきゃ親が死んだこと自覚出来ないって…そんな俺って一体なんだよ……」
「――」
耐えられないと判っていて、それでも伯母を先に米国に帰し、一人であの家に残ったのは、こんなに苦しいのに両親の残影に縋りつきそうになる己を自覚していたからだ。
二人はもういないと判っていながら、それでもあの家から離れたくないと思う自分。
思い出の場所を手放したくないと叫びそうになる自分。
十三年間過ごしたあの家にいれば、もしかすると――否、きっと両親が帰ってくる、そんな愚かなことを信じている自分が憎らしかった。
だったら独りであの家にいることがどれほどの苦痛なのかを経験しさえすれば、否応なくあの家を捨てられると思ったのだ。
「学校だって…俺の居場所なんか日本にはないって…何もないんだって…だからアメリカ行くしかないんだって納得したくて……っ」
あの場所には、もう友達はいない。
誰一人、両親を亡くした自分に掛ける言葉を見つけられず、遠巻きに見ているだけの居心地の悪い場所。
そんな空間で以前の日々は取り戻せない、そう思い知れば未練なく転校出来ると思った。
だがそれは自分本位な行いでしかなく、結果はクラスの皆に嫌な思いをさせてしまっただけだ。
それでも離れ難く思う自己に嫌気がさす。
何度も、何度も。
愚かなことばかり。
間違いばかりを繰り返して、…きっとこれからも間違い続けて。
自分の中の何かが、どんどん壊れていっているように思う。
そうでなければ、あの家に二人が帰ってくるなんて――例えそれが自分の願った光景だったとしても、死んだ人間が帰ってくるなんてことは絶対に有り得ないんだ。
「…んで……っ…、なんで家にいンだよ…」
挙句、両親の姿を見て恐ろしいと感じ、逃げ出してしまった。
……そんなふうに思う自分自身が何よりも恐ろしかった。
相手が親なら、子供らしく手放しで喜べば良かったのではないか。
死んでしまった人達が帰ってくるなんて、絶対に有り得ないことが起きたならば、それは奇跡。
たとえ幽霊でももう一度会いたいと願ったなら、これほど幸せなことはないはずなのに、実際に胸中を占めたのは溢れんばかりの恐怖だった。
「だんだん判んなくなってくる…っ……何が現実なのか、どれが本当なのか分かんなくて…っ」
あるはずのないものが現れたことが、ただ恐ろしくて。
「もぅ…っ…もう俺はおかしくなってるんだ……!」
「先輩…」
彼は、自分が口にしたことのどこまでを自覚しているのだろう…、佳一はふとそんなことを思いながら、正巳の震える手を取った。
耐えていることが痛いほど伝わってくるから、こんなに悲痛な叫びを訴えながら、それでも瞳から零れ落ちることのない水滴に同情さえしてしまいそうになる。
「…、ご両親が亡くなってから、一度でも人前で泣いたことがありますか?」
「…っ……」
「どうしてご両親が亡くなったことを寂しがるのがバカなんですか」
「…って…、だって俺が泣いたら伯母さんが泣く…」
可哀相に、と泣く。
彼女もまた亡くなった二人を想って涙する。
「俺がいつまでもこのままじゃ…周りが…、周りが困る…」
今日の学校での気まずい雰囲気。
たった一言すら爆弾になりかねない居心地の悪い思い。
それを、周囲の皆に味合わせてしまうんだ。
「…俺が…、俺が…さっさといなくなればよかったのに…弱くて…この場所に縋り付いたせいで…っ」
「違う」
悲痛な叫びとも取れる正巳の言を、佳一は即座に遮る。
「そんなのは違います。周りのことばかり気遣って、自分を殺して、辛いのも寂しいのも全部自分の中に押し込んでいれば、本当におかしくなってしまう。今の話を聞いていたら、先輩は自分で自分を追い込んでいるようにしか思えません」
「…っ……」
低くも高くもない、印象的な甘い声。
優しい音。
彼の言葉の一つ一つが、遠い面影を揺さぶる。
心の中の熱いものを煽られて、感情では泣いていると思うのに、それでも瞳から涙は毀れない。
泣けない、…泣いてはいけない。
両親は死んでいないのだと思い込みたい気持ちと、周りが困るからと泣くことを自身に禁じた自己暗示。
佳一はそれを察し、そっと正巳を抱き寄せる。
「――っ、おい!」
嫌がり、突き放そうとする力を阻み。
「泣いてください」
「……っ…?」
囁くように訴えられる言葉に正巳は息を呑んだ。
「…今すぐにここで、とは言いません。泣きたくなったらで構わない。…けれど、このままでは貴方の心が壊れてしまうから、泣けるようになったら俺の前で泣いてください。先輩が自分の中に押し込めてきたもの、俺が全部受け止めます」
「…ンで……」
「先輩が一人で苦しんでいるのは辛い」
「…なんで…おまえに関係ないのに…」
「関係ないことはないでしょう、家にまで招待しているんですから。――まぁ、明確なものが欲しいと言うなら今から関係を結んでも構いませんが?」
「っ! おまえ…っ」
「冗談です」
「〜〜〜っ」
顔を真っ赤にして目を吊り上げる正巳を放して、佳一は笑った。
頬を引きつらせる正巳が、それでもいつもの調子を取り戻しつつあることを敏感に察して安堵する。
「でも、泣いて下さいと言ったのは本気ですよ。ずっと我慢していれば必ず限界が来る、それでも我慢しようとすれば、先輩の心が壊れてしまう…、俺は、そんな貴方を見たくはないですから」
「おまえに見せなきゃいいんだろ!?」
「それは無理でしょう」
「ンでだよ!」
「なんでって、本当にアメリカに行ってしまうまで傍を離れる気が俺にはありませんし、先輩の限界はその前に来るでしょう?」
「そんなの分かんないだろ、限界来る前に立ち直るかもしれないし…っ」
「それはないです」
「なんで!」
「こんな俺でも、自分が経験した痛みは忘れられないものですよ」
「――」
「一人で我慢していたら、きっと俺も耐えられなかった。優しい祖父母がいてくれたから乗り切れたと思います」
「文月…」
「自分が祖父母のようになれるとは思いません。それでも、先輩を独りにはせずに済むと思うから」
佳一の言葉に、正巳は言葉を失い、もう二つの位牌を見つめる。
その二人も今はなく、この家に彼は、独りきり。
「だから泣きたくなったら俺を呼んでください。どこにいたって、必ず駆けつけます。先輩が望んでくれるなら火の中、水の中ですよ」
目を逸らした正巳に、けれどやはり佳一の声音は優しかった。
「呼んで下さい。ずっと傍にいますから」
どこまでも。
どこまでも自分を労わる気持ちが伝わってくるようで、正巳は唇を噛み締める。
「まぁ…そういうことで、今夜は二人きりなんですが、先輩はこの和室で休んでください。いくら俺でも親の前で不埒な真似は出来ませんし、その方が先輩も安心でしょう?」
冗談交じりに笑んで告げる彼を、正巳は直視出来なかった。
「バカ…」
ようやくのことでそれだけを言い放ち、佳一が困ったように笑うのを聞く。
本当にバカだ。
彼がではなく、自分が。
こんなふうに優しくされて、…泣きそうになって。
それでも絶対に泣いてたまるかと虚勢を張るしかない自分が、情けなくて、悔しい。
しばらくして風呂の用意が出来たからと促され、浴室に押し込まれた正巳は、だが佳一の視界から逃れられたと同時に自己嫌悪の重みに押し潰されてしまいそうだった…。