家路
「こんな駅あったんだ、知らなかった。おじいちゃんちみたい」
線路の向かい側に広がる山を、少年はまじまじと見上げた。燈真にとっては見慣れた最寄り駅の風景だが、和希には新鮮らしく、きょろきょろと周囲を見回す。
「そういやお前、最寄り……」
最寄り駅を尋ねようとした燈真をすり抜け、和希は水溜まりの前でしゃがみ込む。
何を視ているのかと覗き込むと、水の中でカマキリが溺れていた。
カマキリの下半身黒い紐のような虫が伸び、ぐねぐねと蠢く。
生々しい光景に、燈真は直視したことを少し後悔した。
「げっ、これって確か」
「ハリガネムシ」
名前が出てこない燈真の代わりに、和希が呟いた。
水溜まりの中で、瀕死のカマキリが小刻みに震えている。それを見て、燈真はふと素朴な疑問が湧いた。
「なんでわざわざ水溜まりに入ってくんだ? 溺れないのか?」
「わざとだよ。ハリガネムシは水中で卵を産むから。寄生した昆虫をあやつって水中に入らせて、溺死させるんだよ」
「うわっ、最悪だな。寄生された方はたまったもんじゃないだろ」
予想外にハードな事情を聞き、燈真はカマキリに同情を禁じ得なかった。すると和希の顔に、物言いたげな表情が浮かぶ。
「でもハリガネムシがいるから、川や池がきれいになるんだよ」
「そうなのか?」
「ハリガネムシに寄生された昆虫が魚の餌になれば、水中の落ち葉や藻を食べる虫がたくさん食べられずに済むから」
生態系を守っているということだろうか。生物学は門外漢な燈真にとって、目から鱗な知識だった。
「ふーん。何が良いか悪いかなんて、一概には判断できねえってことか」
和希の頭上から、燈真はもう一度ハリガネムシを見下ろしてみる。
今まで気持ち悪い寄生虫としか思えなかったが、食物連鎖には欠かせない存在だと知れば、少しは見る目が変わりそうだった。
「そうだ、最寄り駅どこだよ? 新宿あたりまでついていってやろうか?」
乗り換えルートを検索しようと、燈真はスマホを取り出す。和希は少し迷うように押し黙ってから、おずおずと口を開いた。
「あのさ……お兄ちゃん。家まで一緒についてきて」
「なんでだよ」
「僕だけで帰ったら、ものすごく怒られるから」
当たり前だと返そうとして、燈真はふと口を噤んだ。和希の言葉は裏を返せば、第三者の目があるところで、親の親は態度を変えるという意味ではないか。
「お前、どこ住んでんの?」
「成城学園前……」
「マジかよ、普通に遠いじゃねえか」
少なくとも、ここから電車を二つ以上乗り換える必要の駅だ。肩を落とす燈真に、和希はしゅんと唇をすぼめる。
「ダメ?」
「まあ金もらったし、最後まで付き合っとくか。それに、お前はそれでいいよ」
和希が怪訝そうに燈真を見上げる。
「それでいいって?」
「まだ子どもなんだし、誰に迷惑かけたっていいんだ。俺だろうが変な狐だろうが、使えるもんは使えるうちに使っとけ。動物や虫だって他の奴らを騙したり、食いもん横取りしたり、寄生したりして、上手く適応するやつが生き残るんだろ?」
不思議そうな顔をする和希に、燈真は言葉を選びながら続けた。
「良い悪いじゃなくて、生き物ってたぶん、そうやって生きてくしかないだと思う。一回も他のやつを傷つけたり、騙したり、迷惑かけたりせず生きていける奴なんていないってことだ。……それは人間もハリガネムシも同じだろ」
なんだか説教じみたことを言ってしまったと、燈真は急に気恥ずかしくなり、口を噤む。
和希はポカンとしていたが、ふと何かを思いついたように、ポケットからスマホを取り出した。
「お兄ちゃん。LIMEのID、教えて」
「なんでだよ」
「だって、お礼とか」
「別にいいよ。子供がそんなこと気にす……」
少年の顔がわずかに曇ったことに気付き、燈真はその先に続けようと思っていた言葉を飲み込む。
「まあでも、何かあった時のために交換しとくか」
燈真はメッセージアプリを起動させ、自身のIDのQRコードを表示させる。
和希はそれをスマホで読み取ると、不思議そうに画面を覗き込んだ。
「お兄ちゃんの名前、なんて読むの?」
「とうま。あと今更だけど、お前は俺の兄ちゃんじゃねえ。普通に名前呼びでいいよ」
嫌味のつもりはなく、燈真は年が上だからと相手に気を遣われるのが嫌だった。すると和希は液晶画面から顔を上げ、燈真の目をじっと見る。
「お兄ちゃんがダメなら、じゃあ、友達?」
「は?」
予想もしなかった言葉に、燈真は面食らう。和希がふいっと視線を逸らした。
「ダメなら別にいいよ。なんとなく言ってみただけ」
赤く染まった耳や頬に、燈真はふと、自分の少年時代のことを思い出す。
幼い頃から、他人に見えないものが見えた。それゆえ周囲になじめず、友人も信頼できる大人もおらず、ただただ心細かった子供時代の自分を。
まるで時が巻き戻ったかのような錯覚に、頭の芯がちくちくと痺れる。
「……ダメもなにも、友達は許可制じゃねえだろ。ほら」
燈真がスマホを向けると、和希がパッと顔を上げた。
IDを読み取れば、新規の連絡先に「かずき」と、漆黒の羽に金属光沢のような青みを帯びた蝶のアイコンが表示される。
電車に乗ってしばらくすると、和希は疲れが来たのか、燈真によりかかってすやすやと寝息を立て始めた。
電車を三本乗り換え、成城学園前駅に着く頃には日が暮れ、周囲はすっかり薄暗くなっていた。
改札を出た時、燈真はふと背後に視線を感じ、立ち止まった。
「どうしたの?」
後ろを振り返った燈真に、和希が顔を上げる。
「いや、ちょっと視線を感じて」
「えっ」
和希はきょろきょろと周囲を見渡すと、右手で左の腕をぐっと握った。細く色白な二の腕に、小さな爪が食い込んでゆく。
おそらく和希が不安な時に出る癖なのだと、燈真は気付いた。
知り合いか親の目を気にしているのだろうが、燈真はあえてそこには触れず、
「まあ、俺の気のせいだったぽいな。そういや喉渇いたな、和希も何か飲む?」
と、駅の出入り口に置かれた自販機を指差す。
和希は何か言いたげな表情をしていたが、やがて意を決したように顔を上げた。
「燈真くん。もし、お父さんが嫌なこと言ったら、ごめん」
てっきり家に帰るのが憂鬱なのかと思っていたら、付き添いである自分の心配をしていたのかと燈真は少し驚いた。
「……和希の父さんが俺に嫌味言っても、暴言吐いたとしても、それは和希が悪いわけじゃないだろ」
燈真はそう言って、自販機で二人分の飲み物を買った。
駅から十五分ほど歩くと、閑静な集合住宅地の中でもひときわ新しい一軒家の前で和希は立ち止まる。
緊張を鎮めるように何度か深呼吸を繰り返してから、少年は音を立てないよう門を通り、玄関の扉をそっと開けた。
「和希⁉」
廊下の奥から、身なりの良い三十代ほどの女性が姿を現した。燈真には目もくれず、和希に駆け寄る。
「どこにいたの? スマホも全然出ないし、どれだけ心配したと……」
すると階段を降りてきた父親が、和希を見るなり声を荒げた。
「おい、いい加減にしろ。皆にどれだけ心配かけたか、分かっているのか! 塾にも行かず、何やってたんだ!」
玄関を揺らすような怒鳴り声に、少年がビクッと体を震わせる。
「ご、ごめんなさ……」
「どうせ虫捕りにでも行っていたんだろう。お前はなんで、いつまで経ってもサボり癖を治せないんだ。来年は受験なんだぞ。本当に分かっているのか?」
息子の体調を案じるわけでもなく、何があったと事情を聞きもせず、あまりに一方的な怒りをまくし立てる。
燈真は心底驚いた。この父親は息子を心配しているのかと、半ば本気で疑いたくなる口調だった。和希が周囲に「迷惑」をかけたことばかりを、ただ気の済むまま怒っているようにしか見えない。
父親が燈真に気付き、バツが悪そうな表情を浮かべる。
だが自分より明らかに年下の燈真を品定めするように見ると、取り繕うような笑みを浮かべた。
「息子が世話になったようで、ありがとう。見たところ、君は大学生かな? どこの大学?」
「は?」
まさかこの流れで、自分の身元や名前ではなく、自分が通っている大学の名前を尋ねられるとは思わず、燈真は唖然とした。
「……息子より受験の心配ですか? おたくのお子さん、俺のツレに止められなかったら、ビルから飛び降りて死ぬかも知れなかったんですけど」
母親がさっと顔を青ざめさせた。
和希が驚いたように燈真を見る。
「飛び降り⁉ 本当なの、和希」
嘘は言ってない、と燈真は心の中で弁解する。実際にはビルではなく異界駅の非常階段だが、この際ビルだということにしておく。
和希が弾かれたように燈真を振り返った。
「嘘でしょう? どうしてそんなことを」
「それは……」
母親の両目に涙が盛り上がる。とたんに和希は気まずそうに口ごもった。
父親は驚いたように目を見開いたが、不機嫌そうな色を顔に滲ませ和希を見下ろす。
「馬鹿なことを。でも、どうせ本気じゃないだろう? そうだよな、和希?」
「本気かどうかは本人にしか分かりませんけど、この子は実際に飛び降りましたよ。生きて帰ってこれたのは本当に偶然俺のツレが受け止められたからで、運が良かっただけです」
父親を遮って、燈真がすげなく言い放った。
にわかに顔色を変えた両親の視線から顔をそむるよう、和希は唇を噛んでうつむく。
「和希。何も言わずに周囲の人間を見限るのは、お前の自由だけどな」
燈真が声をかけると、少年はこわごわと顔を上げた。
「親だって万能じゃないんだ。自分の子供だからって、何でもお見通しなわけじゃない。言いたいことは言わなきゃ伝わんねえぞ」
母親がハッとしたように和希を見遣る。
「なんなんだ君は、さっきから。息子を連れてきてきれたことは有り難いけど、何も知らない部外者が人の家庭に口を出さないでくれないか」
「俺の話はいいけど、息子の話くらい黙って聞けよ。それとも自分に都合の悪い話は聞きたくないから、そうやって怒鳴って家族を黙らせてきたんですか?」
「なっ……なんだ、その口の利き方は!」
父親は激高を隠そうともせず顔を歪める。しかし燈真が真っ向からにらみ返すと、血走った瞳がわずかに揺れた。
ややあって、父親は燈真から視線を逸らすと無言で背を向け、どすどすと足音を立てて階段をのぼってゆく。
逃げてんのは自分じゃねえか――燈真は口には出さず、胸の内で毒づく。
遠ざかってゆく父親の後ろ姿を、母親は居たたまれなさそうな、なんとも言えない顔で眺めた。
しかしハッとした表情を浮かべ、燈真に深々と頭を下げる。
「夫が失礼なことを言って、申しわけありません。息子を助けていただき、本当にありがとうございます」
「いえ。じゃあ、俺はこれで」
失礼しますと立ち去ろうとした燈真は、和希にTシャツの端を掴まれ立ち止まる。
にわかに三人の間に気詰まりな沈黙がおりた。和希はぐっと唇を噛みしめていたが、やがてゆっくりと口を開く。
「お母さん、あのね」
「うん」
母親が鼻をすすって頷いた。和希はあえぐように息を吐く。
「もう学校、いやだ。行きたくない。悪口とか無視とか、嘘をつかれたり、大切なものをバカにされたり、壊されたり、そういうことばっかりされるんだ。ぼくの言うことなんて誰も信じてくれないから、もう死んじゃってもいいやって思った。でも」
切れ切れの告白に、母親の充血した両目が波打つように揺れる。
和希、と息子の名前を呼ぶ声が、擦り切れるようにかすれて途切れた。
「……でも死んじゃうのは、もっとこわかったんだ」
母親が小さく息を呑む。
「ごめんね、和希。お母さん、和希のこと何もわかってなかったね。本当にごめんなさい……」
絞り出すような母親の謝罪に、少年の頬に大粒の涙が幾筋もつたう。
玄関に二人の嗚咽が響き渡り、場を辞するタイミングを逃した燈真は、苦虫を噛みつぶしたような顔でがりがりと髪を掻いた。
二人が落ち着くのを見計らい、燈真は母親に事情を手短に伝え、母子に見送れて家を出る。
閑静な住宅地を歩きながら、ずいぶん長い一日だったと、燈真は空を見上げる。
既に日は沈み、ぽかりと浮かぶ白い半月が街を静かに照らしていた。
住宅街を抜けると、燈真はあえて駅へ向かう大通りから離れた、細い路地へと足を進めた。
路地の先にある小さな緑地公園に入ると、小さくため息をつき、立ち止まる。
周囲に人がいないことを確認すると、振り返らず口を開いた。
「いつまでついて来るつもりだよ、お前」
青年の語りかけに呼応するように、燈真の背後のツツジの生け垣がガサリと揺れる。
ややあって、中から一匹の獣がするりと這い出した。