幕開き
幕間
まだらに赫い、閉じた世界。
躰は中心から押し潰されるように重く、刻一刻と迫る崩壊で病んだ。
血が廻る度、針を刺し抉られるような痛みが全身を襲う。やがて血管を犯し、肉を貪り、内臓をぐちゃぐちゃと掻き混ぜながら遂に『それ』は心臓を握りしめた。
嗚呼、終わってしまう。
与えられた役目も、託された希望も、祈られた命も。
何も成しえぬまま消えてしまう。飲み込まれてしまう。
嗚呼、終わってしまう。
ズぬリ、と鼓動が潰れる音が狭く温かい世界に響く。
もがくことも、叫ぶこともできない終わりの中でその時を待った。
そして微かに残った意識の中で、願った。遂に子を生みえなかった母と同じように。
幸福でいて欲しい、と。
冷たく溺れながら。脆く固まりながら。
まだ微かに震える彼女を感じ、受容したただ一つを祈りを繰り返し続けた。
何の意味も無く、少しの価値も生まれぬ事を意思が途切れる瞬間まで続けた。
一身に『それ』を抱きながら祈り続けた。
そして それ は生まれた。
産声をあげる。
嘲笑うような声で世界を腐らせながら。
躰を震わせる。
崩れた肉体で世界朽ちさせながら。
目を見開く。
窪み失った眼球で終わらせる世界を識った。
嫌うことなく。憎むことなく。恨むことなく。妬むことなく。悔いることなく。恐れることなく。怒ることなく。嫌がることなく。戯ぶことなく。喜ぶことなく。恥じいることなく。怯えることなく。怪しむことなく。異なることなく。睨むことなく。選ぶことなくーーーーーーーー平等に「死」を与えた。
世界が終わる。「死」が笑う。
世界が終わる。「死」が歌う。
世界が終わる。「死」が始まる。
「死」が始まる。「死」が始まる。「死」が始まる。
「死」が始まる。「死」が始まる。「死」が始まる。「死」が始まる。
「死」が始まる。死が始まる。死が始まる。死が始まる。死が始まる。死が始まる。
死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が始まる死が死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死死
序章
それはある晴れた朝。
空は青い絵の具で洗ったように澄み渡り、一面に乱れ咲いた桜だけがその空目掛けて浮かんでいた。
季節は春。街はどこもかしこもが桜色に染まり、浮足立った人々が皆一様に早足にそれぞれの行く先に足を進め、車たちは主人を届けようと行き急ぎながらガスをまき散らした。
そんなどこか落ち着かない雰囲気を纏った街から外れる道。交通の便を少しでも良くするために一直線に引き延ばされた顔の国道から、クネクネと山道に体を這わす蛇のように曲がりくねった急な坂道。その道はとある学校に向かう道路。ちょっとした山の中腹に建てられたその学び屋への道はアスファルトに舗装されているものの、少し顔を逸らせば柵を一つ挟んでうっそうとした森が広がっている。今はもう授業が始まる頃か、足を鳴らして進む人の影はない。
ゆっくりと散りつもる花びらだけが時を数える中、足音を進める青年が一人。時間にせかされるわけでもなく、ただ景色を楽しむかのようにぼんやりと首を振りながら歩くその青年の顔立ちは16歳ごろ。幼さを残しつつも輪郭が際立ち始めた顔がある方向に向き、ふと止まる。その顔の先には車に かれたのか一匹の が地に臥せっていた。 から溢れだした が道路を湿らせ、その上を流れる桜の花弁はまるで から零れ落ち行く の様に淡く儚く揺れていた。
青年は少し強張った頬を擦りながら何か考えてやがて直ぐに歩道に降り慎重に の傍に膝を下した。 はまだ微かに、しかしまだ きようと懸命に胸を上下させていた。青年は を抱き上げ、しかしどうすることもできずに泣いた。せめて少しでも苦しまずに けるよう、少しでも幸福を感じながら最後まで きれるように抱きしめ、泣いた。
やがて は を止め、青年はその顔をーーーーその時。
曲がりくねった道を乱暴に突き進む車体が、青年の前に躍り出る。青年がその全様を見ようと顔を上げるよりも速く、全身に突き抜ける衝撃。
「っが、、、!」
けたたましい悲鳴を上げながら急停車する車と、軽く3メートルは吹き飛ばされ落下し数度転がった後止まった体。吸うことも吐くこともままならなくなった喉は「アー、アー」と意味のない擦れた悲鳴とも苦悶ともとれない音をならしていた。
世界が揺れる。音が歪む。体が捻じれる。
「ーー、ごめんなさいーーーー
かすむゆく意識の中で、誰かが謝っていた。
「あなたに起きる運命からの逃避や退路の道を奪ったのは、他ならぬ私です。」
視界はまだらに煮詰めた墨汁色に染まっていく。
「謝っても許される罪ではない事も、償うことすら許されないこともわかっています。」
思い出はみんな夢の中
「それでも、どうか。」
なんのためにここまできたのか。
「どうか、彼女を。彼女を救って欲しいのです。」
たがためにいきてきたのか
「誰もを救おうとして、誰からも見つけられない彼女を、どうかーーー。」
それはきっとたいせつなちのおもいでで
にげることも うしなうことも できたけど
それでも
それでも私は
*
目を覚ますと、そこは白く区切られた部屋だった。視界の中はどこもかしこも清潔で、なんだかまだ夢の上で揺れているみたいだ。
「あぁ、やっと気が付いた。どこか傷みますか?気分はどうですか?」
傍らに座っていた少女が静かに、しかし何処か逼迫した声で尋ねかけてくる。
「ええ、と。私はあなたにぶつかった、というかぶつけてしまった車に乗っていた者なのですが。いや、そうじゃあなくって。」
少女がズイっと体を乗り出して問いかける。口を一文字にキュッと結び、痛々しいほど真っ直ぐに伸ばされた背筋。思わず見とれてしまうのに、どうしてか目をそらしてしまいたくなるのは、どうしてだろう?
「ご自身の名前は分かりますか?年齢は?何処から誰ときましたか?」
矢継ぎ早に飛ばされる質問に僕は答えられずにいた。いや正確には答えを持ち合わせてはいなかった。ぼんやりと霞がかった頭を傾けてみるが、ほこり一つ分の思い出も落ちてこない。
「ーーーーーー。」
僕は。
全ての記憶を、失っていた。
*
少女はもう2,3質問をしたのちに慌ただしくどこかに行ってしまった。
「しばらくこの部屋に待機していてください。ぜっっったいに、勝手に出歩かないでくださいね!?いいですね!?」
そんな風に強く念を押して。
もっとも、痛みが重力のように全身を押しつけ、上体を起こす事さえままならないのでそんな忠言は的外れではあったのだけれども。
徐々にはっきりとしだした頭で回りを見渡す。
煮沸したばかりのようの瓶のように清潔で暖かい部屋はどうやら医療室のようで、横に4つ並べられたベッドの一番窓際に自分は寝かされていた。鼻の奥底までしつこく沁みる薬品の匂いと腕に刺ささり自由を奪っている点滴の針を睨みつけていると、横から声が掛かる。
「いやー、お互いに災難に見舞われちゃったわね。君はぼーーっと馬鹿みたいに道路に突っ立っていたせいで轢かれて吹き飛ばされて。お陰で私は旦那との楽しいランチタイムの計画は残念無念のご破算。て言っても、旦那の野郎も朝からどっかいなくなっちゃってるんだけどね。」
ほんっとこんな可愛い嫁を置いてどこに行きやがったあのヤロ、と棘のあるある割には毒っけを感じさせない、しかし耳に刺さるような鋭い喋り方をする女性が一人。女は医務室には不謹慎に感じられる程のダイタンに胸元を広げる赤いスーツの上に皺一つない白衣をマントのように肩から羽織っていた。その姿はスター俳優を思わせる程の華やかさがあるはず、なのだが。先ほどまでいた少女が腰かけていた椅子と点滴袋を挟んだ隣のベッドに寝転び腕枕する姿はむしろ拗ねた子供のようにすら見える。彼女は少女と入れ替わりで病室に入ると共に、だらしなく姿勢を崩し寛ぎ始めた。
「はぁ。あの、ところでここは何処なんでしょうか。目が覚めてから頭がぼんやりしてて何も思い出せないんですが…。」
「のようだね。君、その質問私にするの3回目だよ。」
「なんと」
それこそ記憶にない話だ。
「これも3回目になる話だけれど、気を失っている間に君を治療したのはこの私、佐賀坂咲佳沙。佐賀坂先生とでも読んでくれたまえ。外傷で目立った傷はなかったけれどやっぱり脳になんらかの支障をきたしているみたいだね。」
「ここは仁江埼学園。まぁ、学園とは名ばかりの対魔力形成体の兵隊育成機関なんだけど、名前くらい聞いたことない?因みに私は教師でさっきの子はここの生徒会長なのよ。眉目秀麗成績優秀。非の打ち所のないザ・優等生って感じだったでしょ。やっぱりなんらかの記憶障害が起きてるみたいね。他にはイバンシーとか知らない?極相魔法とか。ない?そう。うーん、仁江先学園はともかくイバンシーも知らないとなると記憶だけじゃあなくて記憶のバランスが崩れているのかもしれないな。」
「…記憶のバランス、ですか?」
彼女の話す言葉はどれも聞き覚えがなく、耳と耳の間を通り抜けてしまう。おそらくは僕が返事をせずとも彼女は構わず喋り続ける気もしたが、話しかけてくれているというのにダンマリも失礼と思い僅かに認識できた言葉に縋ってみる。
「そ、記憶のバランス。」
佐賀坂女史はようやくベッドから体を起こし僕を見下ろす。なんだか姿勢を正した彼女は学校の先生というより、どこかお偉い議員センセイのような威圧感地味たオーラがでる。案外先程まで寝っ転がっていたのは、僕に緊張感を与えないようにするためのポーズだったのかもしれない。
「あくまでこれは私の解釈なんだけどね」前置きと共に再度姿勢を崩し足を組むと共に膝の上に肘、そしてその上にある掌に顎を預ける。
「記憶っていうのはね、肉体・精神・魂の3つにそれぞれ刻まれてるのよ。そして刻まれてる記憶も3つ別々の意味を持っているし、同時に関連的に記録されているの。例えば、今回君が車に跳ねられた時。君の肉体は痛みを覚え、車が通る場所にいるとアブナイって事を君は理解し成長する。それと同時に生物的である本能は危険な場所に近づかないように、また同じ状況になる前の警告のためにも記録が残る。それらはどれが後先とかではなく、どちらが重要とかではなく、平等に記録し次世代に継承し伝承することによって人は成長してきた、っとここまではわかるかい?」
「はぁ…」
正直、てんで理解できないが、元々彼女の話はわからなかったし質問のために話の腰を折るのは良くない。しかし、返事とも同意とも取れない間抜けな声が気に食わなかったのか、女史は形のいい眉を釣り上げながる。
「それらの3つの記録はどれがかけても、偏ってもいけない。思い出にだけ頼れば見落としてしまい、痛みに支配されれば強行的になってしまう。そして本能に突き動かされれば盲目的になってしまう。」
「何だか謎かけみたいですね。」
話がどんどんとおかしな方向に進んでしまっている気がして、茶々を入れてみるが、やっぱりそんな僕を無視して彼女は続ける。
「君は今、とてもアンバランスな状態なんだよ。例えば1+1=2。そんなことは現代社会で生きていれば知っていて当然どころか、知らないなんてことはありえない。けどおそらく今の君にはそんな常識や周知の事実であるはずの知識が理解できない。というよりも認知できないんだろう。それはおそらく生きてきた上で築き上げた物差しをなくしてしまったためなんだろうが。これはね、君が思っている以上に深刻な事態なんだよ。君はこの世界の事を何も知らない。同じ空間、同一の時間を過ごしているのに全く異なる知識を持っている。それは果たして同じ人間なんだろうか。本当に君は私たちと同じ存在なんだろうか。君はこの世界を理解出来ず。理解できない君を、やはり私達も理解しえない。
そして今現在君を何者なのか証明するものは何もない。どころか君がはたして人間であるかさえも、誰も、私も、君自身でもわからないし証明できない。なぜなら記憶を失えば、記録が無くなれば、人は自身を認識できなくなる。そりゃそうだ。だって自分を定義できるのは自分しかいないのに、鏡に映った顔は『お前は誰だって』睨んでくるんだ。誰よりも自分を信用できないし、誰も自身が誰なのかを証言してくれはしない。それからはずっと知らない自分と生きていかないといけない。自分のものじゃない目で、耳で、手で知って。自分の知らない思考回路を頼って考え。他人と変わらない知人と交流しなければならない。そうやって生きている自分は一体誰なのか、わからないまま。少なくともそれは真っ当な生き方じゃあない。普通じゃないってことは、つまり異常ってことだ。異常な物は皆総じて遠ざけたがる。誰にも触れられない、自分もわからない。もともとあやふやだった定理がさらに歪んで霞んでいく。踏み外していく。そう、そんなモノの末路はいつだってねーーー」
「ちょ、ちょっと待ってくだいさいよ。」
彼女の呟く冷たい剣先に、『待った』を掛ける。やっぱり彼女の話は理解の及ばない話ではあるけれど、それでも理不尽な辛辣さが含まれているのはわかる。
「確かに僕は何も思い出せ無いですけれど、だからってそれだけでバケモノになるような言われたくはないですし、ようは記憶が戻ればいいんですよね。」
「いいや、例え記憶が戻ったから必ず状況が良くなる訳じゃあないさ。記憶を失う前と、後と、取り戻した後。少なくとも3回望まぬ形でターニングポイントを迎えることになる。それが吉と出るか凶と出るかは誰にもわからないし、拒むことも出来ないんだけど、」
彼女は前傾姿勢をやめ、背中を伸ばす。どういう訳か彼女は、姿勢を崩している時より正している方が温和な柔らかな雰囲気になるみたいだ。
「確かにこんな話、君に言ってもしょうがない事ではあるね。すまないね。どうやら私も色々と思う事あって君に八つ当たりしてしまっていたよ」
「はあ、」
突然の変わりようにやっぱり僕は着いていけず、また半端な嘆息とも返事とも取れない声を漏らす。
「どうやら君は肉体の記録は残っているみたいだし、自分の名前も認知出来たそうだから記憶もすぐに取り戻せるでしょう。それが吉と出るか凶と出るかはわからないけれど、どのみち私としても頭痛の種がなくなって助かるし、応援してるよ」
どこか投げやりにそう言うと、彼女は再びベッドに身を投げ目を瞑った。どうやらこれでおしゃべりは終わりなようだ。
「トイレは出て右手に進んだ廊下の突き当りにあるから。そろそろ脳震盪も収まって痛み止めも効いてきたでしょうし、一人でも大丈夫でしょう。結構強力な麻酔薬でひょっとしなくても感覚が鈍くなってでしょうから、気をつけてね。」
どうやら早々に必要な事務報告を済ませて本気で寝るつもりらしい。
「あとは…、そうだ。君と君の情報の扱いにはかなり慎重を要する必要があるそうだから、学校内で生徒になんて話しかけられてもみだりに答えないでね。無視しても後ろから殴られたりはしないから」
それだけ言い切ると、すべて話し終えたとばかりにホウと一息吐くと、今度こそ口と目を閉ざしてしまい、しばらくすると心地よさげな寝息を立て始めた。
…別につきっきりで面倒を見てほしいとは思ってはいなかったけれど、しかしこうもぞんざいに扱われるとも思わなかった。ていうか彼女は一体何しにここに来たのだろうか。ひょっとしたらここに寝に来るついでに問診しに来たのかと思うと、先ほどまでの説法めいた話が一気に胡散臭く感じてしまう。そうでなくても結局彼女の言わんとすることはわからなかったし、どころか彼女の話を聞き余計に迷いの森深くに押し込められてしまった気さえする。要領を得ないまま僕は無色に見える程白い天井を眺めながら少し前ーーー佐賀坂咲佳沙が入ってくる前であり少女こと生徒会長が出ていく寸前に見せてきた紙片を思い出す。
「これは、あなたのズボンのポケットに入っていたものですが、見覚えはありますか?」
そっと彼女が取り出し開かれた薄汚れた紙には血判と共に『私、進凪仁は鬼石仁音の編入を希望する』と書かれていた。
事故の後、幸いにも僕は大きな外傷や凄惨な出血は見られなかったそうだが無数の擦過傷先が酷く、治療のため一度服を全て脱がされたらしい。今は学校に備えられていた予備の制服に着替えさせてもらっているが、事故直後は荷物を何一つ持っておらず、服装はみすぼらしく薄汚れた上にサイズの合っていない真っ黒な軍服のような装いだったそう。身分不詳年齢不明不審者感満載な僕が、どうして病院でも警察でもなく山間にある不思議な学校に連れてこられたかは、どうやらこの紙切れが大いに関係しているようだ。
佐賀坂氏の話で言うのであれば、どうやら僕には肉体の記憶は残っているのか文章は理解できずとも、見覚えのある文字は認識することができた。
『鬼石仁音』
覚えはないのに知っている。理解できないのに受け入れる。関係のないようでしかしどうしてもそれが自分のモノだと。他人のような自身の名だと直感的にわかった。もっとも目覚めてからこれまでわかったのは名前くらいのもので、それ以外の質問も説明も理解できなかった。何の知識も状況もわからず待ちぼうけていることは、とても退屈で窮屈なんだと僕はこのとき初めて知ることとなった。
目を閉じると学童達のざわめきが、学校という不透明な筐体から響くのを感じた。
会話も終わり、(あまり意味はなかったけれど)これまで起きたことを頭の中で整理したところで、ふと視線を感じた気がした。
この部屋には僕と佐賀坂氏しかいないはずで、尚且つ佐賀坂氏はすっかり寝に入ってしまっている。正直、これ以上何が起きても、言われても、わからないものはわからないし勘弁して欲しい。跳ねられ責められ放置され、正直かなり疲れてきたし、もうこのまま僕も眠ってしまおうか。いや、ひょっとしたらこの視線の誰かが状況を解決してくれるかもしれない。そんなやる気のない他力本願で弱気な視線で、人どころかホコリひとつ無い室内を不思議に見渡していると、ちょうど佐賀坂氏とは僕を挟んで反対側。さらに窓を挟んで少年が一人立っていた。歳は僕と同じくらいに見え、着用している制服は僕と同じここの学校の制服。唯一僕との決定的かつ致命的な違いは、今にも襲い掛からんと獲物を観察するような目をしていることだろう。
僕はきっとここに来るまでの間、きっとなにか罪深くも許されない罪をおかしたのだろうか。少なくともそう感じさせるほどの肉食獣かもしくは獲物の一挙手一投足を観察する蟷螂を思わせる瞳がそこにはあった。
やっぱり眠ってしまっていた方が幸せだったかもしれない。少なくともその視線には見慣れないベットに横たわる学生を心配するものではなく、今置かれている僕の状況の改善に助力してくれそうな気配もなかった。それどころか敵意と憎悪の籠った視線を今外せば何か更に致命的な事態になる、そんな予感を覚えさせるような焼けつくような緊張感が透明な室内にくすぶっていた。
ともかく、視線をまじ合わせてしまった以上今更寝たふりもできない。かといってこのまま見つめ合わせていることも恐ろしく、ひとまず声を掛けようと口を開きかけた時。窓際の少年はつぃっと人差し指を口に添わせると、今度はその指を部屋の奥。つまりはこの部屋の出口であるドアへと向けた。外で話がしたいのだろうか、それとも眠っている佐賀坂氏に気を使ってのことだろうか。ひょっとしたら見た目に反して優しく気遣いに溢れる人間かもしれない。
そんなつまらないぼんやりとした現実逃避をしながら、僕は少年の声のない意思に従う。 佐賀坂氏の言っていた通り、先程までピクリとも動かなかった体は驚くほど楽に起こすことができた。それどころか麻酔の効果は絶対的で、ともすれば画面越しに自分の体を抱き上げて動かしているような浮遊感と無感触に襲われながら僕はドアに向かって歩き出した。
もしも僕がこの時、彼の意思に背き拒否していたのなら。これからおこる全ての事件や惨憺たる戦争を回避できていたのだろうか。彼との結末をもっと違ったものに出来ていたのだろうか。僕自身の在り方は変わっていたのだろうか。この時の僕はもちろんそんなこと考えるどころかただ享受することに一貫しようとしていたが、もしここで立ち止まっていたらこの先の展開はもっと違ったものになっていたんだろう。けれどやっぱりそんなこと考えても無駄なことで。この物語は始まった頃には全てが終わっていて。僕はいつも物語の終盤に全て知って。後悔と。懺悔と。無駄ばかり。これはそんな僕の失態と失敗。そしてそれを償うための物語だ。
*
「僕は幹輿金伊だ!」
「私は幹輿銀詩ね!」
「僕らの主が貴様を」
「私共の主があなたを案内するように」
「僕らにご命令されたのだ!」
「私共に案内するようにとね!」
「「どうぞ共に」」
扉を開けるとそこには童話から飛び出してきたような、もしくはお伽噺に迷い込んだような錯覚を覚させる二人組の少年少女がいた。
彼女らはそれ以上語らず、僕の少し前を歩き出した。
「あの、あまり出歩かないで欲しいって言われてるんだけど…」
「…」「…」
「案内って一体どこに向かってるの?」
「…」「…」
「あの窓の外にいた人が君達の主なの?」
返事はない。ただの屍のようだ。っじゃなくって。
「おーい」
「…」「…」
佐賀坂教師の反応から歓迎されていないことはわかっていたけれど、ここまで無下に扱われるとも思わなかったな。こうなったら腹がたってきたぞう。
右手前方を歩く少女の脇腹を捻る。
「ひゃうん!?」「な、なにをしているのだ!!」
「あ、やっと反応してくれた。」
驚きと嫌悪の混じった視線がこちらを振り向いた。
「貴様、何をしていると聞いているのだ!」
すぐさま立ち直り怒鳴り声を響かせたのは兎の毛を思わせる短く綺麗な金髪の金伊だった。
「この私に触れるとは、一体何のつもりですかね!?」
つづいて声を荒げたのはつま先まで雲から射す光のような銀髪を伸ばしている銀詩。
荒み睨む二人のことを怖いと感じなかったのはその容姿のせいだろう。
背は150cm程で、顔立ちもそれに伴うようにあどけなさが残っている。しかし蝋のような白い肌と、他の色全てを背景に追いやるような鮮やかな髪色が二人を神秘的に見せる。
顔立ちもひどく似ており、とっかえても存外わからないかもしれない、と見比べていると再び鋭い声が向けられた。
「聞いているのか、貴様!」
「私達が何の手出しもしないとお思いで?」
「あ、いや、怒らせるつもりはなかったんだ。ごめん」
敵意の籠った二人の視線に慌てて謝罪する。
「けど、一方的に僕を連れ出しておいて無視し続けるのも、ずいぶんと酷いと思うんだけれど。親切にとはお願いしないからせめて会話くらいして欲しいな」
「む」「ふん」
僕の抗弁に少しは罪悪感を覚えたのか、二人は少し顔をしかめて再び歩き出しながら答えた。
「主からのご命令なのだ!」
「私達と主の情報を教えてはならないとね!」
「それはまた…」
ずいぶんと警戒されているようだ。
「どうして君たちの主、て人は僕に目をつけられてるんだ?」
「そんなことは知らないし」
「知っていても教えれませんね!」
「…」
それにこの二人には嫌われてしまったようだ。しかし、現状何もわからないまま主とい人に会うのはこころもとない。ここは少しでも話を長引かせて情報を引き出したい。
「その主って人も君達もこの学校に通ってるんだよね。ここって何を学ぶところなの?」
「まるで何も知らぬような口ぶりだ」
「むしろ、魔術の旧主の連れ子である貴様のほうがよく知っているでしょうね」
言葉も喋り返答も冷たいが、先程の僕の苦言を聞き入れてくれたのか、どうやら会話は続けてくれるようだ。
「いや、実は…」
実は記憶喪失になってしまったみたいで、何も覚えていないんだ。と言おうとし、慌てて踏みとどまる。佐賀坂教師に記憶喪失の件は学内で口外しないように言われていたのだった。
「え、と。ほら、自分の知識と事実があってるか自信がなくって。できれば詳しく教えて欲しいんだ。」
かなり無理がある言い訳になってしまった。流石にそれは怪しまれるか?
「そこまで言うのなら教えてやらんこともないが」
「あくまで一般常識程度までね!」
「それは、どうも。」
大丈夫みたいだ。いや、大丈夫なのか?
「この学園は魔術士と魔道士達の組織の跡継ぎや弟子、教え子を集めて臨時的に戦闘向けに育成する機関だ!」
「そしてイバンシーの捕獲・退治をして、きたる『暗幕の日』に備えるのね!」
「…」
また知らない言葉ばかりだ。先程佐賀坂教師も口にしていた『イバンシー、魔術師、魔道士』に加わり、今度は『暗幕の日』ときた。
ここからは、ちょっとした考察だから興味が無ければ飛ばしてもらっても構わない。というか、僕自身の整理のためだから本当に意味のないことかもしれないのだ。
気になったこと。それはこうも知らない単語に出くわすのは、果たして僕の記憶障害が原因なのだろうか、ということである。
確かに記憶喪失によって僕は僕自身の事さえ何の知識もない。しかしそうなれば僕は一体何処から何処までの記憶を失い、そして何を覚えているのだろうか。
先程佐賀坂師は記憶のバランスが崩れていると僕を評した。それは(何故だかわからないが)はっきりと悪意のこもった言い方ではあったけれども、内容自体は的を得た物に感じられた。たった一部を除いて。
肉体と、精神と、魂の記憶。
肉体の記憶は歩くことや喋ること。つまりは生きていくうえで必要不可欠となる基本的な動作。それはクリア。目覚めてから今までの間で特段体に違和感はない。最も事故によるケガやそのための麻酔のせいで多少動きづらくはあるけれども、歩いたり喋ったりは至って普通に出来ていると思う。
精神の記憶はこれまで積み重ねてきた知識。これは問答無用で真っ黒判定。先程からの会話で明らかだろう。この世界で常識と語られる言葉に、僕は全く反応できないでいる。それに自分の名前である『鬼石仁音』だって、実際に見せられなければ思い出していたかすら怪しいし。
魂の記憶については、正直よくわからない。グレーだ。佐賀坂師は生物的な本能と言っていたけれども、そも魂とは何なんだろうか。例えば、目の前に包丁が落ちていたとする。恐らく多くの人が避けて離れるか、一定の距離を保って観察するだろう。観察のために実際に手に取る人もいるかもしれない。さらに善良な人は他の人に害が及ばない様に処理するかもしれない。しかしその際、柄を持つ人はいても刃を握る人は『絶対に』いない。当然それは刃を触ればケガをするからであり、刃は危ない物であると知っているから。つまりは危険物に対しての防衛反応である。
しかし、もしこれが自力で移動することもできない赤ちゃんだったら?
包丁から避けたり、柄の部分のみを触るだろうか?
答えは否だろう。目に入った物の区別なんてつかずにどんなものだって平気に触ってしまう。何故か。
それは簡単なことで、包丁は危険な物だとわからないから。脳がそこまで成長していないから。
何を長々と当然の事をだらだらと考えているのかと思うだろうけれど、つまりは生物の本能とは。魂の記憶とは。今まで生きてきたうえで見て、聞いて、触って、匂って、味わって、感じて知った物にしか対応できないのだ。知らない物に恐れることはできないし。未発見の事柄を遠ざけることはできない。肉体の記憶と精神の記録の積み重ねこそが佐賀坂師の言う魂の記憶ではないのか。生物的本能とは零からあるものでは無くって、一から肉体と精神の成長と共に育つ物ではないのだろうか。
そうなってくると三つの記憶のバランスという話が嚙み合わない。佐賀坂師は如何にも僕の記憶全てが怪しいという風に語っていたけれども、記憶を失っているんだから分からないことがあるのは当然だろう。特に先も長ったらしく考えたように、肉体・精神どちらかの記録がなくなれば、生物的危機反応に問題が起こるのは仕方のないことだ。
しかし佐賀坂師はそれに嫌悪感を表した。まるで別のイキモノを見るかのような、それこそ記憶にない理解不能なモノに相対するような。僕に対する嫌悪感があったのかもしれないが、それを差し引いても不自然な対応だったのは間違いない。
だから今までの会話で感じた未知な言葉は、ただ僕の記憶喪失にだけ原因があるのではなく僕と彼ら彼女らとは違う何か根本的な違いが、あるのかもしれない。
佐賀坂師の言う、魂の記憶が何か、ということが鍵なのかも知れない。
「質問はそれだけなのかしら?」
「聞くだけ聞いて無視するとは無礼だぞ!」
幹輿姉弟の敵意のこもった声で思考の渦から顔を上げる。
「ごめん。ちょっと考え事をしていて」
要は彼らとの根本的な違いを見つけなければ記憶の差異はわからない気がする。が、しかしその根本的な違いを知るためには今の所会話上でのすれ違いしかわからない。つまりはとにかく会話して違いを確認するしかない。
「えっとじゃあ、魔術師と魔道士って何?」
噤んでいた口を開いて質問すると、金と銀の目が驚きで大きく見開いた。
「貴様、さては我らを馬鹿にしているのだな…」
「喧嘩を売っているのでしたら、もちろん買うのね…」
先程までの牽制の敵意ではなく、はっきりと害意を含んだ敵意が低く落ち込んだ声と共に漏れた。まずい。このままでは情報どころか内臓を引き出されかねない。勿論僕の。
「あ、い、いゃ、いやそうじゃあなくって。ほら、さっきも言った通り確認のためだよ。君たちの主人に会うっていうのに、中途半端な知識じゃあ失礼だろう?」
流石に苦しいか?とっさに話した言い訳でこの怒りを沈められる訳がない。少しでも情報が欲しいとはいえ、安直過ぎたか…。最悪、先程の保健室に撤退しなければ危険かもしれない。そう思い身を翻そうとし、ハッとする。いつの間にかすでに廊下を抜け、門を出たのか、振り返ると恐らく出てきたのであろう建物が遠くに見える。まずいぞ、思考に浸り過ぎた!果たして怪我と麻酔で鈍った体で逃げ切れるだろうか。
「っく…!」
ともかく走らねば、と足に力を入れた時。
「まあ、主のためだというのであれば」
「仕方がないので我慢してあげるのですね」
あっさりと二人は敵意の籠った視線を前方に戻した。
「えっと、いいの?」
落差の激しいあまりに突然の憤激と鎮火に戸惑って堀下してしまう。
「だから言っているのだ」
「あなたが我らの主人のためにと懇願するから許してあげるのね」
あれ、誤解は解こうとしたけれど、そんなみっともなく謝ったっけ?
ともかく難を逃れたのならこれ以上掘り下げるのはよした方が良いだろうか。いや、どうやら彼らの主人の為とかこつければ多少の問答は許されそうだ。ならもう少し。
「それで違いは何なのかな?」
恐る恐る尋ねると二人は得意げに胸を張り腕を組み
「なら聡明なる姉上が説明を聞くのだ!」「賢才なる我が弟の話を聞くのね!」
…。
「え、と。」
この場合、どっちの話を聞くべきなんだろう。
「す、すこし待つのだ」
「さ、作戦会議なのね!」
二人は当惑する僕を放置し、角を突き合わせ始めた。
なんだろう。先程の剣幕から何か失礼なほどの常識を聞いてしまったのかと思ったけれども、違うんだろうか。それか質問自体が失礼な内容でどちらも答えたくないのか?
「決まったのだ!」
「もういいのね!」
そう言い再び二人は意識をこちらに向ける。因みにだが、二人は顔を近づけ密談しながらも歩き続けており、僕としては大した情報も得られないまま主人とやらの元にたどり着いてしまわないか気が気ではない。
「それじゃあ、もう一度聞かせてもらうけれど。魔術師と魔道士って一体何が違うんでしょうか」
下手をすればまた怒気を起こされないかと緊張しながら質問する。最悪の最悪の可能性として、いつでも逃げれるように全身を力ませるーーー。果たして解答や如何に。
「そんなことは知らないのだ!」
「そして知っていても教えないのね!」
「…。」
……。
………。
「な、なんだそのカレーかと思って食べたらビーフシチューだった時のような微妙な顔は!」
「い、いくらなんでも失礼なのですね!」
いや、それこそ知らねーよ。あと口調に合わない庶民的な例えすんなし。
と、思わず出そうになった愚痴を慌てて腹の奥に隠して努めて冷静に
「じゃあ、イバンシーってのはいったいなんなのかな」
と問う。
うん。さっきのはたまたま知らなかったのか度忘れしてしまったんだろう。
あるよね、そういうこと。しょうがないしょうがない。
きっと今度こそきっちりかっちりと教えてくれるだろう。だってそうじゃなきゃあの怒気と釣り合わないもの。
「それも知らないし!」
「知っていても教えないのね!」
…
「…じゃあ、暗幕の日っていうのはーーー、」
「知らん!」
「知っても以下略なのね!」
あらやだ元気一杯なお返事。っじゃねえよ。ほんとにあの怒りは何だったんだよ。
「なんだ、そのチワワだと思って近づいたらレジ袋だった時のような不満げな顔は!」
「何か言いたい事があるのならハッキリ言うのね!」