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外伝01 ルイジアナ大演習


 この外伝はアメリカ陸軍が参戦直前に行ったルイジアナ大演習・カロライナ大演習を中心として、アメリカの戦車ドクトリン……というより、対戦車ドクトリンについて語るものである。


 いくつか枕話をしたい。ひとつは、『士官稼業』本編ですでに語った、西欧諸国の戦車ドクトリン群である。


 最初にイギリスのフラーがいた。フラーと後継者のホバートは、戦車部隊だけが深く敵陣後方に突進し、敵司令部など心臓部を一刺しするというアイデアに()かれた。イギリス陸軍の戦車兵総監部は他の兵科との協同をあまり重視せず、快速戦車だけが水上艦隊のように戦場を往来することを想定した。いっぽうイギリスの事情として、多数の騎兵部隊を改編するとともに広大な植民地をわずかな予算・人員で守らせたいという喫緊の課題があり、そのために人付き合いの悪い戦車兵総監部とは別に機械化総監部が生まれて、軽戦車や装甲車をわんさか持った(元)騎兵部隊を統括した。


 軽戦車だらけのドイツ装甲師団編制(予定)表から判断すると、ドイツのグデーリアンも少なからずこの考え方になびいたのであろう。しかしポーランドで実際に戦った後、ドイツ装甲師団には自動車化歩兵と砲兵を強化するように改編が入り、ドイツがずっと得意としてきた柔軟な諸兵科連合の戦い方に回帰した(もちろんグデーリアンはドイツ軍人として、この考え方を否定したことはなく、むしろ力説している)。装甲兵員輸送車は、装甲師団の増設がベックたちの抵抗で出来そうにないころ生まれた、大量配備が難しい高級品であったが、「戦車に見つけにくいものを歩兵の目で見つけて撃つ」役目を負って、諸兵科連合チームに加わった。


 イギリスも第1次大戦では「チームの一員としての戦車」を突破役として使っていたし、そのときは歩兵と砲兵と戦車の緊密な連携があったのだが、ようやく1942年になってモントゴメリーがイギリス第8軍にそのことを思い出させた。


 フランスは第1次大戦末期の独仏戦での勝ちパターンであるバタイ・コンデュイを理想とした。これはまさに諸兵科が緊密に協力する戦い方だったが、柔軟さと即応性を欠いていた。第1次大戦末期の独仏戦はまさにそういう戦争であったが、例えばメソポタミア戦線はそうではなかったし、独露戦もそうではなかった。戦線をみっしりと守るほど兵と資材がなく、騎兵の脅威が生きていたから、即応をすべての部隊が潜在的に求められた。それらを忘れてしまった(ようにしか見えない)フランス軍は、グデーリアンが張り続けた大博打(おおばくち)に対応できず、敗れることになった。


 アメリカは追随者として、これらの戦訓を踏まえて(ただし、大急ぎで)戦力を整えることができた。だが参戦前に過ごした数年間にいろいろ考えすぎて、部分的に絵空事に引きずられた面も残ってしまった。そのことは順々に語るとしよう。


 もうひとつ、本筋を語る前に触れておきたいのは、75mm戦車砲(M2およびM3)のことである。M3リー中戦車や、M4シャーマン中戦車が積んでいた砲である。どうしてヤード・ポンド法のアメリカで、76.2mm(3インチ)砲ではなく75mm砲を積んでいるのであろうか。


 アメリカは第1次大戦で、フランスの75mm野砲を使ったし、国内生産能力も付けた。そう。ドイツがフランスとポーランドから大量に分捕り、対戦車砲PAK97/38に改造した、シュナイダーM1897野砲である。アメリカも戦間期には軍縮したからなかなか更新されず、第2次大戦序盤では徹甲弾と直接射撃向きな砲架が用意されて対戦車砲にもなったし、大口径戦車砲としてもとりあえずこれが()てられたのである。前大戦の旧式高射砲が転用された76.2mm砲(M7)も、M4シャーマン戦車の車体を使ったM10戦車駆逐車に載せられて1943年3月のチュニジア戦後半から戦場に現れ、また牽引対戦車砲として終戦まで戦った。大戦が始まってから開発された、対戦車用途専用の76.2mm砲(M1)は、M18戦車駆逐車やM4A1シャーマン中戦車とともに1944年以降に戦場に出てくることになった。


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 1937年、グデーリアンは『戦車に注目せよ!』を出版した。戦前である。欧州の雲行きが既に怪しい時期の現役陸軍大将として、思っていることを全部書いたはずがない。例えば空軍と戦車部隊の協力に関する記述はごく短いのだが、現役陸軍大将として、ゲーリング空軍元帥を差し置いて空軍はこうすべきだとか具体的に書けるわけがない。


 だが、読まれた。例えば攻撃について書いた章で、グデーリアンは戦車部隊の攻撃が成功するための「戦術的必要」として、「奇襲」「集中使用」「運用に適した地形」の3つを挙げた(大木毅訳・作品社『戦車に注目せよ!』、321頁)。これはもともと、イギリス軍のアーネスト・スウィントン大佐(のち少将)が1916年に提起した戦車部隊の成功条件であった(同書105頁)。ここでは主に「集中使用」について考える。


 ドイツに装甲師団が誕生したとき、3つしかない装甲師団はひとつの軍団にまとめられていた。だがポーランドでは装甲師団はバラバラに使われ、グデーリアンはそれが不満だったようである。そしてフランス戦で、グデーリアンはドイツが持つ10個装甲師団のうち3個師団を持ったが、アルデンヌの道路は混雑し、架橋機材や砲兵の到着が遅延して難儀した。「集中使用と言っても限度がありますよね」と言えば、少なくとも1940年以降のグデーリアンは「当然だ」と答えただろう。


 一方で、『戦車に注目せよ!』でも言及された第1次大戦の有名な戦例として、「カンブレーの戦い」がある。グデーリアンが書いた通りの数字を挙げれば、イギリスは戦車376両を用意し、3つの「戦術的必要」がすべて満たされる好条件を得て、ドイツ軍を大きく後退させた。「集められるだけの戦車を狭い空間に集めた攻撃」は、第2次大戦を通じて実現しなかったし、物量戦のレートがすっかり上がってしまった大戦では無理に集めても効果的ではなかっただろうが、イメージとしてはわかりやすく印象的だったし、グデーリアンも戦前に語っていた。


「戦車は精一杯集中使用するほど良いのだ」という考え方を「カンブレーの固定観念」と呼ぶことにしよう。これに一番近い第2次大戦の戦例は、エル=アラメインの膠着状態を抜け出すときのモントゴメリーの用兵だろう。ドイツの戦車砲と対戦車砲が味方戦車に大損害を出すのを承知で一斉に肉薄させ、もう損害を出せないロンメルを退かせたが、こんなことはほとんど起きなかった。だがアメリカの戦車乗りたちは、ちょっと勉強をしすぎて、この固定観念を比較的色濃く持ってしまったように思える。


 そしてじつは、頭が良すぎてこの考えにはまってしまったアメリカ軍人がもうひとりいたのではないか……というのが、この外伝のキーコンセプトなのである。



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 欧州で何が起ころうと、すぐに陸上兵力がアメリカ本土の海岸に現れるわけではない。だからアメリカは欧州諸国よりも、戦間期の軍縮気分を後まで残していた。イギリス政府がヒトラー政権誕生直後から(陸軍はしばらく放置して)まず空軍の近代化に取り組み、予算をつけていたことは本編でたびたび触れたが、大量動員につながる武器・装備の調達拡大には、アメリカ議会がいい顔をしなかった。だからアメリカ軍の動員は、じつは1939年9月のうちに「部分的非常事態」が宣言されて第一歩を踏み出していたのだが、ゆっくりとしか進まなかった。装備もないのに人だけ動員することを避け、限られた数の部隊を戦闘可能なまでに持って行くことになった。


 そこで重視されたのが、大規模兵団どうしの対抗演習だった。1940年5月に行われたルイジアナ演習は、軍団と軍団(それぞれ1個軍団しかいないが、軍司令部が指揮を執った)がぶつかる、アメリカ陸軍初の演習だった。


 ポーランドでのドイツの勝利に装甲部隊が貢献していたのは明らかだった。だがM1897野砲が象徴するように、フランスはアメリカ陸軍が長いこと師匠と仰いできた国だった。ポーランドのようにはいかないだろう……と考える士官は少なくなかった。それでもこの演習では、歩兵科が持っていた戦車大隊のほとんど全部を集めた臨時戦車旅団と、チャーフィー准将率いる第7騎兵旅団が臨時機甲師団を組んだ。第7騎兵旅団には、騎兵科がtankの名称を避けてcombat carとして調達した軽戦車が含まれ、比率はともかく、多くの自動車と砲兵を伴った諸兵科連合兵団になっていた。


 機甲部隊の打撃力に大いに期待させる演習が終わったのは、5月25日だった。すでにこのころには、フランスの驚くべき敗退と、装甲師団がそれに果たした役割は誰の目にも明らかだった。そして5月25日は……後から見れば……アメリカ陸軍の歴史に残る日となった。


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「TANK」と横腹にペンキで書かれたトラックが隊伍を組んで走り抜けた。少しずつ動員されてくる新兵たちのために、次の演習が待っていた。75mm砲を備えたM3中戦車はまだ試作車両も出来上がっておらず、37mm砲しか持っていないM2中戦車も戦間期の車両だから、もともと少なかった。


 司令部用に借りたハイスクールの地下室は陸軍士官でいっぱいだった。演習が終わった懇親会というには、アルコールは並んでいなかった。もっといいものが今日のテーブルに乗っていることを、多くの参加者は知っていた。


「corps(兵科)を新設するというと角が立つから、forceにする。tankもmechanizedも避けて、armoredにする。それでどうかと思うんだ」


「いいぜ。最前線に出られるんなら旗は何だっていい。呼ばれたときだけ歩兵を手伝うなんてのは戦いじゃねえ」


 エドナ・チャーフィー・ジュニア准将は、ちょっと屈折した先輩の言葉を微笑で受け止めた。パットン騎兵大佐は前の大戦でアメリカ戦車旅団を率いて、戦時階級で中佐、さらに名誉大佐の辞令を受けていたのが、大戦が終わったら大尉に戻されてしまった。20年かかって大佐まで戻ってきて、准将になると戦間期の小さな陸軍では現場に残れる確率が低いから、昇進を断っているという話だった。そりゃあ多少の屈折はするだろう。


「もうビッグボイス(お偉方)には話はついているんだろう」


 チャーフィーはもう一度、微笑と沈黙で応えた。父であるエドナ・チャーフィー・シニアはもう亡くなっていたが、1904年から1906年まで陸軍参謀総長だった。だから「チャーフィー閣下の息子さん」の話を聞いてくれるシニアな皆さんが、陸軍には大勢いた。騎兵科が先んじて諸兵科連合旅団まで作ってしまえたのは、その政治力も寄与していた。パットンはその微笑を肯定ととらえたようだった。そしてチャーフィーの肩を叩くと、他の知り合いを探しに行った。


 1920年に戦後の軍縮を定めた法律で、tankは歩兵科に属すると定められていて、それはまだ取り消されていなかった。いっぽう、mechanizedという言葉は騎兵科が部隊名などに何度も使ってしまったから、Mechanized Forceだと騎兵科の管轄のように感じる士官たちが歩兵科にも騎兵科にもいるはずだった。だから歩兵科と騎兵科のリソースを持ち寄って一度も使われていない名称にまとめ、兵科を意味するCorpsも避けて、Armored Forceを発足させようというのである。


「フランク、直すところはないようだ。頼めるか」


「わかった。ウサギの足(幸運のお守り)を何本か用意しておいてくれ」


「マーシャル将軍に効くとは思えないね」


 アンドリュース准将はチャーフィーの返答に肩をすくめて、大きな封筒を受け取った。マーシャル参謀総長の懐刀であるアンドリュースは、この日の会合を見届けるために来ていた。もちろんアンドリュースは、この場に歩兵総監と騎兵総監がどちらも呼ばれていないことに気づいていた。


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 1940年7月の発足に伴い、マーシャルは騎兵科のチャーフィーを機甲部隊司令官(第1機甲軍団長兼任)に任じたが、ふたつの旅団を中核に編成された機甲師団は、歩兵科と騎兵科で師団長を分けることになった。臨時戦車師団を率いていた歩兵科のマグルーダー准将が第1機甲師団長となり、第2機甲師団長はスコット騎兵准将だったが、すぐに昇任することになり、騎兵科のパットンが待望の師団長ポストを射止めた。この布陣で、今回の主題である1941年秋のルイジアナ大演習が行われることになる。


 パットンに空席が回ってきたのは、精勤で知られるチャーフィーが体調を崩し、スコットが機甲部隊司令官代理(のち第1機甲軍団長代理)となったからだった。やがてチャーフィーにガンが見つかった。チャーフィーは開戦を見ることなく、1941年8月に逝った。


 それに比べると、対戦車専門部隊には政治力を持った旗振り役がいなかった。もちろん他のすべての陸軍と同様に、予算を食う花形部署を良く思わない士官たちはいた。それが形を取るのには、もう少し時間がかかった。


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 寄り道になるのだが、1941年のルイジアナ演習が実施された背景を理解するために、1940年6月から8月にかけて起きた、議会と軍のごたごたについて説明しておいた方がいいだろう。


 フランスの敗北は国民にとっても、議会にとっても衝撃だった。だから議会は動員のスピードを加速するよう陸軍に迫った。だが小規模な有事即応部隊をまず仕上げていきたいマーシャルたちは、今さら新兵が大挙して入ってくることを嫌った。そこで妥協が成り、志願者と徴兵者で州兵師団をいくつか創設することになった。当時の制度では、州兵はパートタイムの軍人であり、年間60日まで訓練召集に応じる義務があった。陸軍は8月になると、20万人に対して3週間の短期訓練を課した。


 これが惨憺(さんたん)たる結果になった。装備も足りず訓練もうまくいかず、3週間では実戦ができる部隊はとても作れないことがはっきりした。だから議会も審議中だった法案を気前良く書き変えて、9月から、12ヶ月みっちり教練をやる本格的な徴兵が始まった。近代的な訓練計画そのものを大急ぎで作る必要があったから、アメリカ軍は仕方なく、ドイツのやり方をまねた。だから結果的に、ドイツ陸軍の長年の弟子である日本陸軍の新兵教育とも似たところができた。


 日本陸軍の歩兵操典は個人教練から始まって、分隊教練、小隊教練とだんだん大きな単位での集団行動を身に着けていくように書かれている。アメリカ陸軍も、そうした。そして12ヶ月の総仕上げとして、軍と軍の対抗演習ができるように計画した。1940年9月に動員された新編師団に精鋭師団が加わって行う、軍と軍の大規模演習が、1941年「夏」のルイジアナ大演習であったわけである。


 だが1941年初めに、6月末までに終えるはずの軍団レベルの訓練(敵役として1個師団がつく)が予定より遅れることがはっきりしてきた。軍団がチームとして振る舞う訓練が済まないと、軍団対軍団の対抗演習はできない。だから実際には、ルイジアナ大演習は1941年9月に、また本当はその前に行うはずだったカロライナ大演習は11月に行われることになって、一部の州兵師団はその前に12ヶ月の動員期間を終えるが仕方ないとされた。幸か不幸か1941年8月、アメリカ下院は大もめにもめた末、これからの新兵も含めて兵役期間を最大2年半へ改正することを可決したから、参加予定師団の解散はなくなったのだが。


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 マーシャル陸軍参謀総長を、イギリス軍のイスメイ大将は次のように評した。他人をニックネームやミドルネームで呼ばない人で、第一印象では冷たい人のように思ったが、実は部下を罷免するたびに悩む優しさも持っていたと。「コミュ力」は現代における社会人基礎力のひとつであるというが、その中身は多元的であり、マーシャルには少なくとも「他人との心の距離を詰める力」はなかった。


 マーシャルが際立っていたのは、冷徹な人間観察に裏付けられた、その「猛獣使い」としての一面であった。戦略爆撃部隊を率いたスパーツや、チャーフィーと気脈を通じたアンドリュースのように、敵の多い指揮官たちも抜てきし、能力の限りに使いこなした。アンドリュースも戦略爆撃構想の支持者であり、B-17爆撃機に日の目を見せた立役者であったが、マーシャルはついに独立空軍を作らせず、陸軍航空隊全体を陸軍のコントロール下に置いたまま戦略爆撃はやらせて、大戦を乗り切ったのである。


 マーシャルが抜てきした人物の中では、マクネア准将は比較的敵が少なく、誰からも高く評価される俊才であった。そして形のないものに形を与える組織的推進力を持っていた。1940年7月、参謀本部とは別に陸軍総司令部(GHQ)が創設され、マーシャルが参謀本部と両方のトップを兼ねたが、マクネアはGHQ参謀長という肩書で、マーシャルに代わって新生アメリカ軍の訓練計画を形にする大事業を急いだ。このGHQはそのまま出征軍司令部になる構想だったようだが、日米開戦によって世界中の戦場に少しずつ関与していくことになってGHQは解体再編された。1942年3月にマクネアは「陸軍地上部隊司令官」という新しい肩書を得ることになったが、この外伝の道筋とそのことは関係がない。ともあれ、いろいろ悲喜劇的なエピソードを巻き起こしながら、アメリカ軍は急速に「勝利のシステム」を織り上げていった。


 だが、この種の俊才は思い込みも激しい。というより、見たこともないものについて仮定的な決めつけをしないと、形のないものに形は備わらないのである。もともとメカに興味があり、新兵器開発の仕事をして来たマクネアは、アメリカ陸軍の対戦車部隊が未整備であることに気づいていたが、「敵戦車が集まる決戦場に自分たちも結集し、戦車を打ち破る対戦車部隊」というアイデアを結果的に推進してしまうことになった。そして誰も音頭を取らないので、1941年4月にマーシャルが軍直轄対戦車部隊を創設するよう指示すると、マクネアはその育ての親を引き受け、熱心に推進した。やがてその部隊には、戦車駆逐部隊という少し勇ましい名前がついた。


 残念ながらマクネアは終戦を待たず殉職してしまったので、当時何を考えていたかを丁寧に説明する機会はなかった。だがマクネアが砲兵士官であったことは、想像を語るヒントにはなる。


 騎砲兵という兵科……というより運用術が、第1次大戦までは各国にあった。全員が馬か馬車に乗り、比較的小口径の砲を引いて素早く要地を取り、効果的な直接照準砲撃を浴びせて戦局を傾けるのである。プロイセンでは騎兵と並んで、平民士官をほとんど採らない兵科であった。だが電信と電話の時代になると、射撃準備を終える前に近くの砲兵部隊に連絡が行き、砲弾が降ってくるために、こうした用兵は(第1次大戦初期に高い授業料を払った末)大規模には用いられなくなって、歩兵砲や迫撃砲が役目を引き継いだ。


 マクネアは自走砲による騎砲兵の復活を夢見たのではあるまいか。軽戦車主体のアメリカ機甲部隊が中戦車を中心とするものに変わったのは、マクネアが戦車駆逐部隊の基本構想を固めた後だった。戦車が強力な砲を積み、対戦車砲を載せた戦車駆逐車が防御力と歩兵への攻撃力を高めれば、同じような車両になる。それを読み切れなかったのではあるまいか。


 マクネアは「カンブレーの固定観念」を明らかに真に受けて、「結集してくる戦車部隊を倒す、軍直轄戦車駆逐部隊の大群」を構想した。そしてフラーの「戦車同士の艦隊戦」というイメージも勉強してしまい、「艦隊を撃退する固定砲台」のアナロジーで戦車駆逐部隊構想を語ったこともあった。だから「高速な軽戦車の大群」を相手にする「攻撃的で機動的な」戦車駆逐部隊を求め、自走砲化には熱心だったが、その防御力が低いことも、また中戦車・重戦車への攻撃力が足りないことも対策が後手に回ることになった。


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 1941年8月、ルイジアナ大演習に参加するアメリカ第3軍は、軍直轄の砲兵部隊から改編した連隊サイズの戦車駆逐団を3個与えられた。3個戦車駆逐大隊(37mm/75mm対戦車砲)、スカウトカー小隊、工兵小隊、3個ライフル小隊で1個戦車駆逐団であった。M3ハーフトラックに75mm対戦車砲を載せたM3 GMC、4輪車に後ろ向きに37mm対戦車砲を据え付けたM6 GMCが配備される予定だったが現物はまだなく、トラックの荷台に砲をくくりつけた仮設車両がつくられた。


 ドイツ歩兵師団の編成をまねるなら、歩兵連隊の対戦車中隊だけでなく、師団に対戦車大隊を与えなければならない。全師団につけるとなると大拡張が必要である。だから遅れているルイジアナ大演習を、もう待っていられなかった。8月に多数の戦車駆逐部隊を創設すると先に決まってしまったから、戦車駆逐部隊は何としても成功させなければならなくなった。


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 ルイジアナ州都ニューオーリンズ市は州の南東端に近いところにある。47万2千人を動員する大演習で、私有地に人や馬やトラックや戦車が入り込んでも謝って補償して済ませるとなると、人口の多いところはダメである。だからルイジアナ大演習は、ルイジアナ州の西半分を使って行われた。同じ部隊構成で、設定と初期位置を変えてフェイズ1、フェイズ2の2つの演習があったのだが、フェイズ1では侵攻側の赤軍(第2軍)は補給の策源地を北東隣のアーカンソー州リトルロック市(キャンプ・ロビンソン陸軍基地)に置き、青軍(第3軍)はニューオーリンズ市に置いて、補給トラックの列を西へと伸ばした。


 ということは、大都市のほぼない演習地域には、良い道路や良い橋も少ないということである。迎撃する側としては、機甲部隊の進路にヤマも張りやすい。両軍の司令官は60才と62才でたいして違わなかったが、歩兵部隊で迎撃する青軍のクリューガー中将のほうが積極的な性格をしていた。


 赤軍は「夜間に前進を開始し、9月15日午前5時を期して演習地域を東西に流れるレッド川を渡り侵攻せよ」と命じられたし、青軍は「赤軍の侵攻が近いという確度の高い情報あり。9月15日午前5時半まで移動を待ち、渡河してくる赤軍を打ち破って、逆渡河のうえ北東方向に反撃せよ」と指示された。この状況が1941年ルイジアナ大演習の第1フェイズであった。機甲軍団のいる赤軍と、州兵師団が大半だが歩兵の人数はずっと多い青軍の遭遇戦……というのがフェイズ1のテーマだった。


 ところで陸軍航空隊も、この時期に歴史的な転換を迎えていた。「イギリスのように空軍を陸軍から独立させよう」という航空隊のリーダーたちの動きは、政治家も巻き込んで陸軍首脳を悩ませていた。マーシャルは1941年6月20日、規定を改正して、航空部隊と関連地上部隊を陸軍航空隊にまとめ、アーノルド准将にそれを任せ、アーノルドの下に幕僚組織を持つことを認めた(事実上「陸軍航空隊参謀本部」になるので反対も強かった)。これで当面、空軍独立論を説くのは止めてくれというわけであった。そうなるとアーノルドも、今度は航空隊の急進派を抑えて、地上部隊の支援も忘れていないところを見せねばならなかった。だから6月になって突然、ルイジアナ大演習には海軍から借りてきた急降下爆撃機や戦闘機部隊を含めて、600機の作戦機が参加することになった。もちろん地上支援のためのノウハウ、特に地上と連絡を取り合う手順・組織や手段は模索段階であったから、「協力」に狭く限れば成果はそれほどなかったが、後から見ると、確かに航空隊の強力な関与が演習の成り行きを大きく変えた。


 赤軍にも青軍にも戦闘機隊はいたが、航空優勢の確立が主な関心事だった。だから忍び入る偵察機は両軍とも見逃された。青軍の動きも漏れたが、赤軍の主攻である第1機甲軍団が演習地域西端をシュリーブポート市からレイク・チャールズ市への道路に沿って真っすぐ南下し、青軍初期集結地のレイク・チャールズ市を()いて来ることが、早い段階で知れてしまった。


 青軍のクリューガーは、補給トラックも動員して歩兵を載せ、精いっぱいの速度で北上させた(ルール上これは認められており、フェイズ2でもカロライナ大演習でも両軍が繰り返した)。他の方面でも州兵師団の兵士たちをうまく鼓舞して、赤軍の予想を超えた速度で進ませた。シュリーブポート~レイク・チャールズ街道の中間にはマニー市があり、その西側は南北に細長いトリード・ベンド湖があって迂回できない。そしてマニーの南には、尾根と森林が東西の帯状に連なっていた。


 つまり青軍が尾根と森林に先着し、対戦車砲(本物であれ演習用ダミーであれ)を構えてしまうと、第1機甲軍団の侵攻路は袋小路になってしまったのである。


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 ところで皆さんは、「卒業研究計画」「売上向上計画」などを立てさせられたことはないだろうか。目標そのものは意義があって大変結構なものであっても、それを実現するにはどうしていいかわからない。「作業計画があれば努力して頑張ることができるから、作業計画をくれ」と言っても、「それが勉強だよ」「死ぬ気でやれ」「本を読め」「普段の積み重ねだ」などと言われる。実際、赤字を続ければ企業はつぶれ、メンバーの生活は成り立たないのだから、誰かが成功する「方法」を考え、それを作業に落とし込み、メンバーの不平にかまわず実行させなければ企業も役所も回らない。その一方で「昔は採算が取れた作業」を黙々と続けるお店が、存続できる成績を達成できずひっそりとなくなっていく。それが世間である。


「作業すれば必ず成功し評価される」というのは、成人に近づくと与えてもらえなくなる救済である。人が望む成功には、最新事情と最新の選択肢に関する不断の勉強・観察に加えて、幸運か才能の蓄積と組み合わせが必要であって、限られた時間内の努力では埋まらないものもある。それを直視したくない人、あるいは失敗を予感した人は、しばしば(現状を見ないで作った)作業計画をでっちあげ、それを実行することで心の許しを得ようとする。


 9月16日のうちに、赤軍の攻撃計画がマズいことになっているのは明らかだった。通過しにくい尾根や森林に、青軍の歩兵と対戦車砲が先着していた。だが赤軍のリア司令官は、単に総攻撃を17日から18日に延期し、周辺偵察を徹底し遅れた部隊に追いつかせることを命じた。本当は近代戦がよくわかっていないリアは、機甲部隊による突破という(最近の他の演習経過も踏まえた、無難な)作業計画について、自分の判断で失敗を認め、オリジナルな修正をすることができなかったのである。


 それを受けた第1機甲軍団のスコット軍団長は、チャーフィーの代行に立ったような人だから、リアよりは状況のまずさがわかっていた。だがいくら迷っても、自分に与えられたリソースでは、勝つ手段がどうしても見つからなかった。だからリアの命令を受け取った後、17日の行動命令をスコットが出したのは、17日の13時だった。パットンの第2機甲師団は遅れた命令を待たず、すでに受け取った命令を破らない程度に限定的な攻撃をかけたが、マグルーダーの第1機甲師団は原則に従って、命令を受け取るまで、野営地を引き払う作業すら控えた。だから野営地出発は17日の22時になった。道路は歩兵部隊でいっぱいだった。


 結果は……戦車の大量喪失だった。突っ込んでは撃たれた。マグルーダーは師団を機甲連隊の数だけ3つに割って、違う道を分進させたが、集中の利益を失っただけだった。カリブ海に面したルイジアナ州はハリケーンのシーズンで、道路を外れると泥沼だった。


 赤軍戦線の西端には第6歩兵師団がいた。少数精鋭の有事即応部隊のメンバーとして育成された師団だったが、多くの新兵を受け入れて日が浅かった。青軍の3個師団に肉薄されて、地形判断のミスもあって対応が後手に回った。師団司令部に通過不可能と報告された方向からも、青軍が来たのである。やがて師団の壊乱は明白になった。



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「つるんでやがる。あのクソッタレの審判ども、お偉方とつるんでやがる」


「我々は置かれたスープを飲むしかないのだ、ジョージ。いつもそうだろう。それが腐った豆のコールタールスープでも、匙を使うか皿から飲むかくらいしか選べない」


 車両を演習で実損させたくないので、機甲部隊は夜襲も禁止、夜襲を受けても損害ナシということになっていた。だからパットンはマグルーダーと無線で打ち合わせるはずが、愚痴になっていた。パットンの調子に合わせて、大声で無線に答えるマグルーダーの言葉遣いがどんどん下品になるので、第1機甲師団司令部の空気は凍り付いていた。もちろんパットンの第2機甲師団司令部は、いつものことだから通常営業であった。


 たしかに、大演習の損害判定ルールには時代遅れになった部分があり、はっきり非現実的なところもあった。戦車に一定距離まで接近されたら、周囲の歩兵は制圧されて何もできなくなったが、対戦車砲を戦車が撃破するには、やはり一定距離以下に近づくしか方法がなかった。これは、(実際にまだそうなのだが)戦車の大半が軽戦車であり、軽戦車の装備が少し前までせいぜい12.7mm機関銃で、大砲がなかったことをイメージしていた。だから戦車はいい場所を取った対戦車砲に撃たれ放題になるのである。


 少し先の話をすると、11月のカロライナ大演習ではさらにルールが戦車部隊不利になり、歩兵が袋入りの「対戦車手榴弾」によって戦車撃破を試みることが認められた。おそらくドイツの集束手榴弾が戦車に向けて使われるという話を元にしたのであろうが、戦車部隊は撃破のため対戦車砲に接近を求められるのだから、どうにも不利な話であった。大演習の実施本部はマクネア自身が指揮し、審判マニュアルも書いているのだから、戦車駆逐部隊の勝利を確実にするための措置と勘繰られても仕方ないところがあった。


 だが偵察の不足、強引な突破、歩兵や砲兵との連携不足は、他の演習でも見られたパットンの悪癖であり、いくらかは戦車部隊共通の悪癖だった。それでも機甲部隊がついた側が高い確率で演習に勝ってきたのであり、確かに戦車駆逐部隊の充実が演習を変え、おそらくそれは戦場のアメリカ軍も変えるはずではあった。


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 19日夕方にフェイズ1は打ち切られた。実施本部の講評は勝敗に触れることを避けたが、どう見ても青軍圧勝であった。赤軍にはマグルーダーの第1機甲師団が残り、スコットとパットンは青軍に移り、逆に3つの戦車駆逐団は2つが赤軍に移った。ほぼあらゆる面で青軍が圧倒的である中、リアの赤軍(第2軍)はマグルーダー師団の存在も生かして、南から来る青軍から北のシュリーブポート市を守り抜け……というのだった。9月24日正午、フェイズ2は状況開始を迎えた。


 メディアは容赦なく報道し、士官たちはこそこそと噂し合っていたが、この時期のアメリカ陸軍には重要で不愉快な仕事があった。戦間期に出世が遅れたまま軍に残っている、高齢で不活発な士官たちを指名解職する制度が新設され、リスト作りが始まっていた。大演習での出来は、当然に士官たちの個人的なキャリアにとって決定的なはずだった。演習の主旨から言って、勝ち負けよりも実戦に近い経験の吸収を考えるべきであったが、演習後のアメリカ陸軍に自分の席があるかどうかを無視できる士官はいなかった。


 フェイズ1で惨敗したリアは、部下の状況報告もろくに聞かず、ひたすら早め早めに退却して確実に状況終了までシュリーブポートを渡すまいとした。実戦では確実な終了日などないのだから、困ったことだった。橋という橋は爆破され、フェイズ2を通じて赤軍が試みた爆破は900回を越えた。わずかな砲兵を伴う6個の赤軍遅滞戦闘部隊が動き回り、青軍の前進を遅らせた。まだハリケーンのシーズンで、川は増水し、渡河を試みて殉職する例も出ていた。


 接敵して戦闘になることすらほとんどなかったので、フェイズ2の3日目である26日には実施本部がイラつき始めた。リアは仕方なく、26日の位置に27日までとどまるよう命じた。ちょうどそのとき、青軍のクリューガーは起死回生の迂回攻撃を命じるところだった。


 今回の演習地域は全体に、フェイズ1より西寄りに設定されていた。だからフェイズ1で西端に近かったシュリーブポート~レイク・チャールズ街道よりも、もうひとつ西の南北道路が使えた。南北に細長いトリード・ベンド湖のすぐ西側にある道である。この道を、スコット軍団長が直率(じきそつ)する第2機甲師団主力が進んだ。


 ちょっと微妙なのは、そのさらに西の道だった。テキサス州を通るこの道路は、途中で演習区域をはみ出していた。北端で戻ってくるのだが、この道を使ってよいものか。実施本部は異議を唱えなかった。実は同じ区域で春に行われた、もっと小規模な演習で、他ならぬパットンがその道を使って勝利していた。パットンは自動車化歩兵など師団の一部を率いて、このルートを行った。そしてシュリーブポートの直前で街道を外れ、さらに北へ回り込んだ。このルートは敵に予想されていると、当のパットンも思っていたからである。


 第2機甲師団が2つに分かれたのは、外側にいる敵を防ぎながら内側の敵を叩く二重包囲をやろうとしたのである。クリューガーは、「リアルな戦闘を体験する」という演習の主旨をちゃんと守っていた。


 27日からあちこちで戦闘になった。いったん戦闘になると、赤軍が後退することは困難になった。マグルーダー師団はあちこちへバラバラに投入され、戦車駆逐団はパットンの進路を読み間違えたことも響いて、フェイズ1ほどの戦果を出せなかった。


 パットンがシュリーブポートに迫り、その一部が飛行場に飛び込んで赤軍航空部隊をマヒさせたところで、28日夕方に実施本部は演習を終了させた。パットンの勝利をマクネアが奪ったようでもあるが、人口10万人のシュリーブポート市で夕方のラッシュ時に市街戦などさせられるか! というのももっともな説明であった。実際、補給のめどが立たないパットンはガソリンスタンドで燃料を買っていたが軍用弾薬は売っていなかったし、勝利は確定なのかと言われると微妙ではあった。


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 第2軍と第3軍の軍団長や師団長が次々と辞職を表明し、解職士官リストが師団ごとに公表されていった。トータルで見れば、実際に解職された士官は全体の1%にも及ばなかったが、戦地に送られる部隊から外されるケースもあった。フェイズ1で失態を演じた第6歩兵師団長は訓練未成でもあり留任したが、兵士が心服しなかったものか、1年後にレンドリース物資のペルシアルート開設にアメリカが関与を深めたころ、イラン軍事顧問団長として赴き、終戦までそこで過ごした。師団そのものはあらためてジャングル戦の訓練をやってニューギニアのサルミ上陸作戦を初陣とし、フィリピンのルソン島上陸作戦に投入された。リアは本国で軍司令官にとどまり、その後は軍政職に移ったが、1944年にマクネアが殉職すると顕職のピンチヒッターにも立った。気を吐いたクリューガーは太平洋戦線に投入され、陸軍地上部隊を太平洋戦線に回してもらえるまで我慢しながら、反攻作戦を指揮した。


 そんな中、スコットの軍団は次の対戦地に向かった。ノースカロライナ州とサウスカロライナ州にまたがる演習地域で、今年最後のカロライナ大演習が待っていた。現地でグリスウォルド少将率いる第4軍団に属し、ドラム中将のアメリカ第1軍と戦うのであった。


 フェイズ1は、ドラムの青軍が東、グリスウォルドの赤軍が西に陣取って、互いに前進しての遭遇戦であった。11月16日に開始された大演習で、勝利にこだわるドラムは一部の部隊をこっそりフライング出撃させて実施本部にバレた。


 数的に優勢な青軍を受け持つドラムは、第1次大戦で勝った手法が今でも正しいと信じていて、砲兵より先走らないように他の兵科をそろそろと前進させる傾向があった。赤軍戦線の北端にはマグルーダー師団、南端にはパットン師団がいたが、南端で青軍の数的優勢が著しく、グリスウォルドはパットン師団を事実上の火消し部隊としてキープした。これから語るマグルーダーの失態を考えると、これがパットンの面目を救ったと言える。


 マグルーダーはまた師団を機甲連隊を軸として3つに割り、戦線の切れ目を探して、後方襲撃を狙った。ひとつが突破口を見つけて背後に回ったが、例によって軽戦車の集団であり、19日以降まったく孤立してしまった。そこへ戦車駆逐部隊が集まってきて袋叩きにされ、味方戦線への帰還を助ける無理な攻撃も含めて、マグルーダー師団は全く攻撃力を失うことになった。青軍が数的優勢をストレートに戦場の優勢に変えたまま、21日朝にフェイズ1の終了が宣言された。


 いいところがなかった赤軍であるが、遊兵なく全部隊で積極的に戦ったことは評価され、逆にドラムが戦線南端の優位を遅い前進のせいで生かせなかったことを、マクネアは講評で批判した。


  カロライナ大演習でも戦車部隊は、「すき間を見つけて敵後方へ躍り込む」フラー流の一刺しを狙った。カンブレー風の最大集中を求めず、すき間のありそうな両端に機甲師団を置いたグリスウォルドも、そうした用兵を認めたと言える。日露戦争の永沼挺身隊のように、軽騎兵の一隊をもって後方を引っ掻き回すのは騎兵のひとつの夢であり、新しいアイデアではない。1938年にアメリカ陸軍騎兵科がまとめた「機械化騎兵」のマニュアルは、もっぱら機械化騎兵の偵察について書いていたし、その中には後方を偵察しつつかき乱すdeep strategic reconaissanceも含まれていた。パットンだけの夢というわけでもないのである。


 話をカロライナ大演習に戻そう。フェイズ2は90度回転して、ドラムの青軍が北、グリスウォルドの赤軍が南であった。11月25日朝が状況開始であった。赤軍の出発地点と言ってよい演習地域南端にカムデン市があり、南向きの道路はみんなここに集まる地勢であったが、グリスウォルドへの指示書には「30日に演習が終わるまでカムデンを死守せよ」とあった。引き続き機甲軍団は赤軍におり、防御における機甲兵力の活用が焦点のひとつとなった。


 フェイズ2の趣向は、ドラムにはあいまいな前進命令だけを与えて、カムデンだけ守れば赤軍は目標達成だと知らせないところにあった。古臭い考えのドラムにマクネアは好意が持てず、慎重に進むと勝てないような状況にしたのかもしれないし、フェイズ1での進退にイラっとしてこう指示したのかもしれない。ドラムはまた25日にフライング発進をやって見つかった。


 グリスウォルドのもとには第4歩兵師団があった。これはアメリカが将来自動車化歩兵師団を作るときのモデル師団になる予定で、戦車はいないものの自動車は多く、第2機甲師団と同じ基地で訓練を受けていた。だからグリスウォルドはこの師団と2個機甲師団を軸にして3つの遅滞戦闘団を作り、(戦車部隊は夜間戦闘できない演習ルールもあって)夜になると交戦を離脱することを繰り返す構想だった。ところが25/26日夜、赤軍の作戦計画が青軍偵察部隊に奪取される不運があり、早くもドラムは「カムデンを落とさないと勝てない」ことを知った。初日はフライング発進までやったのに、途中で出会った赤軍部隊をきれいに包囲しようと手配りして、また青軍は速度を落としていたのである。捕虜は翌日に再参加する(その部隊の攻撃力減少は記録される)決まりだから、赤軍も作戦計画がバレたことは知っていたはずである。


 赤軍は27日には2個戦闘団の共同攻撃を成功させて、また青軍後方に飛び込むチャンスを作っていたが、別の場所で敗北の危機にあった。じつは赤軍が追い込まれつつある演習地域南半分には、北西から南東にかけて斜めに川が流れていた。つまり西端で南北の道路を確保している限り、機甲部隊は西に行けば渡河リスクのない脱出路があり、いったんカムデンに戻って新たに出撃もできる。この西端が、差し違えるように青軍歩兵の攻撃を受け、カムデン直前の防御陣地がむき出しになっていたのである。


 ドラムの敗着は、27日の機甲部隊突破の危機に最後の予備師団を送ってしまい、西端での絶好の位置を生かさなかったことだった。ここで有力な歩兵部隊が南進してカムデン防御陣地に達すれば、赤軍の機甲部隊は移動の選択肢を大きく狭められ、青軍は邪魔されずにカムデン攻略部隊を増援できたはずだった。逆にグリスウォルドは機甲部隊を急行させて、西端の道路を確保した。28日夕刻、もう終了予定日の30日までにカムデンが落ちないのは明らかとみて、実施本部は演習終了を宣した。今まで演習の勝敗に言及を避けてきたマクネアは講評で、「赤軍は目標を達成した」とはっきり言い切った。


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 ドラムは蒋介石の下で参謀長をやらないかと打診されて断り(史実でのスティルウェルの立場)、定年まで東海岸を守った。グリスウォルドは太平洋戦線で軍団長級の指揮官(指揮下部隊の規模が伴わず、なかなか「軍団長」に戻れなかった)として戦った。


 ときどき迷って軍団命令を遅らせたスコット、そして戦力分散がいつも裏目に出たマグルーダーは訓練を中心とする本国での仕事につき、太平洋戦線にも欧州戦線にも現れずに終わった。


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 少し先の話まですることになるが、その後の戦車駆逐部隊についてまとめて語っておこう。


 1943年2月14日、戦車駆逐部隊のM3 GMC、つまり75mm砲搭載ハーフトラックはおそらく戦車駆逐部隊として初めてティーガー戦車を撃破した。ところがこの戦いは、砂塵で視界が限られた中での遭遇戦で、戦車駆逐部隊は泥にはまって放棄したものも含めると、1個中隊の全車両を失った。


 ルイジアナ・カロライナ大演習の戦車部隊は他兵科との連携がうまくいかず、戦車だけで突っ込んできたし、軽戦車主体の構成だった。そこでの大戦果を再現しようと意気込んだ戦車駆逐部隊は、たしかに積極的に勇戦し大きな損害を枢軸軍戦車に与えたが、自分も防御力のなさに見合った大損害を(こうむ)った。教則では良い偵察と良い位置取りで、紙装甲や隠蔽しにくさの弱点をカバーすることになっていたが、守勢に回った大戦後半のドイツ軍に対してそれは困難だった。そしてドイツ装甲部隊の栄光が陰った後で欧州戦線に出て行った戦車駆逐大隊群は、そもそもドイツ戦車の大群にめったに出会わなかった。


 本業がヒマであった戦車駆逐部隊は、砲兵を手伝って支援砲撃に駆り出され、重宝された。ある戦車駆逐大隊はノルマンディーに上陸してからドイツが降伏するまでに、直接砲撃で4193発、間接砲撃(観測員の無線か電話を頼りに、高い角度で見えない敵を撃つ。つまり砲兵の手伝い)で33486発を撃った。だが戦車駆逐大隊の吸い込んだ膨大なヒトやモノを、砲兵部隊か戦車部隊につぎ込めば、もっと少ない犠牲で同じくらい、あるいはもっと多い戦果が出せたかもしれなかった。


 機甲部隊は対戦車砲を戦車が攻撃しづらい演習ルールに泣いたせいか、短砲身榴弾砲を持ちもっぱら対戦車砲を攻撃する兵器「アサルトガン」を要求し、容れられた(ドイツのIII号突撃砲のことも頭にあっただろうが、はっきりした証拠はない)。すでに触れたように、欧州投入を待つ間にアメリカ戦車は中戦車の比率を高め、戦車の相棒としてのアサルトガンは活躍の場を失ったが、37mm砲までしか持っていない機甲偵察部隊は頼もしい相棒を歓迎した。初期には短砲身榴弾砲をハーフトラックに載せた車両が使われたが、やがてM5軽戦車の車体を使ったHMC M8が取って代わった。この自走榴弾砲はタミヤの1/35模型にもなっているのでご存知の読者も多いだろう。最終的には、M4中戦車系列の一部に105mm榴弾砲を積むことで、アサルトガンの系譜は途絶えた。


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 最後に、少し時計の針を戻そう。


「よう。参謀長はいるか」


 ルイジアナ大演習が終わった10月の初め、パットン少将(1940年秋に准将、正式に第2機甲師団長を継いだ1941年春に少将)は、ふらりと第3軍司令部を訪れていた。本人も、訪問先もアポなしで会える地位ではなかったが、パットンはずかずか通ろうとして応対する士官たちを慌てさせた。


「いらっしゃいジョージ。給油ですか」


「まあ、そんなもんだ。ひとこと祝いを言おうと思ってな」


 第3軍参謀長が、変事を聞いてすぐ廊下に出てきた。鮮やかなフェイズ1の封じ込め、タイミングを見計らったフェイズ2の敵司令部一刺しは、クリューガー司令官の主導によるものであり、それをおぜん立てした参謀長は10月3日付で准将に昇進した。むしろマーシャルが目をつけた俊才が、最終試験で試されていたという方が実態に近い。


「ジョージのおかげですよ」


「みんな言っている。お前さんはこんなもんじゃ止まらないだろう。出世したら俺を使ってくれ。わかるな。アスファルトなんか金輪際お目にかかれねえ、クソッタレの戦場だ」


「泥だらけの道ですね」


 参謀長は、今回の大演習がハリケーン続きで、ちょっと道路を外れると泥だらけだったことをネタにしたつもりだったが、パットンは顔いっぱいに笑った。


「わかってるじゃねえか。その泥の中に名誉勲章(アメリカ軍人への高位の勲章で、戦時にしかもらえない)が落ちてるんだったら、俺は泳いで拾うぜ」


 パットンは本当にそれだけが言いたかったようで、右手を伸ばして握手すると、手を振って背を向けた。参謀長のドワイト・アイゼンハワー准将は、肩を震わせて若々しく笑った。

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