見覚えのない電車
バイト先のコンビニが来月末に閉店し、コインランドリーになる。
退勤間際にオーナーから告げられたニュースは、燈真にとって寝耳に水な話だった。
もっと早く教えてくれと内心肩を落とすも、仕方がないとも思う。
このコンビニはもともと都内とは思えないほど閑散とした場所にあるせいか、客入りは芳しくない。半年前、近くに激安チェーンのドラッグストアが開店すると、客数は更に減ってゆく一方だった。
自宅アパートと大学の中間地点という好立地に加え、駅から少し離れているためか客が少なく夜勤がラクそうだという理由で、燈真はこのコンビニをバイト先に選んだ。それがこんな形で裏目に出るとは、当初は夢にも思っていなかったが。
しかし客足が増えないのは無理もないと、燈真は最寄り駅に向かう道すがら、視界の端にちらつく影を直視しないよう、足元だけを見て歩く。
コンビニと駅をつなぐ、街灯の少ない細い路地。
人でも獣でも、虫でも鳥でもない「何か」の影が蠢くその路地は、一日を通して薄暗く、夏でもひやりとした冷気が漂っている。
この近くに昔、無縁墓地があったとバイトの同僚から聞いた時は、妙に納得したものだった。
見えないふりをしていても、少し油断すれば何かに足元をすくわれそうになる。
母方の祖父母が言うことには、燈真は俗にいう「視える人」らしい。
なんでも先祖に霊感の強い人間がいるらしく、その血を継いだためか、燈真の家系には時折、彼のように人ならざるものを視る力を持つ者が生まれるという。
はた迷惑な力だと、燈真は心の中で毒づく。
霊感の強い祖先とやらは、その筋では有名な人間らしいが、自分はこの力で得をしたことなど人生で一度もない。
そもそも21世紀に幽霊だの妖怪だの、そんなものはいないと、燈真は思いたい。
だからこれは幻覚だと心の中で唱えながら、青年は駅へと急いだ。
バイト先が潰れるのは困る。
けれどもう、この道を通らなくていいかと思うと、少しだけ肩の荷が軽くなったような気分だった。
白みはじめた空を見上げ、無人駅の改札をくぐる。
夏休みはほぼ週五でシフトを詰めるつもりだった。稼げるはずだった九月分のバイト代のことを考えると、ため息しか出てこない。
東京での一人暮らしは、燈真が予想していた以上に出費の連続だった。
燈真なりに倹約に励んでも、家賃を筆頭に税金や光熱費、食費、交通費と様々な出費で、バイト代をなかなか貯蓄まで回せない。
それなりに仕送りは毎月もらっているが、燈真はあまり実家に頼りたくなかった。
朝靄に包まれた無人駅に人の姿はなく、燈真はホームのベンチに腰を下ろした。
バイト先でもらってきた賞味期限切れのサンドイッチを鞄から取りだし、封を開ける。
フィルムの内側が結露して水っぽくなったハムサンドを、もそもそと咀嚼し、胃に詰め込む。
空腹をなだめると、気分も少しずつ晴れてくる。
決まってしまった失業を嘆いても何も始まらない。コンビニが閉店するまでに、次のバイト先を見つければ解決する話だ。
電車を待ちながら、求人サイトでもチェックするかと気持ちを切り替えた、その時。
ゴソゴソと布を擦るような音が聞こえ、燈真は音がした方を振り返る。
すると隣に置いていた鞄に、稲穂のように艶やかな黄金色をした大きな毛玉がのしかかっていた。
よく見ると大型犬ほどの大きさの毛玉に、フサフサと太い尻尾と、細長い脚が四本生えている。
全く気配に気付かなかったが、この獣は一体いつからホームにいたのだろう。食べ物のにおいを嗅ぎつけたのか、鞄に鼻先を突っ込み、中を探っていた。頭の動きにつられて、ベンチから垂れ下がった太い尾が小刻みに揺れる。
犬……だろうか。犬種は分からないが、野良犬だったら厄介だなと、燈真は目をすがめて獣の様子を窺う。
毛が長いため体が大きく見えるが、手足の細長さから見るに、おそらく体格は細身だ。
首輪は見当たらないが、野犬にしては獣臭もなく、金色の毛並みは艶やかで整っている。
ここらの家の飼い犬が脱走したのだろうか。
人に慣れた犬なら近くの交番に届けてやろうと、燈真が立ち上がったその時、線路の奥から踏切の音が鳴り響いた。
獣は音に反応したのか、マズルの先に何かをくわえ、鞄から顔を上げる。
その瞬間、燈真は目を見開いた。
獣は犬によく似ているが犬ではなく、彼にとってあまり馴染みのない動物だった。
榛色の毛皮に覆われ、すらりと痩せた体躯。
吊り上がった目に細く尖ったマズルと、どこか鋭さを感じさせる整った顔。ピンとそそり立つ二等辺三角形の大きな耳や、すらりと長い四本の脚は膝下が黒い。
「狐……?」
呟いた声が疑問形になったのは、自分をまっすぐ見つめ返した獣の瞳に心を奪われたからだ。
鮮やかな、しかし深い色をした青い瞳だった。
朝焼けを背に、逆光で薄暗く覆われた顔の中で、青い双眸だけが内側から発光するかのように煌めいている。
狐とは、目が覚めるような青い瞳を持つ動物だっただろうか。
しかし見とれていたのも束の間、燈真はあることに気付く。
「ん? お前、なに喰ってるんだ?」
細く尖った両顎の間にすっぽりと収まった、茶色く薄い長方形の何か。
バイト先でもらった期限切れのおにぎりでも盗られたかと思いきや、狐がくわえていたのは食べ物ではなく、革製の手帳型カバーに包まれた燈真のスマホだった。
「ちょっと待て、それはダメだ」
燈真はベンチから腰を浮かし、慎重に手を伸ばす。
「返せって。喰いもんじゃねえから。な?」
狐は「ふん」と鼻を鳴らし、スマホをくわえたままベンチから飛び降りた。
そのまま振り返らず、脱兎のごとく駆け出してしまう。
燈真はサンドイッチの残りを急いで口に詰め込み、鞄を引っ掴む。
このご時世にスマホを奪われるということは、資産と個人情報を奪われることに等しい。電子マネーにネット通帳、通学定期券、クレジットカード情報を登録した通販サイト……おまけに手帳型カバーのポケットには学生証が入っているのだ。
スマホを奪還すべく、燈真が狐を追いかけ走り出したその時。
『まもなく列車が到着します。黄色い線の内側までお下がりください』
注意喚起のアナウンスと、続いて列車到着を告げるメロディーがホームに響き渡った。
燈真はかすかに違和感を覚えた。
始発電車が来るまで、あと10分以上は時間があったはずだ。今までバイト帰りのこの時間帯に、回送電車が走っていた覚えもない。
カンカンカンカン、と踏切の音がホームの奥から響き渡る。
次の瞬間、「それ」は警笛を鳴らしながら、何も無かったはずの空間を切り取るように忽然と現れた。
燈真は一瞬、狐の存在を忘れ、ギョッとして立ち止まる。
耳をつんざくようなブレーキ音とともに停車したのは、これまで見たことのない車輌だった。
臙脂色と黒のツートンカラーの外装。
窓から覗く車内は一見、いつも乗っている普通電車と変わらないように見える。
だが行き先を示す扉の横の表示器は、バグを起こしたのか解読不能な文字とも記号ともつかないものが表示されている。
この電車は一体――燈真は固唾を呑んだ。
電車がゆっくりと停止する。まるでタイミングを見計らったように、狐のすぐ目の前で扉が開いた。
狐は迷いのない足取りで、燈真のスマホをくわえたまま車内に飛び込んだ。
「待っ……」
『扉が閉まります。ご注意ください』
青年はとっさに、スマホと自分の身の安全を天秤にかける。
そして夜勤で疲弊した脳は、買ったばかりで本体の支払いが残った最新機種のスマホに軍配を上げた。
燈真はあわてて列車に乗り込む。
ぷしゅう、と空気が抜けるような音を立てて扉が閉まった。
ぜいぜいと肩で息をしながら顔を上げ、青年は目を見開く。
「は?」
車内に自分以外の乗客の姿はなかった。
更にがらりと静まりかえった車内に、狐の姿がどこにも見当たらない。
確かにこの車輌に乗り込んだはずだ。
ほんの一瞬迷った隙に、見失ってしまったのだろうか。
焦って周囲を見回した燈真は、強烈な目眩に襲われた。
視界が遠のき、手足の指先から痺れと冷えが這い上がってくる。足元がぐらつき、青年はやむなくロングシートの座席に、倒れるように座り込んだ。
夜勤の疲れが回ったのだろうか。
バイト先は潰れるわ、スマホは盗まれるわ、わけの分からない電車に乗ってしまうわで、とにかく散々だ。
舌打ちしそうになるのをこらえ、背もたれに上半身を預ける。
その時、ゴトンと音を立て、ひときわ大きく列車が揺れた。
車内がわずかに暗くなり、列車がトンネルに差し掛かかったのだと気付く。
ガタン、ゴトンと反響する音に耳を澄ませながら、燈真は目を閉じる。
幸い、五分ほどで目眩はおさまった。
少しずつ落ち着きを取り戻し、青年は鞄の中を確認する。
財布こそ無事だが、やはりスマホは見つからない。
どうしたものかと燈真が頭を抱えたその時、車内にアナウンスが流れた。
『次は常世。常世に到着します。お降りの方はお手荷物等、お忘れ物がございませんようご注意ください』
「とこよ……?」
聞いたことのない駅名に、嫌な予感が更に膨らんでゆく。
とにかく出入り口の上に掲示された路線案内を確認しようと、青年は立ち上がる。
そして、何の間違いだろうかと二度見した。
路線図の文字は先ほどの行き先表示器と同じく、外国語とも記号とも判別のつかない、見たことのない文字が羅列されている。
悪夢でも見ているのに違いない。ふらふらと後退った燈真は、何かに背中をぶつけ、後ろを振り返った。
「乗車券を拝見します」
そう声をかけてきたのは一見、普通の男性駅員だった。
濃紺の車掌服に赤いネクタイを締め、金糸で鳥のエンブレムが刺繍された制帽をかぶっている。
しかし帽子の下の顔には、目も鼻も口もない。
まるでゆで卵のようにつるりとした「のっぺらぼう」の顔を、燈真は息を詰めてまじまじと見た。
「乗車券はお持ちですか?」
「……」




