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第一章 〜 五

 あいつらマジでむかつく………っ!

 正巳は胸中にそう叫び、力任せに机に鞄を叩き付けた。

 ドバンッ…という強烈な物音に、教室にいた生徒のほとんどが何事かと言う顔で正巳を振り返ったが、当の本人にはそれらを気に留める余裕がない。

 黙っていれば「可愛い…かな?」という顔を怒りで真っ赤に火照らせ、母親似の大きな目は鋭く、今にも歯軋りしそうな険しい顔つき。

 それもこれも昨日の昼休みに自分が誤って階段落下の道連れにし負傷させてしまった時枝彬と、落下したがために気を失った自分を保健室に運んでくれたという文月佳一、彼ら二人のせいである。

 字面だけを追えば、時枝は被害者で、佳一は救助者。

 正巳だって保健室で目を覚ました当初は罪悪感と自己嫌悪で彼らに平謝り状態だったが、その後の数秒間で状況は一変。

 先輩を先輩とも思わない傍若無人な態度に悪感情ばかりが膨らみ、今朝の一件を経て、堪忍袋の緒が切れた。

 というのも、今朝八時前に正巳が家を出ると、玄関の外には文月佳一が既に待機していたのである。

「昨日の約束通り、お迎えに上がりました」と、にっこり笑んでみせた彼は、その約束というのが当人の勝手な思い込みであることも、そう言った直前に正巳に何をしたかもまったく憶えていない様子だった。

 朝の住宅街は出勤・登校する不特定多数の人間が大勢行き来しているため、さすがの正巳も「来るなっつったろ!」と怒鳴り散らすわけにいかず、とにかく係わり合いになりたくない一心で無視を決め込んだ。

 だが、早足に歩いて佳一を遠ざけようとしても彼は余裕でついてくる。

 なんだか訳のわからないことをずっと喋りながら、無言で歩いていても息を切らし始めた正巳に楽しそうに笑いかけてくるのだ。

 それだけでも腹立たしいというのに、ある曲がり角に差し掛かると同時に声を掛けてきたのは時枝彬。

 そこが昨日の放課後、

「なら学校へ行く前に俺の家まで迎えに来て下さい、それで学校まで荷物持ち」と一方的な約束を取り付けられた場所だと思い出すかどうかという間に、

「一分一秒でも早く先輩に会いたくて、ここで待っていたんです」

 まるで迎えに来ないだろうことをちゃんと判っていたような台詞を、こちらも余裕の笑みを浮かべて言ってくるものだから、正巳は怒りを通り越し、呆然として何も言えなくなってしまった。

 その隙に鞄を持たされ、学校まで歩き始めて。

 朝から疲れ切った自分の背後でいやに話しの弾んでいる彼ら二人に、正巳は皮肉も込めて声を掛けた。

「おまえら仲イイな…、そんなイイんだったら俺なんかいるだけ邪魔じゃねーの?」と。

 すると二人は何かを考え込むように顔を見合わせ。

「…そう言われてみれば話していると楽しいかな」

「昨日、初めて口利いたのに」

「う〜ん。やっぱり好みが合うからかな」

「だろうね。俺もここまで好みの話で盛り上がる相手とは会ったことがない」

「好み?」

 感心したように言い合う二人の「好み」というのが気に掛かって問いかけた正巳に、彼らはニコッと笑みを強めた。

「からかいたくなるタイプ」

「虐めて遊びたいタイプ」

 佳一と時枝が同時に答えて、指差したのは市原正巳、彼のこと。



(あいつら人を何だと思ってンだ!)

 いい加減、頭に来て、時枝に持たされた鞄を投げ返し、荒い足取りで一人先に学校に着いたのだが、正巳がこれ程の怒りを募らせていても、彼らは相変わらず楽しげに笑っているに違いない。

(ホンット、むかつくっ!)

 どうにも消化出来ない怒りが、鞄の中身を机に移すという動作の中に分散され、端で見ていると今にも暴れ出す恐れがあるように見えただろう。

「…市原…?」

(今日は絶対にあいつらの荷物持ちなんかしないからなっ、なんと言われようが逃げ切ってやる!)

 背後から呼び声が聞こえたような気がしたが怒りに我を失いかけている正巳の頭は、それが自分に向けられているとは考えない。

「市原」

(昨日のことが誰にバラされたって構うもんか、どうせ俺は来週にはいなくなるんだ)

 誰かが誰かを呼んでいる、繰り返される呼びかけに、呼ばれている奴はさっさと答えろよと見当違いなことを思う。

「市原!」

 とうとう耳元に大声を出されて。

「っさいな、誰だよ!」

 たまらず自分も大声で応戦すれば、目の前には後ろの席に座る友人の顔。

「――ぇ…?」

「――」

 二人揃って驚いた顔を見合わせ、相手より先に我に返ったのは正巳自身。

「っ、うわっ、ごめん遠藤! 今のナシ! ごめんっ、ごめん!」

 慌てて立ち上がり、遠藤と向き合って何度も謝る正巳に、怒鳴られたことに一瞬呆然としてしまっていた遠藤は吹出しそうになった。

「いや、謝らなくてもいいんだけどさ…」と続ける彼の声に重なって、クラスの部分部分から苦笑めいた笑いが広がる。

「ごめん、ほんと…っ…」

「いいって。なんか機嫌悪そうだから平気かなと思って声掛けたけど…本当に相当悪かったみたいだな。さすがに怒鳴られるとは思わなかった」

「本当にごめん…」

「だからいいって。…少しは落ち着いた?」

 申し訳なくて即座に頷く正巳に、遠藤もほっとしたような顔をする。

「市原って機嫌悪くなるとストレートに行動に出るんだな。今日みたいなの見たことなかったから驚いた」

「…まぁ、…こんなムカツクこと他にないし」

「? 何かあった?」

「ちょっとな…」

 聞かれて、再び脳裏に浮かんでくる二人の後輩に正巳のこめかみが引きつる。

「それって、昨日早退したことと関係ある?」

「早退?」

「昼休み終わっても帰ってこなかったろ。五時間目が終った後だったかな…、担任が市原の荷物取りに来て、体調悪くしたから早退するって。…違ったのか?」

「違うっつーか、その通りって言うか…」

 正巳が頻繁に怪我をすることは教師達も知っているし、両親のことももちろん知れ渡っている。

 階段から落ちたなどと言えばまた騒ぎになるのを見越して、そのようにクラスに伝えたのかもしれない。

 なるほど、昨日の放課後、鞄や上着が保健室に届いていたのはそういうことかと納得し、

「ま、もう平気だし」

 そう言ってこの話を打ち切ろうとすると、遠藤も、正巳がこれ以上追求されることを望んでいないと察したのだろう。

「そっか」と静かに笑んで応えた。

 だが話題を変えようとして持ち出したそれが、更に正巳を追い詰めることになるなど、きっと考えもしなかった。

「あ…、でも五限の時は保健室にいたんだよな? だったら誰か、一年生で階段から落ちたっていう生徒が行かなかったか?」

「―――は?」

 されるとは思わなかった問いかけに、正巳は目を丸くして相手を見返す。

「昨日の昼休みに一年生が階段の上から下まで落下して、その途中に二人も巻き込んで廊下に激突したって、昨日の放課後からすごい噂になってるんだ」

「げっ…」

「巻き込まれたのも、落ちて気絶した奴を保健室に運んだのも同じ一年なんだけど、これがすごい綺麗な奴だって話でさ。しかも! 巻き込まれた一人は一緒にいた女子生徒を庇って落ちて、一人は落ちてくる二人を受け止めるしで、映画を見ているみたいだったって、特に女子が騒いでるんだ」

「へぇ…」

 確かに三人とも顔は良かったな…、と昨日の面々を思い出す。

 文月佳一と時枝彬の強烈な個性が先に立っているせいであまり目立たなかったが、もう一人の久津木将信という一年生もそれなりだった。

 階段の上で見下ろしていた通り、鍛えられた体つきと精悍な顔立ち。

 時枝と並んだなら久津木に軍配を上げたいと思ったが、それは文月佳一を合わせても変らず、連中の性格を知ってしまった今となっては本当に感謝すべきは彼だけのような気がしてならない。

 落ちたのが一年生だと思われているのは、関係している生徒が全員一年生だったからだろうが、それは正巳にとって幸運なのか、どうなのか。

「二年、三年の女子もそいつらの顔を見てみたいって騒いでいてさ。今日こそ絶対に見るんだって、一年の教室前に張って待つって言ってたよ」

 それは、先に一人で学校に着いていてよかったなと、心の底から安堵した。

 もし連中と一緒に登校するところを全校生徒に見られでもしたらどうなるか、考えるだけでも恐ろしい。

「で?」

「え…」

「そんな一年生の四人組に保健室で会わなかった?」

 どう答えたものか迷う。

 こうまで噂になっていると知った後で、その落ちた一年生と言われているのが実は自分だと告白するのはあまりに恥ずかしいし、かといって遠藤に嘘をつくことも躊躇われる。

「市原?」

「うん…」

 さて、何と答えたものかと頭を悩ませていると、唐突に教室に駆け込んできたのは隣のクラスの女子生徒。

 しかも「市原!」と、鬼気迫る勢いで呼ばれて正巳は目を丸くした。

 彼女―森本千津とは、去年一年間、それぞれのクラスの学級代表として、割と親しく話していた間柄ではあるが、このように名を叫ばれる覚えはなかった。

「市原、一年生の文月君と時枝君、あの二人と知り合いなの?」

 だがそんな戸惑いも、彼女のその言葉に掻き消される。

「今、一年の教室前で市原のこと知ってるかって聞かれて、知ってるなら「放課後に教室まで迎えにいくからって伝えて欲しい」って言われちゃったんだけど!」

「…っ」

 あいつらぁ…っ、と胸中に拳を握って頬を引きつらせる正巳と、入って来ながら教室全体に通る声で、頼まれた“伝言”を公言する千津を交互に見て、遠藤はふと気付いたように彼女に向かって声を掛けた。

「その文月と時枝って、もしかして昨日の放課後に噂になっていた一年?」

「そうっ! 女子を庇って一緒に落ちちゃったのが時枝彬君っ、落ちた子を抱えて保健室連れて行ったのが文月佳一君っ! ついでに落ちた子と時枝君を下で受け止めたのが久津木将信君!」

「…じゃぁ…」

 まさかと思いつつも、口を開く遠藤の声音は明確だった。

「じゃあ、もしかして階段落ちたのって、市原なのか…?」

「…っ……」

 核心を突かれた遠藤の台詞に、途端にカアァッと赤くなっていく正巳の顔。

 突然の女子生徒の乱入に、こちらに気を引かれていたその場の生徒達全員が、正巳のバカ正直な変化を見て取り、――一瞬の沈黙。

 そして爆笑。

「あははははっ、正巳、おまえまた落ちたのかよ!」

「去年四回も落ちたってのにまだ飽きないのか!」

「うっさい!」

 少し離れた席から声を掛けてくるのは、進級する前まではよく一緒に行動していた男子生徒達。

「市原ぁ、ちゃんと前見て歩きなさいっていつも言ってんじゃん…」

 呆れたように言う千津に続いて、

「ほんと市原って危なっかしいね」としみじみ呟くのは今年の学級代表に選出された同級生だ。

「それでそれで? なんでその文月君が市原を迎えに教室来るなんて言うわけ?」

「ね、ってことは昨日、文月君に抱えられて保健室運ばれたの市原ってことでしょ? どうだった?」

「何がどうだって?」

 どこか期待に満ちた眼差しで四方八方から正巳を覗き込んでいるのは、彼らの顔を見ようと、千津と一緒に一年生の教室前で張っていて“伝言”を生で聞き、彼女と一緒に戻ってきたのだろう女子生徒達だ。

 どういう答えを期待しているのかは知らないが、興味津々といった様子の彼女達から目線を外すと、すぐ後ろの席では肩を震わせている遠藤がいる。

「っ、笑うな遠藤!」

「っくっくっく…だって市原…顔…顔真っ赤で…」

「……っ!」

 言われた内容に、また顔の熱を上げる正巳に四方八方から気軽な声が飛んでくる。

 自分がこんな恥ずかしい思いをするのもあの二人のせいだと思う一方で、ふと、小さな疑問符が心の中に点滅した。

(…あれ……?)

 何かがおかしいかもしれないと感じる正巳の様子には誰も気付かず、次々と掛かる同級生達の声。

「ね! 私達、まだ久津木君には会ってないんだけど、彼もカッコイイの?」

「“も”じゃねぇよっ、イイのは久津木だけっ。他の二人はかなり性格悪ぃぞっ!」

 きっと自分達を待っていた二年の女子に正巳への伝言を預けたのも、朝の荷物持ちを放棄した自分への嫌がらせのつもりだ。

「市原、二人に助けてもらったのにそんな言い方ないじゃん」

「確かになっ、けど絶対にろくな奴らじゃないんだ、あの二人は!」

「なんだ、もしかしてさっきまで機嫌が悪かったのってそのせい?」

 遠藤に聞かれて、正巳は大きく頷く。

「人のこと…っ、か、か…からかいたくなるタイプだの、虐めて遊びたくなるタイプだのってフザけたこと言うし、文月なんか老若男女一切問わないとか言って…」

 言って、自分の髪にキスしてきたとはさすがに続けられず、「とにかく!」と誤魔化した。

「ふざけたことしか言わない変態だ、あの二人はっ」

 力いっぱい断言する正巳に、しかし返されるのは実に楽しげな同級生達の笑い声。



 ―――なんか、違う……



 こんなのは“現実”じゃない。

 心に点滅した疑問符は今にも警告音を響かせようとしているように感じられる。



「その一年坊、すっげぇ人を見る目あンじゃねーの?」

「なぁ?」

「正巳、からかうと面白ぇもん」

「どういう意味だよ!」

「だから、そういうところがさ」

 絶えず聴こえる笑い声が教室を明るくする。

 正巳に掛かる言葉が、こんなに近い。



 これは違う。

 だって、違うんだ。


 だって、これでは、まるで。



「おまえらが面白くたって俺は不愉快だっ」

「いやぁ、市原のそのキャラはすごい貴重だと思うぞ」

「中身と外見のギャップはすげぇし」

「なんか危なっかしくて放っておけないしねぇ」

「やってくれるよなぁ。新学期始まって三日で階段落ちなんて」

「好きで落ちたわけじゃねぇっ!」

「当たり前でしょ、そんなの好きで落ちてたら命幾つあっても足りないじゃないの」

「運がないっていうか災難に好かれてるって言うか」

「そうそう。いつも言ってンじゃん、祓ってもらって来い、そのうち死んでも知らねぇぞ……って、――っ!」

「……!」

「――」



 ……まるで“あの日”より前に戻ったようだった光景が、一人が言いかけた言葉を呑み込んだ瞬間に消え失せた。

「…ぁ……」

 誰の口も閉ざされる。

 視線が一つ、また一つと逸らされる。

 …あぁ、そうだ。

 市原正巳はついていない。

 アクシデントばかりが続いて、不運が重なって。

 二月の末、とうとう両親が死んでしまった。

 それもいまだ原因がつかめないような、奇妙な交通事故で。

 今ここで「いいよ、もう気にしていない」と声に出したなら、周りはどんな反応をするだろう。

 嘘にしかならない言葉で、一瞬前までの時間を取り戻せるのなら何度でも口にするけれど、過ぎた時間はもう決して戻らない。

 そのとき、まるで救いのように鳴り出した予鈴の音。

 ガタガタッと音を立て、別クラスの生徒は足早に教室から出て行き、同級生達は自分の席に着く。

 不自然な沈黙と、強張った空気。

 正巳は一度だけ静かに深呼吸をし、後ろを振り返った。

「遠藤」

「っ、え…?」

「…シャーペンの芯、もらえる?」

「ぁ…ああ、もちろん…」

 遠藤は強張った笑みで応え、芯を二本、正巳に手渡した。

「なんか一緒に出て来たから、二本とも貰って」

「ん。サンキュ」

 嘘臭い笑い方しているんだろうな、と自分でも思う。

 それでも、ほんの少しだけ教室の強張りが解けたのが、誰かのホッとしたような息を吐くのが聞こえてきたので判った。



 担任が教室に来て、出席と朝のSHRを終えて去っていく。

 予鈴が鳴り、本鈴が鳴り。

 授業が始まって、終わって。

 時間が経つにつれて教室の強張りは解けていった。

 それでも、正巳に話し掛けて来る者はいない。

 後ろの席の遠藤も、朝以降、一度も声を掛けてはこなかった。





 ◇◆◇





 昼休みに入り、校内中が騒がしくなってくると、正巳はその喧騒に紛れて教室を出た。

 一人、学生食堂の売店でパンを買って裏庭に出ると、ようやく雪解けも終わりに近付いた北国の風が肌を刺激した。

 まだ寒さを感じさせる気温のせいで、裏庭に自分以外の人気はなく、一人で過ごせそうなことが正巳にはありがたい。

 芝生の傍に設置されているベンチに腰掛け、うっすらと雲の掛かった空を見上げ、地面を見渡す。

「伯父さんのところは一年中暖かいって言ってたっけ…」

 もしかすると、雪を見るのもあと数日の間だけになってしまうかもしれない。

 この場所にはもう戻れないことを、朝の教室での一件が証明してくれたように思う。

 もともとが不運続きで、遠藤にも頻繁に迷惑を掛けてきた自分。

 それをネタにからかわれることも少なくなく、

「本当に気をつけなかったらそのうち死ぬよ」とか。

「おまえの傍にいたら俺達も巻き込まれそうだな」だとか。

 中には本気で心配してくれる友人もいるのだが、そんなことを冗談交じりに言ってくることが大半だった。

 だが実際に両親を亡くしてしまった今の正巳に、それと同じことは言えない。

 そうと分かっていても、今まで定番のように口にしてきた言葉は意識せずに口をついて出ようとする。

 それが怖いから、彼らは正巳にどう接すればいいのか判らないのだ。

 判らないから笑顔も強張り、声を掛けることさえ出来なくなり。

 …あんなにも居心地の悪い思いを、クラスの皆にさせてしまった。

「…学校、来ない方が良かったかな…」

 きっと自分の選択は間違った。

 両親が死んだあの日から、自分は間違いばかりを犯しているような気がする。

「…はぁ…」

 深い息を一つ吐いて、手に持っているパンを弄ぶ。

 まだ袋さえ開けていない。

 買ったはいいが食べる気になれず、ぼぅとしていると、不意に声を掛けられた。

 校舎の方から近付いてくるのは久津木将信。

 昨日の昼休みに階段から落ちた自分を下で受け止めてくれた一年生だ。

「…どうした、こんな場所に」

 精悍な顔つきに困惑めいた色を浮かべて、久津木は言葉数少なく答える。

「…先輩が見えたので」

「…だから来たのか?」

 少なからず驚いて聞き返すと、彼は小さく頷く。

「様子が、…変だったから」

「久津木……」

「隣、いいですか?」

 意外な言葉を掛けられて、正巳が反射的に頷き、相手が座れるように端に移動すると、久津木は軽く会釈してそこに腰を下ろした。

 そうして持っていた弁当を開くと、当然のように食べ始める。

 何故、この少年がここで昼食を食べ始めるのか、とか。

 どうして彼が自分の様子を気にしてここまで来たのだろう、とか。

 聞きたいことはあるのに、そんな問い掛けは何故か言葉にならなかった。

 そのうち、ただ見ているだけの正巳に、久津木が顔を向ける。

「…それ、食べないんですか?」

「ぇ、あ、あぁ、…なんか食う気しなくて…」

「しっかり食べないと午後保ちませんよ?」

「――」

 真面目な顔で言われて、正巳は言葉も忘れて固まってしまったが、久津木の視線はどこまでも真っ直ぐだった。

 真っ直ぐに、決して逸らされない眼差し。

 思わず苦笑を浮かべて。

「…おまえ、ホントにいい奴だな」

「はい…?」

「本当に…文月のヘンタイや時枝の鬼畜とは大違い……」

「…あの二人、なんかしたんですか?」

 怪訝な顔で聞いてくる彼に、首を振る。

「ただ、久津木はいい奴だなと思っただけ…」

「…先輩…?」

 不審そうに呼んでくる久津木に笑みを返そうとして、失敗して。

 正巳は上半身を前に倒し、腿に肘をついた手で顔を覆う。

「……昨日、ごめんな…」

 謝罪する正巳を、彼は静かに見つめるだけ。

「痛い思いさせて、ごめん……」

 顔を覆ったまま告げる正巳に、何一つ答えない。

 ただ隣に座って、彼の風除けになっていた。







 その光景を校内の窓辺から見ていた人影が一つ。

「よくもまぁ、あのタイミングで現れてくれたよ、久津木」

 楽しげに呟いて、文月佳一は二人の姿に目を凝らす。

「…そろそろ限界かな」

 言う内容にはかなり切迫したものが含まれているはずなのに、それを言葉にする彼の表情には余裕の笑み。

 佳一はしばらくその場で二人の様子を窺った後、どこへともなく姿を消した…。







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