第一章 〜 七
「―――…っ!」
昨夜と同じ、強い衝撃を受けたような目覚め。
正巳はソファで目を覚まし、微かに痛む頭を振って起き上がった。
帰宅してから何をする気にもなれずソファに寝転がっていた正巳は制服のまま。
「っ…」
起き上がると同時に激しい頭痛に襲われた。
照明がついたままの居間。
電源がついたままのテレビ。
昨日とまったく同じその光景は、しかし不意に届いた、何か紙のようなものを捲る音に一変させられる。
「ぇ…」
何の音だろうと怪訝に思い、左方に視点を移すと、誰かが隣のソファに座っていた。
「ぇ…?」
長い足を組んで、新聞を読んでいる人物。その紙面に隠れた顔は、誰の顔?
「あら、やっと起きたのね?」
「!」
その声に、まさかと思うより早く振り返った正巳の背後に、優しい笑顔。
「制服のままで寝ちゃうなんて…、学校で疲れることでもあった?」
「…ぁ…母さん…?」
「? どうしたの正巳。何か変な夢でも見たの?」
目を見開いて自分を凝視する正巳に、彼女は小首を傾げて問いかけた。
「夢……?」
夢なら見ていた。
暗い、寂しい空間で独りきりだった夢。
黒い塊を両親だと言われて、けれど信じられずに呆然と座っていた、―――夢。
「ぁ…夢、だ……」
「正巳?」
夢だ、全部。
何もかもが全て夢で、現実はここ。
父さんも母さんも生きている。
この家だって、何も変わっていない。
自分は独りなんかじゃない。
「…すごい、変な夢だった…。父さんと母さんが死んだって言われて…俺…」
「おいおい、それはひどいな」
呆れた笑いを交えながら親子の会話に参加して来たのは、新聞の向こうに顔が隠れていた、父親。
「夢は見る人間の願望を映す鏡なんだぞ?」
「! そんなこと…っ!」
父さんと母さんが死ぬなんて。
そんなの望むはずがない。
だってそんな辛いこと。
苦しいこと。
……経験したこともないのに、それがどんなに哀しいか、解る気がする。
夢で見ていたから。
ずっと、…苦しかったから。
「俺…そんなこと…っ!」
「あぁっもうアナタ! 正巳は感受性が強いんだからそういう性質の悪い言い方で虐めるのはやめてちょうだい!」
「ハハッ。すまんすまん、正巳をからかうのは楽しくてな」
母親の剣幕から自分をガードするように新聞紙で顔を半分隠しつつ応戦する父親。
二人の遣り取り、その言動。
正巳は何故だか泣きたくなって、それを誤魔化すように口を開く。
「…っ…お、俺って、そんなにからかうと楽しい?」
「え?」
「学校でも言われたんだ。俺はからかうと楽しいって…――」
からかいたくなるタイプだって。
虐めて遊びたくなるって。
……誰に言われたんだった……?
「正巳?」
「!」
どうも夢と現実の区別がついていないようで、正巳は頭を振る。
「ごめん、俺、なんかまだ寝惚けているみたいだから顔洗ってくる」
「それならお風呂に入っちゃってちょうだい。上がったら夕飯にしましょう」
「うん」
両親に見送られて、正巳は居間を出た。
歩き慣れた家の廊下を洗面所に向かい、扉を開ければ明かりのついた浴室。
玄関も、洗面所も。
居間も台所も和室も、自分の部屋も。
家族の匂いがする。
優しい空気が流れている。
あんな悪夢を忘れさせてくれる部屋の光り。
「そうだよな…、俺がアメリカに引っ越すなんて…」
そんなのも全部、全部が夢。
ただの悪夢。
両親は居間にいるし、自分はここにいるし。
誰も死んでいないし。
みんな、笑っているし。
「――」
洗面所の鏡に映る自分。
じっと見ていると、寝ながら泣いていたのか、目の下に跡が見える。
髪には寝癖がついていて、これから風呂に入るというのに何故か気になり、それを手で撫で付けた。
と、不意に蘇える記憶。
―――先輩、忘れ物。
そう言って、軽い足取りで近付いてきた彼が。
「誰…?」
文月佳一が。
頭に触れて、髪にキスして。
「――」
明日の朝、迎えに行くって。
―――からかいたくなるタイプ…
―――虐めて遊びたいタイプ…
そう言われて腹を立てて、彼らを置いて学校に行ったら、伝言という嫌がらせを受けて、結果的に教室の皆に嫌な思いをさせた。
久津木将信に、慰められて。
昼休みが終わると同時に家に帰ってきた。
一人で。
……独りで。
「…っ!」
あれが夢?
どれが、夢?
父さんと母さんは?
伯父さんと伯母さんは?
泣いていたのは誰。
独りになりたくないと願ったのは、誰。
「ぁ…」
願ったのは――自分。
「ぅわ…っ……!」
驚愕と、動揺と、そして恐怖。
こんなことは有り得ない。
だって、あれは夢だ。
自分は独りじゃないなんて、自分が夢に見た、ただの夢だ。
だから願ったんだ。
独りが嫌だから願ったんだ。
「……っ」
洗面所を飛び出し、居間に戻る。
一時前と変わらない光景がそこにある。
「どうした、正巳」
その声が、どんなに優しい父親のものでも。
「また変な夢でも見たの?」
大きな目を可笑しそうに和ませる母親。
温かな想いを乗せた眼差し。
夢なら見た。
自分は独りではないと思わせてくれる夢。
そうであったらいいと、願うもの。
この光景を夢に見た。
「正巳、どうした」
「っ…!」
けれど。
新聞の向こうから表れた父親の顔が、心配そうに見つめてくれても。
母親が心配してくれても。
夢は、夢。
「…っ……!」
夢は。
自分にとっての現実は、夢は。
一体、どちらが真実だ………!
「! 正巳!」
突然走り出し、外に飛び出した正巳を、母親がひどく驚いた様子で呼んだ。
だが動き出した足は止まらない。
とにかくあの家から逃げ出したい一心で、正巳は走り続けた。
どうして。
どうして家に、居間に。
父親がいて。
母親もいる。
どうして。
だって二人は死んでしまった。
あの日、学校に連絡が来て、教室にいた自分は担任に呼ばれて、乗せられたタクシーが向かった先で会わせられたのは黒い塊。
業火に燃やされ焼け爛れた両親の遺体だった。
「…っぅ…!」
両親には見えなかった。
だから悲しくもなんともなかった、あれは両親じゃないって。
…死んでなんかいないと思ったから、自分は泣く必要がなかった。
「…っ…」
でも二人は死んだんだ。
死んで欲しくないと思った。
死んだけれど、死んでないと思いたかった。
そう思いたかったから、二人は家に帰って来てくれたのか…?
「……!」
…それなら。
自分が望んだから二人が家に帰ってきたなら、ここにいる自分は…?
あの家に居て、いいのだろうか。
願いが叶って、こうなったなら、それは喜んでいいことだ。
一緒にいたいならいてもいい、と。
誰かがそう思ったから両親をあの家に帰してくれたのではないだろうか。
「…誰か…って、誰だよ……」
死んだ人間を家に帰せるなんて。
それは誰の、何の力によるものだ?
「…っかんねぇよ……っ」
判らない、何もかも。
「そんなの…っ…判るはずないだろ……!」
混乱が混乱を呼び、正巳はただ走り続けた。
出口の見えない迷路を怖がって取り乱した子供のように、無我夢中で前へ、前へと。
「!」
その途中で、何人の人とぶつかっただろう。
それが誰であるのか知るのが怖くて、顔を上げることも出来ずに、その相手から逃げるように更に走り続けた正巳は。
「!」
しばらくして誰かの腕に捕らえられ、
「っ、離せ…っ…!」
「先輩!」
「っ!」
その呼ばれ方にハッとした。
「先輩、落ち着いてください」
見上げた先に、不安を色濃く浮かべた綺麗な顔。
夜闇の中でも光りを放つような髪の色。
切れ長の目で正巳を見据えて、諭すようにゆっくりと紡がれる言葉。
「落ち着いて。とにかく落ち着いてください。……いいですか?」
「ぁ…」
「俺が判りますか?」
「…文月……?」
「ええ、文月佳一です。判りますね?」
確認するように問われて、正巳はコクンと頷く。
それを見届けてそっと笑んだ佳一は、正巳を捕らえていた腕の力を緩めて、怯えたように俯く彼の顔を覗き込む。
「…いったいどうしたんですか。こんな所まで…家からずっと走ってきたんですか?」
「…ぇ…、ここ…どこ…?」
「俺の地元で、桜木中の校区です。先輩の家からだとかなり距離がありますよ。…もしかして何も判らずにこんなところまで?」
その通りだとも、違うとも答えることが出来なくて、正巳は佳一を遠ざけるように手を伸ばす。
「…悪い…なんでもないんだ。もう帰るから…」
「何でもないなんて嘘でしょう」
「っ、嘘じゃない!」
「だったらどうして裸足なんですか」
言われて、ようやく気付く自分の足元。
自覚した途端に痛む足の裏、
「…何かあったんでしょう?」
「なに、も…」
「先輩」
「何もない…っ…」
死んだ両親が家にいる、なんて。
そんなこと言えやしない。
言えるはずがない、どこかおかしくなったのだと思われるに決まっている。
「なんでもない…もう帰るから…。だから離せ…」
「先輩…」
何でもないと繰り返し、自分を拒む正巳の腕を捕らえながら、そのどれもが嘘であることを佳一は見抜いていた。
そう言いながら震えの収まらない指先。
青白い顔。
こんな姿を見て、相手の「何でもない」という言葉を信じる者など恐らく万に一人もいない。
佳一は軽く息を吐き。
「!」
その佳一にいきなり抱きかかえられて、正巳は思わず叫んだ。
「なっ、何すんだよ!」
「帰ると言うなら送ります。寝ていてもいいですよ。家は知っていますし、先輩そんなに重くないですから」
「っ、バカ言ってんな! こんな格好、誰かに見られたらおまえ…っ」
「あぁ、じゃあ俺の上着でも頭から掛けておきましょう。俺的には誰に見られても気になりませんから」
「気にしろ! ってーか俺が嫌なんだ!!」
「……先輩」
「ンだよ!」
「あんまりうるさくするとキスしますよ」
「!」
「今度はどこがいいかな…、どうせならこのまま俺の家まで行きますか?」
「…っ、てめ…、バカな冗談に付き合ってられるか!」
「冗談だと思いますか? 試してもいいですよ。ただしその瞬間に自分の運命が決まると思って下さい」
「っ…」
ニコッと笑む男の背後に、危険極まりないオーラが見えるような気がしたのは、おそらく気のせいなどではない。
「〜〜っ」
「ところで【今日の放課後は教室まで迎えに行く】っていう伝言は受け取りませんでしたか? 放課後になって時枝と教室にお邪魔したら、先輩は昼休みで早退したって聞いて二人で落ち込んでいたんですよ? このお詫びはどうしてくれます?」
「どう…って……」
昼休みで早退したのは、あれ以上教室にはいられなかったからだ。
かと言って、それをただの後輩に話すのは躊躇われ口を閉ざしてしまうと、佳一は軽く息を吐く。
「まぁ、それについては時枝も交えて決めましょう。先輩がアメリカに引っ越してしまうまで、もうそんなに日数がありませんしね」
佳一に言われて、そうだったことを思い出す。
その自覚は充分にあったはずなのに、頭からすっかり消えてしまっていたように思う。
文月佳一と――ここにいると知っている人間と話していて、正巳の混乱はじょじょに解消され“現実”を認識し始める。
両親はもういない。
学校にもいられず、日本には何も残さず。
自分は来週、伯父夫婦のいるアメリカに渡るのだ。
両親は、もういない。
いないはずなのに、あの家には。
誰もいないはずのあの家には、いま、何が居るのだろう……。
「…っ」
「先輩?」
ふと彼の拳に力が入ったのに気付いて、佳一は足を止めた。
「先輩、どうかしたんですか」
「…ぉ…俺、帰りたくない……」
「え?」
「あの家には帰りたくない…っ…」
怯えたようなその声音に、佳一は何かを察する。
しばらく考えるようにした後で、正巳の青白い顔を見下ろす。
「…だったら、本当に俺の家に来ますか?」
「ぇ…?」
「自分の家に帰りたくないからって、どこか行き先は決めてあるんですか?」
どことも言えずに目を逸らすと、それがそのまま佳一への答えになる。
「だったら家に泊まって下さい。歓迎しますから」
「け、けど…」
つい先ほど言われたばかりの台詞を考えるに、これを素直に受けていいのかという不安が過ぎる。
そんな正巳の不安を察して、佳一は楽しげに笑った。
「心配しなくても、休む部屋はちゃんと別に用意しますよ。先輩が誘って下さるなら、もちろん俺の部屋にお招きしますけどね」
「ンなわけあるか!」
真っ赤になって怒鳴る正巳に、佳一は小さく笑う。
「じゃあ決定です」と、嫌がる正巳を無視して抱き上げたまま、自宅へと歩き始めた。