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短編版 追放された引きこもり聖女は女神様の加護で快適な旅を満喫中

作者: 四馬㋟




「アネーシャ・サノス、長きに渡り、よくもわしを騙してくれたな」

 

 荘厳な造りの、神殿内の一室。

 何の前触れもなく現れた壮年の神官長を前にし、アネーシャはぽかんとした。


「つい先刻、神託が下ったのだ。まことの聖女はお前ではなく、陛下の末の姫君――マイア・クロロス様だと」


 月の女神コヤ・トリカを唯一神とし、宗教を重んじるこの国では、神託は絶対だ。

 それがいかなる内容であっても、国王ですら、異議を唱えることはできない。


「本物の聖女が判明した今、偽物は必要ない」


 ショックが強すぎて、言葉が出てこない。というか、物心付いたばかりの自分を孤児院から引き取り、勝手に聖女として祭り上げてきたのは他の誰でもない、神官長のはずだ。


 ――私が何をしたというの?


 あらゆる傷や病を癒し、災いを退け、幸福をもたらす聖女として、アネーシャは国民から崇められている。いや、崇められていた。聖女の足に触れて祈りを捧げれば願いが叶うと、民は信じているのだ。現に、父親の不治の病が治っただの、夫婦の夢が実現しただの、子どもたちが災害を免れただとの、民は絶えず聖女に感謝し、神殿への献金も年々増えているらしい。


 ――でも所詮はお飾りの聖女にすぎなかった。


 神官長の言葉で、思い知らされる。

 

「まもなくマイア様がご到着される。それまでにこの部屋を開けておくように。これは命令だ」


 冷ややかな言葉に、アネーシャは打ちのめされ、項垂れた。神官長が出て行くと、室内はしんと静まり返る。育ての親である彼の、冷たい眼差しを思い出して、アネーシャは泣いた。


 ――ここを出て、どこへ行けばいい?


 アネーシャは今年で19歳になる。

 成人として認められる年齢ではあるものの、孤児院育ちの自分に、頼る当てなどない。


 都へ来たばかりの頃、外出どころか、部屋から出ることさえままならなかったのだ。聖女は国の宝であり、守り神でもあるため、世間とは隔離された環境に置かれる。外を出歩くことも一切許されない。だからこそ、聖女のいる神殿に人々が押し寄せ、祈りを捧げるのである。

 



『泣いてすっきりしたら、ここを出ましょう』




 誰もいないはずの室内で、優しい声で話しかけられて、アネーシャは顔を上げた。


 そうだ、自分は独りではない。

 育ての親は、もう一人いた。


 黒目黒髪の地味な顔立ちをしたアネーシャとは対照的な、絶世の美女がそこにいた。

 白っぽい銀髪に夜空のような藍色の瞳、抜けるような白い肌、花のような赤い唇。


 全体的に半透明に見えるのは、彼女が人ではない証拠。

 神力を纏っているせいか、彼女の身体はいつも淡い光を放っている。


『大丈夫大丈夫、アネーシャにはあたしがついてるから。何とかなるって』


 内心で「……軽っ」と思いながらも、アネーシャは笑う。


「ありがとう、コヤ様」



 …………

 ……

 


 神官長は知らない。


 アネーシャ・サノスが月の女神の姿を見、声を聞くことができることを。

 その身を介して、女神の力を民に注いでいたことも。


 なぜなら彼は、聖職者でありながらこの世に神は存在しないと考えているからだ。神託はあくまで人心を操るための道具であり、聖女事業は大金を稼ぐための手段――だからこそ神託を利用して、次の聖女に王の娘を選んだ。


 更なる地位と権力、大金を求めて。


 神官長の心の内を知り尽くしている女神はやれやれと肩をすくめた。


 そもそも神の存在を信じていない相手に、自分の意思を伝えることは難しい。それでも女神の存在を信じる聖職者たちを通じて、アネーシャを保護し、聖女として慈しむよう、神官長に働きかけてきた。けれどそれも、ここまでのようだ。


『残念だけど、これでお別れね』

 

 女神はこの地を去るつもりだった。

 我が子同然に育ててきた娘を、今さら手放すつもりはない。


 アネーシャこそ、神と人とを繋ぐ――自分にとっては唯一無二の存在なのだから。




 ***




「……誰も私に気づいていないみたい」


 着の身着のまま、神殿を追い出されたアネーシャは、お祭りの準備で賑わう都の通りを、きょろきょろしながら歩いていた。久しぶりに外の空気を吸って、浮かれてしまう。仕事と住む場所を同時に失い、行くあてもないという、割と悲惨な状況なのだが、何故かわくわくが止まらない。


『意外と自意識過剰なのね、アネーシャは』 


 声がしたほうへ顔を向けると、銀色の毛並みの美しい猫が、つかず離れずの距離でついてくる。猫の姿に化けた月の女神コヤ・トリカである。気まぐれな彼女は度々その姿を変えるのだが、普通の人には見えないので、特に意味はないらしい。けれどアネーシャは、それが自分のためであることを知っていた。子供の頃から、アネーシャは小さな動物が大好きなのだ。


「別に……ただ、やっぱりねって思っただけ」

『そりゃそうよ、国民の前じゃ、濃い化粧をして、派手な衣装と装飾品で飾りまくってんだから』

 

 女神のくせに相変わらず口が悪いんだからとアネーシャは苦笑する。


「コヤ様みたいな美人でもないしね」

『あら、目立たないだけで可愛い顔してるわよ』

「そういうの、身内の欲目って言うんだよ」


 アネーシャが女神の化身として、人々の願いを聞き入れるのは、年に二度、コヤの大祭の時だけだ。普段、聖女が住まう神殿は閉じられ、外界との接触はほとんど絶たれているものの、大祭の日だけは特別に門が開かれ、国民が中に入れるようになっている。聖女になったばかりの頃、都の人々と触れ合える貴重な機会だと、アネーシャはこの大祭を楽しみにしていたのだが、




「信者に対しては無表情で接し、一切の声かけをなさいませんよう」




 と神官長に釘を刺され、「なぜ」と訊ねると、彼は厳しい口調で答えた。


 要するに、聖女が笑えば、それは幸福の兆しだと受け取られ、少しでも顔をしかめれば、災いの兆しだと受け取られてしまう。更には、女神の化身が口にする言葉は全て予言として認識されてしまうため、国民の不安をあおらないための予防策らしい。何代か前の聖女が、大衆の面前でくしゃみをこらえようと、盛大に顔をしかめたことがあった。その際、自然災害でこの国が滅んでしまうのではと信者たちは大騒ぎし、乱闘騒ぎにまで発展してしまったため、神殿側も慎重になっているのだ。


 大祭当日、護衛の聖職者たちにぐるりと囲まれた広間で、アネーシャはぽつんと座っているだけだった。信者たちは一人ずつ広間に入ってきて、その都度、アネーシャは無表情のまま、無言で足を差し出す。すると彼らはこわごわ足に触れつつ、願いを口にし、祈りを捧げる――その繰り返し。


 大祭は三日間続き、それが終わると、次の大祭まで、あとはひたすら神殿にこもって、本を読んだり勉強をしたりして過ごしている。決まった時間に食事をし、決まった時間に眠りにつく。


 ――ずっとそれが当たり前だと思っていたから、変な感じ。


『まあ誰も、国の宝がそこら辺をうろついているなんて考えないでしょ』

「これからどこへ行くの?」

『そうねぇ……どこか、行きたいところはある?』


 訊ねられて、うーんと悩んでしまう。


「色々見てみたいんだけど、ずっと神殿にいたからピンと来ないんだよね』

『いっそのこと巡礼の旅に出るっていうのはどう?』

「巡礼の旅?」


 きょとんとするアネーシャに、コヤは可愛らしく片目を瞑ってみせる。


『あたしのルーツを辿るってわけ』


 言われてみれば、月の女神の加護を受ける聖女でありながら、アネーシャはコヤのことを何も知らない。なぜこの国で唯一神として崇められるようになったのか、女神の代理人として聖女が誕生した理由も。


「いいね、それ」




 ***




 早速アネーシャたちは市場へ向かった。

 旅に必要な物を買い揃えるためだ。


『でもその前に、お金を工面しないと』

「おかね?」

『ああ、まずはそこからね』


 コヤに言われるがまま、身につけていた装飾品を換金するために質屋に入る。

 そこでは中古の服や靴なども売られていて、アネーシャは瞳を輝かせた。


『動きやすい服を何枚か買っておいたほうがいいわね』

「できれば下着も欲しいかな」

『あたしも一緒に選んであげる』


 売れる物は全て売って、動きやすそうな服に着替える。


 ズボンを履いたのは生まれて初めての経験で、アネーシャはどきどきしていた。長い髪の毛は邪魔にならないよう三つ編みにして、リボンで固く結ぶ。防寒具用の上着や、革製の丈夫な靴も買った。中古とはいえ、あまり使用されていない綺麗な状態で、靴底もほとんど磨り減っていない。


「革袋はこれでいい?」

『もっと大きくて、丈夫そうなものがあっちにあったわよ』


 荷物を入れる袋を買ったら、次は食料品店だ。


「携帯用の食料って色々あるんだね。砂糖漬けの杏なんて美味しそう」

『ほら、これなんかどう? 栄養価も高くて日持ちするって』

「試食できないかな」

『食べ過ぎてお腹壊さないでよ』


 近くにいた客の一人が気味悪そうにこちらを見ていたが、アネーシャは構わずコヤに話しかけた。元より、人の目など気にしない性質たちだ。最後に都の詳細な地図と周辺地図を買うと、あっという間に日が暮れてしまった。


 とりあえずその日は近くに宿をとって、一晩を過ごした。

 翌朝、意気揚々と都を出立するはずだったのだが、


「ごめんなさい、コヤ様。筋肉痛で動けない」


 これまでの引きこもり生活が祟ったらしく、たった一日動き回っただけで、全身が悲鳴を上げていた。それでも昼頃にはなんとか起き上がって、食事をするものの、少し歩いただけで 息が上がってしまう。


「足と肩と腰が痛い……」

『それ、十代の娘の台詞じゃないから』


 やれやれと猫の姿で首を振り、コヤは背伸びをする。


『こんなんじゃ、いつまで経ってもここから動けやしない』

「ううっ……ごめんなさい」


 再びベッドの上に横たわりながら、無念の声をあげる。


『仕方ないわね』


 ぽんっとコヤがアネーシャの肩に飛び乗った途端、すぅと全身から痛みが引いていく。

 それどころか疲労感も消えて、身体が羽みたいに軽い。


「さすがコヤ様」

『おだてたって何も出ないわよ』


 床に降りて再び伸びをすると、コヤは言った。


『さあ、行きましょうか』




 ***




 宿を出る際、都の外へ出るための最短ルートを店主に訊ねた。都の地図にはたくさんの門の記載があったものの、全てが開門しているわけではないという。今の時間帯であればここが開いているよと教えられ、そこを目指すことにした。


 門が近づいてきたので、都を出る前に腹ごしらえをしようと、近くの屋台に立ち寄る。香辛料たっぷりの挽き肉が入った焼き饅頭にかぶりつくと、口いっぱいに肉汁が広がって、アネーシャは「うーん」とうなった。


 外で物を食べると、いっそう美味しく感じてしまう。


「けどお金、たいぶ減っちゃった」

『必要になったら、また稼げばいいのよ』

「売る物がなかったら?」

『働くという方法があるわ』


 なるほど、と市場で働く人々を思い出しながら、アネーシャはうなずく。


「私にもできる仕事、あるかな」

『それはおいおい考えるとして。それより……』


 コヤはアネーシャの後方にちらりと視線を向けると、小声で言った。


『……まだついてきてる』

「え?」

『何でもないわ。行きましょう』

 

 門を抜けると屈強そうな門番が立っていたが、アネーシャには目もくれず、直立不動のまま前を向いている。無愛想だとは思ったが、じろじろ見られるのも困るので、アネーシャは気にせず歩き続けた。都に入る際は必ず検問所を通って、通行料を収めなければならないのだが、出るのは自由で、誰の許可もいらない。


 壁の外には、のどかな田園風景が広がっていた。

 虫や蛙が鳴き、水車小屋の近くで農民が畑仕事をしている。


「それで、最初の目的地は?」

『ザルヘイア』


 聞いたこともない地名に、アネーシャは首を傾げた。


『無理もないわ。地図にも載っていない村だから』

「どうして?」

『ドラゴンの群れに襲われて、今は誰も住んでいないの』


 この世界にはドラゴンと呼ばれる害獣が存在する。

 殺傷能力が高い上に知能も高く、人間を食い殺し、食料や貴金属を奪っていく。


 その被害は深刻で、各国にドラゴン狩りを生業とするハンターが存在するほどだ。

 

『そこで初めて彼に出会ったの』

「彼って?」

『ドルクよ』

「ドルクって、まさか邪神ドルク?」


 ドルクは悪しきドラゴンを生み出した邪神である。

 山のように大きな巨体の持ち主で、恐ろしい牙と角を持ち、火を吐く化物として知られている。


『元は普通の人間だったのよ』

「それがどうして……」

『着いたら教えてあげる』


 そう言って悲しげに笑うコヤの後を、アネーシャはついて歩いた。


 地図を確認しながら、南にある港町を目指す。

 そこで離島航路の定期船に乗るつもりだった。

 徒歩で二日かかる距離だが、途中に宿場町があるようだ。


「ねぇ、コヤ様」

『なあに?』

「今までずっと不思議だったんだけど、どうして私を聖女に選んだの?」

『もちろん、あたしのことが見えているからに決まってるでしょ』

「なんで私にだけ、コヤ様が見えるの?」

『さあ。なんでかしらね』

「はぐらかさないで、教えてよ」

『アネーシャったら、たまには自分で考えなさいな』


 突き放すような言い方をされて、考えても分からないから訊いているのにと、アネーシャはむくれた。でももしかしたら、今回の旅でそれが分かるかもしれないと思い直し、機嫌を直す。


 それから数時間ほど歩いて、森に入った直後にアネーシャは座り込んでしまった。


「疲れた。もう歩けない」

『そんなこと言って、さっきも休憩したばかりでしょ』

「ごめんなさい、でもホントきつくて……」

『アネーシャは体力がなさすぎるのよ』

「お水飲んでいい?」

『少しにしなさいよ。先は長いんだから」


 はぁいと返事をしながら、お水が入った革袋をちびちび啜る。


「森に入った途端、辺りが暗くなってきたね」

『熊や狼と遭遇しないといいけど。あ、あと盗賊にも気をつけて』

「気をつけてったって……私、戦えないよ?」

『まあ何とかなるでしょ』


 言いながらコヤが再び肩に乗ってくる。

 すると疲れがすうと引いていき、体力が回復するのを感じた。


『もう少し歩いたら、野宿できる場所を探しましょ』

「野宿するの初めて」

『嬉しそうにしてないで、気を引き締めなさい。そんなに楽しいものでもないんだから』


 それからさらに歩くと、樹木にもたれかかって座り込んでいる人を見つけた。

 死んでいるのかと思いきや、足を負傷していて動けない様子。


 ――男の子?


『無視していきましょう』


 珍しく冷たいことを言うコヤにアネーシャは慌ててしまう。


「いいの?」

『いいの』

「でも……」

『怪我人のふりをした物乞いや盗賊だったらどうするの?』

「そんなの、見ただけじゃ分からないわ」


 アネーシャは言い返し、勇気を出してその人に声をかける。


「君、大丈夫?」


 のろのろと顔を上げた彼はアネーシャを見、怪訝そうな顔をしていた。


「さっきからぶつぶつ独りごと言ってるの、あんたか?」


 普通の人にはコヤの姿は見えないので、そう思われても仕方がない。

 けれどアネーシャは別のことに気を取られていた。


 ――綺麗な顔。


 絶世の美女であるコヤの顔を見慣れているアネーシャでも、思わず見とれてしまうほど、整った顔立ちをしていた。青みがかった銀髪に目の覚めるような紺碧の瞳。年齢は十六、七くらいで、どこか冷めた表情を浮かべている。

 

 ――なんか、コヤ様に似てる。


 そう思ったら、なんだか放っておけなくなってしまい、


「君、怪我をしてるの? 治してあげましょうか?」

「あんたにそんなことできんの?」


 少しひねくれた口調まで、コヤにそっくりだ。

 ちらりとコヤのほうに視線を向けると、


『何? あたしは力を貸さないわよ』


 またもや非協力的な態度を貫いている。

 

 アネーシャはこれまで聖女として、あらゆる傷を癒し、病を治してきた。

 けれどそれはコヤの協力があったからこそできたことだ。


 彼女が自分に神力を注いでくれなければ、何もできない。


「どうしてそんな意地悪を言うの?」

『そいつの怪我は自業自得だからよ』

「どういう意味?」

『要するに自分でやったの。あなたの気を惹くためにね』


 思わず考え込むアネーシャに、コヤは続けた。


『綺麗な見た目に騙されないで。そいつは神官長の送り込んだ暗殺者よ』


「……さっきから誰と話してるんだ?」


 気味悪そうに訊かれて、アネーシャはじっと少年の顔を見返した。




 ***




「君が暗殺者だって、コヤ様が言ってる」


 少年は顔色一つ変えることなく、馬鹿にするような笑みを浮かべた。


「コヤ様って誰だよ。まさか月の女神のことを言ってるのか」

「そう。君の怪我は自分でやったものだから、自業自得だって」


 事の真偽を確かめるまでもなかった。

 これまで、コヤが自分に嘘偽りを言ったことは一度もない。


「じゃあ、私行くね」


 そのまま立ち去ろうとすると、「待て」と慌てたように声をかけられる。


「俺を護衛に雇わないか? この森は危険だ」

「怪我をしているのに?」

「皮膚の表面を少し削り取っただけで、かすり傷だ。すぐに治る」

「……君、強いの?」

「それなりに腕は立つ」


 あの神官長が暗殺者として差し向けてくるくらいだから、そうなのだろう。


『そうやってこの子を油断させてから殺すつもりなんでしょ?』


 神様だけあって、相手の心まで読めるらしい。

 呆れたようなコヤの言葉をそのまま伝えると、少年はちっと舌打ちした。

 

「女ひとりで、この森を無事に抜けられると思うのか?」

「君に殺されるよりはマシ。それに私、独りじゃないから」


 少年の怪我がかすり傷だと知って、アネーシャは内心ほっとしていた。

 これで心置きなく旅を続けられる。


『アネーシャ、もう行くわよ。ぐずぐずしてたら日が暮れちゃう』


 再び歩き出すと、背後でかすかな物音がした。ふっと息を吹きかけるような……振り返ると、少年は細長い筒のような物を手にしていて、ぎょっとしたようにこちらを見ている。


『あなたに吹き矢を放ったのよ。しかも毒付き』


 口にくわえていた毒矢をぺっと吐き出しながら、コヤはやれやれと首を振る。

 姿が見えないだけで、物を動かしたり、食べたりすることもできるのだ。


『あれは放っておいても死なないわ』

「綺麗な花には刺があるっていうしね」


 殺されかけたというのに軽口を叩くアネーシャを、コヤは頼もしそうに見ている。


『そんなに可愛いものじゃないわ。触れただけで命を落とす猛毒人間よ』


 不思議そうな顔をするアネーシャに、コヤは歩きながら説明する。


『毒を持つ生物の中には、自分で生成するタイプと、毒を持つ餌を食べて蓄積するタイプがいるの。あいつは後者』

「人間にそんなことできるの?」

『普通の人間には無理ね』

「っていうことは……」

『ドラゴンの心臓を食べさせられたのよ』


 昔から、ドラゴンの心臓には特別な力があり、それを食らった者は、尋常ならざる力を手に入れることができるといわれている。ある者は岩をも砕く腕力を。ある者は一軒家を飛び越えるほどの跳躍力を。


 ゆえに心臓の部分は高値で取引されるのだが、そのほとんどは市場に出回っていない。ドラゴンを狩った直後に、たいていのハンターが自分で食べてしまうからだ。更なる力を求めて。


『けれどあの坊やはドラゴンハンターじゃない。邪神教の信者よ』


 邪神教は、邪神ドルクを崇拝し、暗殺を請け負うことで金銭的な利益を得ている暗殺教団のことで、一般人にはあまり知られていない。実際に存在するかも怪しいとアネーシャは思っていたのだが、


「本当に存在したんだ」

『耳の後ろにのドラゴンの刺青があったから、間違いないわ』

 

 アネーシャは感心したように言った。


「コヤ様は何でも知ってるのね」

『だって神様だもん』







 ***






 ――仕事でしくじったのは、これが初めてだ。


 自身で傷つけた足の手当をしながら、少年は考えていた。


 少年に名はない。

 教団の人間からは「41番」もしくは「シアヒレン」と呼ばれている。


 甘い香りを放つシアヒレンは世界一美しい花だと言われているが、神経毒を有する猛毒植物だ。植物全体に毒が含まれていて、匂いを嗅いだだけで幻覚を見、錯乱状態に陥る。また、ほんの一瞬触れただけで、数ヶ月から数年間、火傷したような激痛に苛まれる。もっとも毒性の強い部分は根で、誤って食べてしまった場合、僅かな量でも死に至る。


 少年は物心付いた頃から既に有毒人間だった。


 体内に毒を蓄積させるためにシアヒレンの根や葉を食べて育ち、他の信者たちとは隔離された環境で、暗殺者としての教育を受けた。初めて人を殺したのは十歳の時だ。指導者からはただ何もせずに突っ立っていればいいと言われたので、その通りにした。


 すると標的のほうから声をかけてきて、即座に裏路地へ連れ込まれた。暴れたら殺すと脅し文句を口にしながら、標的はべたべたと自分の身体に触ってくる――直後に泡を吹いて倒れ、そのまま死んでしまった。


 ――人間を殺すのは簡単だ。


 ただ自分の肌に触れさせればいい。

 馬鹿な人間は美しい見た目に騙されて、安易に自分に触れたがる。


 近づいてこないのは、警戒心が強く、匂いに敏感な獣たちくらいなものだ。

 捕食者のトップに君臨するドラゴンですら、自分を前にすると尻尾を巻いて逃げてしまう。


 ――けれどあの女は、俺に指一本触れようとしなかった。


 同情を引くために怪我までしたというのに。

 だからやむを得ず飛び道具を使ったのだが、

 

 ――かすりもしなかった。


 なぜか吹き矢は空中で止まり、下へ落ちた。


 ――まるで見えない何かに守られているみたいに……。


 それにあの女は、ひと目で自分を暗殺者だと見抜いた。

 殺されかけたというのに、笑みすら浮かべていた。


  



『偽物の聖女を始末しろ』


 



 それが上からの命令だった。


 けれどもし、聖女が偽物ではなく、本物だったら?


「……余計なことは考えるな」


 そう自分に言い聞かせ、少年は立ち上がる。

 標的の後を追うために。





 ***





 日が暮れて、森の中で一夜を過ごすことになったアネーシャはわくわくしていた。


「焚き火はできたし、寝床も確保した。蚊帳もちゃんと張れたし、あとは……」

『アネーシャったら……火の粉が飛んで、服が焦げてるわよ』


 コヤに笑われ、慌てて焚き火から少し離れた。


「虫除けのハーブも焚いていい? 結構刺されちゃったから」


 携帯食を食べて、うつらうつらしながら火の番をしていると、


『まったく、油断しまくりね。夜の森は危険なのに』

「だってコヤ様がいるし」

『まあね。少なくとも森の獣たちはあたしの気配にびびって、近づいても来ない』

「コヤ様って、神様のくせに人間っぽいよね」

『逆でしょ。人間のほうが神に似せて創られたのよ』

「でも人間は不老不死じゃないし、神力も使えない。悪いこともするし」

『創造主のお考えなんて、あたしには分からないわよ。それより、少し眠ったら?』


 コヤに言われるがまま、蚊帳の中で横になったアネーシャだが、なかなか寝付けなかった。焚き火のパチパチする音や、虫や獣の鳴き声、草木の揺れる音が気になって、何度も目を覚ましてしまう。どうやら初めての野宿に興奮しているらしい。


『……来たわね』


 コヤの言葉で、何かが近づいてくるのが分かった。

 起きようとすると、


『いいから、あなたは寝てなさい』


 優しい、母親のような口調で言われて、アネーシャは再び目を閉じた。

 コヤの邪魔にならないよう、今はじっとしていたほうが良さそうだ。


 それでもつい好奇心から、聞き耳を立ててしまう。


「……のんきなもんだな」


 小声だが、馬鹿にしきった声だった。

 先ほどの少年の声と同じ。

 

「これだから嫌いなんだ。女ってやつは」


 声が徐々に近づいてくる。


「蚊帳か……これじゃあ飛び道具は使えないな。だったら……」


 すぐ近くから甘い香りがする。

 と思った次の瞬間、


「うわわあっっ」


 驚いて目を開けると、少年が顔を押さえて逃げて行くところだった。


『眠っている女の子の唇を奪おうとするなんて、最低よ』

「……コヤ様、何をしたの?」

『顔を思い切り引っ掻いてやっただけ。だって今は猫だし?』


 にゃあとわざとらしく鳴きながら、鋭い爪を見せる。


 それはさぞかし痛かっただろう。

 一度コヤを怒らせて引っかかれたことがあったのだが、未だに傷は癒えていない。


『ついでに傷口に毒も仕込んでやったわ。この時のために毒蛙を見つけておいたの。これぞ、毒を以て毒を制す、ってね』


 ドヤ顔で言われて、むしろ暗殺者のほうが気の毒になってきた。


「まさか殺したりしてないよね?」

『普通の人間なら死んでるわね』


 あっけらかんとした口調で言う。


『毒に耐性があるから大丈夫でしょ』

「助けてくれて感謝してるけど、ちょっとひどすぎない?」

『暗殺なんて仕事をしてるんだから、殺されても文句言えない』

「あの子が教団に洗脳されてないって言える?」


 身寄りのない子どもを引き取って利用するのは、悪い大人たちの常套手段だ。


「私はずっと自分が聖女だって思い込まされてきた。それなのに今じゃ偽物扱いよ」

『……そうね、少しやりすぎた。次からは手加減するわ』


 とりあえずその言葉を聞いてほっとする。


『だけど任務に失敗した以上、あの子、どのみち消されちゃうわよ』

「そう……だよね」

『でもってまた新しい暗殺者がやって来る』

「キリがないね」

『ええ、だから本体をどうにかしないと』


 コヤはうんざりしたように続けた。


『一度受けた依頼は依頼者が死んでも遂行する、があの教団のモットーだから』

「どうすればいい?」

『そんなの簡単。あたしにお願いすればいいのよ。教団を潰してくださいって』

「コヤ様が叶えるのは、他者のための祈りや願い事だけでしょ?」


 自分のための願い事は不浄とされ、神殿でも禁じられている。

 

『普段はね。あたしたち神には色々と制約があって、好き勝手に神力を使えない。けれど例外もある。あたしの場合は、聖女の願いを叶えるためなら、無制限に神力を使うことができる。だから全てはアネーシャ次第ってわけ』


 聖女は、人と神とを繋ぐ、唯一無二の存在。

 これまで多くの信者の願いや祈りを、コヤに伝えてきた。


 アネーシャが自分の願いを口にしたことは一度もない。


『さあ、どうするの? アネーシャ。このまま一生、暗殺者に狙われながら旅を続けるつもり?』


「もちろん、嫌に決まってる」

 

 



 ***





 それから数日後。


 邪神教本部に国王直属の諜報部隊が潜入し、これまでの悪事が白日の下にさらされることとなった。教団の上層部6人はその場で拘束され、死刑。また後日、彼らに親族や友人を殺された被害者たちが大勢の一般人を扇動――暴徒と化した彼らは、邪神教の信者たちを襲撃した。必死に抵抗するも、焼き討ちをかけられた教団は呆気なく壊滅状態に追い込まれてしまう。


 任務で本部を離れていた他の信者たちは、このことを知ると、本部に戻ることなく姿を消した。

 被害者による報復と、神の天罰を恐れて。




 ***




 ようやく森を抜けると、目の前には草原が広がっていた。

 ずっと進んだ先に街道が見える。


 街道に向かって歩きながら、アネーシャは美しい草原の風景に目を奪われていた。


「走ったら気持ちよさそう」

『なら、やってみれば?』


 実際に走ってみて、開放感と爽快感を覚えたのは一瞬のことで、


『ちょっとアネーシャ、大丈夫? 今にも死にそうな顔してるけど』


 腰を曲げ、ゼーゼーと苦しそうに息を吐くアネーシャを、コヤが心配そうに見ている。


「心臓がバクバクしてる。足もふらふらだし」

『運動不足もそこまでくると同情するわ』

「ごめん、私、本当に体力なくて……」

『ひきこもり生活の弊害ね』

「少し休憩してもいい?」

『さっきからそればっか』


 椅子になりそうな岩の上に腰掛けると、コヤは呆れたような顔をしていた。


『アネーシャって本当に19歳?』

「そういえばコヤ様はいくつだっけ?」

『女性に年齢を訊くのは失礼よ』

「コヤ様が言う?」


 その時、強い風が吹いて、危うく岩から転げ落ちそうになった。


『アネーシャ、隠れてっ』


 何かが近づいてくる気配に、すぐさま岩陰に身を隠した。

 バサバサという羽ばたく音と共に、頭上を、大きな生き物が通り過ぎていく。


「もしかしてドラゴン?」

『ええ、見つからなくて良かったわね』


 狩りをしたあとだろうか。

 草原の上に血が滴り落ちていて、ぞっとした。


『そろそろ出てきてもいいわよ』


 周囲を警戒しつつ、慎重に歩みを進める。

 やっとのことで街道にたどり着き、再び地図を出した。


「この道は南北に向かって続いているから、南はこっちだね」

『いいえ逆よ、アネーシャ』


 歩いては休憩、また歩いては休憩、を繰り返していると、


「お嬢さん、荷物を抱えて大変そうだね。どこまで行くんだい?」


 幌馬車に乗った大柄の男に声をかけられた。

 これぞ神の助けと思い、


「この先にある宿場町まで」

「俺もその町に用があるんだが、乗ってくかい?」


 思わず頷きかけたアネーシャの前に、『ダメよ』とコヤは立ちはだかる。


『こいつ、悪いことを考えているわ。付いていったら後悔する』


「……結構です」

「どうして? ここから町までかなり距離があるよ」

「巡礼の旅だから。自分の足であるかないと意味ないの」

「……そうかい」


 男は一瞬、品定めするような視線をアネーシャに向けたものの、さっさと行ってしまった。


『無理やり連れ込まれなくて良かったわね』

「そういう問題?」


 はあとため息をついて、歩き続ける。

 それからしばらくして、また声をかけられた。


「お嬢さん、乗ってくかい?」


 今度は荷馬車に乗った老人だった。農夫のような格好をしている。

 アネーシャが断ろうとすると、


『乗せてもらいなさいな』

「いいの?」

『あなたが孫娘にそっくりだったんで、親切心から声をかけたみたいよ』


 お礼を言って、いそいそと荷台に乗せてもらった。


「座ってるだけで移動できるって素敵だね」

『あんまり楽すると、いつまで経っても虚弱体質なままよ』

「私は虚弱じゃなくて、運動音痴で体力がないだけ」

『はいはい言い訳』

「いい訳じゃありません」

 

 そんなやりとりをしているうちに、宿場町に着いた。 

 農夫の紹介で、格安の宿に泊まることができたものの、


「残りのお金で船に乗れる?」

『食事代も入れたらギリギリってところね』


 翌日、港町に着いたアネーシャたちは、最終便の船に間に合い、船内で一夜を明かすことになった。けれど初めての船旅で興奮していたアネーシャは、なかなか眠れず、軽い船酔いもあって、たまらず船室を出た。


「なんか気持ち悪い」

『思い切って吐いちゃえば?』

「それは、女としてどうかと……」


 外へ出て、夜風に当たるも、周囲は真っ暗でほとんど何も見えない。


「海を見たのって初めて」

『そういえばそうだったわね』


 甲板の先端部分には先客がいて、フードを目深にかぶって顔を隠していた。

 こちらに気づいて、さっと振り返る。


『あいつ、意外としつこいのね』


 潮風に混じって、嗅いだことのある匂いがする。

 獲物をおびき寄せる甘い香り――すぐにあの暗殺者だと気づいた。


「まだ諦めてなかったんだ」

「……教団を――俺の組織を潰したのはあんたの仕業か?」

「私にそんな力があると思う?」


 質問を質問で返すと、苛立たしげに舌打ちされる。


「あんたが本物の聖女なら……」

「それは私が決めることじゃない。用事はそれだけ? それともまだ私の命を狙ってる?」

「まさか。どうせ返り討ちに遭うに決まってる。こんな風に」


 かぶっていたフードを取って、少年は顔をさらした。

 あまりの変わりように、アネーシャは息を飲んだ。


 絶世の美女ならぬ絶世の美少年だったのに、今や見る影もない。

 片目が潰れ、顔の一部が焼けただれたようになっている。


「この俺がまさか毒にやられるとは――その上、俺の顔を見ると、誰もが気味悪そうに目をそらす。こんな屈辱は生まれて初めてだ。おい女、そんなにひどいか? 俺の顔は?」


 自虐的な声を聞いて、アネーシャは近くにいたコヤを軽く睨む。


『分かった、治せばいいんでしょ、治せば』


「傷を癒すことはできるって」

「……そう女神様が言ってるのか?」

「そうよ。別に信じてくれなくてもかまわないけど」

「なぜ俺を助ける? 俺はあんたを殺そうとしたのに」

「今は違うでしょ」


 傷を癒すために近づこうとすると、さっと距離をとられる。

 再びフードをかぶって顔を隠す彼に、アネーシャは穏やかな声で言った。


「安心して。傷を癒すだけだから」

「その必要はない」

「どうして?」

「俺は全てを失った……住む家も、コミニティーも、仕事も……今さら顔が元に戻ったところで意味がない」


 美しい顔にも未練はないという。

 彼にとっては、仕事をする上で役に立つ道具、程度の価値しかないようだ。


「あの顔だと目立つしな」

「だったらなぜ、私のあとをつけて来たの?」

 

 わからないと、途方に暮れたように少年は言う。


「ただ、知りたかったんだ。あんたは間違いなく本物だ。それなのに、なぜ偽物として神殿を追い出された? あんたを殺せと依頼してきた男のせいか?」


「その人のこと、知ってるの?」

「ああ。心臓発作で突然死したらしい」


 驚いてコヤの顔を見ると、『あたしは知らーない』とそっぽを向かれる。


『医者の不養生ってやつでしょ』


 彼は医者ではなく聖職者のはずだが。

 そう言い返せば、『似たようなものでしょ』と突き返される。


 どちらにしろ自分には関係のないことだと思い直し、アネーシャは少年に向き直った。


「本物だとか偽物だとか、私にとってはどうでもいいの。ただもう、あの神殿にはいられないから、出て行っただけ。それに今の生活の方が好きだから」


 外の空気を吸って、美しい景色を見て、自分の足で歩いて、物を買って食べて――たったそれだけのことに、アネーシャは充実感を覚えていた。生きていると実感できた。自由の味を知った今、これまでの、聖女としての生活が、窮屈で息苦しいものに思えてならない。

 

 後任であるマイア・クロロスには、心から同情してしまう。


 そうか、とつぶやいたきり、少年は黙り込んでしまった。


『この坊や、使えそうね』

「……コヤ様?」

『坊やに伝えて、アネーシャ。あたしがあなたを雇うって。聖女の護衛として』


 目を丸くするアネーシャに、コヤは優しく続ける。


『仕事を全うできたら、ご褒美にどんな願いも叶えてあげる』


 神様の十八番おはこが出てしまった。

 否とは言わせない、魔法の言葉――どんな願いも叶えてあげる。


 一応、伝えることは伝えたが、


「もちろん、断ってもいいよ。これくらいのことで天罰は下らないと思うし」


 と慌てて付け加える。

 少年の答えは早かった。


「わかった、俺の命に代えても聖女を守りぬく」


 力のこもった言葉に、コヤは満足そうにうなずいている。


『契約成立ね』


 ――なんか、大変なことになってきたような……。


 しかし単純に考えれば、旅の仲間が増えるのは喜ばしいこと、かもしれない。


「ところで君、名前はなんて言うの?」

「名はない。割り当てられた番号や植物の名前で呼ばれていた」

「植物?」

「シアヒレン……知ってるか?」

「ああ、あの綺麗な花。だったら君のことはシアって呼ぶね」

「……単純だな」

「ヒレンのほうがいい?」

「どっちでも」

 

 それから言いづらそうに、シアは言った。


「あと、一つだけ頼みたいことがあるんだか」

「何?」

「傷を癒す代わりに、この刺青を消して欲しい」



 ***




「あんた、本気でここに降りる気かい?」


 怪訝そうな顔で船長に訊かれ、アネーシャは「たぶん」と自信なさげにコヤを見た。


『大丈夫、ここで間違いないから』

「ここで間違いないみたいです」


「でもここ、無人島だよ」


『人はいないけど自然は豊かよ。果物やナッツ類も自生しているし、食べ物には困らないわ』


「それにドラゴンの巣があるかもしれない」


『単なる噂。実際はないから』


 アネーシャは観念してふうと息を吐いた。

 

「構いません。ここで降ります」


 結局この島で下船したのは、乗客のうち二人だけだった。


 目的地が無人島だと分かってもシアは反対することなく、黙って付いてきた。元々無口な性格なのか、それとも仕事に集中しているせいか、彼はあれから、ほとんど口を利かない。下船してからも周囲の警戒を怠らず、注意深くコヤと会話するアネーシャの言葉に耳を傾けている。


『村があったのはこの辺りよ』


 桟橋をあとにしてしばらく歩くと、コヤが唐突に足を止めた。


『今じゃ何にもないけど』


 確かに雑草が生い茂っていて何もない。

 それどころか森と化している。


「それっていつの話?」

『五、六百年前くらい?』


 考えるだけで気が遠くなってきた。


「大雑把すぎない?」

『彼に会ったのはそれからさらに百年前くらいかな』

「彼って……前に話してくれた、邪神ドルクのことだよね?」


 その言葉にシアが反応したようにこちらを向く。


「あとでまとめて説明するから」


 彼は頷くと、周辺を散策し始めた。

 初めての土地で、彼も落ち着かないのだろう。


『そうよ。元は人間だった。羊飼いで、よく丘の上で昼寝をしていたわ』

「で?」


『ある時、あたしはこの島の上空を通りかかったの。そしたらものすごいイビキが聞こえてきて……あとは分かるでしょ?』


 全く分からないとアネーシャは首を振る。


『若いんだから察しなさいよ。気持ちよさそうに眠っている彼を見つけて、恋に落ちたの』

「……そんなにカッコ良かった?」

『アネーシャ、男は顔じゃないのよ』


 したり顔で言う。


『まあ確かに美形ではなかったわね。体型も大柄でがっしりしてて、腕の筋肉がまたすごいの。それにあの体臭――獣臭くて、何日も身体を洗っていない感じがもうたまらなくてね……』


 へぇ、と相槌を打ちながら、アネーシャは視線を遠くに向ける。月の女神のルーツを辿るというより、母親の恋バナに付き合わされている気分だった。


『どんなに遠くにいても、匂いだけで彼がどこにいるのか分かったわ』

「そうなんだ」


 完全にその男に心を奪われてしまったコヤは、何度も彼のそばに行き、長時間、彼の寝顔を見て過ごしたという。けれどある時、それだけでは物足りなくなってしまい、思い切って彼の前に姿を現したらしい。本来、普通の人間に神であるコヤの姿は見えないのだが、


『なんと、彼にはあたしの姿が見えていたの』

「普通の人間じゃなかったってこと?」


『彼には少しだけ、古き神の血が流れていたみたい。大昔にいたのよ。神同士の争いに破れて、地上に追放されたいにしえの神が』


 これって運命よねと、ノロケながら彼女は続ける。


『もっとも彼は、自分は夢の世界にいるんだって思い込んでたけど。それもそうよね。目の前に、こんな美女が現れたら現実とは思えないでしょ? その上、裸だったし』


 なぜ裸だったのかは訊かないことにした。

 知りたくもない。


「彼の反応は?」

『そりゃあもう興奮して、獣のように……分かった、詳しくは言わないから。そんな顔しないで』

「少しは恥じらいを持ってよ」

『人間の分際で、神に説教する気?』

「それで二人は結ばれたのね」


 面倒なので強引に話を進める。


『そうよ。激しい時なんて、三日三晩愛し合ったわ。身体の相性もばっちり』

「そういうの、いらないから」

『心から彼を愛して、彼もまた、あたしを愛してくれた。でもある時、気づいちゃったの』

「何に?」

『彼の目尻や口元の皺に……髪の毛にも白髪が混じってたわ……』


 恐ろしげにつぶやく女神に、アネーシャは冷たく言った。


「コヤ様が精気を吸い取ったからじゃないの? 淫魔みたいに」

『ちょっと、月の女神に向かってなんてこと言うのよ』

「それか若白髪とか?」

『まあその可能性も無きにしも非ず――って、言いたいのはそういうことじゃなくて』


 分かってると、アネーシャは苦笑した。


「人間はいずれ老いて死んでいく。不老不死のコヤ様と違って」

『だから彼に選んでもらった。あたしと共に永遠の時を生きるか、人として生涯を終えるか』


「そして彼はコヤ様と生きることを選んだ」


 そう続けると、コヤは人の姿に戻り、今にも泣き出しそうな顔をした。


『ええ、そう。あなたの言う通りよ、アネーシャ』

「だったらどうして邪神なんかに」

『あたしが父を――全知全能の神を怒らせてしまったの。無断で彼に永遠の命を与えてしまったから』


 全知全能の神は罰として、ドルクを怪物の姿に変えてしまった。


 醜い姿に変えられたドルクは絶望し、大きな洞窟の奥に身を隠してしまう。女神は許しを請うためにドルクに会いに行き、拒まれても拒まれても、彼の元へ通い続けたという。


 ある時、ドルクの中で眠っていた古の神の力が目覚め、凶暴なドラゴンたちを大量に発生させる。やがて理性を失い、人間を襲い始めたドルクは、全知全能の神に倒され、封印されてしまう。しかし、彼の分身であるドラゴンは尚も生き続け、繁殖し、人間を襲う害獣となった。


 そこで女神は、一人の無垢な人間の少女に、ドラゴンから身を守るための神力を与えた。

 それが聖女の始まりである。

 

 聖女は様々な土地で神力を使い、ドラゴンの襲撃から人々を守った。やがてその役目がドラゴンハンターに取って代わられると、聖女は月の女神を信仰する宗教団体に保護され、神の代行者として人々を救った。


『あたしがこうして、地上に留まり続けているのはそのせい』

「罪悪感から?」

『それもあるけど、単純に彼のそばにいたいから』


 コヤは笑って言うと、再び猫の姿に戻ってしまった。


「ドルクの封印場所を知ってるの?」

『ええ、もちろん。けど、目覚めさせる気はないわ』

「でもいずれ、そこにも行くんでしょ?」

『どうしようかしら』


 もったいぶったように言い、コヤはうーんと背筋を伸ばす。


『長話しすぎちゃったわね』

「お腹もすいたし喉も乾いた。シアは?」


「シアヒレンの根なら持ってる」 

「それは食べられないかな」


 注意を引くようにコヤが「にゃー」と鳴く。


『来て、果物がなってるところへ連れて行ってあげる』




 ***




 

 野営の準備を終え、甘く瑞々しい果物をたらふく食べたところで、アネーシャは口を開いた。


「それで次の目的地は?」

『そんなに急がなくても、しばらくここでゆっくりしていけばいいじゃない』


 のんびりした口調で言われて、アネーシャは眉を寄せた。


「でもここ、何もないよ」

『豊かな自然、美しい海、満天の星……これ以上、何を望むって言うのよ』

「楽しんでるの、コヤ様だけだよね」

 

 少し離れた場所で周囲を警戒しているシアを見、ぼそりとつぶやく。


「それにお金も、残りは戻りの船賃だけだし」

『お金がないなら、稼げばいいのよ』

「この島で?」


 うろんげに聞き返すと、女神は涼やかな笑い声をあげる。


『あたしが何のためにあの子を雇ったと思ってるの?』

「……シアに何をさせるつもり?」

『もちろん、アネーシャ、あなたの護衛よ』


 答えをはぐらかされて、心配になったアネーシャはシアのところへ行く。

 

「こっちに来て、少し休んだほうがいいよ」

「女神は何か言っていたか?」


 軽くかぶりを振って手を伸ばそうとすると、露骨に距離を取られてしまう。


「死にたくなければ俺に触るな」


 キツイ口調で注意されて、そういえばそうだったとアネーシャは笑う。


「でも私ならたぶん大丈夫だよ。コヤ様の加護があるから」

『それでも痛みは感じるけどねぇ』


 とりあえず、その言葉は聞かなかったことにする。

 アネーシャの言葉を聞いて、シアの表情が僅かに緩んだ。


 彼は黙って焚き火のそばに来ると、静かに腰を下ろす。

 ややして、


『ねぇ、あなたたち、なんで何も喋らないの?』


 じれたようにコヤに言われて、アネーシャは首を傾げる。


「ここに来た目的なら、もうシアに説明したよ」

『そういうことじゃなくて……』

「じゃあどういうこと?」

『アネーシャ、自分の周りをよくご覧なさい』


 熱のこもった口調に、アネーシャはあらためて周辺を見回した。


『何が見える?』

「真っ暗な森と、明るい炎……」


 そういうことじゃないのよと、コヤが呆れたように口を挟む。


『美しい星空の下、無人島で若い男女が二人きりで過ごす、初めての夜』

「コヤ様、その言い方、なんかすごく変」

『少しも変じゃないわ、アネーシャ。現実を受け入れなさい』


 一方のシアはアネーシャの独り言にも慣れた様子で、焚き火に小枝をくべている。


「コヤ様は私にどうして欲しいの?」

『馬鹿ね、若い男女がすることと言ったら……決まってるじゃないの』

「言葉を濁さないではっきり言って。じゃないと分からない」

『恋に落ちるのよ、恋にっ』


 アネーシャは冷めた目でコヤを見返した。


「コヤ様って昔からそう。近くに男の子がいると、無理やりくっつけようとするよね」

『それのどこが悪いの?』

「ありがた迷惑、おせっかい焼き」

『女友達なんてそんなもんでしょ?』

「……友達って誰が?」

『あ、た、し』

「お母さん、の間違いじゃない?」

『せめてお姉さんにしてっ』

「わかったから泣き真似しないでよ」


 コヤを抱き上げて、よしよししていると、

 

「さっきから何の話をしているんだ?」


 興味深そうにシアが訊いてくる。

 

「気にしないで、コヤ様の暇つぶしに付き合ってるだけだから」

『あたしは本気で心配しているのにっ』

「はいはい、ありがとうね、コヤ様」

『恋をするのよ、アネーシャっ』

「分かったから落ち着いて」

『そして女として生まれた悦びを知って――』

「処女を失ったら、聖女じゃなくなるけど、いいの?」


 ――コヤ様、もしかして酔っ払ってる?


 案の定、近くの木に絡みついた、野生のマタタビを見つけて苦笑してしまう。


 そろそろ寝る準備をしようかという時、静寂を切り裂く鳴き声を聞いた。

 突然シアが立ち上がり、上空を睨みつける。


「ドラゴンだ」

 

 同じようにアネーシャも空を見上げるが、何も見えない。


「暗闇に紛れて、すばしっこく動き回ってる」


 よくよく目を凝らしてみれば、確かに細長い生き物が浮かんで見えた。 

 こっちに向かって、まっすぐ飛んでくる。


「逃げたほうがいい?」

『坊やに任せて、じっとしてなさい』


 言われた通りじっとしていると、シアに狙いを定めたドラゴンが急降下してきた。

 よほど空腹なのか、歯をむき出しにして迫ってくる。


「俺を食いたきゃ食えばいい」


 逃げるどころか不敵に笑い、両手を広げてその身を晒すシア。

 

「腹を下すどころじゃすまないけどな」


 危険を察知したドラゴンは唐突に向きを変えようとして、近くの樹木に激突する。

 想像していたよりも小柄なドラゴンだった。


 それでも虎や狼よりもずっと大きい。


「下位種のテラだ。これなら楽に仕留められる」


 すぐさまシアは、持っていたナイフで自身の手を軽く切ると、その血をドラゴンに浴びせた。

 びくびくと痙攣を起こしたかと思うと、ドラゴンは瞬く間に動かなくなってしまう。


『よっしゃ、これで金銭面の問題は解決ね』


 嬉しそうなコヤの言葉に、「まさか」とアネーシャは頬を引きつらせる。


「このドラゴンを売るの?」

『そのためにおびき寄せたのよ。幸い、ここ無人島だし?』


 何も言わなくても、シアは既に作業に入っていた。

 ドラゴンの柔らかな部分をナイフで切り裂いて、こぶし大ほどの心臓を取り出している。


『あれ一つで金貨一枚ってところかしら』

「そんなに?」


 金貨一枚は銀貨百枚分に相当する。ちなみに銀貨一枚は銅貨百枚分。

 安い宿なら銀貨二枚で泊まれるので、これで当分、宿代を心配せずに済みそうだ。


「シアはそれを食べたことがあるんだよね」

「俺が食ったのは上位種のドラゴンで、心臓ももっとデカかった」


 ドラゴンの心臓を食らえば超人的な能力を得られる、とは言われているものの、ドラゴンの強さや種類で得られる能力も異なるらしい。下位種のドラゴンだと、勘が鋭くなったり、運動能力が少し高くなる程度とか。


「貴重な物だから、あんたが持ってるといい」


 そう無造作に差し出されて、アネーシャはぶんぶんと両手を振った。


「シアのこと信じてるから、シアが持ってて」

『単に気持ち悪いだけでしょ』


 横で茶々を入れるコヤを睨みつける。


「そんなんじゃない」


 不思議なことに、本体から切り離されても、ドラゴンの心臓が腐ることはないと言われている。

 いつまでも宝石のように輝き、見る者を魅了する。


 しかし心臓部分以外はそうはいかない。

 いずれ腐って、虫がわく。


「……だったら牙と爪にするか?」


 さすがに荷物持ちくらいしなければと、アネーシャは観念してうなずく。


「その前に手を出して。傷を治療するから」


 しばらく経って、受け取ったそれは生臭く、ずしりと重かった。




 


 ***





 戻りの定期船に乗れたのは、それから三日後のことだった。


 船がいつ島に来るのか分からないので、桟橋付近で待っている間、何度もドラゴンの襲撃があった。その度にシアが倒してくれたので、気づけば手元にあるドラゴンの心臓は三つ――牙や爪はもっと増えた。


 通常、ドラゴン関連の買取はギルドで行われる。多くのドラゴンハンターが仕事を求めて集まるギルドは、たいてい大きな町や都にしか存在しないのだが、幸い、港町に小さな出張所があって、アネーシャたちは真っ先にそこへ向かった。


「お前さん、ドラゴンハンターじゃないっていうのは本当かい?」


 対応してくれた受付の男性が、持ち込んだ品を見て、驚いた声をあげる。

 気味悪そうな視線を受け流しながら、シアは面倒臭そうに答えた。


「ドラゴンを倒せるのは、何もハンターだけとは限らないだろ」

「にしたって、すごい数だ。しかも希少価値の高い心臓まで……」


 これでハンターじゃないなんて信じられないと、ぶつぶつ呟いている。


「買い取るのか買い取らないのか、どっちなんだ?」

「も、もちろん買い取らせてもらうよ」

「正規の値段で?」

「それはハンターが相手の場合さ。一般人向けの買取は、諸々の手数料が発生するから、価格は多少低めになる」


『いっそのこと、ハンターになっちゃえば?』


 コヤの無責任な言葉を伝えると、シアは考え込むような顔をした。


「一般人でもハンター登録できるのか?」

「お前さんほどの腕前なら、きっと簡単だろうよ」


 ドラゴンハンターになるには、まず適性検査を通過した上で、他のベテランハンターのもとで数年間、修行しなければならない。そこで一人前だと認められた者が、推薦状を持ってギルドマスターと面会し、ハンターとして登録されるという。


 それを聞いて、シアは顔をしかめた。


「時間がかかりすぎる」

「とりあえず査定してもらうのはどうかな?」


 急かすのも悪いと思ったが、そろそろ体力の限界で、アネーシャとしては早く宿屋に行って休みたかった。査定額は全部で金貨四枚ほど、そこから手数料や税金やら、諸々引かれると、金貨三枚と銀貨五十枚ほどになるという。これで一気にお金持ちになった。


「それでお願いします」


 若干不満顔のシアに全額預けて、宿屋を探す。


「ごめん、シア。でも日が暮れてきたし」

『お腹もすいたしね~』


 部屋に案内されて、アネーシャはベッドに飛び乗った。

 しばらくゴロゴロしたあとで食堂へ向かう。


 そこそこいい宿屋だったので、食堂は人で溢れていた。

 先にシアが席を確保してくれていたおかげで、順番待ちせずに座れた。

 

「席とってくれてありがとう。お夕飯何だって?」

「メインは魚料理、パンとスープ、あと野菜のサラダ」


 何の魚かは分からなかったが、身は柔らかで臭みがなく、美味しかった。

 パンはふわふわ、スープはやや辛めの味付けで、食欲が増す。


「それで次の目的地は?」


 シアに訊かれて、アネーシャは膝の上のちょこんと座ったコヤを見下ろす。


「コヤ様、聞こえた? 次の目的地は?」

『ヴァレ山』

「……ヴァレ山って、邪神ドルクが根城にしていた場所だよね」

『そしてあたしたちの愛の巣だった場所』


 色っぽく答えられても、「あ、そうなんだ、ふーん」としか言いようがない。さらに言えば、巡礼の旅というより「月の女神の思い出の地を巡る旅」みたくなっている気がしてならない。


『露骨に興味ないでしょ』


「ヴァレ山は上位種のドラゴンが巣くう、危険な山だ」


 早々に食事を終えたシアが口を挟んだ。


「討伐依頼がない限り、上位ランクのハンターでも近づかない。それでも行くのか?」


 それを聞いて、自分のことより護衛であるシアの身が心配になった。


「今回はやめとく?」

『馬鹿ね、坊やなら大丈夫よ。上位種相手でも十分戦えるって』

「コヤ様って、何げにシアの扱いがひどいよね」


 猛然と抗議するアネーシャを、コヤは軽くあしらう。


『危なくなったら、あたしにお願いすればいいのよ。ドラゴンを倒してくださいって』


 呆れてシアに伝えると、


「いっそのこと、女神の力で地上に居るドラゴンを殲滅させることはできないのか?」


 彼は不思議そうに訊いた。


『できなくもない。けど……」

「けど?」

『神力を使い果たして消滅しちゃうかも』

「コヤ様が?」

『もちろん、アネーシャも道連れ』


 思わず考え込んでしまったアネーシャに、コヤは続ける。


『それにあたしの力は月を供給源にしているから、月も一緒に消えちゃうわね』

 

 それはさすがにまずいと、アネーシャは慌てた。


『で、ヴァレ山、行くの? 行かないの?』


 

 


 ***






 翌日、アネーシャはシアを連れて市場に買い物に出かけた。

 登山に必要な物を買い揃えるつもりだったのだが、

 

「ヴァレ山に登るだぁ? あんた、正気じゃないな」

「寝言は寝て言えってんだ。はい、次の人」

「お嬢さん、あんた、もしかして山登りしたことないのかい?」


 ただでさえ、登山に危険はつきものだ。

 準備不足に体力不足、悪天候による視界不良、落石、少しの油断が命取りとなる。


 ヴァレ山はドラゴンが巣くうだけあって標高が高く、酸素も薄い。山頂は雪で覆われ、人間が生きていける環境ではないという。登頂ルートを確立するためだけに、多くのドラゴンハンターや登山家が犠牲になったと聞いて、アネーシャは断固としてコヤに告げた。


「行くのは登山口までだから」

『えー、あたしたちの愛の巣は山頂付近にあるのにぃ』


 さすがにこれだけは譲れないと、アネーシャはまなじりをつり上げる。


「コヤ様、知ってる? ヴァレ山の登頂に成功した人は、これまで一人だけなんだって」

「英雄と謳われた、最高ランクのドラゴンハンター、エイブラム・グレイソン」


 そう、その人、とシアの補足にこくこくと頷く。


「ドラゴンの心臓をたくさん食べてて、片手でドラゴンの頭を握り潰せるっていうくらい強い人」

「いくら女神の加護があるとはいえ、虚弱体質のアネーシャに登頂は不可能だ」


「……」


『アネーシャ、言われてるけどいいの?』


 気を取り直して、ふうと息を吐く。


「ということで、次の目的地はヴァレ山の登山口ね」

『はいはい、分かりました。そんな怖い顔しなくたって、無理強いはしないわよ』


 





 ***







 買い物から戻ると、宿屋の食堂で昼食を摂りながら地図を広げた。

 サンドイッチを片手に、目的地であるヴァレ山の位置と、そこへ向かう道のりを確認する。


 ヴァレ山の周辺は驚くほど何もなかった。


 とりあえず国内には存在するものの、山を含め、周辺一帯が荒地と化しているらしい。 

 必死に目を凝らして、少し離れた場所に宿場町を見つけるも、


『そこ、何度もドラゴンに襲撃されてるから、ほとんど人がいないわよ』

「ちゃんと営業はしてるんだよね?」


『ええ、寂れてはいるけど、討伐依頼を受けたハンターたちがちらほら来るみたい。あとは上位種を倒して名を挙げようとする肉食系ハンターとか?』


「行っても楽しくなさそう」

『あら、そんなことないわよ。ヴァレ山にはとっても綺麗な宝石の原石がたくさん埋まってるんだから』

「だからドラゴンもたくさんいるわけでしょ?」

『そんなに心配することないって。一番綺麗で大きなやつ、見つけてあげるから』


 多少の不安はあったものの、港街を出発し、南にある宿場町へ向かう道のりを、アネーシャは大いに楽しんでいた。今や、旅の資金が潤沢にあるおかげで、馬車にも乗れるし、必要な物は何でも買えるし、食べたい物は懐具合を気にせずに食べられるしで――ドラゴンを倒してくれたシアに感謝しつつ――満ち足りた日々を送っていた。


「シアはあまり買い物しないよね」

『もともと物欲がないのよ』


 その上、彼は目立つことを嫌う。

 だから顔の傷は治さなくていいと、いつも治療を拒まれてしまうのだが、


「でもその傷、けっこう目立つと思うんだ」


 ある時、気になって指摘すると、シアは困った顔をした。


「隠したほうがいいか?」

「せめて眼帯くらいは付けたほうがいいと思う」


 彼は素直に眼帯を付けた。


 口数は少ないものの、以前より自分に気を許してくれているようだ。

 アネーシャは思わず嬉しくなって、「姉弟みたい」とつぶやく。


『今日はやけにご機嫌ね。どうしたの?』

「なんか私たち、家族みたいだなって思って。コヤ様が優しいお母さんで、シアは頼れる弟、で、私が……」


 悲鳴が聞こえたのはその時だ。


 悪路が続くため、途中から馬車を降りて、徒歩で宿場町へ向かっているところだった。

 反射的にアネーシャが駆け出すと、後ろからシアも追いかけてきた。


 まもなく、ドラゴンに襲われている女性を見つけた。

 頭を抱えて、うずくまるように地面に伏せている。


「やめなさいっ」


 ドラゴンの注意を引こうと、アネーシャが大声を出す。

 それと同時に、シアも動いていた。


 一気に加速してアネーシャを追い越すと、走りながら吹き矢を吹いた。猛毒を仕込んだ針はドラゴンの眼球に命中するものの、ドラゴンはそのまま、逃げるように飛び去ってしまう。


「毒が効かないタイプか」


 シアは言い、悔しそうに舌打ちする。  


「大丈夫ですか?」


 抱き起こした女性は若く、なかなかの美人さんだった。歳はアネーシャと同じくらいか。ドラゴンに襲われたショックで身体は震えているものの、シアの顔を見た途端、震えが止まった。見れば、顔を赤らめている。


「やだ、私ったら……リアムに悪いわ」


 気を取り直して立ち上がると、彼女はアネーシャたちに向かって深々と頭を下げた。


「町長の娘で、エリーと申します。助けていただいて、ありがとうございました」


 彼女を家に送る道すがら、事情を聞いた。


「普段から、一人で出歩くなと父にキツく言われているのですが、リアムのことが心配で……つい」


 リアムというのは、彼女の恋人で、下級ランクのドラゴンハンターらしい。ある時、名を上げるためにふらりと町にやってきて、そのまま住み着いてしまったとのこと。仕事を探していたので、町長が町の用心棒として雇ったそうだ。


 けれど彼はその仕事に満足できず、今朝方、町を出てしまったらしい。


「ヴァレ山に向かったのだと思います」


 エリーは憂鬱そうに続けた。


「リアムはいつも言っていましたから、いつか最強のドラゴンハンターになって、父親を見返してやるのだと」


 それで心配になって、護衛も付けずに家を飛び出してしまったという。

 恋人の後を追いかけようと町を出たところで、ドラゴンに遭遇してしまったそうだ。

 

『なんてロマンチックなの。アネーシャもこういう恋をするのよ、いいわね?』

「はいはい」


 不思議そうなエリーの視線に気づいて、アネーシャは苦笑いを浮かべる。


「私、時々独りごと言っちゃうけど、気にしなくていいから」

「……いや、気になるどころか普通に怖いだろ」

「シアは黙ってて」


 


 

 ***

 

 

  

 エリーを家まで送り届けると、町長である父親にそれはそれは感謝された。あなた方は娘の命の恩人だ、ぜひお礼がしたいと引き止められ、お言葉に甘えて一晩だけお世話になることになった。


 町長の奥さんはエリーによく似た美人さんで、手料理も美味しかった。

 

『道理で、リアムとかいうドラゴンハンターがここに居座るわけだわ』


 その美人親子は食事の最中、シアのほうばかり見ていた。


 眼帯をつけて傷を隠しているおかげだろう。端正な部分がより際立って、二人ともうっとりとシアの顔に見入っている。一方のシアは、一定の距離を保ちつつ、失礼のない態度で接していた。


 珍しく愛想笑いまで浮かべている。


『いつもはブスっとしてるくせに、猫かぶっちゃって』

「そういうこと言うと嫌われるよ」


 小声で窘めつつ、温かな家庭料理に舌鼓を打つ。


「どうです、妻の料理はお口に合いましたか?」

「はいとても。料理上手な奥様ですね」

「それは良かった。ところであなた方はもしや、ギルドから派遣されたハンターの方では?」


 残念ながら違いますとかぶりを振る。


「ただの旅行者です」

「では、観光目的で?」


 怪訝そうな顔をされて、慌ててしまう。


「たまたま通りかかっただけというか……」

「どちらに向かわれているのですか? 安全なルートなら、他にもあると思いますが」


 どうやら警戒されているらしい。

 アネーシャが言葉に詰まっていると、


「できれば隠しておきたかったのですが」


 シアが横から助け舟を出してくれた。


「我々は女神の神託を受けてここに来た、神殿の使いの者です」


 元暗殺者だけあって、演技力まで兼ね備えているらしい。

 聖職者らしく清廉な雰囲気を漂わせながら、重々しい口調で言う。


「な、なんと」

「まあ、まだそんなにお若いのに?」

「すごいっ」


『そうなの? アネーシャ』


 確かに嘘ではないと、アネーシャも同意する。


「神託の内容は極秘扱いなので教えられませんが、ヴァレ山付近を調査するために――」


 結局、シアがうまく誤魔化してくれたおかげで、その場を切り抜けることができた。

 次からはもっと慎重に言葉を選ぼうと反省する。





 ***






 翌朝、再び豪勢な朝食を振舞われ、町長一家に笑顔を見送られながら、彼らの家を後にした。

 けれどしばらく歩くと、アネーシャは跪いて両手を組んだ。


「何をしているんだ?」

『急にどうしたの、アネーシャ』


「お祈りしてるの」


 この町がドラゴンの被害に遭わないよう、熱心に祈りを捧げていると、


『直接あたしにお願いすればいいのに』


 足元に擦り寄ってくるコヤの頭を撫ぜて、立ち上がる。


「気持ちの問題だから。それに巡礼先で祈りを捧げるのは当たり前のことでしょ?」

『ドラゴンの凶暴化も抑えられるしね』

「それ、初めて聞いたんだけど」

『そうだっけ?』


 可愛らしく小首を傾げられて、怒るに怒れない。


「そういえば、昔の聖女はどういう生活を送ってたの?」


『自由に動き回ってたわよ。あちこちで祈りを捧げて、ドラゴンの襲撃から人々を守ったり、流行病を癒したり――けして、あたしの神力を私利私欲のために使ったことはなかったわ。でもこれまでの聖女たちは、あたしの声は聞こえても、姿は見えなかったから……コミュニケーションが取りづらくてね』


 すぐ近くにいるにもかかわらず、少し黙り込んだだけで「女神様がどこかへ行ってしまわれた」だの「天上界に戻られたに違いない」だのと勘違いされ、居た堪れない思いをしたらしい。


 ――コヤ様がお喋りなのはそのせい?


 かくして聖女達は、女神に直接お願いするのではなく、「祈りを捧げる」という手段をとったそうだ。


『正直に言えば回りくどかったわね』

「……厳粛な気持ちになれていいと思うけど」

『アネーシャ、あなたが初めてなのよ。あたしの姿が見える聖女は』


 珍しくコヤの鼻息が荒くなる。

 実はすごいことなのだと力説されても、実感はわかなかった。


 町を出る前に携帯用の食料やら水やらを補充して、目的地であるヴァレ山に向かう。

 登山口までならすぐに到着するかと思いきや、


「なかなか着かないね」

「町からけっこう離れた場所にあるからな」

 

 平坦な道を終えて緩やかな坂道になった途端、歩くペースが一気に落ちた。

 けれど見える景色は一向に変わらず、荒れ果てた土地が広がるばかり。


 山に近づくにつれ、不気味なドラゴンの鳴き声まで聞こえてきた。


「そろそろ引き返そうか」

『アネーシャったら……登山口はすぐそこよ、頑張ってっ』


 とりあえず立ち止まって、アネーシャは再び祈り始めた。聖女の祈りがドラゴンの凶暴化が抑えられると知ってから、こうしてちょくちょくお祈りするようになったのだが、効果のほどは分からない。


『ちゃんと効果はあるって。ほら、あそこを見なさい。ドラゴンと戦ってるハンターがいるでしょ? 今まで押され気味だったけど、アネーシャが祈り始めた途端、勢いづいてきたわよ』


 言われて初めて、遠目に、誰かがドラゴンと戦っているのが見えた。

 ここからだとかなり離れているので、細かいところまでは見えない。


「シア、あそこ。見える?」

「……さっき話してたリアムってハンターかもな」


 シアは興味なさげに視線を向ける。


 それにしても、ずいぶんと強そうなドラゴンを相手にしている。

 威嚇するような唸り声がここまで響いてきた。


「上位種のデッドノアだ」


 漆黒の鱗を持ち、鉄を一瞬で溶かしてしまうほどの高熱の炎を吐くという。

 リアムはCランクのハンターらしいが、勝ち目はあるのかとシアに問う。


「Aランクハンターでさえ手こずる相手だぞ。ありゃ死んだな」


 それは大変よろしくない。

 恋人を失って嘆き悲しむエリーの顔が脳裏を過ぎり、アネーシャは走り出していた。


「またかよっ」

「だって、放っておけないしっ」


 


 

 ***




 

 


『ちょっとアネーシャ、戦いの邪魔しちゃダメよ』

「けどあの人、今にも倒れそうで……」


 実際に近づいて気づいたことだが、ハンターは既に満身創痍で、立っているのが不思議なくらいだった。反撃に転じたのは僅かな間だけで、今や防戦一方を強いられている。


「あいつを助けたいのか?」


 うんとアネーシャが答えると同時に、シアが吹き矢を放つ。

 しかし矢はぶ厚い瞼に弾かれてしまい、ドラゴンの巨体がゆっくりとこちらに向いた。


「俺が囮になる。その隙にあいつを連れて逃げろ」


 シアがドラゴンの注意を引いている隙に、アネーシャはハンターの元へ駆け寄った。

 二十歳前後の、精悍な顔立ちをした青年だった。


「リアムさんですか?」

「そうだが、君は……一体……」

「説明はあとで、とりあえず傷を治しますから」


 わざわざ口に出して願わなくても、体内にコヤの神力が流れ込んでくるのを感じた。

 アネーシャがリアムの身体に両手をかざすと、たちどころに傷は癒えた。


「――信じられない、傷跡すら残っていないなんて……何者なんだ、君は」

「そんなことより、早くここを離れましょう」

「しかし、彼は大丈夫なのか?」


 さすがに上位種ドラゴンが相手で、シアも苦戦しているようだ。

 上位種ともなれば毒にも耐性があるため、ほとんど攻撃が効かないらしい。


『さあ、アネーシャ。こういう時、どうするんだっけ?』

「シアを助けて、コヤ様」

『もちのろんよ』


 次の瞬間、大口を開けて高熱の炎を吐こうとしていたドラゴンの動きが止まった。

 突然白目を剥いて、どんっという地響きと共に倒れてしまう。


『はい、終わり』




 …………

 ……




「本当に俺がこれをもらっていいのか?」


 デッドノアの心臓を手に、シアは信じられないとばかりにアネーシャを見た。


「シアにはいつも助けられてばかりだから」

「俺は女神に雇われている、当然だ」

『けど、あいつまで助けろとは言ってない』


 言いながら、デッドノアの死体を呆然と眺めているリアムを見やる。


『素直じゃないんだから』

「ホント」

「……何か言ったか?」

「その心臓、売るなり食べるなり好きにして」

「じゃあ、食う」


 どうやら、上位種相手に苦戦したことを引きずっていたらしく、彼は迷うことなく心臓を口にした。シアが炎系の能力を手にしたことで、これで火起こしが楽になると、アネーシャはのんきに喜んだ。


 リアムにエリーが心配していることを伝え、彼が町へ引き返すのを見届けてから、アネーシャたちは再び歩き出した。それから一時間ほど歩いて登山口に着くと、さすがにくたびれ果て、その場に座り込んでしまう。


 シアは付近を散策したいからと行って、少し離れた場所に立っていた。


「ようやく着いた」

『ほら見て、アネーシャ。ここに綺麗な石が埋まってる』


 掘り起こすと、赤い大ぶりの原石が現れる。


『これで首飾りを作ればいいわ』

「すごく綺麗。ありがとう、コヤ様」


 でも、これ何の石なの?


『ドルクの涙が結晶化したものよ。文字通り、血の涙ってやつ』


 へぇと言いながら、アネーシャは原石をそっと土の中に戻した。


『ちょっと、ドラゴンの心臓並みに価値があるんだからねっ』

「ふーん、そうなんだ」

『アネーシャが冷たいっ』

「そんなことないよ」


 言いながら、アネーシャは先ほどのリアムとのやりとりを思い出していた。


 助けてもらった恩は忘れない、しかしこの件はギルドに報告しなければならないと、興奮を隠しきれない様子で彼は言った。もう完全に、アネーシャたちのことを二人組のドラゴンハンターだと思い込んでいる口ぶりだった。


 ――面倒なことにならなければいいけど。


「それで次はどこを目指すんだ?」


 戻ってきたシアが言い、


「できれば景色の綺麗なところがいいな」


 とアネーシャも希望を口にする。


『次はねぇ……』


 コヤの声に耳を傾けながら、アネーシャは胸を高鳴らせる。

 楽しい旅は、まだ始まったばかりだ。





<了>




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― 新着の感想 ―
[良い点] とても面白かった。 [気になる点] 3人の旅の続きがとても気になる。 [一言] 短編…でなくなることを願います。
[良い点] 単純に面白かった [気になる点] 完結してない
[良い点] キャラクターがしっかり立っていて、会話部分もポンポン進み、長さ的にはそこそこありましたが飽きる事なく楽しく読ませて頂きました! ジャンル恋愛は妥当だと感じました。コヤ様恋愛話でも充分かな…
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