第一章 〜 十四
「…じゃあ、始めますか」
そう言って、佳一が微笑う。
元気付けるような優しい笑い方をして、彼は腕を伸ばした。
「見物ですよ、先輩」と時枝が小声で耳打ちしてきたが、何のことか分からずに聞き返そうとした正巳は、しかしその直後に絶句してしまった。
佳一が日本語とは思えない言葉を口の中で呟くと、一羽、二羽と彼の頭上に生物が現れたのだ。
それは今まで見たことのない姿形。
鷹や鷲、そういった肉食の鳥類に似て、体長も同じくらい。足には鋭い爪が備わり、口元には凶器にも為りうるだろう曲線を描いた嘴。空を飛翔するための翼や、羽も、鳥には相違ないのだが、その色調があまりに空想的なのだ。
青のようで、白のようで、透明色でもあるそれは海を連想させる。
まるで意思を持つ“水”が鳥を象っているようだった。
「ぅわ……」
感動とも驚愕とも取れない表情の正巳に、佳一は薄く笑って告げる。
「…俺には生まれつきこういう能力がありました。だからといって、妖魔だとか、連中の好物だとかまで最初から知っていたわけじゃありません。…“水”が、俺に教えてくれたんです」
「―――水が…?」
「この能力のせいだと思いますけど、俺には風や木々、火、そういったものの声が聞こえます。ただ“水”だけは他と違った。彼らは俺の言葉に応えるんです」
応えると言って佳一が見せたのは、どこから掬ってきたのか、掌に乗る少量の水滴。
それが、佳一が口の中で奇妙な言葉を紡ぐと同時に形を変えた。
液体から固体へ、固体から液体、そして液体から気体――実験道具もなしに見せられた物質変化に正巳は絶句。
これが何度目かになる時枝と久津木も、やはり難しい顔でその光景に見入っていた。
「“水”は俺に応えて、その力を貸してくれると同時に俺が判らないことを教えてくれた。この文字の読み方も」
そうして目の前に出された佳一の腕には、見たことのない奇妙な模様があった。
「これは里界という世界の言語だそうです」
「…り、かい…?」
どこかで聞いた覚えのある響きに正巳は記憶を手繰り寄せようとしたが、それより早く佳一は続ける。
「俺は、どうやら“水”の主みたいなんですよ」
「……は…?」
「そしてこの力は里界の力――あの夢の世界の力なんですよ」
「夢…?」
「そう。泣いている“彼女”を見ていることしか出来ない、あの夢です」
「―――」
泣いている。
この世界とは絶対的に異なる景色の中、ずっと泣き続けている女性。
銀糸の髪、銀灰の瞳。
彼女を見続けることしか出来なかった、幼い頃から見てきた――夢…。
「ぁっ…佳一、おまえ……っ」
意味深に笑む彼が、昨夜の夢の中の彼と重なる。
「おまえも、あの夢…っ!」
「ずっと見ています」
「じゃあ…」
「先輩も見ていますよね」
「知って…?」
「すぐに判りましたよ、あの階段でぶつかった時に。先輩が妖魔に狙われていることも、俺と同じ夢を見ていることも。…自覚はなかったみたいですけど、先輩も間違いなく里界の関係者です」
関係者と言われて、すぐに理解は出来ない。
だが先刻までの闇の中。
おまえの力をよこせと迫ってきた妖魔連中は確かにそう告げた。
正巳を里界の占者だと。
その力を自分に与えろと。
「里界…」
夢に見てきたあの世界が。
風に吹かれ、膝丈より高い草が歌うように波打つ夏の大地。
深い森には彩り鮮やかな花々が咲き誇り、青い空、穏やかな陽射し。
不思議な色をした河川、湖に、絶えず広がる波紋が伴う小さな鈴の音。
その響きの、……懐かしさ。
懐かしいのに、見ていることしか出来なかった、あれが里界。
そして。
「おまえが水の主…?」
「…まだ判らないことだらけで…、主と呼ばれて悪い気はしませんけど、申し訳なく思うことの方が多い。能力は使えるけれど、これで何をすべきなのかが解らない。彼女の涙の理由も判らない。…こんな能力があったって、妖に狙われた全ての人間を助けられるわけでもない」
それはたとえば、弱い心で妖魔の虚像を受け入れてしまった人間だったり。
…正巳の両親だったり。
「佳一…」
「“水”は力の使い方や、この能力の根源は教えてくれるけれど、里界出身じゃないから里界のことは何も知らないと言うんですよ。…里界のことが知れなきゃ、俺は結局は何も知らないのと同じだ」
そう告げて佳一が初めて見せた自嘲気味な笑み。
辛さが窺えるその表情には正巳も苦しくなり、聞いているしかない時枝と久津木の二人も顔を歪めた。
そんな一人一人の様子に、佳一は小さく笑う。
笑うことが、彼にとって精一杯の強がりなんじゃないだろうかと、正巳はそんなふうに思えた。
「…それでも、ただ一つ言い切れることがあるんですよ」
「…?」
「俺は、必ず先輩を妖魔から守ります」
「――」
「それだけは約束出来ますから」
真摯な眼差しで静かに告げて、佳一は再び構えた。
「結界を解くと同時に連中は先輩を狙って飛び掛ってくると思う。…久津木、時枝」
「判ってる、責任は最後まで果たすさ」
「おまえを信じるよ」
二人の返答に佳一は頷き、今一度、正巳を見る。
「…俺を、信じてください」
真っ直ぐな視線。
懐かしい面影。
「ね」
優しい、笑顔。
正巳は頷く。
おまえを信じると瞳で訴えて、足に力を入れた。
佳一の言う「結界を解く」と言うのは正巳には解らなかった。
鈴の音のようなものが聞こえると思った直後、突如現れた頭上の影にハッとして顔を上げると、滑った牙が真正面で光った。
「!」
だが思わず身構えるより早く、妖は動きを止めて苦痛に顔を歪めたかと思えば、硝子細工が地面に叩きつけられたような勢いで粉砕された。
何が起きたのかまったく判らなかったが、後で佳一に聞けば、体内に水を送り込み一瞬で凍結させると妖の身体は氷と同様の固体になる。それを、彼の頭上にいた水の鳥に攻撃させたのだという。
そういった現象が次々と繰り返される。
佳一は一歩も動かないまま、手と言葉を使って周囲に群れを成す妖の動きを封じ、水の鳥達が消滅させていく。
何十、何百もの妖が彼らを取り囲んでいたが、その半数近くは、結界を解くと同時に佳一が指先で描いた軌跡に囚われ、身動きを封じられ、妖の存在が次々と減っていくにつれて闇に光りが戻るようだった。
「…責任取るなんて言って、結局は文月に守られっぱなしか」
「だな…」
ふと両側から声がして、正巳は彼らを見上げた。
「責任…? …っていうか、そう言えば何でおまえ達もここにいるんだ? 佳一とケンカしてた…よな? 確か……」
「ぁ…、ええ、まぁ…」
「あの時はそうだったんですが…とにかく誤解だったってことが、俺も久津木も判ったので……」
時枝が苦笑交じりに告げ、久津木もばつが悪そうな顔をする。
幾つもの誤解があったとはいえ、佳一を疑った自分を恥じているのだろうか。
「文月は俺達を危険に遭わせないために先輩に近付くなって言ったのに、俺達はそれを誤解して、先輩を想像以上に危険な目に遭わせてしまった」
「! だからって、その責任でここまで来たのか?」
「まぁ…そういうことです」
「バッカ、もし俺があいつらの力に騙されてたらおまえら本当に死んでたんだぞ?」
「そんなことにはならないだろうって、判っていました」
「え…?」
久津木の言に驚いて聞き返す正巳に、彼の言葉を補うように続ける時枝。
その声音には、苦笑めいたものが含まれていた。
「先輩を追うって言った時の文月の様子を見ていたら、たぶん、先輩は帰ってくるだろうなっていう予感みたいなものがあったんですよ」
「あいつが先輩のことをどんなに心配しているのか、ほんの短い間、言葉を交わしただけでも伝わってきた。俺や時枝にも伝わってくるものが、俺達より文月と居た先輩に伝わっていないはずがない、…そう思ったんです」
「実際、先輩は今こうしてここにいるでしょう?」
くすくすと笑う時枝に、正巳がどう反応したものか戸惑っていると、少し離れたところから佳一が口を挟んでくる。
「…まったく、余計なことまで喋りすぎだよ、二人とも」
呆れたような、…だが、どこか“らしくない”口調。それは、もしかして照れているせいだろうか。
うまく正巳が見上げることの出来ない位置に顔を隠して妖魔と向き合う彼に、正巳は吹き出しそうになった。
「…俺、ほんと、もう大丈夫だ」
呟く彼に、視線が集まる。
「父さんと母さんは…もう戻ってこないけど、俺の中の両親が消えるわけじゃない…」
学校の友人達との関係も、過去には二度と戻れないからといって、思い出が消えてしまうわけではない。
そこには、今だって楽しかった日々がある。
未来が変わってしまうのは仕方のないこと。
戻れないのは当たり前のこと。
大切なのは、現在の自分が何を思うか。
たとえ自分に都合のいい解釈だったとしても、友人達は優しいから自分に掛ける言葉に戸惑うのだと思いたい。
悲しいくらい優しいから、近づけない距離が出来てしまったのだと信じたい。
「だってさ…、俺、やっぱ好きだよ。遠藤や森高や…クラスの連中、みんな好きだ」
嫌な教師もいる。
腹立たしい奴がいないわけじゃない。
それでも、好きだと思えるあの場所は、今でもやっぱり愛しくて。
大切で、離れ難いと思うんだ。
「階段から落ちるのに巻き込んで怪我までさせたって、時枝は俺のこと心配してくれてるし」
忘れていない。
足首の怪我を理由に登下校を一緒して、危険から守ろうとしてくれていたこと。
「落ちてきた奴を下で受け止めて、痛い思いしたのに、久津木は一人でいた俺を心配して弁当一緒に食ってくれるし」
無視しようと思えば出来たはずの危険に自ら首を突っ込んで、こんなところでまで一緒に立ってくれている。
「佳一は……、佳一はヘンタイのくせに優しいし…」
同時に時枝が吹き出し、久津木が頬を揺るめる。
「う〜ん、もう少し感動的な出だしを期待していたのになぁ」と、それでも楽しげに佳一が言う。
その声が。
態度が、嬉しい。
「…俺…」
今まで苦しんで、辛かったのも嘘みたいに。
「俺、おまえらの事かなり好きだ」
朗らかに、真正面から告げられる言葉に毀れる笑い。
「俺も先輩が大好きです」
時枝が言って。
久津木が笑って。
「俺は愛していますよ」なんて佳一が言う。
優しい光りが闇の帳を切り裂いた。
氷の結晶を散りばめて、一つ、また一つと絶望の囁きは絶えていった。
先に佳一が言っていた通り、辛い記憶が何度か脳裏に蘇り、膝をつきそうになったけれど。
両側で支えてくれる友達と。
“仲間”の力が勇気をくれた。
―――…………正巳……
最後の、最後に。
届いた呼び声。
ふと思い出す、佳一の力。
命の水。
母なる海。
妖の記憶の中、自分を抱き締める温かな腕、それは。
「……母さん」
自分を見つめる強い想い。
「父さん……っ」
波打つ水面に、揺れる面影。
最後に見たのは、二人の笑顔。
「俺…生きるから……っ…」
生きるから、何があっても。
二人が愛してくれた自分。
「俺…生きるから…」
最後の約束。
いつかまた逢える時が自然と訪れるまで、自分はちゃんと生きていく。
そう告げた自分に、二人はきっと微笑ってくれただろう―――。