夜鳴きそば
「気付いていたのか」
聞き覚えのある少女の声にため息をつき、燈真が振り返る。
ツツジの生け垣の前に、黄金色の毛並みと青く光る瞳を持つ、大きな狐が座っていた。
「視線がうるさいんだよ。で、まだ何か用か?」
燈真の問いに、二等辺三角形の耳がピクリと揺れる。
「そう警戒するな。夜鳴きそばを喰いに来ただけだ」
「は? よなきそば……?」
「ある男が言っていた。ひと仕事を終えた〆《しめ》に喰う夜鳴きそばは、何物にも代えがたい美味さだと。だから喰いに来た。お前も付き合え、命婦は充分な金を渡したと言っていたぞ」
狐が口を開閉するたび、そこから凜と高く澄んだ、人間の少女の話し声が流れ出す。
目の前の狐の姿と、会話の内容の乖離に、燈真は目眩がしそうになった。が、これだけは言わねばならない。
「あのな、そもそも狐は店に入れねえから」
「ふん、そんなことか」
狐が小さく鼻を鳴らした次の瞬間、その姿を隠すように、地面からもうもうと白い煙が立ちのぼる。
「!」
燈真が驚いたのも束の間、白煙をかき消すように一陣の風が吹き上がり――中から見覚えのある少女が姿を現す。
星のような青い双眸に、瞳と同じ色の青い着物。金色の長い髪が夜風に煽られ、舞い上がった。
「これで問題ない」
狐と入れ替わるように現れた少女に、燈真はがりがりと髪を掻きむしる。
「なんでお前はやる事なす事、いちいち唐突な……」
言いたいことは山ほどあったが、文句を言おうとした瞬間、腹の虫が盛大に鳴く。
気まずさで押し黙る燈真とは対照的に、少女――リンは勝ち誇ったように笑った。
「行くぞ。私はこっちの店を知らん、案内しろ」
そもそも「夜鳴きそば」とは何かとスマホで調べれば、夜に屋台で売られるラーメン、又は深夜に食べるラーメンを指す言葉らしい。
燈真は仕方なく、近くにある飲食店を検索し、個人経営の中華そば屋にリンを連れて行った。
扉をくぐれば醤油や出汁、香味油、焼けた肉の食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。
鼻をひくひくと動かしていたリンは、店員から一斉に「いらっしゃいませー!」と勢いよく声をかけられ、目を白黒させた。
店員や客がちらちらと、リンを盗み見る。特に男性陣の視線は露骨で、中には上から下までなめ回すように少女を眺める者までいた。
無理もないと、燈真は内心ため息をつく。
外見だけは楚々と着物を着こなした、金髪に碧眼の「美」がつく少女だ。
けれど本当は狐なんだよなあ――と思いつつ、燈真は無遠慮な視線を遮るために、さり気なくリンの前に立った。
食券を先に買うシステムのため、二人は券売機の列に並ぶ。
燈真に言われ、壁に貼られたメニューを眺めていたリンは、怪訝そうに燈真に耳打ちをする。
「おい、夜鳴きそばが無いぞ。お前、店を間違えたんじゃないのか」
「……夜に食べるラーメンのことを夜鳴きそばって言うんだよ」
「でも、品書きには〝中華そば〟しかないぞ」
小声で喋っていると、客席から「チッ、彼氏持ちかよ」と舌打ちが聞こえた。
ラーメン屋で居合わせただけの見知らぬ男性相手とはいえ、燈真は誤解を解きたくなる。
こいつの正体は狐だし、俺はただの同行人だと。
「ラーメンと中華そばは、名前が違うだけで同じ食いもんだ。順番来るまで、何にするか決めとけよ」
幸いメニューはさほど多くもなく、中華そばの小盛りと並盛り、大盛りの三種類の他には、トッピングとサイドメニューしかない。
リンはしばらくメニューと厨房、カウンターの客席の様子を見比べていたが、ややあってから「お前と同じでいい」と呟いた。
前のサラリーマンが購入し、自分とリンの番が来ると、燈真は財布からおそるおそる一万円札を取り出し券売機に入れた。常世で命婦から支払われた、十枚の一万円札のうちの一枚だ。
偽札通報機が鳴ることも紙幣が戻ってくることもなく、無事に一万円が機械に読み込まれたことに、ひとまず安堵とする。
中華そばの並盛りの食券を二枚買うと、リンは「あれも買え」と、カウンター席で餃子を頬張る中年男性を指差した。
店員に食券を渡すと、二人は店の奥のテーブル席に通される。
五分も経たないうちに中華そばが二杯、餃子が一皿運ばれてきた。
リンは燈真を真似て割り箸を割り、期待に満ちた顔でラーメン丼をのぞき込むと、匂いを嗅ぐ。続いて餃子に顔を近づけ、同じように香りを確かめた。
「ふうん、こっちは油臭いんだな」
「……さっさと喰わねえと冷めるぞ、料理」
燈真に指摘され、リンはまだ湯気を立てている餃子をあわてて箸でつかみ、口の中に放り込む。
一拍おいて、少女は目を剝き悶絶した。
「あふっ……ふわっ!?」
「お、おい」
燈真はあわててお冷やのグラスを渡した。リンは氷水を飲み干し、青年をキッとにらむ。
「お前、私を嵌めたな。冷めないと喰えないじゃないか!」
涙目で抗議する少女の顔に吹き出しそうになるのを堪え、燈真は空のグラスにピッチャーで水を注いでやった。
口の中を火傷したのか、リンは憮然とした表情を隠そうともせず、お冷やの氷をぼりぼりと噛み砕く。
中華そばをすすれば、細麺の歯切れ良い食感と、スープの塩分が空腹に染み渡るようだった。
店内のポスターいわく「秘伝の醤油ダレと淡麗鶏ガラ」から作られているという飴色のスープは、燈真には少ししょっぱく感じたが、細麺と合わせればちょうど良い。スタンダードであっさりとした美味しさに、あっという間に箸が進む。
そうして腹八分目が満たされた青年は、丼から顔を上げて気付く。
大学生になり、東京で一人暮らしをしてから初めて、自分は誰かと一緒に食事をしたことに。
リンは少しぬるくなった中華そばと餃子を、スープも残さず平らげる。
「これが夜鳴きそばか。美味いというか、癖になる味だったな」
店を出るなり、リンは誰に言うともなく呟いた。
スープまで飲み干しておいてよく言うと、燈真は口には出さずに突っ込む。
駅へと伸びる桜並木の道を、じりじりと盛んに響く蝉の鳴き声に包まれながら、二人はしばらく並んで歩いた。
期待していたほどではないとか、ニンニクで舌がピリピリするとか、塩辛くてやたら喉が渇くとか、中華そばと餃子の感想を好き放題言う少女に、燈真は呆れつつも耳を傾ける。
しかし人通りの少ない裏路地に差し掛かると、リンは不意に立ち止まり、口をつぐんだ。
つられて燈真も足を止め、少女を振り返る。
「正直、意外だった。お前が和希の家まで付き添ったのは」
思いもよらなかった話題に、燈真は少し面食らう。
「なんだよ、いきなり」
「褒めてるんだ。見かけによらず、親身な奴だと」
「別に親身ってほどじゃ……」
妙に気恥ずかしくなり、燈真はとっさに否定しようとする。
そんな青年を一瞥すると、リンは夜空を見上げた。
「そうだな、お前は誰にでも親身に世話を焼くような奴ではない。放っておけなかったか、自分と似た境遇の子供を」
静かな声で放たれた言葉に、燈真は不意打ちの形で、頭を殴られたような衝撃に襲われる。
何も言い返せず、街灯に浮かび上がる少女の白い横顔から目を逸らせなかった。
「子供が親も育つ場所も選べず、少しでも毛色が違う者が人の輪から爪弾きにされるのは、いつの時代になっても変わらん。そう思うからお前は、和希を突き放せなかったんだろう?」
「……俺のこと、調べたのか?」
青年の胸の奥に、重く苦々しいものが広がった。
「お前を私の相棒に推したのは、命婦が言っていたお前の先祖……小野篁という男だ」
燈真は弾かれたようにリンを見る。
「篁は言っていた。常世で迷い人を導くという役は、単にこの世ならざるものを視る力を持つだけでなく、それゆえの孤独と恐怖を知り、それでも他者に寄り添うことが出来る者にしか務まらないと」
混乱と衝撃がぐるぐると渦を巻く脳裏の片隅で、燈真は異界駅で初めて会った男を思い出す。
そうだ。確かリンは、あの男を「タカムラ」と呼んでいた。
タカムラと呼ばれた男は、車掌ではなくリンを燈真に紹介した――――
考えれば考えるほど、あれほどうるさく感じていた蝉の鳴き声が、耳から遠ざかってゆくような心地がした。
押し黙る青年を、リンはじっと見据える。
頼りない外灯の光の下で月明かりを反射するように、青い双眸が煌々と輝いていた。
吸い込まれそうな双眸から目を離せず、青年は息を呑む。
人間の瞳は、暗闇で光を放ったりはしない。
目の前の少女は限りなく人間に近い姿をしていても、決して人ではないのだと思い知らされる。
わずかな沈黙の後、リンはふっと鼻を鳴らし、小さく笑った。
「今日のお前を見て、私もその通りだと思った。和希の父親を黙らせた時は、なかなか痛快だったぞ」
「……そこまで盗み聞きしてたのかよ」
燈真がかすれた声で突っ込むと、リンはにやりと口元を歪める。
リンの姿がぼやけて歪んだたように見えて、燈真が瞬きをした束の間。
目の前に少女の姿はなく、かわりに青い目の狐が立っていた。
「払った金の分の働きはしたと、命婦に伝えておく」
少女の声でそう言って、黄金色の毛皮に包まれた身を翻す。
コンクリートの塀を足場に跳び上がると、宙でぐるりと回転し、黄金色の獣は音もなく姿を消した。
路地裏にぽつりと残された燈真は、ふと、離れて暮らす家族のことを思い出す。
幼い頃に母親を病気で亡くした燈真は、多忙な父親に代わって母方の祖父母に育てられた。
燈真の霊視に理解を示す祖父母とは対照的に、その手の力や勘を持たない父は、燈真を持て余し、妻の死後は息子を顧ず仕事に没頭した。
そんな父が二度目の結婚相手を家に連れてきたのは、燈真が高校生になったばかりの頃。
再婚相手に挨拶をする直前、父は息子の機嫌を窺うように、声を潜めて言い含めた。
「燈真も高校生になったんだから、人には見えないものが見えるって外で言うのはやめた方がいい。新しいお母さんだって驚くし、良い気はしないと思うんだ」
その言葉に、燈真は悟らざるを得なかった。
父親は自分のことを信じてなどいないこと。彼が築こうとしている「新しい家庭」には、燈真の居場所が無いということを。
父親を恨んだことはない。面と向かって嘘つきだと詰られなかっただけでも、有り難いと思う。
けれどたった一人の家族に信じてもらえなかったという事実が、燈真の胸にわだかまった。
以降、燈真は人ならざる者たちが見えることを、誰にも明かさず生きてきた。自分の目に否が応でも瞳に映り込んでくる異形のものたちの姿を、半ば無理やり幻覚だと思い込み、見て見ぬ振りをした。
そうやって怪異を黙殺するたび、燈真は次第に人ならざる者たちよりも、人間の視線に怯えるようになっていった。
見て見ぬ振りをする仕草は、不自然ではなかったか。
自分は「何も視ていない人間」として、ちゃんと振る舞えているか。
高校卒業後の進路を選ぶ際、燈真は迷わず、地元から遠く離れた東京の大学に通い、一人暮らしをすることを決めた。
大学生になってからは誰とも関わらず、最低限の人付き合いだけで生きてゆこうと思っていた。
なのに――――燈真は今日、自分が今まで見てきたものたちが、嘘でも幻覚でもないと知ってしまった。
「マレビト、か……」
ぽつりとこぼした独り言は、誰に聞かれるでもなく、生ぬるい夜の闇に溶けるように消える。
帰宅する途中、燈真は命婦から受け取った残りの九万円を、コンビニのATMで自分の通帳に振り込んだ。
一週間後、通帳の内容に変化がないことを確かめてから、燈真は命婦から預かった契約書に署名と捺印を済ませた。
そして夕方四時四十四分四十四秒、最寄り駅に忽然と現れた「時刻表に記載のない電車」に乗り込み、青年は異界の駅へと再び足を踏み入れる。