異界駅、ふたたび
複雑に入り組んだレールが交差する、ひと気のないがらんどうのホーム。
相変わらず宙に浮いているようなホームを歩くたび、燈真は足を踏み外さないかとひやひやしてしまう。
一体どのような理屈でコンクリートとおぼしき地面が浮くのか、全くわからない。
ホームから見下ろす街の、浮き世離れした景観に、燈真は不思議な感慨を覚えた。
夕焼けの色に染まる、赤い灯籠と石畳をまとった奇妙な街並み。
この世とあの世の狭間にあって、そのどちらでもない世界――――常世。
いつか自分が、この駅と街に慣れる日は来るのだろうか。
ホームの奥、改札へ通じる階段の前には、見覚えのある少女が神妙な面持ちで燈真を待ち構えていた。
「返事は決まったか?」
「ああ。ほら」
燈真は鞄から契約書を取りだし、リンに手渡す。
リンはさっと紙面に目を通すと、特に表情を変えず、書状を折り畳んで懐にしまう。
「では、これは私から命婦に渡しておく。今日からお前は正式に私の助手だ。私のことはリン様と呼べ、いいな?」
前回と変わらず居丈高な態度の少女に、燈真は少しムッとした。
同時に先日スマホを盗まれたことに正式に謝罪を受けていないことを思い出し、ここはひとつ釘を刺しておくべきかと顔をしかめる。
「なにがリン様だ、このスマホ泥棒。言っとくけど俺の雇い主は、お前じゃなくて命婦なんだからな」
「過ぎたことを蒸し返すな。見かけによらず粘着質な奴だ」
痛い所を突かれたのか、リンは人形のような顔をしかめて踵を返す。
「まあいい。行くぞ、燈真」
そう言って歩き出すリンの後ろ姿に、燈真は苛立ちを一瞬忘れ、吹き出した。
着物からはみ出した太く長い金色の尾が、パタパタと左右に揺れている。
よく見れば狐耳も正面ではなく、聞き耳をたてるように燈真の方を向いていた。
狐のくせに犬みたいな奴だと、ひっそり笑う。すると二等辺三角形の耳がぴくりと震わせ、妖狐の少女は青年を振り返った。
「なんだ、何がおかしい」
「別に」
笑いを噛み殺す燈真をじろりと睨みつけたのも束の間、リンは「そういえば」と真顔に戻る。
「あの子供はどうなった?」
「母親の地元に引っ越すんだってさ。岐阜の、山の中にある小学校に転校するらしい」
あの後、和希と母親は改めて礼を言いに、燈真の元を訪れた。
家族で話し合った結果、両親は別居し、和希は本人の希望で母親と家を出ることになった。九月から母親の実家がある岐阜の、小さな山間の町で暮らすのだという。
あの気弱そうな母親にしては、随分と思い切った決断だと、燈真は内心驚いた。
礼を言われた日、駅前の木に止まった蝉を観察する和希を見守りながら、母親がぽつりと漏らした言葉を、燈真はまだ覚えている。
「私も夫も、ずっと勘違いしていたんです。厳しくするのは本人のためだと。今は辛くても、将来いい学校を出ていい企業に就職できれば、あの子も分かってくれると思っていました。あの子の特性や気持ちより、私たちが考えた理想の教育をたどらせることにばかり躍起になっていたんです。息子が他のこと違うと感じるたび、怖くて、皆と同じになってほしいとばかり思ってしまって。でも、今ならわかります。わかりやすい偏差値や進学という結果は、私たちが安心するためだけの物差しだったです。でもそうやって私たちが……学校や家庭があの子を突き放した分と同じくらい、私たち大人も和希に見限られていたんですね」
名門校でエリートコースを歩んで欲しい。
それが子どもに合っているか否かは別として、ごくありふれた親心だと燈真は思う。
不景気で先行きの見えないこのご時世、我が子に少しでも有利な学歴を獲得してほしいと願う気持ちも、全く理解できないわけではない。
ただ人間、無理は続かないものだとも、燈真はつくづく思う。
あの日、和希がこの世から逃げ出していなかったとしても、和希があのまま自分を押し殺して生きていれば、別の形で何らかの破綻を迎えていたのではないか。
父親が作った新しい家庭に、燈真の居場所がなかったように――――
「狐のお姉ちゃんにも、ありがとうって言っておいてね!」
別れ際に聞いた、和希の快活な声が、鼓膜の内側でよみがえる。
新しい生活に不安はあるが、転校先の小学校は山の中にあるから楽しみだと笑った、小さな友人の顔を思い出す。
この先、あの母子がどうなるかは分からない。
だが豊かな自然に恵まれた土地で暮らせるのなら、少なくとも東京よりは和希に合っているのではないかと、燈真は思う。
「忘れるところだった。和希の親から、礼にって菓子折もらったぞ」
燈真は持参した紙袋をリンに手渡す。リンは紙袋を覗き込むと、老舗和菓子店の包装紙に包まれた箱に顔を近づけ、くんくんとにおいを嗅いだ。
「最中か。私は皮だけあればいい、中身はお前にやる」
「子供か。食うならちゃんと丸ごと食え」
「遠慮するな。失せ物さがしは体力仕事だからな、たくさん喰って、その痩せ狼みたいな体に肉をつけろ。わかったか、燈真」
リンは不敵な笑みを浮かべ、菓子折を片手に踵を返す。尻尾をパタパタと揺らしながら、軽やかな足取りで改札へと向かった。
燈真は苦笑し、ぽつぽつと明かりがともり始めた常世の街をホームから見下ろす。
「失せ物さがし、か……」
もし「失せ物」が見つからなかったら、和希は今頃どうなっていたのだろう。
ひび割れた皮膚の下にフクロウの羽を生やした少年の姿を思い出し、燈真は腹の底がぞくりと冷えた。
仕事の成否が、他人の命運を左右する。その責任の重さに、今更ながら足が竦みそうになる。
するとリンは燈真の内心を見透かしたように立ち止まり、青年を真っ直ぐ見据えた。
「言っておくが、私たちの仕事は、迷い人の失せ物を探してやることだけだ。ただし失せ物が見つかるのも、見つからずにマレビトになるのも、それは本人の運次第。そこにお前がいらん責任を感じる必要はない」
きっぱりと言い切られ、燈真は苦笑する。
「そう簡単に割り切れるかよ」
「じきに慣れる。人の運などしょせん、命婦がよく言う〝神の思し召し〟というやつだ。それに仕事というものは詰まるところ人のためではない、自分が金を稼ぐためのものだ。違うか?」
ぐうの音も出ない正論を叩きつけられ、燈真は返す言葉に窮した。
高額な報酬に目がくらんでいないと言えば嘘になる。
正直なところ九割は金目当てで、残りの一割は気まぐれのようなものだ。
今までの人生、燈真はたびたび自分にしか見えないマレビトたちに、心と生活を脅かされてきた。無用の長物だと思っていたこの体質で金を稼げるなら、捨ててしまいたい ばかりだった過去に、少しくらいは報いることができるかもしれない。
それに―――燈真は自分の目の前を歩く、少女の背中をちらりと盗み見る。
不器用で強情で横柄で、かと思えば妙に現金でしたたかな面を垣間見せる、狐の少女。
赤の他人のために躊躇いなく三階から飛び降り、幼い子供相手に交じりけのない言葉をぶつけた「失せ物さがし」に、一人ぐらい協力者がいても良いのではないか。
自分でもよく分からない感情だったが、燈真は確かにそう思ってしまった。
「行くぞ。お前の気が変わらんうちに、契約書を命婦に預けてしまいたい」
瞳と同じ色の着物の裾をまくり、器用に階段を駆け降りる少女を追いかけながら、燈真は妙におかしさがこみ上げて笑う。
改札前では白い和服姿の銀髪の女性が身を乗り出し、心配そうな顔で二人を見守っている。
大きく切り取られた窓から差し込む真っ赤な夕焼けに目を細め、青年は異界駅の改札をくぐった。