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雨の日の夜。

作者: みしまりま

 朝から頭が痛くなる予感がしていた。今日は夜から雨だと天気予報に言われたせいかもしれない。


 ――降水確率30パーセント、夜には60パーセントになるので、お帰りの時間が遅くなる方は、傘と上着を忘れずにお持ちください――


 予報より少し早めの夕方、雨は降り始めた。


 頭痛はまだ気配だけだった。雨が降るから頭痛がするだろうという思い込みか、体が気圧の変化を感じ取っているのか。どっちかはわからないし、どっちでもいいけど、雨だけでも憂鬱なのだから、できれば頭痛は来ないで欲しかった。


 雪乃が雨が降ると頭痛がすると思うようになったのは、ここ最近のことだった。少し前まで、そんなことなかったのに。


 だから、彼氏の家に泊まりに行くと約束してしまっていた。荷物が増えるなと思いながら、傘も上着もしっかりと持ってきていた。

 雨は降っている。それになんだか肌寒い。泊まりに行くべきじゃないのかもしれない。


 それでもキャンセルし難いのは、前回の泊まりの約束を、雪乃の頭痛でキャンセルしたからだ。


 先週の金曜日、やっぱり雨で、やっぱり頭痛がして、それで頭が痛いからと、雪乃は泊まりの約束をキャンセルした。

 でも、自分の家に帰ったら、頭痛は治ってしまったのだ。


 土曜の夜に、頭痛は大丈夫か、病院に行ったのか。そう彼氏からLINEがきて、土曜の朝には治った、と返信した。本当は金曜の夜に治っていたが少し盛った。

 それでも、仮病を疑われた。『俺と一緒にいたくなかっただけ?』と言われた。

 だから、次の金曜日に泊まりに行っていいか聞いて承諾を得た。

 だから、今日はキャンセル出来ずにいる。


 定時が来るのが早いか、頭痛がくるのが早いか、そんな早さ比べは、定時に軍配があがった。

 そして十五分もすると、金曜の夜のせいか、この部署の習慣か、皆、帰り出していた。


 でも、彼氏と約束している雪乃はまだ帰れない。

 しかも今日は、彼氏の部署の送別会が終わるまで時間をつぶさないといけない。


 泊まりを今日にリスケをした際に、『その日送別会だから終わるまで待ってて、そのくらいは待てるでしょ?』と言われていた。

 前回ドタキャンした雪乃は、待てないとも待ちたくないとも言えなかった。どうせ合鍵も持っていないし、泊まりに行くなら待つしかない。

 向こうの送別会が終わるまで、夕食をすませて会社近くで待機する必要があった。



 そっと窓の外を見た。外は暗くて空は見えないが、窓ガラスは水玉模様。下を見れば通りを歩く人たちの傘の花。雨でしかない。


 本日の仕事も終わったのに、退勤も押したのに、他部署の送別会終わり待ち、雨宿り、そんな理由で職場に居座って時間を潰すわけにもいかない。雪乃は、どこに行くかは決めてないけど、会社を出る決意だけは固めた。

 そのとき、ドアがノックされた。


 ちょうど帰ろうとした人がついでのようにドアを開けると、雪乃の同期の梨沙の姿があった。手にヘッドセットを持っていることから、用件は読めた。帰ろうとドアを開けた同僚はそのまま帰らせて対応を変わった。


「お疲れ様です。それ、調子悪くなったやつですかね?」

「お疲れ様です。そうですそうです。すみません、本日中に持っていくって言ったのに、定時過ぎてしまって」

「大丈夫です。交換ですよね、これ新しいものです。……ねぇ、今日残業?」


 同期とはいえ執務室内なので普通の音量でビジネスライクに話したあと、小声でそっと訊ねた。


「いや、これ届けたらもう終わり。あ、もしかして帰るところ?」

「帰るところ! ねぇ、一緒に帰らない? 一緒に夕飯食べない?」

「もちろんいいよ。もう出る?」


 素早く待ち合わせの約束をして、パソコンをシャットダウンし、お疲れ様です~と残っている同僚に声をかけて、雪乃は執務室を出た。

 ヘッドセットを置いてカバンを取ってきた梨沙と合流し、会社の出口に向かいながら夕飯を何にするか検討した。彼氏の部署の送別会が終わるまで時間があることも素早く話した。


 一人では食べないもので、家では作らないもの、そして金曜の夜に二人ですっと入れるお店。なんだろうね~とあれこれ考えながら通りを歩き、お好み焼き屋を見つけてテンションが上がって二人で入った。並んでいなかったのも決め手だった。

 すんなりと着席をして、黒烏龍茶で乾杯をした。梨沙はお酒が飲めないことはわかっているし、雪乃は少しずつ忍び寄ってきた頭痛が怖かった。


「雪乃、お酒飲んで良かったのに。花金だよ?」

「今時、花金って。いいよ、今日は……ほら、あとで向こうの家行ってから飲むかもしれないし」

「向こうも飲んでくるんじゃないの?」

「送別会だもんね、そうかも」


 気を遣わせる気がして、頭痛のことは梨沙に言わなかった。少しずつ実感してきた頭痛は、このあとひどくなる気がしていた。場合によっては薬を飲む。それでも飲むのは梨沙と別れてからにする気だった。


「それより、ごめんね、急に誘って。助かったよ~。雨の中一人でご飯食べて、向こうの飲み会終わりを待つのか? と思ったら、なんか気が滅入っちゃって」

「いいよ、帰って何食べようか考える手間がはぶけたし。ていうか、営業部また送別会?」

「そう、また。あ、ありがとうございます」


 話しているうちに、山芋とアボカドの鉄板焼きが届き、温かいうちに食べることにした。


「美味しそー。食べよ食べよ」


 料理に箸を延ばしつつ、美味しいと言いつつも、先ほどの話の続きをそっと続けた。


「多いよね、退職者。というか最近の営業部、ほんと多いよね。毎月のように送別会あるんだけど」

「そんな多いの? 彼氏は大丈夫? そんなに人が辞めたら大変じゃない?」

「楽しそうにやってるみたいだよ。あ、最近なんだっけ、コールセンターから異動してきた人の教育係になったって」

「あぁ、雛田さん? うちも退職者が相次いでたから、あの子も辞めるかと思ったけど、営業は向いてそうだし、良かったよ」

「そうなんだ。あれだよね? ふわふわした感じの子」

「そうそう」


 雪乃と梨沙はこの会社で働き始めて三年ほど。退職者は何人も見てきた。二人の同期も、中途とはいえ当初は八人ほどいたが、今はお互いしか残っていない。

 そこそこ退職者がいるのは当たり前だが、ここ最近は、一つの部署で毎月のように人が辞めていて、噂話としては興味があった。


「この間まではコールセンターが退職者続いてたのにね」

「システム部は辞める人少ないよね。うちは一時期はほんと退職者続いて大変だったけど、雛田さんが異動して終わったって感じかな?」


 終わった、と聞いて梨沙のいるコールセンターの生き残りメンバーを頭に思い浮かべる。確かにもう辞めそうな人はいなかった。


「あぁ、もう皆辞める人は辞めちゃったって感じだよね」

「……そそ、もう後は辞めない人たちだよ」


 お待たせしましたーと、牛すじネギ焼きと明太チーズもちお好み焼きが運ばれてきた。


「あ、追加注文していい? 塩が欲しいな……ホタテの塩焼き食べない?」

「ホタテいいね」


 梨沙はお好み焼きとネギ焼きじゃ足りないと判断したのか、スマホを操作しサラリと追加注文をした。

 それから手分けして、明太もちチーズと牛すじネギ焼きを切り分ける。梨沙は牛すじネギ焼きを切り分けながら、会話を再開した。


「浅野くんとはどう? なんか前はもっと泊まりに行ってなかった?」

「あー、付き合いたての頃はね。……最近は、あまり行きたくないんだよね」


 彼氏の家に行こうとすると頭痛がするし。

 いや、頭痛は雨とぶつかるからだ。雨で頭痛がするようになったからだ。

 雪乃はそう思いつつ、梨沙に気付かれたくなくて、頭痛の話題を避けた。


「切れた。食べよ」

「こっちも切れたよ。あまり行きたくないってなんで?」

「あー、最近雨が多いから、傘とか邪魔だし」


 そう言いながら、牛すじネギ焼きを口に運んだ。


 美味しい、と食べながら、ふと、雪乃は梨沙の目線が度々、自分のすぐ後ろを見ていることに気が付いた。


「……何か不思議なお客さんでもいる?」


 雪乃は小声でそう訊ねる。特徴的な客がいて、それを見ているのかと思ったからだ。

 だけど、耳を澄ましても雪乃の後ろから、梨沙が見ている方向から、妙な会話などは聞こえなかった。


「ううん。雪乃、頭痛そうだなって」


 気を遣わせてしまったかと反省した。食事に誘ったくせに、体調が悪いなんて気付かせたくなかったけど、どこかでそういう様子を見せてしまったのだろう。


「あー、ごめん。ばれた? 最近気付いたけど、雨の日頭痛みたいなんだよね」

「……いや? え、違うでしょ? 雨の日限定?」

「雨が降っている日の夜が多いかな……え、違うでしょって何で?」

「え、だって、それ雛田さんだよね。ついてるの。そのせいじゃないの?」

「え?」

「雛田さん」


 雪乃は梨沙の言葉の意味がすぐにはわからなかった。聞き返してもよくわからなかった。雛田さんだよね? ついてるの? ……え? ついてる?


「はい……?」


 雪乃のハテナに店員の声が重なった。


「お待たせしました、ホタテの塩焼きです」

「ありがとうございます。あ、小皿でお塩が欲しいんですけど」

「かしこまりました」


 まだ食べる前から塩の追加?

 初めて見る梨沙の行動に違和感を覚えた。梨沙との付き合いはそれなりにある。会社で一番親しい。

 なのに、今日の梨沙は少し不思議だし、違和感だらけだ。


「あの、さ、ちょっとごめん、さっきの話、詳しく。ついてるとは?」

「頭痛するのって雨の日? 浅野さんの家に泊まりに行く日じゃなくて?」


 雨の日。彼氏の家に泊まりに行く日。ここ最近はそれが一致していた。だから雨の日頭痛なのだと、雪乃はそう思っていた。


「お塩です、お待たせしました」

「ありがとうございます」


 小皿に入った塩が届くと、梨沙はテーブルの紙ナプキンを取って、二重にして、塩を包みこんだ。そして雪乃に差し出した。


「今日の服、どこにポケットある?」


 雪乃の今日の服装は、飾りみたいな小さい胸ポケットがあるシャツと腰の両サイドにポケットがあるタイトスカートだった。ポケットの位置を梨沙に伝える。


「じゃあ胸ポケットに入れて。あ、ホタテ食べよう。塩が欲しかっただけだから」


 雪乃は疑問を持ちながらも、そうした方がいい気がして、胸ポケットに塩包みをいれた。

 それを見届けた梨沙が会話を再開した。


「晴れの日に泊まりに行った時も頭痛がするの? あと泊まりとかじゃなくて会うときは?」

「あー、前まではならなかったんだよね。最近になって頭痛が……。ここ最近、晴れの日に泊まってないし、泊まり以外で会ってないんだよね」

「それで雨の日頭痛かなって思ったの?」

「そう。最近雨が多いから、それでかな、って」

「雪乃ってもともと湿気に弱い? 一人で自分の家にいるとき、雨だと頭痛くなるの?」

「ううん。ならない……。ならないね」


 ならないなぁ。確かめるようにもう一度そう言って、ホタテを食べた。塩加減は程良かった。


「雪乃、日本酒飲めるよね?」


 梨沙はそう言ってスマホをいじって飲み物メニューを見始めた。


「これ飲める? 冷酒。頭痛ひどい?」

「え、あー。ひどくはないけど」

「じゃあ飲んで。これおごるから」


 多分、何かわけがあるのだろう。もともとお酒は飲めるし、好きだ。雪乃は梨沙の提案を受け入れた。

 梨沙は相変わらず黒烏龍茶を頼んでいた。


 冷酒と黒烏龍茶が来た時、雪乃の頭痛は気のせい程度になっていた。


「胸ポケット、違和感ない?」

「ないよ、お塩もこぼれてないみたい」


 塩の存在を確かめるようにそっと胸ポケットに触れた。手先が冷えていたのか、胸ポケットはほんのり温かかった。そして梨沙に促されるままに冷酒を飲んだ。


「お酒が妙に苦いとかないよね?」

「うん。飲みやすいよ、これ」


 梨沙は雪乃を少し見て、にこりと笑った。見ているのは雪乃ではなく、目線は少しだけ上にそれていた気がした。


「ささ、食べよう」


 届いた料理と飲み物がすべて空になる頃には、雪乃の頭痛は全くなかった。頭痛の気配すらも。

 それを梨沙に告げようと思ったとき、雪乃の携帯が鳴った。

 彼氏からのLINEだった。


「どうした? 眉間にしわ寄せて」

「今日の泊まり、なしにしてもらって良いか、って」

「なんで?」

「……わかんない、聞いてみよ」


『いいけど、何かあった? 大丈夫?』


 きつい言い方にならないように注意した。すぐに既読になり、返事があった。それに気付いたのか気付いてないのかわからないが、梨沙から心地いい提案があった。


「ねぇ、泊まりなしになったなら、もうちょっと時間平気? デザート食べたい」

「わかる、あ、アイス屋に行かない?」

「行く行く。アイス食べたい」


 少しイラついて甘いものが欲しくなった。会計を済ませて外に出ると、まだ雨は降っていた。

 雨の日の夜と頭痛は関係がなかったのだろう。


 お酒の分、多めに払うといっても梨沙は割り勘での送金を請求してきた。

 私が誘ったのだからとアイスをおごることで決着をつけた。気兼ねなく頼めるようにダブルにした。梨沙も意図を汲んだのかダブルを注文してくれた。


「泊まりなくなった理由さ、送別会で潰れちゃった人がいて放っておけないから、皆で二次会行くんだって。多分嘘だと思う」

「どの部分が?」

「皆で二次会」

「あぁ」


 湿気だらけの雨の夜にチョコミントアイスはすっきりしていて心地が良かった。甘ったるいキャラメルアイスとの組み合わせも満足だった。

 ストロベリーアイスとコーヒー味のアイスを食べながら、梨沙が言う。


「潰れちゃった人は、いるかもね。金曜の夜だからね」

「そうだねぇ。金曜の夜だからね」


 アイスを食べ終わって店を出る。雪乃と梨沙は駅までの道を並んで歩く。その道すがら、雪乃は宣言のように梨沙に伝えた。


「修平とは別れることにするよ。多分浮気してるし」

「うん。決めたら早いほうがいいよ。あ、そうだ」

「ん?」


 雪乃の胸のあたりを示して、雑談のように梨沙は言う。


「塩、家に帰ったら捨ててね。洗濯機に入れないように。あとさ、お風呂から上がるときに塩をひとつまみより多めくらいの量を頭の上にのせてシャワーを上からかけるの、気分がすっきりしておすすめだよ」

「わかった、ありがとう」


 梨沙と別れて電車を待つ間に、『別れよ』とLINEを送った。今度はすぐに既読にはならなかった。


 家についても涙も出なかった。泣きたいのかもわからなかった。多分泣かないといけないような気がしているだけだと思った。


「わ……」


 雪乃は胸ポケットの塩を取りだして、包みを開いて一人で小さく声を出した。塩は灰色だった。お店で見た色と違った。

 お風呂から上がる際にはひとつまみより多いくらいの塩を頭の上にのせて、頭の上からシャワーを浴びた。


 お風呂から上がってスマホを見ると、修平から『わかった』とLINEが返ってきていた。妙にすっきりした気持ちで眠った。頭痛はもう跡形もなかった。



 別れて一ヶ月くらい経った頃、雪乃のいるシステム部に退職者のノートパソコンの返却があった。ノートパソコンを使う部署は限られている。予想通り、営業部だった。


「営業部の浅野は退職で、雛田は休職です」


 受け取ったノートパソコンは二台だった。

 元彼が辞めた理由も、異動したばかりの雛田さんが休職になった理由も雪乃は知らないし、特に探る気もなかった。


 コールセンターで続いていた退職も、その後、営業部で続いていた退職も、ぱたりとなくなった。もう辞める人は皆辞めた、それだけの話かもしれない。


 しばらくして、本格的な雨の時期になったが、雪乃の雨の日の頭痛はまったくの気のせいだった。傘を新調したら雨の日も悪くないと思えるようになった。


「頭痛なくなって良かったね、健康が一番。あ、その傘、かわいいね」


 そう言ってアップルパイを食べる梨沙は、もう雪乃の後ろを見ていなかった。

 だから雪乃も、「かわいいでしょこの傘、お気に入りなんだ」と返して、アップルパイを頬張った。

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