桜送り
目を開けると、青々とした芝生の上に、巫女は立っていた。
遠く前方にあるのは、めいいっぱい足を伸ばせば飛び越えられる程の、幅の狭い川。後手にあるのは人の背の数倍も大きな桜の木である。しかしこの桜、世間にあるものとは少し違う。花びらが紅色なのだ。世界中の紅を集め、極限まで煮詰めて濾したような、純度の高い紅色が、満遍なく花弁に広がっている。そして、巫女の袴もまた同じ色であった。
巫女は暫くの間、芝生に目線を落としていた。ぴくりとも動かない草を見ていると、時間が止まっているかのような感覚に襲われる。
何度か瞬きをした後、巫女は覚悟を決めたように徐に顔を上げた。
対岸の、枯れた芝生の上に、ひとりの女が立っていた。白い袴を身に纏った、背の高い人物である。袴の色以外は、巫女をそっくりそのまま映し取ったような風体をしている。そして、女の後ろにはまた、大きな桜が咲いていた。しかしこちらは、桜の色を極限まで抜いたような、殆ど透き通って見えるほどの白色である。
女がこちらを向く。巫女と目が合うと、蕾が綻ぶように笑った。口は固く引き結んだまま。
何かしらの意図を持ちながら、見て、逸らして、また見て、というように、暫しの間交わされる二人の視線の間を遮る物が矢庭にやってきた。川にゆらりゆらりと浮かぶ、人ひとり寝転べそうな細長い木舟である。それは不思議なことに、水の流れに抵抗するような様子も見せず、二人の間でぴたりと止まった。
さぁ、仕事の時間である。
後ろ髪を引かれながらも、巫女はくるりと後ろを振り向いた。木の近くまで歩を進めると、樹皮に触れる。温度はない。感触も世間のそれと違ってざらざらとはしておらず、力を抜けば手が滑り落ちてしまうほど滑らかである。
巫女は手を離すと、桜の前で一礼して、懐から鈴を取り出した。小さな鈴がいくつか束になったものである。その拍子に、シャン、と鳴った。眠い目も一瞬で覚めるような、世界の輪郭がくっきりと浮かび上がって来るような一音である。追いかけるように、背後から、細くて高い笛の音が聞こえてくる。
巫女は手を高く挙げ、笛の調子に合わせて、振りかぶり、回り、鈴を鳴らし、優美に踊った。笛の鈴の重なりは見事なもので、少しも噛み合わぬことはない。
鈴が鳴る。笛が鳴る。息が上がる。袖が柔らかな弾力を持って跳ねる。裾が舞い上がる。束ねた髪が今にも暴れださんばかりに揺れ動く。
風が起きる。風が巫女の周りを円を描いて回り始める。桜の花弁が巻き込まれて吹き荒れる。
神様のお目覚めである。
巫女は春の嵐の中心で泣いていた。鈴の音を鳴らしながら泣いていた。舞いながら泣いていた。笛の音を聞いて泣いていた。巫女が泣くのは、毎年この日だけである。
やがて風が止んだ。先程まで桜の咲いていた梢は素っ裸の状態で、やや恥ずかしげに、その美しい肢体を晒している。
一体、散った花弁はどこに行ったのか。巫女は木に深く深く一礼をして、ゆっくりと、ゆっくりと、後ろを振り向いた。
木舟の馬手側に、紅色の花弁が今にも溢れ出しそうなほどこんもりと、収まっていた。隣には白い花弁が整然と積み上げられている。
巫女は安堵の息をつくと、川へ向かって歩みを進めた。が、なかなかこれがうまくいかない。足が鉛のように重いのだ。だって、舟を流せばこの時間が終わってしまう。この先また一年間も彼女に会えない。
漸く川辺に着くと、女は既に対岸で待っていた。長い睫毛を下に向け、いじけた子供のような座り方で、さらさら流れる川を眺めていた。
女は巫女に気づくと、今も巫女の頬を伝う涙を拭おうと手を伸ばし、はっと引っ込めた。女は手をぷらぷらとさせ、困ったように笑った。
二人は何も言わず、ただ同じ空間に座っていた。時々片方が相手の顔を繁々と見て、愛おしそうに笑ったり、泣いたりした。
どのくらいの時間が経っただろう。舟が数ミリ単位で動き始めているのに気づいて、巫女は青くなった。終わりが近づいてきている。
巫女は何かに救いを求めるように、対岸に手を伸ばした。その勢いで体ごと舟に突っ込みそうになってしまった。
慌てて体を引き戻すと、女はとても驚いた顔をして、声を上げて笑い出した。
この世界に今日初めて人の声が響いた。
「……咲良。何も言わずに聞いて」
女が柔らかく笑う。春の野原に差し込む光芒のように、巫女の心を暖かく照らした。
「成人おめでとう。いつの間にか私も抜かされちゃったね」
「…………」
「まだまだ先は長いんだから、嫌なことも多いと思うけど、負けないで」
「…………」
「ふふ、泣かないでよ。あ、間違ってもこっち側に来ちゃだめだよ?ずっと見てるから、ファイト」
「…………っ」
女の手が舟の縁に触れる。巫女もそうした。舟は桜の樹皮と違ってほんのりと暖かい。
ふたりは一緒に舟を押した。それは少しずつ加速して行き、やがて見えなくなった。
お別れの時間だ。
唐突に、空中に光の球が現れ、ふよふよと漂いながら、その数を増して行く。段々と光で見えにくくなっていく女に向かって、巫女は口をぱくぱくさせながら、笑顔でめいいっぱい手を振った。
ありがとう。お姉ちゃん。
光の球が一本の束になって光り輝いた刹那、巫女の意識は途絶した。
*
「……くら。咲良。大丈夫か?」
「ん、お父さん?あぁ、うん……」
目を開けると、平たい布団の上に、巫女は横になっていた。布団の横には安堵したような顔で、がたいの良い男が正座をしている。
重たい体を起こすと、装束の懐で鈴がシャンと鳴る。
先程までの記憶が、ぼんやりとした頭を鮮烈に駆け抜け、巫女は再び一筋の涙を流した。
「あぁ、あまり動かないほうがいい。それで、ちゃんと舟は送ったか?」
「うん」
「神様への礼儀も欠かしていないな?」
「うん」
「……あの子とは会えたか?」
「うん。でも」
巫女はくしゃりと布団の端を握りしめた。人の体温がした。
「ありがとうって、言えなかった。言いたかった、のに」
「…….大丈夫。お姉ちゃんには、ちゃんと伝わっているよ」
男は笑った。春の神社に差す光芒のような笑顔が、巫女の心を打った。
「今日は社務所は一日休みだ。頑張った咲良に好物のオムライスを作ってあげよう」
「……わざわざ休みにしなくても、人なんて殆ど来ないじゃん。こんなオンボロ神社」
「何か言ったか?」
「いーえ何も」
巫女はつーんと顔を背けて、近くにあったリモコンを拾ってテレビを付けた。
「……はい。そして本日、本州南側で一輪の桜の開花が観測されました。開花発表が各地で出るのもまもなくと言った感じですね。楽しみです」
「ええ。今年もいい色をしていますね。桜の下には死体が埋まっているなんて言いますが、こんな綺麗な花の養分となるなら、死体も本望でしょうね」
「ええと。ニュース番組なので、もう少し明るく客観的なコメントをもらいたいところですが……そうですね。確かにとても美しいです」
画面に映る一輪の桜は、優しい薄紅色だ。
「よかった。ちゃんとこの世に届いたんだ」
綺麗だって、お姉ちゃん。
そう呟くと、巫女は少し微笑んだ。
*
伝統深い日本国。その森の奥深く佇むオンボロ神社は、桜を神様として祀った神社である。
しかし神が寵愛していた巫女が死に絶え、ある時期からこの世に桜が咲かなくなった。代わりにあの世だけに白い桜が咲き乱れた。住人は大層喜んだ。
ある年、神は再びこの世の巫女を愛した。この世に赤い桜が咲き乱れた。住人は大層恐れた。
これじゃあいかんと言うことで、一人の巫女がある提案をした。この世に美しい薄紅色の桜を取り戻すために、赤と白、融合させてみてはどうか。
その為には神があの世の手前まで行かなければならない。そして神有る所に巫女有り。巫女は毎年春、その境目まで遥々出かけて行く。
対岸にいるのは先代の巫女である。命はもう無い。そこには意識だけがある。彼女は笛を鳴らして神を起こし、白い花弁を散らせてくれる。
辛いことに、現役巫女は迂闊に言葉を話せない。生者が言葉に含む邪気は、たとえ米粒程でも、桜の色を燻ませるからである。
彼女らが集めた紅白の桜は、川を伝って夜を越え、自然と互いに溶け合いながら、この世に満開の花を咲かすと云う。
その神社の名は伏せておく。ただ、確かにある、とだけ記しておく。
貴方の頭上に咲き乱れる桜も、ともすれば不思議な小舟に乗ってやってきたものかもしれない。