外伝03 ディエップ強襲作戦(前編)
おことわり
この作戦に参加している陸軍部隊はほとんどがカナダ第2歩兵師団に属しています。「イギリス軍」という表現を文中で多用しますが、実際にはイギリス連邦軍ですのでご容赦ください。第2歩兵師団所属ではないがカナダ軍ではある戦車大隊と、イギリス軍のコマンド部隊が共に戦いました。
イギリス連邦軍は王の常備軍を否定するマグナ=カルタ以来の経緯で、「国王の歩兵旅団に、貴族諸侯の管理する歩兵連隊から大隊が派出される」形式を基礎に置いていて(結局King's Ownとか、王族の連隊も多いので形骸化)、歩兵連隊や騎兵連隊は募兵組織です。それぞれの大隊は、よく派出元の連隊の名前で呼ばれますし、同一旅団に2個大隊は出さないのでそれで通じます。文中で連隊名が出てきたら、それは実際には大隊のことを指しますし、典型的には中佐か少佐に指揮されています。同様に、歩兵旅団は他国の歩兵連隊に準じて、典型的には大佐が指揮しています。
--------
ディエップ強襲作戦の物語は、ルイス・マウントバッテンの話から始めたい。だがこの一家は欧州史に深く食い込んでいるので、その一族のことから語り始めた方がいいだろう。
バッテンベルク家はドイツのヘッセン大公国を治める家である。ルイス・マウントバッテンの祖父は当主の三男坊という立場であり、当初ロシア帝国軍に属して騎兵となった。皇帝ニコライ1世に気に入られ、皇族を嫁がせようかと思っていたところへ別の娘と仲良くなって駆け落ち婚をやらかし、オーストリア軍に拾われ大将まで進んだ。1866年の普墺戦争ではオーストリア陸軍から送り込まれて、故国ヘッセン大公国を含む連合軍団長を務めたが肝心のオーストリア軍が大敗して、功名どころではなかった。
駆け落ち相手の女性、ルイス・マウントバッテンの父方祖母には爵位がなかった。貴賎結婚として子孫にヘッセン大公家の継承権はないものとされたが、当初は女伯爵、やがてバッテンベルク女公爵の爵位が与えられた。
ルイス・マウントバッテンの父は祖母の公爵位を継ぐことができたが、イギリス海軍で軍務につき、出世して第一海軍卿(海軍参謀総長に相当する)になった。不運なことに、その直後に第1次大戦が起きた。ドイツと戦うイギリス海軍のトップがフォン・バッテンベルクではどうにもならない。海軍を辞職し、バッテンベルク(トイツ語でベルクは山)をマウントバッテンに改姓するしかなかったが、資産の多くを大陸に残していたから困ったことになった。イギリス王室もヘッセンの爵位を名乗りづらくなった当主のために、ミルフォード・ヘイブン侯爵家を創設してくれたが、この爵位はルイス・マウントバッテンの兄が継ぐことになった。
ルイス・マウントバッテンには15才年上の姉がいて、ギリシアの王族に嫁いだのだが、その息子がイギリスで結婚してエジンバラ公爵フィリップとなった。だから第2次大戦が終わるとルイス・マウントバッテンは女王の義理の叔父になってしまったのだが、これも後の話である。
ルイス・マウントバッテン大佐は1941年夏までは駆逐隊司令だった。勇戦していたのだが、1941年10月にマウントバッテンを共同作戦司令部COHQの司令官に任じたのは大抜擢で、血筋の良さへのチャーチルの期待が入っていたかもしれない。
COHQの名称は、上陸作戦を中心とする陸海空共同作戦を研究・指揮するところから来ている。その副次的な任務として、そうした個別の襲撃任務に役立ちそうな最新技術の評価があり、そのためには若いマウントバッテンの方が、1872年生まれの前任者、キース海軍元帥より適任だったであろう。ノルウェーに上陸しながらドイツ軍に競り負け、クレタ島では守る立場で押し切られ、陸海空統合作戦の黒星もかさんでいたから、キースへの批判もあった。
ミリタリーファンは参加著名部隊や参加車両・兵器といったキーで戦史を整理しがちだから、人だけで実施する小規模襲撃作戦に関心を持ちにくい。じつはキース元帥が司令官をしていた時期から、ノルウェーやフランスの海岸に大小の襲撃が試みられ、施設を破壊したり、ドイツ軍の捕虜を取ったり(ついでに周囲にいた民間人に自由ノルウェー軍への勧誘をしたり)していた。
そしてマウントバッテン時代になってからも、重要な成功がいくつかあった。1942年2月、北フランスのサン=ジュワン=ブルヌヴァルをジョン・フロスト少佐(当時)の落下傘中隊が襲い、ドイツ軍最新のヴュルツブルク防空レーダーから重要部品をいくつか抜き取り、捕まえた技術者とともに脱出した。3月にはやはりフランスのサン・ナゼール港で、大型艦船を修理できる貴重なドックに旧式駆逐艦キャンベルタウンを突っ込ませ、艦に仕掛けた爆薬と便乗したコマンド部隊の働きでドックを破壊する「チャリオット」作戦が敢行され、多くの犠牲を出したものの目的は達した。
これらを背景として、マウントバッテンは一時的階級として海軍中将に進み、名誉陸軍中将と名誉空軍中将にも任じられ、陸海空統合作戦の指揮官として十分な立場を与えられて、チャリオット作戦に先立つ1942年3月10日から参謀総長会議への出席を認められることとなった。
参謀総長会議については、本編第25話「さなぎの中のドイツ」で触れた。土日以外の毎日午前、チャーチルが寝ている間に3人の参謀総長が協議をする(会議が夕方近くまでもつれ込み、チャーチル本人が起きてきて加わることはあった)。イスメイが同席するがチャーチルとの連絡役である。話題によってメンバーが加わることは他にもあったが、1900年生まれの、去年まで大佐だったマウントバッテンが加わるのはなかなかつらい。なお週5日のうち、マウントバッテンは2日だけ出ることになっていた。
--------
「シェルブールを短時間確保して破壊工作を行うことは、可能であると考えます」
マウントバッテンの決然とした、しかし裏付けの薄い発言をアラン・ブルック陸軍参謀総長は感情を押し殺した顔で聞いていた。3月28日、参謀総長会議には三軍参謀総長以外に3人のゲストがいた。マウントバッテン、戦闘機部隊司令官のショルトー・ダグラス中将、本国陸軍司令官バゲット大将であった。
「しかしシェルブールでは我が戦闘機の基地から遠くなって滞空時間が取れません。もう少しイギリス海峡の狭い部分に目標を選ぶことはできないのですか」
ショルトー・ダグラスが自分を差し置いて反論したので、ポータル空軍参謀総長はちらりと無機的な視線を投げた。後輩のポータルが大将に進んで、やりたくもない参謀総長をやっている事情は、本編第25話「さなぎの中のドイツ」で語った通りである。
ショルトー・ダグラスがここにいる事情は、この会議のあいまいな主題に関わっていた。基本的に今日の主題は「西部戦線においてソヴィエトを支援する方法」なのだが、その影にあとふたつのテーマが重なり合っていた。
ひとつは「アメリカをなだめる方法」である。ルーズベルトは1941年にレンドリース法を成立させた後も、イギリスを手厚く支援し、太平洋で日本との開戦が避けられなくなっても、「ヒトラーを先に打倒する」というイギリスの提案を飲んでくれていた。だが真珠湾攻撃による大損害で、目に見える成果を欧州で挙げなければならなくなった。イギリスと違って、アメリカは議会選挙を従来通り続けていたからである。1942年晩秋の中間選挙ではイギリス支援とともに、真珠湾攻撃やフィリピン失陥が有権者の審判を受けるのであった。
「とりあえずフランス沿岸の港をひとつ占拠してドイツの攻撃を耐え抜き、1943年春を待ってそこから突破を図るのはいかがか」というのが、アメリカが提案してきたスレッジハンマー作戦である。イギリスが想定していたより、はるかに出血のリスクが大きい作戦であった。さすがのチャーチルも、これについては軍人たちと心を合わせて、よりリスクの低い地中海・アフリカのトーチ作戦を逆提案し、全力でアメリカをなだめた。
これと似ているが、違う作戦がチャーチルの脳裏にあった。フランス沿岸の港をひとつ襲撃して、短時日で帰ってくる威力偵察作戦である。アメリカの提案にはない。だが、ここでこの会議の「もうひとつの影のテーマ」が問題となる。「イギリス国民をなだめる方法」である。
すでに新年から北アフリカのロンメルは反転攻勢に出ていたし、1941年のイギリスは新たにギリシアとクレタで敗北し、ユーゴスラビアは支援そのものが不可能だった。2月にはドイツ艦隊がイギリス海峡をすり抜けるチャンネルダッシュを成功させ、結果的にドイツはその成果をほとんど生かせなかったが、イギリス海軍の面目はつぶれた。そしてなんといっても、最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズ轟沈に続くシンガポール陥落である。何かやって見せねばならないのはチャーチル政権も同様なのである。
本編第30話「眠れないチャーチル」で語ったように、ビーヴァーブルックは1941年5月に航空機生産大臣から退いていたが、在職中は生産機数という政治的スコアを稼ぐために、四発重爆撃機の生産を抑えていた。そして後任者たちは軌道修正に四苦八苦していて、いまイギリスが空でドイツから戦果をもぎ取るためには、双発爆撃機部隊と合わせて戦闘機部隊を活躍させるしかなかった。だからショルトー・ダグラスがここに呼ばれ、「戦闘機部隊が効果的に戦える場」の選択について意見を求められているのであった。
「シェルブールがまずいとなりますと……ディエップなどはいかがでしょう」
バゲットは本国陸軍司令官(Commander-in-Chief, Home Force)である。訓練部隊と沿岸警備部隊の元締めであり、その意味で「海峡担当陸軍最高司令官」と言えなくもないので、ここに呼ばれている。負傷5回の名誉少佐で前大戦を終えた猛者であったが、戦傷もあって教育関係の部署が続き、やや安楽椅子将軍に近づいていたかもしれない。開戦から1940年までに多くの将軍たちが高齢で辞職したり引責辞職したりしたため、この要職にあった。決して無能な人物ではない。南東軍司令官モントゴメリーの上司を、角突き合わせず務められた人物は多くはない。だがあえて言えば、それは軍事的才能とは別のものかもしれない。
パゲットの挙げた候補地ディエップは、「誰も反対しない妥協案」であった。比較的イギリス本土に近いと言っても、上空でイギリス戦闘機が空戦できる時間はごく短かった。当時のイギリス軍がつかんでいた情報では、ディエップの防備は薄いということであったから、パゲットが愚かな提案をしたとはいえない。この時点ではディエップ強襲は計画でしかなく、考慮にすら値しない愚案とまでは言えなかった。
この時点で明らかに不吉であったのはむしろ、この強襲計画が「何かやらねばならないので、やることは決定」というイギリス政治・軍事指導部総意の上に浮かんでいたことである。ディエップ強襲が上手くいかない大小の兆候は、これから実施までの間に順次積み重なってきた。そのとき、中止を言い出し断行できる人物が誰もいなかったことが、悲劇を作り出した。
--------
「2個旅団ほどでディエップに揚がる計画がある。君の軍団は参加を希望するか」
「もちろんです、将軍」
カナダ第1軍団長・クレアラー中将はモントゴメリーに即答した。モントゴメリーはカナダからイギリス本土に来た部隊全体の上司として、カナダ軍部隊の練度と、実戦経験の欠如についての低い評価を陰に陽に口にしていたから、それを棚に上げて大役を振ってくる事情をクレアラーはよく考えるべきだったのだが、できなかった。目前の機会があまりに待ち望んだものに近かったからである。少なくとも……待ち望んだものに見えた。そのときは。
「君の同意を前提として、マクノートン(クレアラーが直属する上司で、カナダ第1軍司令官)には私が話す。2個旅団を出すなら、どちらの師団がいい」
「ロバーツの(カナダ)第2歩兵師団がよろしいかと存じます」
クレアラーは、マクノートンが断るとは思わなかったし、もちろんロバーツは喜ぶと思った。カナダ軍は開戦以来(香港に送り込まれて降伏した2個大隊を除いて)実戦に参加できず、イギリスの慣れない気候で病兵を出しながら黙々と海岸防備につき、訓練ばかりしてきた。政治家はあからさまにカナダ軍部隊の実戦投入を陳情していたし、軍人の多くも実戦で成果を出す機会を熱望していた。
だが、戦間期に4500人にまで減っていたカナダ陸軍は、すでにイギリス本土にいる者だけで20万人を超えていて、指揮官たちは民間から前大戦以来の復帰をしたり、急激に昇進したりした者たちだった。クレアラーは大戦前に准将であったが教育職でのことだったし、マクノートンも戦間期の数年間を民間で過ごしていた。ロバーツ師団長も職業軍人ではあったものの、開戦時には連隊長で大佐だった。高級軍人としての素人っぽさ、あるいは経験不足は、この作戦に漂う危険な硝煙臭に気付くことを妨げたかもしれない。
戦後20年ほど経ったとき、モントゴメリーはこのころのことをインタビューされて、「あの作戦に単一の元凶はいなかった。強いてカナダ人が誰かを恨むとしたら、それはマクノートンではないか。自分はカナダ部隊はあの作戦に経験不足だと思っていたし、口頭で反対もしたのだ」と答えた。マクノートンは確かにモントゴメリーの作戦参加依頼を快諾したし、モントゴメリーが(イングランド)南東軍司令官として調整をしたのは、その上司であるパゲットの意を受けてのことだったのは本当であろう。
そしてマウントバッテン司令部が作戦計画を立てるとしても、その実施をパゲットとその司令部にゆだねるというのは、作戦承認にあたってアラン・ブルック陸軍参謀総長がつけた条件だった。ブルックは若くてイケイケの態度が目立つマウントバッテンに、現場判断を任せる気になれなかったのである。だからモントゴメリーがどれくらい熱心にカナダ軍の起用に異を唱えたかは永遠に藪の中であるとしても、パゲットたちは善意でカナダ軍の日ごろの願いをかなえようとしたのだし、その願いが身を滅ぼしたのだとしたらそれはカナダ人たちの問題だ……とモントゴメリーが言うのは間違ってはいないであろう。
--------
今世紀に入ってからも、「新史料発見! 〇〇作戦は警告されていた! 謎を追って我々は大アマゾンの源流へ」といった調子の著作は出続けているらしい。らしい……というのは、第2次大戦欧州戦線をめぐるこの種の著作は、欧州・アメリカと英連邦諸国でもっぱら消費されるからである。
ディエップ強襲のジュビリー作戦についても色々あるらしいのだが、いくらか一般論を述べるだけにして、細部に関わるのは避けたい。
1942年後半になると、イギリス上空をドイツ偵察機が飛ぶことは困難になり始めていた。地中海のマルタ島は枢軸軍の電波傍受基地としても重要だったのだが、ドイツはイギリス本土を飛び交う電波を大陸からしか拾えなかったし、有線電信となるとお手上げだった。新たに諜報員を送り込むことも困難だった。実はイギリスは本土のドイツ諜報員をほぼ突き止めて、二重スパイにするか排除するかしていたのだが、そのこと自体が1970年代になるまで秘密だった。西部戦線において、ドイツ諜報員の重大報告があっても、別の情報源で裏を取ることは困難だった。
一方ドイツ本国では、カナリスが率いるOKW情報部が連合軍の作戦を当てられずにヒトラーらへの信用を落としはじめていた一方、雑多な情報をスクリーニングする活動がいつまでたっても組織化されなかった。ヒトラーは発言の中で最近の諜報員報告に言及することはあったが、それは自分の直感にちょうど合う報告を選び出していたのかもしれなかった。スクリーニングの原則や実施組織がはっきりしないので、ある報告が「雑多な報告のひとつ」以上に重視された証拠を見つけることは難しい。もちろんヒトラーが雑多な報告をどれくらい実際に読んでいたかも、わからない。
西部戦線陸軍情報部フレムデ・ヴェストや国家保安本部第6局は外国諜報を任務としていたが、その成果を要人の耳に入れ、信用させるとなると、アプヴェーア同様にあいまいな立ち位置でしかなかった。
運命の8月19日に先立つ8月18日夜、ディエップに近い地域で、空軍女子補助員と空軍の空中勤務者・地上勤務者は盛大なダンスパーティを開いていた。宣伝隊が取材に入る、独軍優勢演出の一環だったから公務と言えなくもない。この午前様パーティのためもあって、ドイツ空軍の初動は活発とは言えなかった。主語を大きくして「ドイツ軍が」警報を受けていたとは考えづらい。後に述べるように、ドイツ沿岸船団が未明に上陸船団の一部と遭遇し、護衛舟艇同士の撃ち合いが発生して、ドイツ側が照明弾まで撃ったのだが、報告を受けたドイツ海軍西部司令部は「いつもの船団襲撃」とみなしてそれ以上の措置を取らなかった。これも、具体的で信用できる警報を受けていたならあり得ないことである。
--------
ディエップ強襲は、ルター作戦として7月に予定されたが中止され、ジュビリー作戦として「まさかの」再実施が下令され、8月19日に決行された。何が「まさか」なのかを含め、その順序で語っていくのだが、作戦内容を事細かく2回書くことは避けたい。だからルター作戦とジュビリー作戦の「違い」だけを説明して済ませることをお許しいただきたい。
ルター作戦では、当時イギリスの自由になる上陸用舟艇を総動員すると同時に、秘密保持のため全上陸部隊を英仏海峡のワイト島に集めた。ここを起点に、イギリス某海岸への上陸演習もやった。だから上陸用としか思えない舟艇群が近海にわらわら集中することになった。イギリス本土の奥深くには入りづらいとしても、海峡を飛ぶドイツ偵察機の注意は十分に引いたし、その報告を受けたルントシュテットの要請で、わずかながら爆装戦闘機が襲撃にも行った。
ルター作戦とジュビリー作戦のもうひとつの違いは、上陸船団の邪魔になる砲台を制圧するため、落下傘部隊が参加する予定だったことである。そしてそれが、作戦実施の障害となった。
後のノルマンディー上陸作戦でもそうだったように、攻撃初日を最大限に活用するため、上陸作戦は払暁に行うのが定石だった。今回の場合、要港ディエップやその周囲には敵の備えがあるから、「夜明け直前の暗い時間帯」に一気に砂浜を走り切ってしまうことが必要だった。
兵士が砂浜を走る距離もなるべく短くしたいから、「夜明け直前に満潮が来てそのとき月が高いところにない日」が好適ということになる。これだけで、実施に適した日はぐっと少なくなる。
落下傘部隊がなぜ障害となるか、もうお分かりであろう。7月上旬の数日、条件のそろった日があったのだが、ずっと強風が続いて落下傘降下不可能だったのである。上陸用舟艇に分乗し、もう防諜の心配もないだろうと目的地ディエップのことを聞かされた兵士たちは、何もできずに解散することになった。
6月末にはトブルクが陥落し、イギリス下院にチャーチルへの不信任案が出され、否決された。ちょうどルター作戦が中止されたころ、イギリスから援助物資を載せてソヴィエトに向かったPQ17船団が壊滅的打撃を受けたことは『士官稼業』本編第37話「銃後の有利と戦場の優勢」で取り上げた通りである。チャーチルはいよいよ、何かをしないわけにはいかなかった。しかしもうトーチ作戦も迫ってきて、夏のうちに新たな作戦を立てる時間はなかった。
--------
ディエップという目的地を知った兵士が数千人いる……という状況は、防諜上は絶望的だった。彼らのすべてが泥酔して前後不覚になり、何を口走ったか証言すらできない朝を迎える可能性を持っていたし、その種の問題は何度か現実になった。部隊への訪問者がどうにかして「ディエップ」という固有名詞を聞き出した後、パブで泥酔して(以下同文)という二次拡散が起きたことも知られている。だから兵士たちの実態を知っている人々のなかに、実態を知っているがゆえに「情報が漏れたに違いない。でなければあんな損害は出なかった」と確信する人が多く、戦後何度も蒸し返された。すでに述べたように、ドイツがイギリス本土の諜報員を事実上失っていたこと、(たとえ漏れても)その情報をスクリーンする手順が確立していなかったことが、イギリス本土での情報漏洩がドイツ軍に具体的な何かをさせること、そして史実以上の悲劇が起きることを妨げたのである。
夏に強襲作戦を実施するなら、もはやディエップでやるしかない。参謀総長会議ではマウントバッテンが決行を支持し、他の出席者は計画漏洩のリスクを考えて逡巡したとされる。だがこの参謀総長会議は、全会一致が原則であった。だとすれば、群を抜いて若いマウントバッテンが老巧卓抜な参謀総長たちを説き伏せた……などということは現実味がない。何としても決行が必要であること、ひょっとしたら、会議にはこれを否決する権限があるがそのとき自分は辞職すること……くらいは書き添えたメモランダムをイスメイが読み上げたのではあるまいか。もちろんチャーチルが早起きして不退転の決意を示し、自分の口で発言したかもしれないが。
7月22日、アメリカは折れてスレッジハンマー作戦の放棄が決まった。25日、参謀総長会議から上がってきたジュビリー作戦決行提案を、チャーチルは承認した。歴史には、そのように書き残すことが決まった。
--------
落下傘部隊がやるはずだった仕事は、コマンド部隊が新たに呼び寄せられ、引き継がれた。コマンド部隊は上陸作戦を念頭に置き、300名弱の上陸要員を中心とする大隊級の部隊である。海軍の海兵隊をもとにしたものと、陸軍系の部隊があった。
予定日時がずれたことで、運命の変転があった。
8月3日、チャーチルとブルックはカイロに着いてオーキンレックと会った。この時点では中東総軍オーキンレック留任、イギリス第8軍リッチー罷免ということでチャーチルとブルックが一致していて、後任にチャーチルはゴット、ブルックはモントゴメリーを推していた。
ところが8月6日になって、チャーチルはやはりオーキンレックも代えると決心した。オーキンレックの部下たちと話して、心をつかんでいないことを実感したのである。中東総軍からイラン・イラク方面の指導責任を分離した後、残りの中東総軍司令官をブルックの転任でどうか……と言われてブルックは抵抗し(本国でチャーチルと渡り合えるのは自分くらいだと思っていたので)、アレキサンダーを推した。アレキサンダーはビルマ戦線の退却戦を指揮して、戦線を安定させたところでイギリスに呼び戻され、トーチ作戦に参加するイギリス第1軍の司令官として内定していた。この後任にモントゴメリーが起用されることになった。
だからモントゴメリーは(パゲットから委任された)ジュビリー作戦の総指揮を、カナダ第1軍団長のクレアラーに譲った。実際には当日の重要な決定はロバーツかその下位の指揮官が下すことになったが、モントゴメリーはディエップ上陸の大損害にまつわる責任を辛くも免れることができた。
いったんチャーチルが押し切り、ゴットがリッチーの後任としてイギリス第8軍司令官に任じられたが、8月7日に撃墜死した。安全と思われたルートに、はぐれドイツ機が現れたのである。もう一度電報が飛び、8日にはチャーチルのいないロンドンでアトリー首相代理が戦時内閣の閣議を開き、必要な修正を処理した。わずか1日で、イギリス第1軍司令官予定者はもう一度交代した。イラン・イラク方面で起用される予定だったアンダーソンが横滑りしたのである。そのあとのモントゴメリーの運命は、『士官稼業』本編で語った通りである。なおアンダーソンは、チュニジアでの米軍の不始末の一部を上級指揮官としてかぶらされるなどあまり幸運とは言えず、1943年以降だんだん顕職から遠ざかっていったので、ご存じない読者の方々も多いであろう。
※8月3日から8日の日付はカイロ現地時間です。
--------
『士官稼業』本編で語ったように、イギリスはボールドウィン内閣から戦略爆撃機同士の対決を予測し、第2次大戦に向けてマンチェスター、ハリファックス、スターリングの3プロジェクトを並行開発させた。どれもこれもその過程で七転八倒したが、マンチェスターの後継機ランカスターを含めて作戦機を生み出すところまでは到達し、不成績のスターリングの生産をやめる余裕も生まれた。
ドイツの4発重爆としてはHe177があったが、マンチェスターの初期型と同様に2基のエンジンを前後につないだデザインが奏功せず、低稼働率のまま後継機も現れなかった。「第2次大戦全体を通してみれば」ドイツの開発計画は見込みのない機種の開発計画を切ったり、あらかじめそのリスクを見込んで並行開発をしたりする指導性を欠いており、「そこだけ切り取れば」空での劣勢が現れるのを早めた。大戦が始まってからむくむく成長したニーズについては、民間機で食っているデハビラント社が半ば勝手に開発していたモスキートが連合軍の巨大な間隙を埋めたことを思えば、ドイツが特に劣っていたとも言いづらいが。
ともあれ1942年には、まだドイツは初期の開発成功例から果実を受け取り続けていた。スピットファイアより1年早く初飛行したBf109戦闘機の後継機として、ようやく初期の問題点を克服したFw190戦闘機が低空で猛威を振るっていたし、高空にはエンジン強化型のBf109Fがいた。一方スピットファイアの次の戦闘機は、エンジン開発の遅れで行き詰まってしまい、予定よりもスピットファイアを長く生産するしかない……とイギリスは決断した。
新型エンジンの行き詰まりにより、ハリケーンもランカスターもハリファックスもモスキートもマーリンエンジンを使っていた。アメリカで生産が始まったマーリンエンジンをあてにしてムスタング(アメリカ軍ではP-51)戦闘機のマーリンエンジン搭載型がテストされているありさまだった。1941年に登場したスピットファイアV型が、できる限りの性能向上策を加えながら、1942年秋以降に次々と高空対策の進んだ(つまり、過給機性能の高い新型マーリンエンジンを積んだ)新型スピットファイアが登場するまでじっと我慢していたのが、ディエップ強襲当時のイギリス戦闘機部隊だった。
防御が固く対空砲も配置された陣地への攻撃は、双発爆撃機では自殺的だというのが当時の常識になっていた。イギリスもアメリカもいくらか急降下爆撃機をこうした任務に試したのだが、急降下に耐えられる機体の空戦性能が低すぎて生き残れないのが問題だった(これはシュツーカの欠点でもある)。だから(のちに登場する、双発のP-38も含めた)単座戦闘機が爆装して、あるいは機銃でその主役を務めるほかないことが、共通理解になりつつあった。すでに1942年夏の北アフリカでは、アメリカが供与したP-40戦闘機が地上攻撃の主役になり、(まだ多くのスピットファイアは本土にいるので)ハリケーンがその護衛役として働いていた。
ディエップ強襲作戦では、こうしたちょっと実績も火薬量も足りない地上支援戦闘機部隊と、102mm砲を主砲とするハント級駆逐艦の支援砲撃だけが支援火力となり、大規模な夜間爆撃や大型艦の砲撃は見送られることになった。6月5日、ルター作戦の前に、それは決まっていた。前者は(夜間爆撃を正確に当てる技術がまだないので、なおさら)民間人の巻き添えが懸念されること、後者はまだまだ米英海軍の戦時量産艦艇が前線に届いておらず、喪失のリスクが痛すぎることが理由だった。それは残酷な決定だったが、当時の状況と技術では、避けられないことだった。避けるには延期するしかなかったが、できなかった。
作戦を巡る様々な懸念と対策は、結果的にみると、多くが空振りとなった。ドイツ軍は6月末から7月にかけて規模不明ながらイギリス軍が上陸を企てていると考えて警戒していたが、8月になってそれはかなり緩んでいた。イギリスは多くのミスをしたが、結局ドイツ軍が上陸の予兆をつかんで先手を打つことはほとんどなかった(少しだけあった話はあとで触れる)。そうなると、結果を破滅的なものにしたのは「火力比」であり、1944年のオーバーロード作戦との大差をつけたのは、まず支援火力のショボさであったというしかない。もちろん、港湾そのものという「防御が固いに決まっている場所」に主力を上陸させようとしたのも、オーバーロード作戦では放棄された考えであって、そのせいで被害が増えたのは間違いないが。
なお、いくつかの欺瞞的な夜間爆撃が、ドイツの注意をそらすために実施された。