第一章 〜 三
「へぇ、じゃあ文月は桜木出身か」
「あぁ。保健室にもう一人いた久津木、彼も桜木だし、うちから虹ヶ丘に進学した生徒は他より多いと思うよ」
「なら久津木とは知り合い?」
「いや、口を利いたのは今日が初めてだ。顔と名前くらいは知っていたけどね、彼は目立っていたから」
ズンッズンッと苛立たしげな足音を立てて歩く正巳の背後から二人の楽しげな声がする。
「なに?」と、相手の微かな笑い声に首を傾げるのは文月佳一。
問われて尚も楽しそうに笑うのは時枝彬。
「いや…、目立っていたのは久津木の方だけじゃないだろうなと思って」
今日の昼休み以降、保健室で初めて会ったにしてはいやに打ち解けている二人に、正巳の歩調はいっそう荒くなる。
「そういう時枝こそかなり目立っていそうだけど」
「全然。日々慎ましやかに生きているよ」
はっはっはっ…と、そんな嘘くさい笑いが聞こえてくる気がした。
どうして自分は、こんな連中と一緒に下校していなければならないのだろう。
それも二人の荷物を全て自分が持って。
原因が自分にあるのは分かっている。
分かってはいるが、どうにも解せないこの状況。
「―――市原先輩」
正巳のそんな心境も知らずに、背後から暢気な声が聞こえてくる。
「先輩、歩くの早いんですね」
「っ」
「でもせっかく仲良くなったんだし、もう少し会話を楽しみながら帰りませんか?」
「誰が仲良くなったって?」
ふざけるのも大概にしろという意を大いに含んだ声を張り上げながら、正巳は背後の二人を振り返る。
「確かに俺のせいで怪我させちまったのは悪かったと思うけどなっ、おまえらの気晴らしに付き合ってる暇、俺にはないんだ!」
本当に、心の底から階段落下に巻き込んでしまったことは申し訳ないと思っている。
だが、荷物を持って家まで送って、時枝彬一人だけならまだしも、無傷の文月佳一とかいう嫌な奴――気を失っていた間、どうやら手を離さなかったのは自分の方らしいが、それをネタに人で遊ぶような奴の荷物まで持って歩いていなければならないのが、正巳には無性に腹立たしかった。
とにかく自分は機嫌が悪いのだということを明らかにし、それでもまだ連中がふざけたことを言うつもりなら、ここで荷物を投げ捨ててやろう。
それで嫌な人間だと思われようと、悪い噂が校内に流れようとも自分には関係ない。
どうせ日本にいるのはあとわずかだ。
転校手続きも何もかも終わっている今となっては、本来なら学校に行く必要もない。
自分には強請られて困るようなネタなど何もないのだと、そこまで一息に怒鳴りつけてやろうとして、だが正面の二人が揃って眉一つ動かさない光景に言葉を切った。
しかも、心なしかその表情に罪悪感のようなものが見て取れるのは気のせいだろうか。
「な、なんだよ…」
「先輩、何か予定があったんですか?」
聞いてきたのは時枝の方。
「時間とか、約束していることでも?」
「え…」
唐突に真面目な顔で問われて、正巳は反射的に首を振った。
「い、いや、そんなことはないんだけど…」
「でも俺達に付き合っている暇はないくらい忙しいんですね…?」
次いで申し訳なさそうに言葉を繋いだのは佳一だ。
その声音があんまり真剣だったから、正巳は「いや、あの…」としどろもどろになりながら、言葉を選んで答える。
一瞬前の勢いなど、今となっては欠片も見当たらない。
「忙しいっつーか、…その、引越しの準備があるっていうだけで…」
「引越し、ですか?」
「あぁ、来週にはアメリカに引っ越すことになってて」
「アメリカ!」
当然といえば当然、思いもよらなかっただろう返答に二人の一年は目を丸くする。
「それはまた…国際的な事情ですね」
感嘆するように呟く時枝と、何か思案するふうの佳一。
(…あぁ…)
自分は、やはり言葉を誤ったかもしれない。
馬鹿みたいに言葉を選んだはずなのに、結局はこうだ。
きっと彼らは聞いてくる「どうしていきなりアメリカに引っ越すのか」と。
そうしたら自分は、また話さなければならない。
両親が死んで、唯一の親戚が米国に住んでいるからだということ。
どうして両親が死んだのか、その事故とは一体なんだったのか。
――もしかすると、自分の市原という姓をもう一度口にしたなら思い当たることがあるかもしれない。
今でこそ報道機関にその名が挙がることはなくなっていたが、事故当初はどのニュースを見ても、アナウンサーが鎮痛な面持ちでその名を読み上げていた…。
やばいな、と思う。
いま、そんなことを話させられたら、…泣いてしまうかもしれない。
ただでさえ弱みを握られているようなものなのに、その上、泣き顔まで見られるなんて絶対に御免だ。
どうやって逃げよう、この荷物を彼らに突き返すべきかと、胸中に今後の対応策を搾り出そうとしていた正巳は、だが一拍を置いて予想外の展開に顔を上げる。
「そっか…、先輩、もうすぐ引越しちゃうんですか」
薄い笑みを浮かべて、時枝は正巳の手から自分の荷物を返してもらおうとしていた。
「残念だな。先輩と一緒なら楽しそうだから、同じ部活に入ろうかと思っていたのに」
「ぇ…」
「俺の家、あの角を右に曲がって四軒目なんです」
「は…?」
「放課後は引越しの準備とかで忙しいでしょうけど、…朝は学校に行くんですよね?」
「ぁ、ああ、まぁ…一日中準備していても飽きるし…」
正巳が動揺しつつ返すと、そこで時枝は先ほどまでの、保健室で見せていたような一癖ありげな笑みを口元に復活させた。
「なら学校へ行く前に俺の家まで迎えに来て下さい。それで学校まで荷物持ち」
「――」
「引っ越すまでの一週間で結構です。毎朝仲良く登校しましょう」
語尾にハートマークがつきそうな口調の時枝に正巳は唖然。
佳一はくっくっと喉を鳴らして笑っている。
「ちょっと待てよ、なんで俺がおまえと?」
「足、結構痛いんですよ?」
「っ…そ、それは悪かったけど、だからって一週間もそんな…っ、そんなに掛からないだろ!」
「掛かります。そういうことにしましたから」
「そういうことって…っ」
「先輩に勝ち目はありませんね」
まだ笑っている佳一が楽しそうに口を挟む。
「でも安心してください、俺が先輩と時枝を二人きりになんかさせませんから」
「ん? なんだ、邪魔する気か?」
「もちろん、先輩がずっと離さなかったのは俺なんだからね」
「それは誤解だっつってんだろうが!!」
どう見ても楽しんでいるようにしか思えない二人の遣り取りに、正巳が思いっ切り怒声を張り上げるが、当の本人達はなんのその。
「なら百歩譲って文月が同伴でも構いません。明日の朝、楽しみに待っていますから」
「っ、おい!」
言うだけ言って、軽く手を振ると、先ほどの説明通りに手前の角を右に曲がって行く時枝彬。
「ちょっと待てよ! 俺は明日迎えになんか…っ」
「勝ち目はありませんてば」
「そういう問題かよ! ってお前は自分の荷物自分で持てよ! どこも怪我なんかしてないだろ? おいっ、時枝、文月、おまえら二人とも待ちやがれ!」
時枝と別れて、佳一は変わらない足取りで先を行く。
その背と、明日の朝は迎えになんか行かないとどうしても伝えたい相手が消えた角を何度も交互に見ながら、正巳は腹立たしいやら情けないやらで激しく舌打ちする。
「おい文月、待てって!」
多少乱暴に肩を掴めば、薄い微笑で振り返る文月佳一。
その表情に、正巳はまた「うっ」と言葉に詰まった。
その隙をついて佳一は口を開く。
「先輩、俺のことはなんて呼んでと言ったか覚えていますか?」
「っ、…は…?」
「佳一と呼んで下さいと言いましたよね?」
「し、知るかよ! 何と呼ぼうが俺の勝手だろ!」
「その言い方は冷たいな。最後の一週間なら後腐れのない相手と楽しく過ごすのも一種の思い出作りですよ?」
「怪しい言い回ししてんじゃねぇっ」
「先に誘ったのは先輩なのに」
「それは誤解だっつってんだろ!」
ずっと握っていたという手をひらひらさせる佳一を怒鳴りつけてやるが、相手の表情はまったく崩れたりしない。
そればかりかくすくすと笑いを零しながら、その手を正巳の額に近づける。
「先輩」
「な、なんだよ…」
後ろに引き気味で言い返す正巳に、再度の苦笑と「シワ」という短い単語。
「眉間に皺」と改めて言い直し、上げていた手を正巳の眉間に添える。
「そんな顔していたら勿体ないよ、せっかく可愛い顔しているのに」
「っ」
カアアァッと顔が熱くなるのを自覚しながら、正巳は額に触れる相手の手を叩き払い、今度は大股に三歩後ろへ下がった。
「なっ、お、おまっ、おまっ…」
「なに?」
「―――っ、オマエさてはホモか!」
大きく息を吸い込み、一息に声を張り上げた正巳の心境は哀れなほど動揺しているのに、対する佳一の表情からは、やはり笑みが消えない。
「残念、ハズレです」と、楽しげに返して。
「俺は人一倍、人間が好きなだけ」
「…って、どういう意味だよ」
「老若男女一切問わず、ってこと」
「っ、いっそタチ悪ぃぞ変態!!」
ふざけているとしか思えない返答に、正巳は即座に言い返し、佳一の荷物を持ったまま足早に先を行く。
否、こんな変態にこれ以上関わってなるものかと心に決めた正巳は、自分が彼の荷物を持っていることさえ忘れてしまっている。
「先輩」
「話しかけんな!」
呼びかけられても躊躇なく一刀両断。
そのまま一人で歩いていった。
(くそ…っ)
こんな奴と自分の父親を似ていると錯覚してしまったことが今更ながらに腹立たしい。
階段の上で、時間が迫っていることに気付いて動いたと同時に肩をぶつけた相手、文月佳一は、ただそれだけの奴だ。
顔を上げると、陽に透けそうな色素の薄い髪が、校内に差し込む日光に触れて流れるようだったのが、少し印象的で。
切れ長の目が和んで、笑うと、途端に柔らかくなる雰囲気が、ほんの少し父親に似ていただけ。
(バカみてぇ…これじゃただのファザコンだろ)
もういない人の影を追って、見ず知らずの他人に重ねてしまうなんて。
それは、衝撃的な別れだったけれど…それでも、もうすぐ十七になろうという男がこれではあまりに情けない。
(父さんも母さんも、もういない…)
だから自分がしっかりしなければ、何が危険につながるか知れない。
(いないんだから、しっかりしろ)
ちゃんと立て。
ガンバレ自分、と胸中に何度も繰り返しながら、正巳の足は前へ、前へと進んでいた。
それはほとんど無意識に近い。
慣性に従うように、ただ前方に進んでいく彼の視界には、その光景が現実のものとして写っていただろうか。
内心では息巻いていても、端から見れば黙々と歩き続ける彼の姿は一種異様なものであり、決して「普通」には見えなかった。
音も、何も届かない。
目の前の光景も、壁一枚向こうの別の世界のように感じられる。
「――」
ふと、誰かの声のようなものを聞いた気がしたが、正巳は歩き続けていた。
黙々と歩き続けた。
――――…………
どこかでも聞いたような叫びが遠いところで響く。
悲鳴のような、車が急ブレーキを掛けた時のような、…間違って黒板を爪で引っ掻いた時のような。
(あぁ、この音はイヤだな…)
正巳がふとそんなことを思った刹那、強い力が加わり、体内の内蔵だけが前に突き出るような圧迫感に眩暈がした。
「っ…」
ハッとして、ようやく鮮明になった視界に突然駆け抜けていったもの、それは大型のトラックだった。
時速六〇キロ以上は出ていただろうか。
「え…っ?」
いきなり何が起こったのかすら理解出来ずに周囲を見渡せば、自分の左右には停車中の車がある。
どちらも運搬用の大型車で、正巳の背丈よりはるかに高い。
まさか自分は、ここから道路に飛び出そうとしていたのだという事に気付くと同時、いま正に鼻先を掠めていったトラックの存在が恐ろしくなった。
「え…ぇっ…?」
もしかして、もしかして。
自分は今度こそ死ぬところだったのだという事実に行き着いて、正巳は腰を抜かしそうになる。
だが、座り込みそうになった自分を左右から支えているものがある。
「ぇ…」
後ろから両腕を掴んでいるのは人の手。
「せ、先輩…」
「!」
息も切れ切れの呼びかけに、それが文月佳一だと知れた。
「おまえ…っ」
「怒らせたことは何度でも謝ります。謝りますから、ちゃんと前だけは見て歩いてください」
今までとは違う、切実さを感じさせる険しい口調と真摯な眼差し。
自分の物言いに腹を立てて足早に行く彼を、佳一は慌てて追いかけた。
こんな停車中の車の陰から、一度も止まる気配を見せずに車道に飛び出そうとしていた正巳の背中を見て、佳一がどんなに焦ったか。
「ご、ごめん…」
今回ばかりは、心からその言葉を口にする。
「ごめん…助かった」
「いえ…」
「…ありがと…、ごめんな…」
止めてくれてありがとう、と。
心配掛けてごめんな、と言葉を繋げる正巳に、佳一はようやく目元を和らげた。
「いえ。…間に合ってよかった」
告げて、正巳を掴んでいた手を離す。
その力がどれほどのものだったか、離されて初めて気付いた。
痺れが残るほどの強い力。
その時の必死さが伝わってくる。
「先輩の家はどこですか?」
「ぇ、俺の家…あ、あぁ…えっと…あっちだ」
飛び出そうとしていた道路から、一本戻った角を左折した向こう。
そう答えれば佳一は笑んで「なら行きましょう」と正巳を促す。
「また道路に飛び出されたりしたらイヤですから、俺が先輩を送ります」
「ぇっ、いいよ、もう平気だし…」
「これで今日二度目なんですよ?」
「――」
「階段と、今と。二度あることは三度あるとも言います。保健室の先生の話では先輩は注意力散漫だと言うし、それは間違いではなさそうだし」
「うっ…」
言い返せずに言葉を詰まらせる正巳に、佳一は続けた。
「だから、せめて今日だけでも送らせて下さい。ちゃんと見届けなかったら、心配で夜も寝られそうにありません」
そう言って微笑む表情が柔らかい。
やっぱり、悔しいけれど。
腹立たしいけれど、似ているんだ、その優しい接し方が。
「…ん、わかった」
正巳は観念して頷く。
いつも学校帰りに曲がる角を、今日は逆から曲がり、住宅街に入って、またしばらく歩く。
その先にある我が家に、正巳はいつになくホッとした。
「先輩の家、ここですか?」
「あぁ」
「なら、さすがにもう大丈夫ですね」
からかうような口調だが、そこに二度目の災難を回避する以前の嫌な感じはまるでない。
それは正巳が彼の存在を許容したせいかもしれなかったし、佳一自身がそういう態度を慎んだせいだったかもしれない。
「…ホント、さっきは悪かったな」
「いえ、先輩を怒らせるようなことを言った俺にも責任が有ります。…先輩に怪我がなく済んで、本当に安心しました」
「ん…」
「それじゃあ俺はこれで。荷物、もらいますね」
「ぇ、あ、ああ!」
言われてようやく自分が佳一の分の荷物を持ったままだということを思い出し、慌てて腕から下ろした。
手渡すと、佳一がそれを自分の肩に掛ける。
「…」
伏目がちに鞄を肩に掛ける、ただそれだけの動作がいやに目を惹いた。
絵になるとでも言うのか、こいつは本当に自分よりも年下なんだろうかと疑ってしまう。
「…先輩、また俺に見惚れてる?」
「っ、またって何だよ!」
「階段の上でも」
「見惚れてねぇっ!」
即座の返答が、そのまま彼の答え。
佳一は失笑し、正巳は憮然とした面持ちで相手を睨み付けた。
「さっさと帰れよ。じゃあな」
突き放すように言い置いて、正巳は家に入ろうと踵を返す。
だがそうして玄関のドアノブに手を置いた直後。
「先輩、忘れ物」と、そこまでやってくる佳一の足音。
「忘れ物?」
怪訝な顔付きで振り返ると、間近な距離に佳一の顔。
「え…」
なんだ、と聞き返す間もなく、佳一は正巳の髪に顔を埋めた。
それは髪にキスをするように。
かと思えば触れるだけのように。
突然のことに目を丸くして立ち尽くす正巳が我に返るまで優に一分以上、二人の距離はほとんど無に等しかった。
「…っ、な、な、な」
どういうつもりだと聞こうにも聞けない正巳に、佳一は微笑う。
「じゃ、明日また迎えに来ますね」
「――っ、ぜってぇっ来ンな!」
今までで一番の――その一言のために息を切らすほど力んだ正巳の怒りを、だが佳一は余裕でかわし、にこやかな笑顔で手を振ってその場を去っていった。
もしかして家まで送るといったのは、明日の迎えのためだったのか?
「むかつく…っ」
少しはいい奴かと思えば、とんでもない真似をしてくれた。
何が楽しくて男にキス!
頭だろうか髪だろうが、何が悲しくて男にキスなどされねばならないのか。
した佳一は老若男女を問わない変態だから楽しかったかもしれないが、されるこっちの身にもなれよと叫ばずにはいられない。
「ほんとムカツク…っ!」
腸が煮えくり返りそうなのを自覚しながら深呼吸。
それでも収まらない怒りを手に込めて、玄関の扉は激しく開閉されることになる。
乱暴に鍵を開けながら、今日から伯母がいないことを心から感謝しようと思った。