第一章 〜 二
「―――。――」
「――」
「―――」
必死に目覚めようとする意識の、どこか遠いところで、複数の声を聞く。
聞き覚えがある気はするけれど、いったい誰の声だったか思い出そうとすると、激しい頭痛に襲われる。
「――はい、これで完了」
「ありがとうございました」
「どういたしまして。入学早々、大怪我しなくてよかったわね。この程度なら貴重な体験をしたと思えるでしょ」
「確かに。階段を落ちるなんて滅多に経験出来ませんから」
聞き慣れた声は五十代前半の保健医のもので、それに陽気に答える方は…、初めて聞く男の声だ。
「…にしても、驚くべきはキミの方ね」
呆れているのか感心しているのか、微妙な口調の保健医に「はぁ…」と無感情に返す声も、正巳には聞き覚えがない。
「階段の上から落ちてきた二人の下敷きになっても掠り傷一つ無いなんて、体に鉄板でも入っているの?」
「先生、それは彼に失礼ですよ。久津木は二人を受け止めようとしたんですから」
そうして口を挟む声、…それには覚えがあった。意識が途切れる寸前まで聞いていた声だと思う。
久津木というのは、怪我一つなくて済んだと言う、あの無感情な声の持ち主だろうか。
「落ちてくる二人を?」
「それまで離れた場所にいたのに、落下地点に走りこんできたんです」
優しい、低くも高くもない声が続けると、保健医は「へぇっ」と微妙な声を上げた。
「それはまた…、確かにイイ身体しているけど、何か運動で鍛えているの?」
「…一応、小さい頃から空手を」
「名前は?」
「久津木将信です」
やはり感情の薄い声音の彼の名が久津木。
続いてペンを走らせる音が聞こえてきて、きっと保健医は【保健室利用者名簿】に彼の名前を記入しているのだろうと察しが付いた。
「なら、結局あの子の不運に巻き込まれたのはキミ一人だ」
「実はそれも微妙に違うんですよ」
これにもすかさず口を挟む穏やかな声。
「そうなの?」
「彼は傍にいる女の子達が巻き添えにならないように自分から手を出したんです。まぁ…、まさか腕を掴まれて一緒に落とされるとは思わなかったでしょうけど」
「…キミはよく見てるわねぇ」
「一人、高みの見物でしたから」
くすくすと、柔らかな笑いを含んだ彼の声は、やはり父親に似ていると思った。
「なるほどねぇ。ってことは、キミのそれは名誉の負傷だ」
包帯を巻いている足首をそう称されて、言われた当人は可笑しそうに笑う。
「そんないいものじゃないですよ。久津木が受け止めてくれなかったら、俺は足を捻るだけじゃ済まなかったかもしれません」
「それは確かにね。…と、キミの名前は?」
「時枝彬です。…それは何を書いているんですか?」
「保健室利用者名簿」
あっさり返す保健医に、正巳は自分の予測が当たったことを嬉しく思った。
「保健室に行くと言って授業サボる連中が最近多いのよ。その防止策の一環。ちなみにキミ達がこうなった原因の先輩、保健室利用率は校内一ね」
「校内一?」
「あの先輩、そんなに…病弱なんですか?」
「病弱というより注意力散漫、怪我が主ね。三日に一度は「あっち切った」「こっち裂けた」って来るの。それが軽傷なら放っておくんだけど、毎回毎回、結構凄まじい傷を作ってくるのよ。階段落ちたのもこれで四…、五回目になるかしら」
「へぇ…、市原正巳、先輩?」
「運は悪いけど中身は良い子よ」
保健医が可笑しそうに言うから、正巳もつい笑ってしまった。
「…センセ、それって褒めてるつもり?」
「おや、ようやくお目覚め?」
正巳が声を出すと、保健医は振り向きざまにそんな声を掛けて来る。
「よくもまぁ毎度毎度、保健室に来てくれてありがとうね。けど半年や一年、顔見なくても別に寂しくなったりしないよ?」
正巳が横になっているベッドに歩み寄り、額に触れ、脈を計りながら保健医が言う。
「しかも今日は三人もお友達を連れてくるとはね」
「ぁ…」
そう言われて、正巳は今まで保健医が話していた三人を見る…つもりだったが、その先には二人しかいなかった。
しかもその二人は、なんという偶然か、階段から落ちる前に、正巳が眺めていた階下のフロアで妙に目立っていた、あの二人の新入生だった。
落ちてきた二人を受け止め、空手を習っていると言った彼、久津木将信は同性として憧れる体格の、精悍な顔つきの少年。
足首を捻ったという時枝彬は、複数の女生徒と並んで歩いていた美少年だ。
「…ぁ…二人とも、俺のせいでごめんな…」
巻き込んでしまったのが、あの二人だったと自覚した途端に、とてつもない罪悪感が胸中を占めた。
まるで自分が見ていたせいで災難に巻き込んでしまったような気がした。
だが対する二人は何を気にするふうでもなく。
「いいえ。先輩にも大きな怪我がなくて何よりです」
「…」
時枝が言い、久津木も同意見だと言うように小さく頷く。
そんな二人の優しさが痛かった。
「ほんと、ごめんな…」
もう一度謝ると、時枝が困ったように微笑う。その表情を直視出来ず、もう一人いるはずの“その人”を探そうとした正巳の耳に、再び保健医の声がする。
「あぁ、ところでキミの名前は? 一応利用名簿に書いておかなきゃ」
「文月佳一です。でも、俺も保健室利用者の一人ですか? どこも怪我はしていないんですが」
「おや」
彼の返答が意外だったような反応で、保健医が声を掛けるのはベッドを挟んだ反対側。
「解っているならさっさと授業に戻ってもらいたかったね」
ここは休憩所じゃないよ、と保健医は軽快に言うが、文月佳一と名乗った彼はくすくすと笑っている。
「出来ればそうしたかったんですが…」
意味深に言う彼が、今まで自分が見ていたのとは逆方向にいるのだと気付き、顔の向きを変えてそちらを見上げた。
同時に視界に入るのは陽に透ける髪。
穏やかな視線、そして微笑。
想う人には似ても似つかないのに、どうしても懐かしさを感じずにはいられない。
…だがそんな感慨は、相手の次の台詞に掻き消される。
「授業に戻りたくとも離してくれないんですよ」
「離してくれない?」
佳一が指差した位置を、保健医は正巳に覆い被さるような格好で覗き込み、正巳も視線を下げる。
と、そこにあったのは繋がれた手。
誰と誰の?
正巳と佳一の、繋がれた手だ。
「おやぁ〜」
「っ!」
保健医が愉しげな声を上げるのと、正巳が真っ赤になって手を離すのがほぼ同時。
しかも慌てて体を起こしたものだから、急激な動きに血の流れがついていかず眩暈を起こしてベッドに逆戻りとなった。
「〜〜〜〜っ」
「ほら、いきなり起き上がったりするんじゃないの」
それを、実に面白そうに言って。
「しっかし…、なるほどねぇ。今日の不注意の原因は彼のビボーか」
「―――…っ〜違う!」
「怪しいねぇ。今の間なんか特に」
「目ぇ回ってたんだよ!」
「あ、でも先輩、落ちる直前に俺に見惚れていましたよね?」
「おやおや、ホントにかい」
「ちっがうっ!」
とんでもない誤解だ。――否、誤解とも言い切れないが、間違っても文月佳一という男に見惚れていたわけではない。
そもそも、どうしてこの男までが保健室にいるのだ。
「〜っ…、あの二人は俺が巻き込んで大変な目に遭わせちまったかもしれないけど、なんでおまえ…文月だっけ? おまえまでここに居ンの?」
「それはあんまりですね。気を失った先輩を誰がここまで運んだと思います? 時枝は足首捻挫、今は何ともない久津木だって、二人を受け止めた直後はさすがに苦しそうだったんですよ?」
「ぁ…」
少し考えれば判りそうなものを、自分で巻き込んでおきながら勝手なことを言ってしまった、そう気付いて言葉を詰まらせた正巳だったが、当の本人は変わらない笑みを浮かべている。
それが、正巳の態度にまったく気分を害していないようだから、怒気も持続しようがない。
「わ、悪い。勝手なこと言い過ぎて…」
「いいえ。先輩の気持ちは、今までしっかりと繋がっていた掌から、ちゃんと伝わっていましたよ」
「それは何かの間違いだ!」
間髪入れずに言い返すと、別方向から笑い声が二つ。
保健医と時枝彬が可笑しそうに笑っている向こうで、久津木将信が呆れ顔だった。
「っ…」
どうして下級生三人の前で自分がこんな状況にあるのか。
もちろん階段から落ちるなんていう間抜けな事態を引き起こしたのは自分だが、それにしても、この状況はあまりに居心地が悪かった。
「ぁ、あの、時枝…と、久津木? 二人には大きな怪我とかなかったんだよな…?」
「まぁ、時枝君が右足捻ったくらいだね」
「文月…は、怪我なんかないよな…?」
「ええ。もちろん」
彼は落ちたのではなく、落ちた正巳を保健室まで運んでくれたのだ。
「えっと…、あのさ。時枝には日を改めてちゃんとお詫びに行くから…、その、今日は俺、これで…」
「どしたの市原、なんか逃げ腰じゃない?」
「逃げようなんて思ってねぇっ」
これまた間髪入れずの返答がそのまま答えだった。
保健医、文月佳一、時枝彬が笑って、久津木将信の表情にも苦笑が浮かんで見える。
「…っ、とにかく俺は帰る!」
「おいおい」
止めようとする保健医を無視して、ベッドの傍に揃えられていた靴を乱暴に履いていると、何を思ってか時枝彬が話し掛けてきた。
「先輩。お詫びは結構ですから、一つお願いを聞いてもらえますか?」
「え?」
「俺、足首を捻ったせいで歩くのが難しいんです」
「うっ、うん…」
「車で送り迎えしてくれなんて言いませんから、家まで荷物持ちしてくれませんか?」
「は――」
荷物持ち。
足首を捻ったのが正巳のせいで、当の本人がまったくの無傷となれば、それは責任を取るべきだ。
そう思って断れずにいると、
「ね、久津木もどう?」と時枝は隣に問いかける。
「…俺はいい」
軽い息を吐いて首を振る久津木に、多少ホッとするのも束の間。
「だったら久津木の代わりに俺が参加」
「はぁっ?」
どうしておまえのまで、と目で訴えれば、さりげなく指差される自分の手。
「二時間分、今日の授業を受けられなかったんですけどね?」
正巳が手を離さなかったせいで。
にこやかな笑顔でそう言ってのける彼を前に、ここで突っぱねれば、明日には今日の出来事が学校中に広まっていそうな気がするのは正巳の考え過ぎだろうか。
くすくすと楽しげな文月の笑み。
「先輩、俺のことは佳一と呼んで下さって構いませんから」
「あ、なら俺は時枝で」
「〜〜〜〜〜っ」
こいつ等ムカつくっ! と内心で正巳が叫んでいるのを知ってか知らずか、二人の一年生は楽しそうに笑っている。
保健医も面白いものを見たと言いたげな顔だ。
ただ一人、久津木だけが気の毒そうな顔をしていたけれど、正巳の負けは確定だった。