外伝02 第3次ハリコフ攻防戦
『士官稼業』本編第37話で語ったように、1942年夏にソヴィエト軍はヴォロネジを奪回しようと北(モスクワ方向)から攻めたが、及ばなかった。つまりヴォロネジのすぐ北までは、モスクワ方面からの鉄道がずっとソヴィエトの手にあったわけである。
スターリングラード方面からあふれ出るように西進したソヴィエト軍は、鉄道のないところを300kmも進んでしまった。もちろん海岸べりに、ロストフ・ナ・ドヌーを通って西に向かう鉄道はあるのだが、そこからも内陸部は遠かった。だいいち、スターリングラードのドイツ軍が一掃されないうちに西進した部隊が、スターリングラード経由の鉄道を補給線になど使えはしない。
だからヴォロネジから南に向かう鉄道と道路をドイツから取り返して、それを補給線としてスターリングラードのドイツ軍の背後に回り込むのがソヴィエトの攻撃計画だった。ところがこの戦線を守るハンガリー軍などがソヴィエト軍の予想を超えて弱体であったため、スターリングラードを包囲するだけでなく次々に新たな攻撃作戦が追加され、マンシュタインを脅かした。取り掛かるのは2月後半になったが、1月23日にスターリンはすでに「星」作戦を裁可していて、発動されるとクルスク、オボヤン、ベルゴロドが相次いで解放され、今までの前線から獲得地域が膨らんだ。もともと北隣のヴォロネジ方面軍が主体になった攻勢だったが、2月下旬になるとバトゥーティンの南西方面軍が先頭に立った。
マルキアン・ポポフは1941年にレニングラード方面軍司令官を解任された後、格下の仕事を黙々とこなしてきた。そしてスターリングラードで鍛え抜かれ、南西方面軍司令官代理としてバトゥーティンの副将になったところで、方面軍に機動集団を作ることになり、ポポフがその指揮を命じられたのである。4個戦車軍団、180両の戦車をもって黒海沿岸のマリウポリまで南へ駆け抜け、まだドイツの手にある大都市スタリノ(現ドネツク)を孤立させるのが使命だった。その東にある大都市ロストフ・ナ・ドヌーはソヴィエトが奪還しつつあるところだった。
とはいえ、自分の西側面は自分で守らねばならない。そしてソヴィエト軍の宿痾として、歩兵が戦車に追いつく方法がなかった。戦車軍団に属する歩兵がいくらか、戦車に乗って身ひとつで移動できるだけだった。
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「後方にナチだと」
ポポフ中将は通報者を見返した。その参謀本部士官は、乗用車から転がるように降りてきたばかりで白い息を吐いていた。まだレンド・リース車両が行き渡り初めて日が浅く、乗用車は大尉が乗り回せるものではなかったが、参謀本部士官であれば仕方なかった。
「参謀本部士官」というのは開戦の数か月後から1943年ごろまで存在したもので、部署名と理解するのが分かりやすい。参謀本部に「参謀本部士官団」というプロジェクトチームが編成され、そこから前線に大尉から大佐くらいまでの士官たちが派出された。もともとは通信網が混乱し、友軍部隊の位置すらわからない状況を緩和するための措置だったのだが、このころには一種のデバッガーとしての働きを期待されていた。彼らは人のまとめたデータではなく、自分の見たことだけを報告するように厳命されていて、前線司令部からの報告に歪みや見落としがあったら、参謀本部が気付けるようになっていた。そして彼は南下する機動集団本部の後方、つまり北の様子を確かめに行き、ソヴィエト軍が通り過ぎた後の街道にドイツ軍が進出してきたことに気づいたのである。
「肯定します、同志将軍。少なくとも大隊規模で、戦車を含んでおりました」
ポポフは参謀長に視線を移した。ポポフ同様、参謀長も無精ひげが伸びていた。参謀長は首を横に振りながら言った。
「方面軍からの説明に、そのような兆候は含まれておりません」
「敵は混乱しているのだろう?」
「整然とした動きでした。潰走と言ったものではありません、同志将軍」
ポポフの先鋒はクラスノアルメイスキー(現ポクロフスク)に達したところで、ポポフ自身はその少し北にいた。歩兵部隊はいずれ師団単位で次々に後を追ってくる……はずである。うつむきに考え込んでいたポポフは、参謀本部士官に視線を移した。
「君からも報告しろ。ニコライ・フョードロヴィチ(バトゥーティン)は楽観に身をゆだねているのかもしれん。参謀本部の方が冷静に判断できるはずだ。彼らも浮かれているかもしれんがな」
いま偵察機から見れば、潰走するドイツ戦車隊と、黒海沿いの戦区から反撃のために北上するドイツ戦車隊の見分けはつけにくい。だから心の望む解釈を加えて報告してしまうかもしれないし、受けた側が都合よく解釈してしまうかもしれない。
「同志将軍、我が部隊はどうしますか」
参謀長の尋ねに、ポポフはきっぱりと言った。スターリングラードで戦ってきた日々が、ポポフを剽悍な野戦指揮官に変えていた。
「前進を続けさせろ。ロストフの友軍がスタリノへ突破してくればこんな心配などいらんのだし、我々の立場で心配することではない。だが偵察隊を北へ出さねばならんな」
大きくはない幕舎が、ポポフの命令でざわつき始めた。クラスノアルメイスキーにポポフの先鋒が取りついたのは2月11日朝で、まだハウサーたちはハリコフにいたし、北東方向にいる第7装甲師団と第11装甲師団は、まだクラマトルスク市の確保を争っているところで、行動の自由はなかった。
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マンシュタインのドン軍集団司令部は、第11軍司令部を格上げしたものであることはすでに触れた。そうなると、かき集められた救援部隊をまとめる軍司令部や軍団司令部も、作らなければ足りなかった。それがそのまま、1943年に入ってソヴィエト軍の攻勢を受け止める組織的枠組になっていた。
いちばん「無から有を」作り出さねばならなかったのは、11月に壊滅したハンガリー第3軍の戦区であった。クラーマー少将はOKHの幕僚で、たまたま東部戦線に視察に来ていたところ、1942年12月30日にGeneralkommando z.b.V. Cramerという名称で、軍団級の司令部を編成し率いるよう命じられた。これをクラーマー特設軍団と訳すことにする。軍団級だから、11月に少将になったばかりのクラーマーは1943年1月に中将になった。ハンガリー第3軍を盛り立てるために配属されていた第168歩兵師団(の残余)、同様にイタリア第8軍にいた第298歩兵師団(の残余)などが最初の構成部隊になった。
クラーマーは1943年2月、ずっと空席だったドイツ・アフリカ軍団長となるため東部戦線を離れ、第6装甲師団長だった(街道上の怪物KV-IIと対決したときは旅団長で師団戦闘群を率いていた)ラウスが継いだ。2月10日だった。だからここからの話に関係するのは、ラウス特設軍団ということになる。このころになると、次々と来援する応援部隊を指揮下に入れて、ハリコフの西側にある主要都市ポルタヴァを守っていた。このころ、ずっとではないが、グロスドイッチュラント装甲擲弾兵師団も指揮下に置いた。
その右側(南または東)を担当していたのが、長いこと再編中でヒトラーが出し渋っていたSS装甲軍団(まだひとつしかないので番号はない)であった。負傷明けのハウサーはその軍団長となり、東部戦線に戻ってきた。
このラウス特設軍団とSS装甲軍団を指揮するのが、ランツ山岳兵大将であった。第1山岳師団長として、カフカズ山脈の主峰エルブルス山に登山隊を送ってヒトラーを怒らせたとされる人物だが、師団長を免じられたのは中将昇進、騎士十字章叙勲と続く流れの中であり、単に「次は軍団長」ということであったと考えるのが自然である。実際には1月、ランツはもう一度昇進して大将になり、1月28日にランツ軍支隊を率いることになったのである。今まで勝利を支えてきた将星たちの多くと不仲になったヒトラーは、若い司令官たちに入れ替えれば戦勝のニュースをもたらしてくれるのではないか……という願望をふくらませて、こういう登用をするようになった。そしてこの軍支隊にはSSの3つのエリート師団(LAH、ダスライヒ、トーテンコープ)とグロスドイッチュラント師団が集中していた。ランツの参謀長は、のちにロンメルの参謀長を務めたハンス・シュパイデル少将であった。
2月13日から15日まで、ランツとハウサーは激しく言い争った。すでにラウスのいるポルタヴァからハリコフへの補給路確保が怪しくなってきていた。13日にヒトラーが出したハリコフ死守命令をランツは守れと言い張り、ハウサーは退くしかないと言い張った。広い戦線をわずかな部隊で守るため、各師団はいくつかの戦闘群をバラバラに戦わせていたが、ダスライヒ師団を中心とするハリコフのSS装甲軍団はハウサーの独断で、16日朝から後退を始めた。ハリコフからは西のポルタヴァのほか、もっと南のドネプロペトロフスクに向けて良い道路が延びていた。ハウサーたちはこの道を南南西に50kmあまりたどって、クラスノグラードに集結した。2月18日、ハウサーの抗命を聞いたヒトラーはマンシュタインの司令部までコンドル旅客機(Fw200哨戒爆撃機の原型)でやってきて、2日間にわたってマンシュタインと言い争ったが、司令部そのものにソヴィエト戦車部隊が迫っていて、すべてを一任して逃げるしかなかった。
そういうわけで、ハウサーにはすぐ攻撃命令が追ってきた。すでにクラスノグラードから南南西に100kmのドネプロペトロフスクは、第311上級砲兵司令部のシュタインバウアー中将が残兵をまとめて守りを固めている状態だった。だからマンシュタインの攻撃命令は、ドネプロペトロフスクに向けて突破せよというものだった。有力な敵と戦闘になったが、20日にはドネプロペトロフスクの北側に隣接するノヴォモスカウスクに到達し、シュタインバウアー戦闘群と合流することができた。すでにノヴォモスカウスクは戦場になっていた。その間にLAH師団は、ハリコフ南東の持ち場から命からがら撤退してくる第320歩兵師団を救援に、すこし北東へ戻っていた。
2月20日以降、ハウサーのダスライヒ師団は北東へ進んだ。数日前にハウサーたちはクラスノグラードを通り過ぎたが、東からクラスノグラードを経由してポルタヴァに続く道路があった。何度も同様の状況があったように、道は大都市から放射状に延びるから、このあたりで東西に進める良い道路はほとんどない。この道を押さえることで、東に進みすぎたソヴィエト軍は飢える。
そしてこの作戦は、マンシュタインの本命の攻撃計画とタイミングを合わせていた。第7装甲師団と第11装甲師団は第1装甲軍直轄に移され、南西に転進して、ポポフ機動集団に襲い掛かったのである。
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スタリノ(現ドネツク)から西へドネプロペトロフスクに向かう道は、南北に走る複数の道とクラスノアルメイスキー(現ポクロフスク)で交差している。いわゆる交通の要衝である。第1装甲軍の向かったのは、ここであった。ハウサーたちが自分の補給路を確保することを命じられたのと並行して、マンシュタインはまず深入りしたソヴィエト軍先鋒の補給路を切ることを目指したのである。
ポポフの指揮下には4つの戦車軍団(第4親衛、第3、第10、第18)と2個ライフル師団があった。このころのソヴィエトの戦車「軍団」は、ドイツの装甲師団に相当すると思えばよい。バトゥーティンの南西方面軍はハリコフに向かう第6軍、その南隣でドネプロペトロフスクに向かう第1親衛軍、さらにその南翼を進み、マンシュタインの司令部があるザボロジェ(現ザポリージャ)を落とし、ドニエプル川を渡ってしまおうというポポフ機動集団に三分されていた。
ポポフの先鋒、第4親衛戦車軍団がクラスノアルメイスキーに入ったので、カフカズからはるばる逃げてきたSSヴィーキング師団が急行した。この師団はまだ反撃部隊ではなくて、懸命に戦線を支える火消し部隊であった。ポポフは第10戦車軍団を増援しようとしたが、クラスノアルメイスキーの50km北北東にあるクラマトルスク市周辺でドイツ第7装甲師団、第11装甲師団をがしつこく食い下がり、第10戦車軍団を足止めした。第4親衛戦車軍団は連戦のため、数日で燃料や弾薬が不足し始めた。
ハウサーが後退を決めた直後の2月17日には、ソヴィエト第1親衛軍はザボロジェ到達も夢ではないところまで来ていた。第1親衛軍の第25戦車軍団は、先鋒をザボロジェから20kmのところまで進めた。すでに触れたように、クラマトルスク方面で後退したふたつのドイツ装甲師団は、2月18日にクラマトルスクを離れて(あきらめてと言った方が実情に近かったが)南のクラスノアルメイスキーを狙っていた。有力なドイツ軍兵団を放置して前進を急がせたバトゥーティンの判断が、裏目に出ようとしていた。
ヴィーキング師団も加わったクラスノアルメイスキーへの共同攻撃は18日に始まった。そして絵に描いたような各個撃破が起きた。第10戦車軍団がクラスノアルメイスキーに近づいてみると、ドイツ軍が総がかりで第4親衛戦車軍団を撃破したあとだったのである。まだ全体情勢を楽観しているバトゥーティンは後続の第18戦車軍団も加えて街の奪還を命じたが、局所優勢はドイツにあり、ドイツ空軍もまだまだ元気だった。第11装甲師団はクラスノアルメイスキーの東側で、スタリノとの連絡線を切った。ポポフは撤退を上申し、バトゥーティンは拒んだ。第3戦車軍団が増援されたが、遅かった。すでにハウサー軍団は第1親衛軍の先鋒を退けドネプロペトロフスク付近に達して、あらためて東向きにコースを変えるところだった。
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浸透戦術と云うのは、第1次大戦後半にドイツ軍が攻勢時に用いた、小集団に分かれて敵陣地に攻め込み、攻略に時間がかかる拠点は放置して、できるだけ大きな前進を勝ち取る戦術に、フランス軍がつけた名前である。第1次大戦末期のドイツ軍歩兵マニュアルには、もちろんこの戦い方の解説もあるのだが、攻勢が途切れたときは部隊単位で集結して、前方と側面に前哨を出し、守りに適した態勢を回復しろと書いてある。砲兵を置き去りに、側面をがら空きにして進んでいく隊形は、我に返った敵部隊が反撃すればひとたまりもない。奇襲にすぐ対応できず敵部隊がマヒしている時間を、最大限に活用するのがこの戦法である。
ドイツが壊乱しているのを利用して、ソヴィエト軍は遅い砲兵牽引車を待たず、歩兵と軽車両で運べる火器に戦車をつけて、さっさと前進した。ドイツが1939年のポーランドでやったように、主要都市や交差点や橋を確保すれば、あとからドイツ軍部隊をひとつずつ壊滅させるか、捕虜に取れる。そうソヴィエトの将軍たちは考えたであろう。
だが突進したソヴィエト軍部隊もまた、個々には隙だらけであることを、ソヴィエト軍は高い代価を払って学ぶことになった。
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「俺たちはスターリングラードからここに来た。ここをスターリングラードになどするものか」
ポポフは力強く言い切った。連戦で眠く、頭は働かなかったが、やらねばならないことはわかっていた。満月を過ぎた月の出は遅く、月の入りを待っていると脱出途中で夜になるリスクがあった。
すでにポポフの歩兵たちは脱出し、北のヴアーヴェンコーヴォ(現Barvinkove)に集結していた。小村のひとつひとつが脱出ルートの上にあるから、取り合いは陰惨なものになった。
22日、ハウサー軍団やGD師団は東に向かい、いったん失ったパヴログラードの街と、周辺の小村を確保していた。その北のクラスノグラードにはラウス軍団が助っ人も合わせて集結し、東のケギチョフカ(Кегичёвка)方面に助攻をかけていた。23日以降、クラスノアルメイスキーの少し北でポポフの戦車部隊は進退窮まった。ポポフは22日に撤退許可を出し、23日夜にそれは始まった。
「出発!」
声に出したのはポポフだけだった。手振りとエンジン音が命令を伝えていった。だがドイツ軍の前哨から信号拳銃が空に撃たれるまで、それほど時間がかからなかった。ソヴィエト軍の脱出は当然予想されたことなのだ。
戦車の背中には、最後まで陣地を守っていた砲員たちがしがみついていた。歩いていては生還のチャンスがないから、体力がなくても不安定な車上で幸運を祈るしかなかった。生存者の人数分の小火器は十分にあった。
だが、人数分の幸運は残っていないようだった。至近でドイツの砲弾が炸裂するたび、短い悲鳴が聞こえた。誰かが戦車から落ちたに違いなかった。砲火が集まる戦車の上は、むしろ危険地帯だった。
凍結した麦畑を車列は進んだ。道路上はドイツ砲兵が標定(いつでも撃てるよう距離と方位を測量しておくこと)しているかもしれなかった。ポポフはハッチの上にぎりぎり、目まで出していた。
前方を走る偵察戦車が持ち上がり、その下に黄色い炎が見えた。ポポフの戦車のコースが不規則に曲がった。
「進路そのまま。対人地雷だ」
ポポフのT-34戦車なら、踏んでも無事に済む見込みはあった。さっきの偵察戦車は横転したようだった。脱出した戦車兵が後続車両に走って追いつくことを祈るしかなかった。ポポフの戦車が先頭になった。
前方の村から、ドイツの機関銃が音を立てた。
「発砲しますか」
「撃たない。急げ。村を右へ迂回する」
ポポフは怒鳴った。そして戦車から大きく身を乗り出して、後続車のために腕を右に振った。寒気が押し寄せて目が覚めた。縮こまるようにポポフは車内に身を沈めた。
後続車から砲声がした。だが村からも発射炎が見えた。当然敵にも対戦車砲があるはずで、月夜だから撃ってくるはずだった。
そして位置をさらした。慎重さが足りない部下にも使い道はある。
「停車だ」
ポポフは命じると砲塔を回した。車内の兵士が砲弾を込めた。すぐ撃てる即応弾の少ないT-34では、1発でも節約する工夫が生死を分けた。もっとも、ポポフにそれを教えてくれた兵士たちはほとんどが魔女の婆さんに連れられて行き、いなくなっていたが。
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24日、ハリコフにいる第3戦車軍がバトゥーティンの指揮下に入った。その最先頭にいた第25戦車軍団も撤退を開始した。クラマトルスクも包囲の危機に立ち、ポポフの兵たちが歩いて退き、防衛に加わった。
25日にはヴアーヴェンコーヴォはもう第1親衛軍の戦区になっており、ポポフ集団はまるごと移管された。
「所属替えでニコライ・フョードロヴィチ(バトゥーティン)に復命できないのは残念だが、俺は兵たちを生きて戻した。それが一番大切なことだと、今は思う」
ポポフの言葉を聞く部下たちは無言だったが、沈痛な表情が目立った。ポポフが責任を取らされることを心配していた。とりあえず第1親衛軍司令部に出頭しろと、迎えが来ていた。
「同志将軍と再びともに戦える日を、待ち望んでおります」
部下のひとりが言った。レニングラードではこんなに心配してもらえなかったな……とポポフは苦々しく思い出した。
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バトゥーティンが総退却指令に同意したのは27日であった。いくつかの町で守備隊が包囲されたが、大きな包囲は起きなかった。。クラスノアルメイスキーに集まったドイツ装甲部隊は順次北進して、雪かきをするように、ハリコフ~ドネプロペトロフスク街道の東側50kmからソヴィエト軍を追い出していった。そして3月に入ると、ハウサー軍団を中心とするドイツ装甲部隊は、再びハリコフを囲む準備を始めた。そしてここではスターリンも簡単に退却を許さなかった。
第1装甲軍がポポフ機動集団を打ち破った後、今度はホートの第4装甲軍がハリコフ奪還戦の指揮を執った。ドニプロペトロフスクで立て直された司令部で、ハウサー軍団は2月末から属していた。相変わらずその左隣は、ケンプ軍支隊に残ったラウス特設軍団だった。今回は包囲戦になるので、多くの歩兵師団が加わっており、彼らが行軍して再びハリコフが戦場になったのは3月10日からだった。
今回は、ハリコフとベルゴロドの中間を時計回りに包囲の腕を伸ばす役がハウサー軍団に当たった。反時計回りにハリコフを囲むのは第48装甲軍団の第11装甲師団、第6装甲師団などが引き受けた。ハウサー軍団の3つの師団の中で、LAH師団は中央を進んだ。
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「行け、行け。もっと接近だ。ぶちかましてやれ」
SPW(装甲兵員輸送車)の無線機から、ヨーヘン・パイパー大隊長の煽る声が間断なく聞こえてきた。普段は端的で容赦ない物言いをする指揮官だったが、戦闘になると自分の興奮に部下を巻き込んだ。
1942年秋のフランスで、LAH師団にもSPW大隊ができた。第29話でも触れたように、SPWの任務は、多くの乗員の目で視界の悪い戦車を助け、戦車が気づきにくく攻撃しにくい対戦車砲などを撃破することだった。ただしスピードが大切であり、降車戦闘はなるべく避けろとマニュアルに書いてあった。
だがLAH師団のSPW大隊を任されたパイパーは、もっと積極的に指導し、実践した。このころのパイパー大隊の撃破リストには戦車が混じっている。T-34の幅広いキャタピラが切れない集束手榴弾も、車体後部のエンジンの真上に乗せれば、高い確率で戦車を止められた。もちろんそれは、高いリスクと損失ももたらした。
連続した戦線を保てなくなっているのはソヴィエト軍も同じだった。ハリコフを目指す戦いで、パイパー大隊はライフル師団司令部をいくつも蹂躙した。第2次大戦を通じて、フラーが1918年に思い描いた戦いに一番近づいたのは、このころのパイパー大隊であったかもしれない。
3月15日にはハリコフの維持は絶望的になり、第3戦車軍の脱出が始まった。ドイツは包囲する兵力が足らず、その多くを逃がしてしまった。18日にはすこし北のベルゴロドをハウサー軍団が攻撃し、パイパー大隊が一番乗りをして粗々に市内を制圧した。そして敵と味方を春の泥が飲み込んで、東部戦線はしばらく静かになった。
北ウクライナでは、ソヴィエト軍はいったん奪還した街や村を捨て、ドネツ川まで思い切って撤退した。つまりスターリンは大筋で、不利な血の取引を避けたいという軍人たちの意見を容れて、守りにくい土地をドイツ軍に引き渡した。ヒトラーは多くの土地を取り返したマンシュタインやツァイツラーに対して機嫌を直したに違いないが、包囲によって減らしたソヴィエト軍の兵士は、ヴャージマやボブルイスクや前年のハリコフ付近で繰り返されてきた大規模な包囲に比べれば少なかった。
現状を軍事的術策でどうにかできるという感覚が、どの程度陸軍の将軍たちに生まれていたかは、もはや想像するしかない。だがすでにドイツの戦略的な足場に、不可逆的な亀裂が入っていた。1943年はUボート退潮の年であると同時に、ドイツ空軍がはっきり限界を示し、劣勢に向かう年でもあった。ドイツ陸軍は相変わらず戦闘に強かったが、そのことを活用しにくくなっていった。それはもう、外伝で語ることではないだろう。
外伝へのヒストリカルノート
このころハウサーが指揮していたのはSS-Panzer-Generalkommandoであり、3個師団が指揮下ですから軍団サイズですが、「親衛隊戦車部隊司令部」といった響きの部隊名です。半年後にゼップ・ディートリヒ指揮下のSS第1装甲軍団が編成されたとき、SS第2装甲軍団(II. SS-Panzerkorps)と改称しました。ここではSS装甲軍団あるいはハウサー軍団とやや不正確に訳しておきます。
映画「T-34 レジェンド・オブ・ウォー 」1:30:00あたりに、車内灯らしきものが天井中央に映っています。車内灯が生きていれば、夜間に主砲装填や機銃の弾倉交換もできるでしょう。このあたり、道中の遭遇戦を想像して書いています。
ハウサーの独断撤退については、いくつか異説があります。ラウスは「ハウサーにマンシュタインがあいまいな指示をして、撤退してもマンシュタインが認めたと言い張れるようにした」と書いています。実際にはランツ軍支隊の戦時日誌を見ると、マンシュタインの命令はすべてランツ経由で伝えられていますし、直接の上司ではないので命令を出すこと自体不自然です。ただラウス特設軍団のグロスドイッチュラント師団はハリコフ市内と言っていい位置にいましたし、第320歩兵師団はハリコフ南東を守っており、一緒に逃げねばならないので、ハウサーはラウスに一緒に撤退させろと命令しています。こうした同格の部隊間の指揮権限はしばしばあらかじめ定められていました。ですからラウスはハウサーから何か聞かされたのかもしれませんし、実際にハウサーは「マンシュタインは自分に強く出ないだろう」と踏んでいた可能性はあります。
ただマイソフは、ラウスが似たような話を聞いて混同したのではないかと思っています。「ハリコフは固守されねばならないが、部隊は包囲されてはならない」という矛盾した指令が、マンシュタインのハウサーへの免罪符だったとラウスは言うのですが、それはテッベルのクルスク戦に関する著書によれば、1943年8月の第4次ハリコフ攻防戦で「ヒトラーがマンシュタインに」命じた内容と重なるのです。当時ヒトラーはもうハリコフは保たないものとあきらめつつ、未練を表明せずにいられなかったのです。
ランツ軍支隊の戦時日誌によると、ランツはハウサーの独断撤退を15日夕刻にマンシュタインに知らせましたが、明確な指示はありませんでした。16日午前の協議で改めてその問題を持ち出すと、マンシュタインは「親衛隊の報告不足は困ったものだ」と言いました。ランツは各師団をハウサー軍団から軍支隊直轄にすることを提案しましたが、マンシュタインははっきり賛否を述べませんでした。つまりマンシュタインは確かに、ハウサー罷免を上申するとか実質的に指揮権を奪うとかできたはずなのに、しなかったのです。そして16日午後、ハウサー軍団のトーテンコープ師団を、ヴァルキ戦闘群(ヴァルキは当時ラウスの司令部があったハリコフ南西方向の街で、早いうちに到着したトーテンコープ師団の一部がラウスの下で働いていたようです)を除いて軍集団直轄に移すと命じました。ただしこれは鉄道輸送で到着していなかった分のようです。ですからヒトラーに対して「ハウサー軍団をそのままにはしなかったアリバイ」を作ったとこじ付けられなくはないですね。19日深夜、マンシュタインはランツを通じて、ハウサーに「クラスノグラードを取れ」と命じました。
もうひとつは、1977年にランツの参謀長だったシュパイデルが回顧録を出して、じつはランツがハリコフ撤退を認めたのだと書いたらしい話です。私は回顧録現物ではなく、そのことの批判を読みました。これはまあ、戦時日誌という証拠があるので論外ですね。すっかり老いて駄馬マイロードになってしまったんでしょうか。
このころの第1装甲軍(カフカズから撤退してきた)と第4装甲軍(スターリングラードから逃げ延び、一部は包囲に巻き込まれた)の関係ははっきりしないところがあります。第11装甲師団長だったバルクによると、クラスノアルメイスキー攻撃のさい、師団は軍団を飛ばして第1装甲軍直属となりました。ですからこの攻勢は第1装甲軍の仕事で、北からクラスノアルメイスキーを抜いたら、以後は南にいる第1装甲軍から補給を受けろということだったのです。そして20日、ランツ軍支隊には「neugebildete(新編成の)」第4装甲軍に配属するとの指示が来ました。同日のランツ軍支隊戦況地図には、ドネプロペトロフスクに第4装甲軍司令部の旗が立っています。つまり第4装甲軍の後方部隊やトラック部隊はあちこちに逃げ延びていたかもしれないのですが、とにかくホート司令官たちをドネプロペトロフスクに集まらせて、軍司令部が持つべき通信と補給の機能をできるだけ回復させるということだったのでしょう。部隊としての実体がないから、第1装甲軍をすり抜けるように西に現れたのです。
そしてトーテンコープ師団は当面第4装甲軍直轄とされ、3月のハリコフ攻撃までにさりげなくハウサー軍団に戻されて、すべてはうやむやとなったのです。なおランツがケンプに代えられるという通知は20日に届きました。