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第一章 〜 六

 …音がしない。

 何も聴こえない。

 きっと。

(…俺は独り……?)

 無機質な冷たい空間で、こんな場所で。

 自分は何をしているのだろう。

 両親の、両親とはとても思えない黒い塊を見せられて、…それから……?

 どうすることも出来ず、何も聞こえず。

 誰も何も言わないから、どこに行けばいいのかも判らなくて、両親だと言われたものが入っている部屋の外で、ただ、息をしていた。

 これが現実だなんて思えなかった。

 だから涙も出なかった。

 なのに、何故だろう。

 信じてなんかいないし、納得もしていないのに、…なのに、家に帰っても両親がいないことだけは判ってしまっているから、帰る場所がなくて、動けなくて。

「正巳!」

 悲痛な声で叫ばれて、温かなものを全身に感じたとき、初めて自分が居た空間の暗さに気付く。

「正巳…っ、正巳……!」

 久しぶりに会う伯母に抱き締められて、伯父に頭を撫でられて、……二人の目から大粒の涙が零れ落ちるのを、正巳はやはり現実のことだとは思えなかった。

「…伯父さん…? …伯母さんも……、なんでここにいるの…? アメリカ…住んでるんじゃなかったっけ……?」

「ぁ…あぁっ…正巳、ごめんね…! ごめんなさいね…っ…こんなに遅くなってしまって…貴方を…貴方をこんなところにずっと一人で……っ」

 泣きながら言う伯母の言葉も、正巳には理解されなかった。

 彼は気付いていなかったから。

 自分がそこに、既に二十時間以上も座っていたこと。

 何度も警察の人間が「休みなさい」と声を掛けてきても、飲料やお弁当を持ってきてくれてもまったく気が付かずにいただけだということ。

 突然の両親の死に茫然自失になってしまった彼を、強引にその場から連れ出そうとする者が誰一人いなかっただけだということを、正巳はまったく知らなかったのだ。

「……伯父さん」

 伯母に抱きしめられながら、正巳は虚ろな視線を伯父に移す。

 その奥の、扉を見て。

 伯父を見て。

「…伯父さん、父さんと母さんに……二人に、会った…?」

「正巳…」

「父さんと母さん…なんか……二人とも真っ黒で…」

「正巳…っ」

「なんか真っ黒で…判んなくて…」

「正巳、いいから」

「正巳」

「判んないのに家にいなくて…」

 家にいなくて。

 見てもいないのに、それは判ってしまって。

「二人…死んだって……」

「正巳……!」

 ぎゅっ…と抱きしめられる。

 伯父も伯母も泣いていた。

 泣いているのに、正巳の瞳は何も流さない。

 二人が泣いているのを見ても、どうして泣けるんだろう、としか思えなかった。



 ―――…死んだって、なに……?



 親が死んだら、子供なら泣くだろ。

 悲しくて、寂しくて、普通は泣き叫んで。

 呼吸をしなくなった両親に縋り付いて泣かなきゃ駄目なんじゃないのか……?



 ―――なのに俺…悲しくない……



 涙が出てこない。

 それって悲しくないってことだろ…?



 だって。

 だって悲しくないんだ。

 あの奥の部屋にいるのは、両親じゃない。

 両親だって言われても信じていない。

 自分が見たのは――あの部屋にあるのは、ただの黒い塊。



 ―――…父さんと母さんじゃない……



 二人は死んでいない。

 だから自分は泣かなくてもいい……。



 …………



 フッ…と頬に風を感じる。

 緑の匂いが鼻孔をくすぐる。

 不思議な鈴の音を伴い、湖の水面に広がる波紋。

 その畔に佇み、涙する一人の女。



 ―――…俺……



 正巳は、彼女の傍に寄った。

 夢の中、これほど近づけたことはなかった。



 ―――…夢…



 あぁ、そうだ。

 これは、昔はよく見ていた――そして昨夜、久々に見た、どこか遠い世界に佇む女性が泣いている夢。

 頻繁に見ていた幼い頃、両親に「こんな不思議な夢を見た」と話したら、どんな意味があるのかしらと母親は一緒に悩んでくれた。

「きっと正巳は、いつかそのお姫様を助けに行くんだ!」と言ってくれたのは父親だ。

 父はきっと自分をからかったのだろうが、幼かった正巳は言われた内容に目を輝かせた。

 これはきっとそういう夢で、自分は大好きなテレビアニメのヒーローのように、いつか仲間を集めて彼女を助けに行くのだと信じた。

 年齢を重ねるごとに夢は見なくなり、幼い頃の気持ちは記憶の奥深くへと沈んでしまっていたけれど、今、こうして再び夢に見て、当時を思い出す正巳の口元には穏やかな笑みが浮かぶ。

 懐かしい…、それが正直な感想だった。





 風に吹かれ、膝丈より高い草が歌うように波打つ夏の大地。

 深い森には彩り鮮やかな花々が咲き誇り、草葉の向こうに見え隠れしているのは、自分が知る生き物とは全く違う造形の生物。

 空は青く、高く。

 陽は穏やかに。

 不思議な色をした河川、湖に、絶えず広がる波紋は小さな鈴の音を伴う。

 その響きは春の日差しのように温かで、優しく。

 湖の畔に佇むたった一人の女性を、そして今は自分を、その全てが包み込んでいた。





 あの頃は遠く見ていることしか出来なかった女性が、今は手の届く位置にいる。

 どうして泣いているのか、その答えを聞けるかもしれない。

 今なら聞ける気がする。

 何故、泣いているの。

 この世界は何処。



 君は誰……?



 幼い頃によく見ていた夢。

 眠りの中、不定期に訪れたこの土地を、正巳はいつか知りたいと思っていた。

 泣き続ける彼女を敵に攫われたお姫様だと信じ、いつかきっと自分が助け出すのだと決意した。

 だがそれは、あくまでも子供の自分が見ていた本当の夢物語。

 真実がそうでないことを、今の正巳は知っている。



 ―――君は誰?



 繰り返し問うと、何年も横顔しか見せなかった彼女が、初めてこちらを振り返った。

 息を呑む正巳の視界に、彼女の爪先まである長い銀糸の髪が揺れた。

 傷一つない白磁の肌。

 作り物のように左右対称に整った目鼻立ち。

 体温も鼓動も持たない“人形”だと言われた方が受け入れやすいように思われるその姿は、ただ一つ、銀灰の瞳に感情を揺らがせていた。



 …………



 君は誰。

 なぜ泣いているの?

 …この広い世界に、君は独りきり…?



 問うた正巳に向けられる無言の視線。

 辛そうに歪められた表情。

 彼女は瞳に訴える。

 独りきりなのは、正巳も同じだと。





 ―――俺…が、独り……?





 そんなことはない。

 だって家には両親がいる。

 この夢に意味をつけてくれた両親が。

 学校には友人がいるし、…だから。

 独りじゃない。

 独りなんかじゃない。

 だから悲しくないから、涙も出ない。

 ……本当に?





 ―――俺は…俺は独りなんかじゃ……





 揺れる銀糸の髪。

 正巳を見つめる銀灰の瞳。

 彼女は告げる“目覚めなさい”と。

 それは最後の忠告。


 最後の祈り。

 ―――…どうか独りにしないで……



 ――――――――!


 不意に弾けた閃光に、正巳は目を瞑った。

 閉じられた視界でさえ闇をも凌ぐ強烈な輝き。

 だが強烈である以上に優しくも感じられる光りに導かれるように、正巳の意識は覚醒を始める。

 今までの光景はすべて夢。

 現実は、自分の現実世界に在る。






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