第六三話 牛乳
「牛乳が欲しいな……」
思わずそうつぶやいたのは、パン種を作っている時だった。
牛乳。そしてバター。
それさえあれば、パン作りも味に幅が出る。
町に行けば買えるかと思いきや、牛乳はあまり売り買いしないとのこと。そもそも牛乳をそのまま飲むものだとは、思われていないそうだ。ごくたまにヤギの乳でパンを煮るとかに使われると。
理由は簡単で、足が早くてすぐ飲んでもたまに腹を壊すから、だそうだ。すぐ飲んでも、というのはたぶん脂肪分のせいだろう。
そもそも家畜を育てると魔物に狙われるこの土地では、乳を出す家畜はごくわずかしかいないと。
どうしても飲みたいなら、農家に話をつけて妊娠したヤギを買ってくると言われた。
言われて思い出したのは、昔、鶏小屋に侵入したキツネにニワトリが被害を受けたこと。
貴重なものを買い取って、魔獣だらけの森で農場まで建てて、野良魔獣にあっさり被害を受けてしまうかもしれない。
俺が世話をしているのは、基本的に森の中でも通用する強さのある賢い生き物ばかりだ。手間のかかる通常の動物を、きちんと育てるには知識も経験も、そして手も足りない。
遠慮しておいた。
バターも買わなかった。そんな土地で、バターが潤沢にあるわけもない。オリーブオイルがあれば、ある程度代用はできるし。俺が買い占めるのはやめておいた。
すっかり脱線してしまった。本題に戻そう。
牛乳が欲しい。それでバターも作りたい。
「ラスリューなら、どうにかしてくれるか……?」
「隣に良い牛乳がありますよ、と優秀な妖精からのアドバイスです」
パンを捏ねるための必要不可欠なメンバー。酵母を蓄えた小妖精に、余計なものまでついて来ている。
見た目だけは美しいモデル顔負けのスタイルに、幻想的な四枚の羽。表情を変えない鉄面皮ながら、花のように可憐な姿の大妖精が、いつの間にかそこにいた。
「サイネリア。アイレスと遊んでなくていいのか?」
サイネリアには背中に羽根がついていて、いくらでもふわふわ飛べる。はずなのに、なぜか毛玉に頼りない翅があるだけにしか見えないような、小妖精を何匹も集結させ、それの上で足を組んで座っている。
「はぐらかさずとも。良いではありませんか。立派な体格に負けないご立派な乳の持ち主が、隣におりますよ。乳ならそこから絞ればよいのです」
ほれほれ、と突いている。突かれているマコが、目を閉じて顔を赤くしながら羞恥に耐えている。
「……フェアリー様、あの、出ません」
「サイネリアの言う事には、付き合わなくていいよ」
「でも、アイレス様の、お友達……」
この世話係、どうも甘やかしてそうだ。
サイネリアの言動に、あんまり意味は無い。でもたまに聞き逃すと危険。厄介な相手である。
聞いた上で聞き流す。決定を全部こっちに投げてくるので、精神的に疲労する。
「まったくお前は、珍しいものとお菓子みたいなものと、手間のかかるものだけを食べるんだから……」
「妖精というのは、毎日顔を合わせるものではないのです。楽しい時にだけ現れ、楽しい時にだけ歌う。それが妖精というものです」
妖精らしいといえば妖精らしい。
それが種族的な性向と言われると、いまいちこちらとしても口が出しづらい。なにしろ相手の文化だ。
「天龍族と引き合わせたのは、優秀な妖精です」
そういう文化のおかげで、俺も出会いがあった。パン焼き係を増やすために、ヒナと一緒にパン種を捏ねているので。
「……まあ、それは分かった。だったら、今はなんで出てきたんだ?」
「おやつ係が増えたからです。ヒナのことは、優秀な妖精も目をつけていました」
「私……?」
ヒナが不思議そうな顔をしている。
「牛の味覚はヒトの数倍、嗅覚もイヌより鋭い。牛頭鬼は我慢強く、頑丈な体の持ち主と言われています。しかし実のところ、味覚と嗅覚が鋭くてストレスを感じやすい。頑丈な体でなければ生き残れなかった。そういう血なのです。あと、目も悪いので」
「繊細なのか」
「図体の割に臆病と言いましょう」
「いや、絶対に俺の言い方のほうがいいだろう、今のは」
なんてことを言うんだこいつ。
「しかし、おやつ作りにはもってこいの人材です。なので、進捗を確かめに来ました」
「欲望に忠実な……」
「無論、ただでとは言いませんとも。もらったおやつには、金貨で返す。それが妖精です」
もうちょっとバランスのいい生き方をしてほしい。
「欲しいものが聞けたので、あとは楽勝ですね。これで優秀な妖精が、芸術品に向けて一歩リードです」
「えっ?」
なにやら不思議な言葉を残して、
「小妖精。サイネリア、いきます!」
右足と左足に一匹ずつの小妖精を下に敷いて、その上で仁王立ちするサイネリアが遠ざかっていった。
『行きます』って、どこ行くんだろうか……。
「サイネリアは美しいものに目がないからだよね。だからでしょ」
わかるよね。
みたいな雰囲気でアイレスに言われた。そんなさも当然みたいな態度を取られても。なにもわからない。
「あれ、ソウジロウくん、わかんないんだ? かーわいいー」
クスクス笑いながら俺の首に抱きついて、頬ずりしてくるアイレス。可愛いの基準それで合ってるのか?
まあアイレスは雌雄両性の天龍族だからなあ(思考放棄)。
「今日はパンを作ったんだね」
「湖の方に行くから、持ち運びやすいものをな」
パンを焼いたのはお昼ご飯用だ。ミスティアが湖まで鬼族を案内している。そのままエルフと天龍の力で、結界を作るらしい。この拠点にもある、魔獣を惑わすやつだ。
メニューはハムサンド。ハムは毎日焚き火をしているので、ついでに燻しておいただけだが。素材の肉が美味しいので、それなりの味。
ちゃんとした燻煙器と香りのいいチップで作りたいものだ。
「ボクはパン美味しいから好きだけどねー。今日もいい香りしてるね。一つちょーだい。あーん」
「はい」
「もぎゅ。ってヒナ! 今のはボクとソウジロウくんのイチャイチャでしょ!」
「すみま、せん。つい」
アイレスの要求に素早く応えたはずのお世話係が、怒られている。
「まったくもー。パンが美味しいから許してあげるけど。ふわふわでさいこー! ソウジロウくんの愛を感じるよっ」
もらったパンをふがふが食べて喜んでいるアイレス。
「美味しいか? それは良かった。いっぱい感じてくれ」
「でもヒナに料理を教えてるんだよね? パンは早くない? あんなに色々やるの、ボクなら放り投げちゃうよ」
「いや、ヒナが自分から『覚えたい』って言ったんだ」
「へー、よっぽどパンが気に入ったんだね?」
「それは少し違う。『アイレスが好きなものだから覚えたい』って言ったんだ。良かったな。ちゃんと愛が入ってるぞ、それ」
アイレスが、少し考える顔をする。そして気づいた。
「…………あ、これ作ったのヒナなんだ?」
「は、い」
やっぱり恥ずかしそうにうなずくヒナ。
アイレスはもう一口パンをかじって、よく噛んで、飲み込み。
「えっ、うまくない?」
「美味しい。初めて作ったとは思えない」
「難しいとこ、なかったので……」
確かに苦手だと自己申告していた、器用さはいらない。シンプルなパンだ。ゆっくりと焼くので、焼き加減の判断もその鼻に任せてみた。
「はえー。才能じゃん」
「いや、愛ってやつかもな?」
ヒナが最初にアイレスの好物を覚えようとしたのは、まさにそうだろう。そして、
「ちょっと失敗したのは、自分で食べてたから」
それが料理人の愛でもある。
「ばらされ……」
「俺もよくやるから」
恨みがましそうに見てくるヒナに、俺は笑いながらそう言って誤魔化した。
「じゃあこれボクが全部食べるね?」
「ダメに決まってるだろ」
アイレスがヒナに伸ばした両手をがしりと掴んで、歩いて遠ざかる。俺の肩に乗るアイレスを、パンから引き離しておいた。
「……ソウジロウくんのパンも、欲しいな?」
とはいえそんなことを言われて。悪い気もしないわけで。
「お昼にな」
「わーい!」
結局、妖精のアレはなんだったのか、聞くのを忘れてしまった。
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