1.宣言
はじめまして、kasimi.Aことカシミアです。
「貴女との婚約を破棄する!」という良くある『ざまぁ展開の婚約破棄もの』へのアンチテーゼとなるお話を考えてみました。
「こういうのだったら好きなんだけどなぁ……」という作者の好みというか、願望を込めてます。
それでは、どうぞ。
キラキラと輝くシャンデリア。
花のように着飾った令嬢たち。
耳に心地良く届く音楽。
そんな夢のように優美な場所で手を取り合い、向き合う王子と少女。
穏やかに、にこやかに、王子は言った。
「私は君との婚約を破棄しようと思う」
* * *
ティレール王国・ルシール貴族学院。
国内にいるほぼ全ての貴族、その子息令嬢たちが集うこの学院では卒業パーティーの他に『学年末パーティー』と呼ばれる大規模なパーティーが開かれる。
一学年を無事に過ごせたことを祝し、次の学年でも研鑽を忘れぬようにと催されるこのパーティーは国王夫妻が招かれる卒業パーティーには劣るものの、それでも国王夫妻の名代として王太子夫妻が参加するくらいには由緒正しい公式行事だ。
その最中に告げられた言葉に、ヴィオレットは己の耳を……というよりも相手の真意を疑ってこくりと首を傾げた。
「申し訳ありません、フェリシアン殿下。今何と仰ったのか、良く聞き取れなくて……もう一度お聞かせ下さいな」
「二人の時は私のことは『フェル』と呼ぶ約束ではなかったかな、ヴィオ?」
「今は二人きりではありませんし、王太子夫妻もおられる公式の場です。ご容赦を。……いえ、そうではなくてですね、殿下は今何て仰いました?」
「うん、私──フェリシアン・サン=ティレール第三王子はヴィオレット・ル=シャトリエ伯爵令嬢との婚約破棄を望む、と言ったんだよ」
二度の問いに答えて告げられた言葉はやはり聞き間違いではなかった。
もはや疑うことのできない現実に猛烈な心痛を感じたヴィオレットはそれまで優雅にステップを踏んでいた足をもつれさせ、躓いてしまった。
「おっと。大丈夫かい、ヴィオレット?」
バランスを崩し、倒れかけたヴィオレットだったがその身体はあっさりとフェリシアンに支えられ、事なきを得る。
けれど、それに礼を言う余裕も彼の声掛けに応える余裕もなく、ヴィオレットは縋るようにフェリシアンの腕に添えた手にぎゅっと力を入れた。
「理由を──」
「うん?」
「理由を……お教え下さい」
何故、どうして。
そう叫びたくなる気持ちを抑えてヴィオレットが静かな声で問うと、フェリシアンは
「理由、ね……」
と、何かを思案するように呟いてヴィオレットからそっと距離を取った。
今まで腕一本すら入る余地のなかった二人の空間が急に開かれ、離れた温もりにヴィオレットの身体がふるりと震える。
しかし、目の前の僅かに離れた場所に立つフェリシアンはそんなヴィオレットの様子に気付く様子もなく、きょろきょろと首を動かすと一人の人間の名前を呼んだ。
そして、そう時間の掛からない内に一人の令嬢が人垣を割るようにして現れた。
「お呼びでしょうか、フェル様」
学院の生徒とはいえ、王族の……それも公式の場である学年末パーティーで第三王子の愛称を臆することなく口にした少女は、これまた何の躊躇も遠慮もなくフェリシアンの隣に立った。
婚約者であるヴィオレットの目の前で。
「来てくれて嬉しいよ、ミシェル嬢」
「まあ、他ならぬフェル様のお呼びですもの。来ないはずがありませんわ」
実に親しげに会話する二人は本当に楽しそうである。
レモンイエローのドレスを身に纏い、ふわふわとしたストロベリーブロンドの長髪をオレンジダリアの花の髪飾りで結い上げた、くりくりとした大きな珊瑚色の瞳が愛らしい美少女──ミシェル・ピンツィ男爵令嬢。
最近、フェリシアンと深い仲にあるのではと学院で噂されているミシェルは、パーティーの始めに婚約者やエスコート役の男性と踊るファーストダンス以降、全てのダンスタイムをフェリシアンと共に過ごしていた。
しかし、本来ならそれはあり得ないことだ。婚約者がいる男性と未婚の令嬢が連続で踊るのは二回が限度。例え踊らないにせよ長時間同じ相手と過ごすことは貴族社会のマナーに反する。それをラストダンスに至るまでずっと一緒にいたなんて……。
(やはり、噂は本当だったのかしら……)
フェリシアン・サン=ティレール第三王子は自分の妃に正式な婚約者であるヴィオレット・ル=シャトリエ伯爵令嬢ではなく、学院で出会ったミシェル・ピンツィ男爵令嬢を選ぶ。
それも今回の学年末パーティーでそれを公表するつもりらしい。
そんな噂がヴィオレットの耳にも届いていた。
そして、実際に起こった学年末パーティーでのフェリシアンの婚約破棄である。その宣言の直後にフェリシアンの隣にミシェルが我が物顔で並べば、噂の真実もヴィオレットが先に発した問いの答えも全てが明白である。
(つまり……)
フェリシアンは長年婚約者として連れ添ったヴィオレットを捨てたのだ。
ヴィオレットはぽっと出の男爵令嬢に負けた。
ミシェルもまた全てを理解しているのだろう。唐突にパーティー会場のど真ん中に呼び出されたというのに慌てるでもなく、むしろ泰然としていて得意げな様子である。
「もうお分かりですわよね、ヴィオレット様。フェリシアン様はあたくしと出会って真実の愛に目覚めましたの」
言われなくても嫌と言うほど分かりきっていることを言って、何が楽しいのか、「うふふ」と笑うミシェル。その腕をフェリシアンがそっと掴んだ。
「ミシェル嬢の言う通りだ。私は彼女に出会って恋というものを知った。……知ることができた。だから、これ以上君と今のまま婚約関係を続けることはできない」
ミシェルの腕に触れながら、もう一度婚約破棄を告げるフェリシアンの頬は常に余裕の態度を崩さない彼には珍しいことに、やんわりと赤色に染まっている。
なるほど、学年末パーティーという衆人環視……それも王太子夫妻も招かれる場で婚約破棄を宣言する度胸はあるくせに、ミシェルへの恋心を語ることは羞恥心を感じるらしい。
(──それはそうと、普通こういう時は腰なり肩なりを抱くものではないかしら? 腕を掴むなんて、まるで恋人というより友人同士の殿方たちのよう。ああ、ほら、ミシェル様も変なお顔をされているわ)
寄り添い合うというにはやや他人行儀な二人。
それでも仲の良さは十分に伝わる距離にあるフェリシアンとミシェルを見ながら、ヴィオレットはそんなどうでもいいことを思ってしまった。
いや、違う、どうでもいいことを思わずにはいられなかった……と言った方が正しいか。
平たく言えば、現実逃避である。
何故なら、ヴィオレットはフェリシアンが好きだったから。
王家と伯爵家の事情が絡んだ政略結婚に過ぎなくても、人見知りで怖がりで、そのせいで「無口で無表情ばかり」なんて言われるほど感情を面に出せなくても。
いつでもヴィオレットの心はフェリシアンへの恋で震えていた。
──やあ、君がヴィオレット嬢?
初めて会った時の胸の高鳴りを今でも覚えている。
灰色に中途半端に紫色を混ぜたようなモーヴシルバーの髪に、猫目をより冷たく見せてしまう髪よりも濃いアメジスト色の瞳を持つヴィオレット。それに比べてフェリシアンはそれこそ「温かい」という表現がよく似合う美しい容姿をしていた。
陽光を掻き集めたかのように輝く金髪、晴天のように澄んだセルリアンブルーの瞳。『陽光を引き出す者』という王家の名に相応しい容姿を持つ彼はまさに皆が夢見る『王子様』そのものだった。
『やあ、君がヴィオレット嬢? 髪も瞳も菫色だから、まるで菫の花の妖精かと思ったよ。──とっても綺麗だ』
父に連れられて訪れた王城で彼と出会った時、自分の容姿が好きではなかったヴィオレットをフェリシアンはそう言って褒めてくれた。
それからずっと好きだった。
穏やかで、優しくて、素敵なフェリシアンがずっと好きで、好きで──だからこそヴィオレットにとって、今の状況は泣いてしまいたいほどに辛く悲しいものだった。
けれど、伯爵令嬢としての矜持がヴィオレットに泣くことを許さず、また悲しみ過ぎた心が身体にも影響して返ってヴィオレットの顔を平素のものへと固定させた。
(こんな時ばかりは凝り固まった表情筋が有り難いわ)
なんて心の中で苦く笑ってから、ヴィオレットはこの時初めて周囲へと目を向けた。
学院の代表生徒の内の一組であるフェリシアンとヴィオレットは、まさに今、ホールの中央でパーティーの締めであるラストダンスを踊ろうとしていた。それ故に大勢の関係者が彼女たちを取り巻くように立っている。
王太子夫妻に教師たち、王宮から手配された楽団員、そして学園の生徒でもある貴族の子息令嬢たち。
既に音楽も止まり、声を消すものがない状況だ。先程のフェリシアンたちとヴィオレットの会話は多くの人間が耳にしている。
これだけの数の人間に見聞きされてしまえば、先程のフェリシアンの発言はなかったことにも冗談で済ませることにもできない。
「フェリシアン殿下がヴィオレット様と婚約破棄ですって」
「やはり、噂は本当だったのか」
「もう随分と前から殿下はヴィオレット様に愛想を尽かしておられましたものね」
「ヴィオレット様は確かにお美しいですが、愛嬌が無さ過ぎますから」
「いくらお優しい殿下でも、ああも冷たい態度を取られれば他の令嬢に目移りしても仕方ないか」
「でも王家とル=シャトリエ伯爵家が仲違いすれば何かと不都合が起きるのでないかしら?」
潜められていてもひそひそと届く声。そのどれもがこの状況に陥ったヴィオレットへの嘲笑と憐憫、そしてこれから先の展開に対する好奇心と不安に満ちている。
故にヴィオレットは当事者の内の一人として、傷心に鞭打って事態の収拾に努めなければならなかった。
悲しくて泣きたくても、恋に敗れて寂しくても、それが貴族に産まれた人間の務めだ。
心よりも、矜持を取る。責任を果たす。
そのために。
──大丈夫、大丈夫だよ、私の大切な菫。
すっと息を吸って、ゆっくりと息を吐く。
何度も何度も心の中で唱える落ち着くためのフェリシアンの言葉。それを何度も唱えていると、やがてヴィオレットの心も落ち着いてきた。
悲しくとも、これなら何とか当事者としての責任は果たせるだろうと思える程度に快復すると、フェリシアンに真っ直ぐに目をやった。
「仰りたいことはよく分かりました。それで? わたくしとの婚約を破棄して、どうするおつもりでいらっしゃいますの?」
「どうする、と言うのは?」
「ミシェル様と婚姻されるのでしたら、此度の婚約破棄は殿下の有責となります。当然、ル=シャトリエ伯爵家からも王家に苦情を申し入れて相応の賠償を支払って頂きます。さらに、殿下の婚約者候補であった頃から課せられてきた妃教育に関する賠償も──」
「待て、待ってくれ、ヴィオレット。何を言っているのか分からない」
怒涛の勢いで言葉を続けるヴィオレットに、慌てたようにフェリシアンから待ったが掛かる。
彼は本当に、心の底からヴィオレットが何を言っているのか理解できない、という顔をしている。どうやら婚約破棄するに当たっての面倒事まで考えが回っていなかったようだ。
面白いくらいに顔から血の気が引いている。
だが、フェリシアンの青白い顔を見てもヴィオレットは止まらない。
気にしない。
(だって、わたくしは手酷く振られてしまったんだから)
せめて、これぐらいの嫌がらせはさせて欲しい。
「フェリシアン殿下。何が『待ってくれ』で、何が『分からない』のか、わたくしには理解できませんわ。貴方は王族で、わたくしは伯爵位を持つ貴族の娘。此度のわたくしたちの婚約は、わたくしと殿下を介したサン=ティレール王家とル=シャトリエ伯爵家の契約です。それをご自分の我儘で反故にされるのですから、今後起きること、その全てを承知されていたはずでは?」
「もちろん承知しているとも。だが賠償金は払わない。私は君と結婚する」
「はい?」
ヴィオレットの真っ当な言い分に対し、フェリシアンから返ってきたのは恐ろしいほどに傍若無人な主張だった。
(殿下とわたくしが、結婚……? そんな──)
他に女を作って、大勢の前で振っておきながら?
これだけの心痛をヴィオレットに与えておきながら?
──かぁっ、とヴィオレットの頭に血が昇る。
「何を仰って……っ。殿下は! たった今! わたくしとの婚約破棄をこの場で宣言されたではありませんか! ご自身のお言葉をもうお忘れになられたのですか!」
気がついた時には『淑女らしく』という教えを忘れるほどの怒りに駆られ、ヴィオレットは大声でフェリシアンに反駁していた。
悲しみと怒りに身体を支配され、ぶるぶると震えが止まらないのに、それでも涙を流せないヴィオレット。
そんな元婚約者をどんな思いで見ているのか、フェリシアンの顔も痛ましげに歪んでいる。
「忘れてなんかいない。君との今の婚約は破棄する。……でも私が結婚するのはヴィオレットだよ」
「ふざけないで下さい……っ!」
もう言っていることがめちゃくちゃだ。
婚約破棄を申し出ておきながらヴィオレットと結婚すると言う。それならあの宣言の意味は。横にいるミシェルの意味は。
何もかも筋が通らない身勝手な言動にヴィオレットだけでなく周囲までもが唖然としたり、眉を顰めている。フェリシアンの想い人であるミシェルに至っては、彼の言い分が理解できない不安からか滝のような冷や汗をかいている。
場を混乱させたフェリシアン本人でさえ、青褪めているのだから、自分の言い分のおかしさが分からないわけでもないのだろう。
おかしい。彼はいったい何を考えているのか。
ヴィオレットの知るフェリシアンは国王となる第一王子と将軍を志す第二王子を支えるため、立派な宰相となるべく勉学に励む思慮深い人だ。
大勢の前で失恋の恥を晒させた女を妻に選ぶような、その過ちと非道を理解できないような愚かな人でも、相手の気持ちを考えられない身勝手な人でもなかったのに。
彼の言う『恋』はここまで人を変えてしまうのか。
「わたくしには分かりません。フェリシアン殿下、貴方はいったい何がしたいのですか。何が目的なのですか。わたくしとミシェル嬢、そしてこの場にいる全ての方たちに分かるように仰って下さいな」
動揺を必死に押し殺してヴィオレットがそう言うと、フェリシアンは思いの外素直に「うん、そうだね」と頷いて、それから先程ヴィオレットがしたように深呼吸を始めた。
一回、二回、三回……。四回目……。
「あの、フェル様?」
いつまで経っても終わらないフェリシアンの深呼吸運動に焦れて、彼の傍らにいるミシェルがおすおずと声を掛ける。それによってフェリシアンはようやく行為をやめ、僅かに俯けていた顔を上げた。
しゃんと伸びた背筋。きり、と上げられた顔に真っ直ぐな瞳。
先程までの青白さも焦燥も伺うことはできない、完璧な王族の姿がそこには在った。
「皆の者、私の言うことが支離滅裂過ぎた。混乱させてしまってすまない。私も緊張していて順を追って話すことを失念していた」
「緊張、ですか?」
パーティーホールにいる一同がフェリシアンの言葉に内心で首を傾げた。
王族の一員たるフェリシアンはあらゆる公式行事に参加している。その彼が緊張するとは何事なのかと全員が固唾を飲む。
当のフェリシアンは周囲の緊迫した様子も気に留めることなく、徐にミシェルから手を離すとつかつかとヴィオレットの傍へ歩み寄ってきた。
そして、ふんわりと恭しくヴィオレットの小さい手を持ち上げる。
さながら、ダンスにでも誘うかのように──。
「で、殿下?」
本日何度目かのフェリシアンの唐突な行為。けれど、この事態になって初めて見せた普段の彼らしい紳士な態度にせっかく落ち着いたと思ったヴィオレットの心がまたしても早鐘を打ち始めた。
表情筋は働かないのに、皮膚と血管だけは真面目に働いているのか、自分でも分かるくらいに急速に顔が熱くなるのが分かる。
思わず取られた手を離そうとしたが、羞恥心に弱いヴィオレットの反応を知り尽くしているフェリシアンにあっさり動きを読まれ、手を離すどころか逆に引き寄せられる。更には、腰にまで手を回されてしまった。
「は、離し──」
「ヴィオレット・ル=シャトリエ伯爵令嬢」
逃げられない。先程の仕返しのように、今度はフェリシアンが止まらなかった。
「私はこの場をもって幼少期から続いた君との政略的婚約の破棄を宣言すると共に、恋愛的婚約の成立を目指すことを宣言する」
高らかに王族の威厳を持って宣言を行ったフェリシアンは、すぐにふわりと微笑むと取り上げたままでいるヴィオレットの指先に柔く口付けた。
そして、
「ヴィオレット、私と恋をしてくれないか」
今までにないくらい優しい声でヴィオレットに甘く願った。
婚約破棄するヤツ=馬鹿、というテンプレートなパターンが嫌いなもので……。
たまにはこういう気概のある人がいても良いのでは?と思う次第です。
見切り発車の作品ですが、頑張ります。
続かなかったらごめんなさい。
追記:
タグに「微ざまぁ」を入れてますが、これはミシェル嬢の立場を考えると“ざまぁ”になるかなぁ、と思って入れてます。
違うようだったら教えて下さい、タグ外すので。
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