外伝03 ディエップ強襲作戦(後編)
さて、それではジュビリー作戦の全容を概観しておこう。
Headlandという英単語がある。「枕地」と訳すものらしい。海に向かって突き出した丘のことである。ディエップは北向きに英仏海峡へ注ぐアルク川河口が港になっていて、その西側に砂浜があるのだが、港と砂浜を東西の枕地が挟み込んでいる。
防備の中心は第302歩兵師団である。基礎訓練を終えた兵士を受け入れて、しばらく現役兵士としての訓練を積ませてから、若い元気な兵士は東部戦線に送り出す。そういう立ち位置の部隊である。ディエップ周辺を警備しているのはその第571歩兵連隊を中心とする部隊で、連隊本部は西側の枕地にある。東側の枕地の守りは西側ほどではないが、有力な砲兵陣地がある。
東西の枕地のさらに外側にある砲兵陣地も、ディエップに上がる船団にとって潜在的な脅威だから、上陸部隊は大きく5つに分かれることになった。東端と西端は、それぞれコマンド部隊がひとつずつ揚がって、砲台をひとつずつつぶす。東の枕地には外側から1個大隊が上がって、やはり枕地の砲台を無力化する。西の枕地から内陸部に行くと空軍の使う飛行場があり、当時のイギリス軍情報では第302歩兵師団司令部もそのあたりにあるとされていた(実際にはずっと東に移転したばかりだった)。だから西の枕地外側から2個大隊が上がり、あわよくば師団司令部を襲って書類を奪い、飛行場にあるはずのレーダーがあったら部品を抜くなり技術者をさらうなり情報を取る。そして本命のディエップ正面から、予備を含めて3個大隊と戦車大隊が上がり、市内を制圧して西の枕地組と合流し、その日のうちにディエップ海岸から逃げる(東西のコマンドと、東の枕地組もそれぞれの上陸地点から逃げる)。これがだいたいのアウトラインである。
第571歩兵連隊は1500人ほどの規模であり、イギリス軍はドイツ軍守備隊の規模を「1200人程度」と見積もっていたから、それほど大きく予測を外してはいなかった。ただし第302歩兵師団は、内陸部に4000人とも6000人とも伝えられる予備を後置していた。なにしろ師団全体が教育部隊のようなものだから、この予備がいきなり出動命令をかけられて、どれくらいが即戦力になったかは分からない。その一部は海岸に行きついてイギリス軍と戦うことになったが、どうやら史実では彼らの大半が到着する前に海岸の大勢が決したようである。アミアンの第10装甲師団も出動を命じられたが、こちらはまったく間に合わなかった。東部戦線から帰ってきて補充すら十分ではなく、まともなタイヤがないとか燃料がないとか、ディエップへ行けと言われたが師団司令部にディエップ周辺の地図がないとか、戦闘以前に移動が困難であったようだが、彼らはディエップの戦場で試されることなく終わった。
第571歩兵連隊は50ほどの小部隊に分かれ、広い担当地域に散らばっていた。1500人を30人ずつに分けたとは思えない。連隊本部のある西の枕地には連隊予備も含めて多くが集中していたであろうし、いくつかの要地は中隊で守っていた。拠点でないところを、分隊サイズの小部隊がうろうろ哨戒していたと思われる。「どこからともなく、長時間にわたってしつこい狙撃を受けた」といったイギリス軍生存者の回想がいくつかある。
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午前2時32分、ドイツ側で船団の動きを最初にとらえたのは、空軍のフレイヤ早期警戒レーダーであったらしい。当初は「通常と違う反応がある」以上のものではなかったが、1時間ほど経つと「5つほどの列をなした上陸船団らしきもの」に見えてきた。空軍は地域の海軍司令部に報告した。付近を航行するドイツ側艦船を把握しているのは海軍だから、海軍が号令しないと沿岸砲台は「敵船舶らしきもの」を撃たない。
だが理由は定かでないが、シェルブールのノルマンディー方面海軍司令部は連絡を受けても警戒命令を出さなかった。次に書くように、すでに上陸船団とドイツ輸送船団の小競り合いが起き、ドイツ側はそれを輸送船団襲撃と誤認していたので、「ああ、それか」と思い込んでしまったのかもしれない。レーダーを管理していた中隊長のウェーバー空軍中尉は、それを聞くと勇をふるって、第302歩兵師団司令部の作戦主任参謀、サートリウス中佐に電話した。事情を聴いたサートリウスは、「より一層警戒する」よう師団に命じると返事をした。午前4時過ぎになっていた。
職を持っている皆さんは、そのあと何が起きたかありありとイメージできるであろうし、学生の皆さんの多くも似たような経験があって見当はつくであろう。この世は「より一層注意する/努力する/配慮する」ことに満ちている。路線バスの車内掲示板に運転手名とともに「今月の目標:私は安全運転をします」と書いてあったとしても、それはその運転手が先月まで乱暴運転をしていて、今月泣いて悔い改めてアメージング・グレイスを口ずさみながら勤務しているという意味ではない。西部戦線の兵士たちは、上陸を警戒せよとの総統命令を踏まえて、ルントシュテットや軍司令官や軍団長や師団長が踏み絵のように発した熱血訓示を読まされ、聞かされていた。結果的には何も起きなかった警報を受けて、「寝てはいけない夜」を過ごすこともよくあったし、朝になったら寝られるとも限らなかった。
この一件は、戦後にウェーバーが明らかにして知られるようになったが、結局当夜にサートリウスが何を指示したのか、あるいはウェーバーに電話口で約束しただけで何もしなかったのか、陸軍側の記録は何も見つかっていないようである。仮にサートリウスが「より一層警戒する」指示を出し、下僚たちがそれを真摯に伝達したのだとしても、それは毎日の(あれもこれも不足した中での)誠実な職務執行をその日も続ける結果にしかならなかっただろう。何もしないわけにいかないと思った士官は、海岸を指さして「Gut」くらいは言ったかもしれない。
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5つ(細かく言えば、2個大隊が同時上陸するディエップ正面はふたつのコード名を持っていたので6つ)の上陸地点のうち、いちばん東を担当する第3コマンド部隊は、途中まで大型のLSI(歩兵揚陸艦)に送ってもらったりせず、イギリス本土から快速艇24隻に分乗していた。
派手な戦場ではないので知られていないが、ブレストやロリアンのUボート基地への建設資材などを載せて、ドイツ側の沿岸輸送船団はよく英仏海峡を夜間に行き来しており、イギリス側の魚雷艇に襲撃されてもいた。そうした西行き船団のひとつが護衛艦艇を伴ってブーローニュ港を発って中継港のディエップに向かう途中、第3コマンド部隊の船団と遭遇してしまったのである。3時47分、ドイツ護衛艦艇が照明弾を撃ち、砲撃戦になった。この照明弾は敵艦の影を浮かび上がらせる程度の明るさで、砲のない小艇が多数浮いていることにドイツ側は気づかなかった。
船団の接近はイギリス本土のレーダーで察知され、2回にわたり司令駆逐艦カルペあてに打電されていたが、どちらも受信できなかったとする説明が比較的古い本には載っている。しかしここで探知された船団は別のものであったとも言われる。イギリス軍の水上探知レーダーも、このころの信頼性はあまり高くなかった。
短く激しい撃ち合いのあと、わずかな護衛小艦艇しかいなかったドイツ輸送船団は退いたが、多くの舟艇が死傷者を抱え、沈まないまでも損傷を受けた。指揮官たちは(イエロービーチ分の)上陸中止を司令駆逐艦カルペに上申しようとした。この部隊は多くの小艇から成っていたから、現場で命令を変更するにも時間がかかった。半分以上の部隊は中止命令を受け取って従ったが、独自の判断をしたフネもいた。
その最たるものは、現地で支援に当たる予定だったモーターランチ、ML346である。前年に就役したばかりだったが、排水量85トン、主武装は47mm(3ポンド)砲1門だった。それを指揮するフィアー海軍大尉は、周囲に散らばる小艇に向かって、「動けるフネはついてこい」と叫んで回った。
第3コマンド部隊はディエップの東、イギリス軍が「ゲッベルス砲台」と名づけた陣地を攻略する予定だった。ML346は陣地の東側への上陸を支援する予定だったから、応じただけの小艇をそこへ連れて行った。ベルヌヴァル村付近の海岸である。結局、5隻の小艇が上陸を敢行し、ML346は3ポンド砲が届く限り支援した。上陸したのは119名であった。
先のことまで書いてしまうと、この部隊はあちこちにいた小規模なドイツ軍部隊を制圧できたが、海戦の混乱から、上陸を開始したのが予定より遅かった。だから第302歩兵師団がディエップ市への正面上陸を受けて総出動するのが、間に合ってしまった。このころのドイツ歩兵師団は、自転車中隊(偵察部隊)と対戦車中隊1~2個を合わせて「快速大隊」を作っているものが多かったのだが、第302快速大隊長に指揮された自転車兵、歩兵、工兵の計3個中隊が出動してきて第3コマンド部隊に襲い掛かったのである。これらの部隊と交戦して海岸への道をふさがれ、進むことも退くこともできないコマンド部隊を、小艇群は置き去りにして去るほかなかった。泳いで船までたどり着いたたったひとりを除いて、すべてのコマンド兵士は死ぬか捕虜になった。
「ゲッベルス砲台」の西側に上陸を予定していた部隊のうち、たった1隻だけが上陸に成功し、もちろん陣地突入など望めないから、20人の兵士たちは精一杯の牽制射撃を行って、無事に引き上げた。「ゲッベルス砲台」の7門の砲による舟艇や上陸部隊への戦果は報告されず、それはこの小部隊の功績であったかもしれない。小艇を指揮した海軍大尉と、コマンドを指揮した陸軍少佐は殊勲十字章(DSC)を受けた。なおフィアーもこの戦いの後、同じ勲章を受けてML346の艇長を続け、1944年にはオマハ・ビーチで戦った。フィアーがRNVR(海軍志願予備員)士官でなかったら、叙勲とともにもっと大きな舟艇に転任していたのではないか……というのは皮肉すぎる見方かもしれない。
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西端の「ヘス」砲台無力化を任務とする第4コマンド部隊は、第3コマンド部隊より少し大型の快速艇7隻に分かれ、海岸にとどまる海軍要員を含めて約250名をオレンジビーチに上陸させた。結果的にこの部隊だけが目的を達成し無事に帰還するのだが、その第一の要因は明らかに「予定通りの時間に上陸」できたことである。気付かれて照明弾も撃たれているのだが、それはまだ暗いうちに危険な海岸を通過した印でもある。
もうひとつの要因は、「陸上の守りが薄かった」ことである。イエロービーチはそれ以前の問題であるとして、他の上陸地点では直後は無事でも、迫撃砲までしか持っていない上陸部隊は、次第に撃ち合いから火力負けに陥った。ここでは上陸部隊が正面牽制組と回り込み突撃組に分かれて、それぞれ半個中隊くらいの規模で前進したのに、それを食い止められるドイツ軍がおらず、砲兵陣地への接近を許した。その理由ははっきりしないが、「予定通りの時間に上陸」したために固く構築された陣地網の射界から抜け出し、陣地を頼れないドイツ軍と有利に戦えたことは大きかったであろう。すでにドイツ軍新兵はドイツ系占領地住民や、強制収容所(多くのポーランド軍捕虜はいったん解放された後、抵抗運動の芽を摘むように少しずつ再逮捕されて強制収容所に入れられた)から「志願者」としてやってきた普通のポーランド人が多く混じっており、上官の目があるところでは優秀な兵士だが、イギリス軍との白兵戦になるととたんに降伏の機会をうかがう……という傾向があった。
この陣地は少し西にある灯台にいる海軍の観測隊から指揮を受けていて、ディエップ港沖合ではなく、海峡のもっと西の方を狙う砲台だった。だからディエップを守る第571歩兵連隊がここをやや手薄にしていたというのも、ありそうな話である。
明らかな幸運もあった。ドイツ軍の砲兵中隊には専任の軽機関銃手がいて、コマンド部隊程度の火力では短時間で排除できる相手ではない。だが持ち込んだ迫撃砲の一弾が、集積された弾薬に落ちて誘爆させた。砲兵たちは逃げ散り、コマンド部隊は砲身の中に爆薬を仕掛けてラッパのように引き裂き、さっさと上陸地点から撤退した。
死傷・捕虜・行方不明を合わせた人的損失は、イギリス軍が45、ドイツ軍が65であった。当時の報告ではイギリス軍コマンド部隊はもう少し圧倒的に勝ったつもりでおり、そのように報道された。だがコマンド部隊は不利な状況で限定的な目的を果たすものであり、それが果たされたことは疑いない。
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ディエップ東の枕地にある「ロンメル」砲台に市外のブルービーチから攻め上り、制圧する任務は、ロイヤル・カナダ連隊(が派出した1個大隊)が担当した。この部隊はディエップでは最も手ひどく損害を受け、参加した556名のうち、その日に生還できた者は65名であった。その65名のうち半数近くは、ある舟艇を指揮する海軍士官が独断で揚陸を打ち切って助かったもので、いったん舟艇を降りた者に限ると損害比はもっと悪くなる。ただし捕虜収容所を経て戦後に帰還した参加者は262名いた。
悲劇はもっぱら海岸で起きた。そしてその理由ははっきりしていた。いろいろな要因で海岸への接近がもたつき、すっかり朝日が差してからの上陸となってしまったのである。敵艦船「らしきもの」ではない。舟艇のランプ(歩板)が開き、イギリス軍服を着た銃兵が飛び出してくる。砲座も機関銃座も、命令を待たず発砲した。
イギリス軍は懸命に海岸を内陸から隔てる鉄条網を爆破し、崖を登った。だが時間が経つと、イギリス兵の被弾が一方的に増えて行った。イギリス軍の記録では第一陣の上陸が5時7分だったが、海岸での抵抗は8時半には止んでいた。
この持ち場には、第571歩兵連隊第3大隊長のシュネーセンベルク大尉がいた。この戦いで、部下に「警戒」をあらかじめ命じていたことがはっきりしている唯一の指揮官である。だが彼は上から何の注意喚起も、ましてレーダー情報も受け取ったわけではない。ドイツ輸送船団とイエロービーチ上陸隊が交戦し、「沖合が何だか騒がしい」ので厳戒を命じていたのであった。ただこれも警戒であって戦闘配置(Gefechtsbereitschaft)ではなかったので、普段とどれくらい違っていたかは、わからない。
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グリーンビーチは、西の枕地の外側にある上陸地点である。Scie川の河口であって、橋を取るのも重要だから河口の両側に少しずつ上陸する予定だった。まず南サスカチュワン連隊が枕地に取り付いて制圧を目指し、次いでキャメロン・ハイランダーズ連隊は内陸の飛行場や師団司令部を襲う計画だった。
時間通り夜明け直前に上陸できたので、序盤の展開は順調だった。だがやはり河口の橋はドイツ軍の守りが固くて取れなかったし、河口の東側に上がる予定の舟艇がほとんど西側に着いてしまい、奪取に手間取った。南サスカチュワン連隊のメリット中佐がヒーローポイントを消費して部下たちの先頭に立ち、ようやく橋を奪取した。メリットは無傷なのに、後を続く部下たちは次々とドイツの銃弾に倒れたという。
だが西の枕地は連隊本部所在地だけあって、そこからがまた膠着した。キャメロン・ハイランダーズ連隊が「シ川を渡れる地点」を探して内陸に進んだが、第571歩兵連隊のわずかな連隊予備が先回りして交戦し、時間を稼いだ。
時間が経つごとに位置を知られて奇襲要素がなくなったうえ、イギリス軍は火力の劣勢をどうすることもできずじりじりと危機が深まった。上陸させた海軍の無線機が生きていて、8時46分、現地から司令駆逐艦カルペのロバーツ少将にあてて、負傷者後送のために舟艇を砂浜に戻してほしいと要請があった。舟艇が応じようとしたが撃たれ放題であり、メリット中佐が最前線に行ったままなのも海岸での指揮を難しくした。海岸に近い部隊だけ先に乗船して後退支援が足りなくなったり、無秩序に兵士が群がった舟艇が重みで沈没したり、苦みのある戦闘が続いた末、ディエップ正面と同じタイミングの11時前後から全面撤収が行われた。
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ディエップ正面はレッドビーチ、ホワイトビーチという暗号名がついており、それぞれエセックス・スコティッシュ連隊とロイヤル・ハミルトン軽歩兵連隊がまず陸に上がった。計画では、この上陸地点は夜明け以後、他の上陸部隊が砲台をつぶしてから上陸することになっていた。
ここでも、沿岸砲台は上陸船団を直接目で見て、上級司令部の命令を待たず発砲した。ドイツ軍の迫撃砲群はあらかじめ散布界がみっしりつながるよう調整してあり、イギリス軍には見えない位置から濃密な砲撃が兵士たちを襲った。砲座がコンクリートで固められていたり、しっかり掘り下げて土嚢を高く積んでいたりすると、イギリス戦闘機の掃射ではダメージを与えられなかった。イギリス駆逐艦も計画通りに砲撃をしたが、ドイツの射撃を沈黙させるには全く足りなかった。
平時のディエップは海岸の保養地であり、海岸から見て街の入り口になる位置にはカジノのビルがあった。イギリス軍から見て利用状況は不明だったが、実態は攻撃目標になるに決まっているので「空き家」であり、それに隣接してコンクリート陣地が作ってあった。
ルノー軽戦車の砲塔がひとつ、ドイツの固定陣地に据え付けられていた。この戦車の37mm砲は、ピュトー砲と呼ばれる第1次大戦期の歩兵支援砲だが、身を隠すものもなく走るしかないイギリス兵士たちにとっては悪魔の発明品だった。イギリス兵は少しずつドイツ陣地を無力化し、この砲塔も最後には制圧されたが、代償は大きかった。
ドイツの小銃手たちは抜け目がなく、士官と通信機を持つ兵を最優先で狙ったから、司令駆逐艦との連絡も、上陸部隊内部の連絡も不安定になった。それでも、「早く戦車の揚陸を」という海岸からの要請は届いた。作戦に参加する第14戦車連隊(カルガリー連隊)もカナダ軍だった。
ブルービーチからつぶしておくはずだった東の枕地の砲台は、海岸を撃てるいい位置にあった。午前5時35分ごろからLCT(戦車揚陸艇)がランプを開いてチャーチル戦車を下ろし始めたが、どちらもよい的になり、まだ乾いた大地を踏む前に撃破される戦車が続出した。海岸の砂利も、チャーチル戦車のキャタピラに詰まり、動きを止めた。LCTのうち1隻は、艇首のランプごと2両目の戦車を撃破され、1両を内部に残したまま撤退した。10隻のLCTが運んだ30両のチャーチル戦車は、1両がこうして外に出られず、2両が水没し、12両が乾いた大地に行きつく前に被弾したり、砂利のせいで動けなくなったり、キャタピラが外れたりした。残った15両は、歩兵たちの進撃路を切り開いてくれるはずだった。
だが、ドイツの小銃手たちが士官と通信機を持つ兵を狙い撃ったことはすでに述べた。服装や持ち物で特別なところがあれば、銃弾が集中するのである。そうだとすると、爆薬を背負ったり手に下げたりした工兵たちは、どういう運命をたどるであろうか。
海岸から市街への道を障害物でふさいであることは、イギリス軍もわかっていた。だから戦車とともに、300人近い工兵が上陸してきて、その多くが爆発物を持っていた。ドイツ軍の銃火は、そうした兵士に集中し、周囲を巻き込んで火だるまにした。そしてチャーチル戦車は、海岸から出られなくなった。
チャーチルは、大戦が不可避と考えられたころに開発された最新の歩兵戦車である。騎兵の機械化のために戦車兵総監部(tank corps)とは別に機械化総監部(armored corps)が作られた後、後者は速度を重視した巡航戦車を配備し、前者は(航空機の発達で「後方司令部を一突き」のフラードクトリンに現実味が薄れたので)歩兵支援を重視して、防御力に優れ低速な歩兵戦車を持つことになった。戦間期に開発されたマチルダII歩兵戦車が27トンであったのに対し、予算のことばかり言っておれなくなった時期のチャーチルは40トン近い重量があり、エンジン馬力もほぼ2倍あった。第1次大戦のような砲弾穴ででこぼこの戦場で戦えるよう、車体は長かった。だが砂浜と、背の高い障害物を克服するには助けが必要で、目の前でそれは失われた。
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午前7時にルントシュテットはフランス全土の指揮下部隊に宛ててディエップの現状を伝え、警戒を命じた。すでに上陸があった地点では最低1時間半、長いところでは2時間の戦闘が続いていた。もちろん様々なルートで上がってくる報告を整合的にまとめるのに時間がかかるのは当然である。しかしなお、ルントシュテットは第302歩兵師団以外を動かすのを少しだけ待った。第10装甲師団は「午前9時に先遣部隊を出発させよ」と命じられたというから、遅れたと言っても1時間以内のことであろうが。
ルントシュテットは、考えてみれば当然のことだが、それほど荷揚げ能力の高くないディエップ港が襲われたことを、別の場所に本命の上陸をかけるための陽動ではないかと疑った。そしてヒトラーは危機感をあおるだけではなくて、東部戦線の犠牲の上にだが、相当な戦力をD軍集団/西方軍の管内に残していた。最初に報告された規模の上陸作戦であれば、少々手配りが遅れても押しつぶせるはずだった。第10装甲師団と前後して、パリ近郊で再編中だった戦闘親衛隊のLAH師団に出動命令が出たが、こちらもすぐには現場に着かなかった。
ゲーム「艦隊これくしょん」で日本海軍旧式駆逐艦の装備といえば12cm単装砲だが、イギリス海軍は大戦直前に急いで量産したハント級駆逐艦に4インチ(102mm)砲を乗せており、それ以上の火力がある艦艇をこの作戦に参加させなかった。イギリス空軍は双発爆撃機をいくらか送ったが、軽快でも重武装でもないボストン爆撃機などだったから、上陸海岸に煙幕を張る仕事にもっぱら使われた。そして直接攻撃は、爆弾や機関砲で地上を攻撃する戦闘機と、それを護衛する戦闘機に担われた。
出動したイギリス空軍67個飛行隊のうち48個が足の短いスピットファイアで、最も極端な例ではフランスでの戦闘可能時間がわずか5分だった。爆装戦闘機は敢闘したが、ドイツ軍の固い陣地にはあまりダメージが出なかった。
すでに少し触れたように、多くの読者になじみ深いマーリンエンジン搭載型P-51ムスタングはテストに入るところだった。アリソンエンジンを積んだ偵察任務のムスタングは、奥地で増援を見つけようと危険を冒したが、第302歩兵師団以外からのドイツ軍の増援は動きが遅く、成果はなかった。見慣れないムスタングは友軍からも撃たれ、損害は10機に達した。敵味方の交錯する空に海軍の対空砲要員は慣れておらず、他のイギリス機も誤射が相次いだ。
ドイツ戦闘機にだいぶ遅れて、午前様の空中勤務者を起こして集め終わったドイツ爆撃機も現れた。イギリス側の回想では、黒く塗った夜間爆撃機も出動していた。貴重なDo217の損失も記録されているので、この黒い爆撃機はそれかもしれない。Fw190も爆装して参戦した。イギリス空軍は精一杯戦闘機を出し、パイロットは帰って給油中に食事をしてまた空に向かった。
おそらく故意のことではないが、イギリスは成果を誇張して記憶し、当日のせめてもの明るい話として報道した。21日、トロント・グローブ・アンド・メールス紙は「連合軍機独軍280機を撃墜」と報じて、後世の目から見れば盛大にはずした。実際にはアメリカ空軍のアベヴィル爆撃による地上撃破を含め、ドイツ空軍は機体喪失48、損傷24にとどまった。対空砲・電探要員を含めドイツ空軍は死者104、負傷58であったから、機体の損害に見合った小さな数字である。ドイツ軍の撃墜記録は112(イギリス軍の喪失は108)と後世から見てもかなり正確な評価であった。
おそらくイギリスの要人たちは、程度は定かではないが、実際の空での損害比は報告の集計値ほど有利でなかったことに気づいていたであろう。イギリス戦闘機部隊を使って、「空の第二戦線」としてドイツ空軍に空戦を強いる大規模な試みは、先延ばしされることになった。1942年5月にはケルン1000機爆撃があったが、イギリスは夜間戦略爆撃に大きな期待をかけて試行錯誤を続けることになったし、アメリカもちょうど1942年8月を皮切りにB17戦略爆撃機をイギリスから飛ばし始め、自分自身の経験と出血を積み上げていった。
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カジノのビルと、その横にあったコンクリート陣地は、陰気な掃討戦の末にイギリス軍が制圧した。ごく少数の戦車も、爆破しなくても乗り越えられる障害物の低い部分を見つけ、砂浜を出てカジノ付近の戦闘に加わった。道には多くの銃口が向いているから、窓を破ってひとつひとつの建物を取り合う繰り返しになった。やはり東の枕地からの砲撃は脅威だったが、煙幕である程度対抗できた。
間断なく出血が続いて、現地にいる者の見通しは午前8時ごろにはかなり暗く傾いていたが、通信兵の相次ぐ死傷と通信機ハードの不調で、司令駆逐艦カルペには現況がさっぱり伝わらなかった。「カジノのビルを取って市内突入を開始」という短い連絡がかろうじて伝わったが、形勢を判断するには細切れすぎる情報だった。だがイギリスが抱えていた無理な立場を体現する作戦指揮官として、ロバーツは弱気な態度を見せられなかったし、イギリスに敢然と現実を突きつける役目を後世の視点から押し付けるのは酷というものだろう。
洋上に待機していたフュージリア・モントロイヤル連隊に続いて、午前8時17分、ロバーツは最後の増援、ロイヤル・マリーン・コマンドの第40コマンド部隊にも上陸開始を命じた。ブルービーチの失敗はすでに伝えられており、ロバーツは第40コマンド部隊に、ホワイトビーチから反時計回りに市街を回り込んで、ブルービーチから叩くはずだった東の砲台を攻撃するよう命じた。だが海岸現地での弾幕は、上陸後のことを考えられるものではなかった。
第40コマンド部隊先頭のモーターランチに乗っていた部隊長のフィリップス大佐は、手振りで後続舟艇に引き返すよう命じ、自分はそのまま戦死した。
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海岸には、ロバーツの代理人である上陸責任者(principal military landing officer)のマックール少佐が送り込まれていたが、通信手段が次々に失われるので苦心していた。戦車揚陸とともに、数両のスカウトカーも上陸していたが、マックールは遺棄されたスカウトカーの生きている無線機をやっと見つけて、駆逐艦と交信できた。しかし短時間のうちに、そのスカウトカーごと無線機は破壊された。
午前9時には、こうした様々な努力で悲痛なメッセージが積み重なり、戦況は明らかになっていた。ロバーツはついに「彼らを呼び戻せ(Bring them home)」と命じた。11時を期して、海岸からの撤収作戦を行うと決まった。
だがまだ悲劇の上乗せがあった。一部の舟艇は「11時に撤収作戦」を「11時に現在地から本土に向かえ」と解釈して実行し、海岸での船腹不足をもたらしたのである。別の舟艇群は、問い合わせへの回答として「これ以上の受け入れが不可能な舟艇は沖合に待機せよ」という指示が出たのを「すぐ本土に戻れ」と解釈し帰ってしまった。
撤収作業中、敵を食い止める役目を誰かがやらねばならなかったし、沈んだり帰ったりした舟艇の分のキャパシティはなかった。海岸に降伏するしかない多くの兵を残し、撤収作戦は14時頃終了した。死傷・不明・捕虜を合計するとカナダ軍の損失は5000人を超え、兵営では慰労のための心づくしの食事が大量に余った。
イギリスは戦果を喧伝する一方、数十日後にはカナダ軍の死者名簿を正直に公開し、カナダやアメリカの市民に衝撃を与えた。
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死傷者たちと捕虜たちにとっては、ろくでもない作戦と言うしかない。だがそれによって連合軍は教訓を得た。ここにそのいくつかを書き並べておこう。
機雷と小艦艇が待つ英仏海峡は、1942年にもドイツ潜水艦が突入を控えたが、1944年にもそうだった。大西洋やインド洋での状況好転もあり、1944年の英仏海峡には戦艦や巡洋艦がひしめき、ノルマンディーの海岸へ艦砲射撃を浴びせた。
1942年から1944年までの間に、連合軍側の戦術空軍は多くの新機体と、対地ロケット弾のような固定陣地への対抗手段を加えた。1944年初頭から可能になった、電波誘導による夜間精密爆撃もこれに加えてよいだろう。
1944年には、イギリス軍は上陸地点をカレーだとか南フランスだとか欺瞞する作戦を熱心に推進した。ただ1942年と同じように、ドイツ軍は雑多な情報をスクリーニングする組織的なシステムを欠いており、上陸地点について何の確信も持つことはなかった。いっぽうイギリス本土へのドイツ偵察機の侵入は、1942年よりもはるかに徹底的に封じられ、「第二次大規模上陸があるかもしれない」懸念は迅速なドイツ軍の部隊移動を妨げた。
装甲車両がめり込んだり滑ったりする柔らかい地面への対策として、チャーチル戦闘工兵車(AVRE)が布や木のマットを敷くアタッチメントが用意され、オーバーロード作戦以降に活躍した。
イギリス連邦においては、「カナダは長男、オーストラリアは次男、ニュージーランドは三男」と言われることがあった。カナダは黙々と責任・負担に耐え、オーストラリアは敢然と異議を唱え、ニュージーランドはかわいがられる末っ子のように重い負担を免れがちだという評である。だがディエップでの重い犠牲は、カナダとイギリスの関係を変えたという人もいる。