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第一章 〜 九

 その夜、正巳はまたあの夢を見た。

 だがそこに佇むのはいつもの彼女ではなかった。

 その夜の夢の中、泣いている人は誰もいない。

 そこにいる全ての者が楽しげに笑っていた。



 笑っている。

 湖の畔で、誰もが穏やかな笑みを浮かべている。

 なのに、それをただ見ていることしか出来ない遠い自分。





 ―――……?






 ふと視線を留めた先に、どこかで見覚えのある男の顔。

 陽に透けるような薄茶の髪。

 切れ長の瞳に柔らかな眼差し。

 …まさかと思う。

 だがその顔を少し若くし、こちらを向かせれば、きっと彼そのものになる。



 大勢の楽しげな人々の中心に、彼の姿。

 いつもは泣いている“彼女”も一緒に。



 文月佳一がそこにいた―――……。





 ***





 目を覚ますと、いつもとは違う天井が視界に広がる。

 和室特有の匂いと、和紙に遮られた日差しの涼やかな温もり。

 あぁ、ここは自分の家ではなかったのだと思い出し、正巳は慌てて起き上がった。

「ぁ…っ」

 いつも枕元に置いて寝る携帯電話を探すも、昨夜、それを持たずに家を飛び出してしまったことに気付いて手を止める。

「俺…」

 一気に覚醒した頭の中で昨夜のことを順番に思い出す。

 家を飛び出した夜道で佳一と遭遇し、家に招かれ、話をして。

 佳一も両親を亡くしていると聞かされ、正巳の痛みを自分も知っていると彼は語った。

 だから泣きたいなら自分の傍で泣けばいい。

 全部受け止めるからと優しい言葉を掛けられて、まるで他人の優しさに飢えていた子供みたいに泣き出しそうになるのを必死に堪えた。

 自分の弱さを自覚し、激しい自己嫌悪の渦の中で今夜は眠れそうにないと思いながら布団に横になっていたのだが、…気が付けば外は明るい。

 しかもこの陽射しは、早朝のものではない気がする。

「…いま、何時だ…?」

 嫌な予感を抱えながら布団を抜け出し、襖を開けて居間に出る。

 昨夜も時間を確かめた時計を見上げ、示される時刻にぎょっとした。

「十二時っ!」

 これでは寝坊だとか遅刻だとかいう以前に、人様の家で一体何をやっているのかと頭を抱えた。

 いくらなんでもこれは寝過ぎだ。

 学校に何の連絡も入れずに、この時間。

 そもそも文月佳一はどうしたのだろうと彼の部屋を振り返ったところで、テーブルの上に置かれた手紙に気付いた。

 A4のコピー用紙にサインペンで書かれたそれは佳一から正巳へのメッセージ。

 横に添えられた鍵はこの家のものだろう。



『おはようございます。

 よく眠っているようでしたから起こさずに行きます。

 きっと家では充分な睡眠を取れていなかったんでしょう。

 学校は、俺が先輩の担任に伝えておきますからご心配なく。

 ゆっくり休んでください。


 あるものは好きに食べたり使ったりして構いません。

 それと もし外に出るなら鍵を掛けていってください。

 スペアを置いていきます。



           文月佳一』



 まるで佳一の外見のように、大人びて綺麗な字体だ。

「ご心配なくっておまえ…」


 一体、どういう説明をしてくれたのだろうと微かな不安を覚えつつ、とりあえず洗面所を借りようとした正巳は、部屋の壁際、日光の当たらない位置にきちんと掛けられた自分の制服に気付いた。

 そういえば、風呂から上がった時に用意されていたこのパジャマも、敷かれていた布団も丁寧な扱いが伺えるものだったことを思い出す。

 彼の身の上を思えば、これが彼にとっては当たり前のことなのかもしれない。

 全部自分でしなければ、他の誰もやってくれないのだから。

「…悪い奴じゃないんだよな……」

 階段を落下して、保健室で目覚めた後からずっと腹立たしい事ばかりで――そもそも階段を落ちた原因が彼に目を奪われたせいなら、彼自身が自分の鬼門なのかもしれないが、悪い奴ではないと思う。

 道路に飛び出しそうになった自分を必死で追いかけて止めてくれたのは彼だったし、

「ありがとう」や「ごめんなさい」といった大切な言葉を自然と口に出来るかどうかが、他人を信じるための最初の一歩だと言うのが母親の持論だった。

 悪い人間ではない、それは昨夜の遣り取りの中からもよく判った。

 ただ一つ、どうしても気に食わないのは彼を父親に似ていると思ってしまったこと。

 あの日、文月佳一に父親の面影を重ねた、それが始まりだった。

 日系二世のアメリカ人である父親は、そのせいもあって体格がよく、髪の色、瞳の色も日本人の“黒色”とは違った。

 だが佳一のように陽に透けるような茶ではなく、父親に比べれば佳一の体格など華奢に見えるし、第一、父親の顔は“美”という言葉からは掛け離れているように思う。

 知れば知るほど、似ても似つかない。

 優しい眼差しは確かに共通するが、それなら保健医やクラスの遠藤だって優しい瞳をしている。

 優しい奴は他にも大勢いる。

 なのに、自分が似ていると思ったのは佳一のそれだった。

 父親と同年代の大人をそう思うならまだしも、自分と同じ高校生で、しかも“後輩”に感じるのはおかしいと思うのに、未だに打ち消せない。

 どれだけ考えても判らない。

 ただ、佳一が見せる表情や、仕草に、説明の仕様がない懐かしさを感じるのだ。

 二日前の放課後、危うく車の陰から車道に飛び出そうとしていた自分を必死に追いかけ、止めてくれた時、無事に済んで良かったと呟いて浮かべた優しい表情。

 昨夜、八つ当たりにも似た言葉の数々を黙って聞いて、励ますようなことを言ってくれた時の真摯な眼差し。

 …素直に懐かしいと思った。

 この瞳を知っていると思った…、たとえばそれは、夢の中で笑っていた彼の笑顔も。

「―――」

 そこまで考えて、ふと気付く。

「夢…?」

 洗面所から戻り、まずは布団を畳んでおこうと思い立った足がその場で止まる。

 思い出そうと思うと、いつに無く鮮明に蘇える昨夜の夢。

 いつもは独りきりで泣いている彼女が、昨夜は幸せそうに笑っていた。

 その周りには大勢の―おそらく“仲間”がいて、彼女の傍近くに彼がいた。

 文月佳一の姿が在った。

「…っ! なんであいつが夢に……っ…!」

 夢には自分の本音や願望が現れるのだと、父親がよく言っていた。

 それを思い出した正巳は途端に頬を火照らせて、顔つきを険しくする。

 だが時間を経て思い出してしまった夢の内容は、より鮮明に正巳の記憶に刻まれ、佳一だと思った男の顔も脳裏に焼きつく。

「うわっ…待て待て待て!」

 冗談じゃねぇっ、といくら内心に叫んだところで、見てしまった夢は変わらない。

 穏やかな笑み。

 芝生に寝転がりながら“彼女”の話しを楽しげに聞いている佳一と思われる男の姿。

 年齢で言えば二十代後半くらいの、成熟した男の体つき。

「なんで憶えてンだよ俺!」

 他にもたくさん人がいたのに、どうしてこれほど鮮明に佳一の姿を覚えている?

 銀糸の髪、銀灰の瞳。

 いつもは泣いているだけの彼女が幸せそうに微笑う周りには、大勢の仲間達がいた。

 彼女のすぐ傍に座っていたのは月色の長い髪をした美しい人。

 その膝枕で眠る長い黒髪の男。

「……ぁ、…あれ…?」

 何かが妙なことに気が付いて、正巳はなおも昨夜の夢を思い出そうと試みる。

 そうだ、その周りには金髪の少年、露出の高い衣服を身に纏った少女、額にバンダナを巻いた青年、首に札を下げた老婆がいて…。

「俺…」

 肩に鷹を乗せた男、腕に痣を持つ青年、剣を下げた少女、青い瞳の女性…。

「…俺…もしかして全部憶えてるのか…?」

 次々と思い出される人々の容貌。

 正巳は己の記憶力に驚愕した。

 目を瞑れば即座に浮かぶ光景。

 一人一人の髪の色、瞳の色、その他の特徴や、表情の細部までも。

 まるで録画してあった画像を繰り返し見ることが出来るように、何度でも思い浮かべることが可能だった。

「なんで俺…」

 これは一体、どういうことだろうか。

 こんな夢、今まで一度だって見たことはなかった。そもそも夢の内容などほとんど覚えていない自分。

 覚えていられて親に話せた内容は、銀糸の髪、銀灰の瞳をした彼女が泣いている夢だけで―。

「…同じ世界……?」

 それは、偶然というにはあまりに出来すぎた一致。

 憶えていたのは、その場所。

 風に吹かれ、膝丈より高い草が歌うように波打つ夏の大地。

 深い森には彩り鮮やかな花々が咲き誇り、知るものとは明らかに異なる生き物達が息吹いていた。

 空は青く、高く、陽は穏やかに。

 小さな鈴の音を伴って絶えず波紋を広げる湖水。

 そうだ、正巳はその光景を覚えていた。

 幼い頃に見た夢の景色を、この年齢になって再び目にしたとき瞬時に分かった、これはあの世界なのだと。

「…っ!」

 何か強い確信のようなものが心に生まれた。

 そしてその確信と同等の疑惑。

 あの日、文月佳一に父親の面影を見出し、階段を落下した。

 その日は伯母がアメリカに帰った日。

 夜は家に一人きり。

 ひどく恐ろしい夢を見た気がして、だがその内容を思い出すことは出来ず。…微かに憶えていたのは懐かしいという感情だけ。

 あれは、その時に見ていたのが、この夢だからではなかったのか。

 そして昨日。

 この夢を見て、居間のソファで目を覚ました自分を待っていたのは、死んだはずの両親だった。

 以前と同様の姿、声、同じ笑顔。

 何が夢で、何が現実なのかも判らなくなり。

 それが恐ろしくて逃げ出した自分を夜道で捕まえたのは文月佳一、彼だった。

(なんでおまえだったんだ……っ?)

 正巳は、それを確かめたいと思った。

 今、確かめなければならない。

 何故かそう強く感じ、急いで制服に着替えると家を出る。

 その直後に鍵を忘れていることに気付き、慌てて居間に戻って鍵を手に取り、戸締りした。

「落ち着け…」

 何も慌てる必要なんかない。

 こんなのは自分の勝手な想像であって、ただの憶測。

 最近の自分は不安定だから、些細なことが気になるだけだ。

 そう自分自身に言い聞かせながら、全速力で学校へと走り出した。







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