第一章 〜 四
それは、ずっと昔に見た夢に似ていた。
風に吹かれ、膝丈より高い草が歌うように波打つ夏の大地。
深い森には彩り鮮やかな花々が咲き誇り、知るものとは明らかに異なる生物が草葉の向こうに見え隠れしていた。
空は青く、高く。
陽は穏やかに。
不思議な色をした河川、湖に、絶えず広がる波紋は小さな鈴の音を伴う。
その響きは春の日差しのように温かで、優しく。
湖の畔に佇むたった一人の“彼女”を包み込むようだった。
自分が生まれ育った世界とは絶対的に異なるその光景を、正巳はずっと昔に見た憶えがあった。
その地で泣き続ける女性の姿を、ただ見続けるだけのもの。
何がそれほどまでに悲しいのか。
“彼女”はいつまでも泣き続ける。
何かに焦がれるように…、何かを、待ち続けるかのように。
その視線は、前方の何物も捉えない。
すぐ傍らに在るような。
いつでも手の届くものを見ているわけではなく、彼女が瞬きもせずに見つめ続けるのは遠い彼方。
遥か彼方、果てしなく遠い先。
手に入れる事に、半ば諦めさえ覚悟しなければならないような、そんな……。
あぁ、そうか…。
正巳は察した。
彼女が零す涙の理由。
それと同じ涙を、いつか自分も流したことがあるのだと今なら分かる。
もう二度と戻らないものを必死に求めた。
死んだ人間が蘇えることはないと解かっていて。
失われた日々が戻ることもなど有り得ないと知っていて、…それでも諦め切れないんだ。
“死”ある意味での永遠。
願いも想いも、涙さえも意味を持たない。
すべてが無駄でしかない祈り。
―――…それでも……
それでも祈らずにはいられない願いがあることを、今の正巳は知っている。
知ってしまったからこそ、今またこの夢を見ているのだろうか。
遠くを見つめる“彼女”の瞳に映るもの。
零れ落ちる涙の理由。
声は聴こえず、暖かで軽やかな鈴の音以外に音はなく。
ただ見ていることしか出来ないこの夢に、…しかし正巳は彼女の声を聞いた気がした。
どうか叶えて。
ただ一つの願い事。
どうか叶えて。
独りにしないで。
これが叶うなら、もう何もいらない。
それほど強い、ただ一つの願い事。
それは――――。
――――ソノ願イ…叶エタリ………
「――――!」
何か強い衝撃を受けて、正巳は目を覚ました。
「…ぁ……」
居間のソファの上、いつの間にか眠ってしまっていた事を自覚し、頭を振る。
「やば…」
無意識に呟く声はわずかに震え、立ち上がろうとする体には力が入らない。
「っ…、はぁ…」
ひどく恐ろしい夢を見た気がした。
かと言って、どんな内容だったのかを思い出そうとすると、背筋に冷たいものが駆け抜け、吐き気がした。
全身の血管が脈打つのが聞こえる。
何か懐かしい夢を見たような気もするが、それ以上に、正体不明の恐怖が胸中に溢れかえっている。
「はぁ…」
何度か深呼吸を繰り返すうち、激しい動悸はしだいに緩やかになり、声と手足の震えも治まってくるが、長い間、何かに拘束されていたような痺れは残った。
再度立ち上がろうと試みた体は、三度目でソファを抜け出す。
「…いま何時…」
それが気になり、絨毯の上に無造作に置かれた鞄の中から携帯電話を取り出し、時刻を確認する。
十一時半。
帰宅したのが五時前で、それから少し部屋の片付けをし、叔母が作り置きしておいてくれた料理で夕飯を済ませ、テレビを見ているうちにうとうとしてしまったのか。
毎週見ていたバラエティ番組のオープニングは記憶にあるから、二時間近く眠ってしまっていたらしい。
付けっぱなしになっていたテレビからは、いつもと代わり映えのない政治経済の情報が伝えられている。
部屋は明るく、音は絶えず。
視界に映る光景はいつもと何ら変わりない。
ただ、今夜からは伯母の姿がないだけだ。
なのに、どうしてだろう。
人が一人いないだけで、世界はこんなに静かになる。
同じ部屋にいても会話のないことだってあったのに、自分しかいないのでは沈黙の重みが違う。
「…はぁ…」
一呼吸置いてからガランとした部屋を見渡した。
十三年間、住んでいた部屋も、今はその思い出をほとんど残していない。
自分がアメリカに行くまでの一週間に不可欠なものを除いて、必要なものは全て伯父の帰国と同時にアメリカに向けて発送し終え、処分するものについても伯母がいる内に出し終えた。
両親の寝室や和室、台所の片付けも昨日までに全て終わらせ、処分していく大型の家具等は正巳が出国する前日に業者が家に来て済ませてくれることになっている。
そうして夜は空港近くのホテルに一泊し、そのまま日本を離れるという予定だ。
昨日までは自分以外の誰かが必ず居た家に、今はもう自分一人だけ。
思い出も一つ一つこの家から遠ざかり、残されたものは処分される時を待っている。
そういった状況が変な夢を見せるのかもしれない。
ここに居る限り、自分はずっと一人なのだと思い知らせるように。
「……だからアメリカに行くんだろ」
父親の兄夫婦、自分を愛してくれる伯父達の家で、彼らの子供になって新しい生活を始める。
「この家にいたって…」
日本にいても。
今までの学校に通っていても。
もう、以前の生活は決して戻ってはこないから。
全部捨てて、離れてしまっても、何の未練もありはしない。
「あと、…たった一週間だ」
それくらい、一人で過ごして。
これが過ぎれば、また一人ではなくなるから。
「…もう少しなんだ…」
あと一週間。
来週の今頃には飛行機の中、空の上。
「……もう、少しだけ…」
弱弱しく呟き、今まで横になっていたソファの背もたれに爪を立てた。
もうすぐ捨てられるそれは、十三年間、変らずにこの部屋にあったもの。
父親も、母親も。
これに座って、転寝して。
ずっと一緒に、この部屋に在ったもの。
「…っ…情けないよなぁ……」
目頭が熱くなるのを自覚して、正巳は大袈裟な足取りで浴室に向かった。
風呂に入ってさっさと寝てやる、そう決めて居間を飛び出した。
明かりも、テレビも付けっぱなしの部屋。
けれど人のいなくなったその部屋で。
―――…カタン…ッ……
小さく鳴り響いた物音。
部屋には誰も、何も無く――……。