マレビト
「お前もここに残ると、そう遠くないうちにああいうものになる」
リンが振り返ると、和希はビクッと体をすくませた。
あどけない顔からみるみるうちに血の気が引いてゆく。
燈真がかすれた声で尋ねた。
「……あれって、さっき言ってた」
「そうだ、マレビトだ。迷い人がなくした物をみつけられず、常世に留まり続けると、三日も経つ頃には変化が始まる」
容赦の無い事実を突きつけられ、燈真と和希はそろって青ざめた。それを気遣うように、命婦が柔らかな声でフォローを入れる。
「大丈夫ですよ。失せ物さえ見つかれば、ちゃんと元の世界に戻れますからね」
しかし和希の表情が晴れることはなく、幼い顔は歪に強張った。
「どうしました?」
「やだ……」
腕を抱くようにして、和希は自身の二の腕に爪を立てる。
ポロシャツから剥き出しになった上腕の外側に、仄赤い筋が何本も浮かび上がった。
「帰るの、いやだ。みんな、ぼくのことなんか嫌いだもん。塾も学校も、やだ。もうやだ……どうせぼくのことなんか」
ぴしぴしと乾いたものにヒビが入るような音に、燈真は眉をひそめる。
和希の白い二の腕に浮かんだ薄桃色の爪痕が、じわじわと赤黒く染まった。
ざり、と濁った音を立て、少年は自分の腕を再び掻きむしる。皮膚が陶器のようにひび割れ、剥がれ落ちた。
「誰も心配してないもん」
震え声で吐き捨てた瞬間、少年の白目が夕焼けのような朱色に染まる。
剥がれた皮膚の下から現れた、あまりに異様なものに、燈真は固唾をのむ。
それは赤い色をした、無数の鳥の羽だった。ひび割れた跡をびっしりと埋め尽くすように、びっしりと羽が生えている。
「おい! なんだよ、あれ……」
少年はくるりと燈真たちに背を向け、命婦が開けっ放しにした扉から脱兎のごとく駆け出した。リンと燈真はあわてて追いかける。
「こら、待て!」
「ついて来ないで。帰りたくない、帰れなくていい‼」
幼い叫び声が裏返り、連絡通路に反響する。二人の後を追って、燈真も走った。通路を抜けて、和希は「非常口」と書かれた扉を開け放す。
そうして少年は非常階段とおぼしき、安全柵に囲まれた階段を駆け上がってゆく。
「待て、そっちは危ない‼」
よく通るリンの声が空気を震わせる。すると和希はびっくりしたように立ち止まり、後ろを振り返ろうとした。
しかし勢いづいた小さな体はうまく止まれず、階段から真っ逆さまに転がり落ちる。
「わああああああっ⁉」
「和希!」
燈真が叫んだその時、和希の背中を突き破るように何かが生える。
その瞬間、少年の体は宙に浮かび上がった。
鳥の翼のような、真っ赤な色をした両翼だった。
少年はおそるおる目を開くと、翼がそれに連動するようにしなる。両腕は翼に変化したのか、どこにも見当たらない。
「うそ? ぼく、飛んでる……?」
翼を羽ばたかせると、小さな体はまるで鳥のように、更に高く舞い上がる。
「マレビトになるって、こういうことなのか?」
燈真が呆然と尋ねると、リンは「まずい」と唇を噛んだ。
「駄目だ! 戻れ和希、それ以上進むと、お前は人に戻れなくなるぞ‼」
「えっ?」
和希が虚を突かれたように、上空から二人を見下ろす。すると翼に変化したはずの腕は、瞬時に元の形に戻った。
和希は何か掴むものを求めるように、腕を振る。しかし小さな手は虚しく宙を掻き、少年の体は真っ逆さまに落下した。
とっさに燈真は柵から身を乗り出し、腕を伸ばすが、には届かない。
呆然と青ざめる青年の横で、リンは素早く踊り場の柵に手をかけよじのぼった。躊躇いもなく、手すりを蹴って飛び降りる。
「リン⁉ 待て、危なっ――」
脱ぎ捨てた外套がひらりと宙を舞った。青い和服に包まれた少女が、少年の後を追うように落下してゆく。
しかし次の瞬間、リンの体が青白く光った。彼女の輪郭が光に溶けるように歪んだのも束の間、光が消えて現れたのは少女ではなく、榛色の毛並みをまとう大きな獣の姿だった。
「……うそだろ?」
幻覚でも見ているのかと、燈真は目を剥く。
狐は安全柵を器用に蹴って、落下してゆく少年に追いつきポロシャツの襟首をくわえる。
そして建物の壁を足場に跳躍すると、駅から伸びるレンガ造りの橋にストンと着地した。
燈真は我に返り、あわてて階段を駆け下りる。
鉄橋までたどり着くと、そこには半泣きで地面にへたり込む和希ともう一匹、見覚えのある大きな獣が立っていた。
艶やかな金色の毛皮に、目が覚めるような青の瞳を持つ巨大な狐が――――
「お前……まさか、さっきの」
狐は燈真をちらりと見遣り、ぶるりと体を震わせる。
榛色の毛並みが稲穂のように揺れた次の瞬間、狐は金色の髪と青い瞳を持つ、和装の少女に一瞬で変化した。
しかし、先ほどとは微妙に姿が異なる。頭頂部には二等辺三角形の獣耳が、そして着物の裾からはみ出した足元には、太く長い尻尾が垂れ下がっている。
「えっ、ええっ……?」
和希が目を白黒させ、リンをまじまじと凝視する。しかし次の瞬間、少年は糸が切れた人形のように気を失い、手すりにもたれかかった。
「騙して悪かったな」
リンは悪びれる様子もなく、茶色い革製のカバーに包まれたスマホを懐から取り出す。燈真は脱力のあまり、その場にへたり込みそうになった。
燈真が気絶した和希を医務室に運び、ベッドに寝かせる。
ひとまず少年の無事に胸をなで下ろした青年に、命婦はソファをすすめた。
「おかけください。色々、聞きたいこともあるでしょうし」
命婦の動揺の少なさに釈然としないものを抱えつつも、燈真はソファに腰を下ろす。
「薄々お察しの通り、私とリンは人間ではありません。百年以上の齢を経て、霊力を帯びた狐なのです。私の名は命婦専女神。京の伏見稲荷にて正一位を賜った白狐です。そしてこちらのリンはまだ位を持たぬ、稲荷大神の神使になるべく修行中の妖狐」
「妖狐……?」
リンは彼女なりに気まずさを感じているのか、二人とは少し離れた壁にもたれて立っていた。
「実はお前さまをここまで呼び寄せたのは他でもなく、今回のようにリンを手伝って、迷い人の保護をしてもらいたいからなのです。今、ここ常世の世界はとある危機に直面しています」
ただならぬ雰囲気に呑まれ、燈真は思わず背筋を伸ばした。
「危機って」
「あなたがた人の世界でいうところの、人口問題というものにあたるのでしょうか。昨年、ついにマレビトの数が一億の大台を突破してしまいました」
具体的になにがまずいのか分からなかったが、青年は黙って話の続きを待った。
「マレビトとは輪廻と摂理から外れた存在。昨今の社会情勢や宗教観の変化からか、最近の迷い人は常世に留まる者が増えつつあります。ですがあまり増えると、管理が行き届かないのです。秩序と境界が保てなくなり、様々な問題が起こりつつあります。今思うに、八百万の前後くらいが一番良いバランスでした……」
命婦は昔を懐かしむように、遠い目をする。現世では少子化が社会問題に叫ばれて久しいが、こちらの世界ではどうやら逆らしい。
「八百万ってそういう数字なのか。その問題っていうのは?」
何気ない風を装って尋ねると、命婦は小さくため息をついた。
「これは現世の人間にも同じことが言えるのでしょうが、数が多すぎるとマレビト同士の諍いが増えます。また冥官たちの目を盗んで常世を抜けだし、現世の境界を侵す者……許可なく現世に忍び込み、人間を襲い世を乱すマレビトが年々増えているのです」
「そのマレビトって、まさか……」
「ええ。お察しの通り、あなたがた人間が妖怪や物の怪、あるいは怪異と呼ぶものたちのことです」