鏡の世界
「……っ……何なのよもう……」
立ち眩みしたときのように、頭がふらふらする。
身体に妙な浮遊感が残っていて気持ちが悪い。
……何が、起きた?
さっき見たのは、見間違いじゃなければわたし自身だった。
まるで、突然目の前に鏡が現れたような……
「芽衣、大丈夫?」
頭を押さえながら顔を上げて、芽衣に話しかける。
しかし、返事は無かった。
「……芽衣?」
慌てて周りを見渡す。
――誰もいない。
ついさっきまで、すぐそこに芽衣がいたはずなのに。
「一体、何が……」
自分がいるところは、さっきまでと同じところに思える。
白い壁に囲まれた、薄暗い広間。
しかし、何だろう。
何かがおかしい。
違和感がある。
しん、と静まり返った空間に、思わず鳥肌が立つ。
「お、お~い……芽衣~……いないの……?」
音のない世界に不安になり、壁を伝いながらゆっくり歩き回る。
それでも、やっぱり返事は無い。
まるで、この世界にわたしだけしかいないようだ。
「何を……されたの……?」
ここはアストラルホール。
何があるかわからない。
何か得体の知れないことが起きているという不安に、心臓の鼓動が早くなる。
ぞわっと寒気がして、泣きそうになる。
……とにかく一度、この洋館から出よう。
そう思い、再び階段に戻ったとき。
わたしは見慣れぬ光景にぎょっとした。
「……反転……してる?」
鏡文字――左右に反転している、「2」の数字。
それがわたしの視界に入った。
ここは二階だ、それは間違いない。
だから階段を上ったところに、階層を示す数字が彫られていた。
しかし、その数字が……反転している。
「これって……まさか」
鏡の……世界。
京香の魔法としか思えない。
京香に、何かされたのだ。
鏡の世界に引きずり込まれた……とでも言うのだろうか。
京香の魔法が作り出したアナザーワールド。
推測に過ぎないが、それなら急に芽衣が消えたことも理解できる。
芽衣じゃなくて、わたしの方が消えたのだ。
分断された……そう考えて、間違いないだろう。
「あいつ……こんなこともできるのね……」
これが本当に京香の仕業だとしたら、まずい。
京香に出会ったとき、あいつはわたしの炎魔法を反射して見せたが……こんなことができるなんて、一言も言わなかった。
もしかしたら、ほかにも奥の手を隠しているかもしれない。
鏡魔法は、未知の領域なのだ。
どうすればいいのだろうと、呆然と立ち尽くしているときだった。
「――樋本華蓮さん」
「ひいいいいいいい!」
静かすぎる空間に自分の名前を呼ぶ声がやけに大きく響いて、思わず振り向いた。
「ひいいって……随分可愛い悲鳴をあげるんですね」
「あ、あんたは……」
三階へ上る階段からゆっくり姿を現したのは、おかっぱ頭の女の子。
その顔は、よく覚えている。
雷の魔法を使う、ミラージュの魔法少女……安曇瑠奈だ。
「る、瑠奈……! ちょっと! なんなのよ、この空間は!」
「もう、気付いているんじゃないですか? ここは鏡の世界……京香さんの魔法が作り上げた、異空間です」
あっさりと打ち明ける瑠奈。
隠す必要もないということだろうか。
「……だったら、早く元の世界に戻る方法を教えなさいよ!」
「いや、言うわけないですよね。何のためにあなたを引きずり込んだと思っているんですか」
「うぐ……」
真顔で答える瑠奈にペースを乱される。
相手のペースに呑まれちゃだめだ。
わたしは咳払いをすると、平静を装って言った。
「あ、あんたもここにいるってことは……目的は、さっきの集団と同じかしら」
「……そうですね。これから魔王討伐というときに、華蓮さん……あなたの力は邪魔ですから」
魔王討伐――その言葉に緊張が走る。
やっぱり、芽衣は今も狙われている。
本当に、ミラージュには芽衣を倒す算段がついているのだろうか。
まさか、華奏の光魔法で何かを……?
わからないが、そういうことなら猶更こんなところで芽衣と離れ離れになるわけにはいかない。
「……あんたには、わたしの力を見せたはずだけど。それでも歯向かうって言うのね?」
「はい」
即答。
手っ取り早く撤退する機会を与えたつもりだったが、瑠奈の返事に迷いはなかった。
ふう、と大げさに溜息をついて見せる。
「……なんで? わかってるわよね? 今の魔王は芽衣。でも、芽衣はわたしたちと同じ、魔法少女なのよ」
「……わかってます」
「それなのに、芽衣を討伐するって言うの?」
「…………」
瑠奈は答えない。
黙ったまま、じっとしている。
わたしは、再度質問を投げかけた。
「瑠奈……あんたはどうして戦うの?」
「そ、それは……」
初めて、瑠奈の態度に動揺の色が見えた。
「それはもちろん、アストラルホールのために……」
「あんたほんとに嘘下手なのね」
「なっ……!?」
瑠奈の肩がびくっと震える。
「あんた、そんなにこの世界に思い入れでもあるの? ないわよね。そんな大義名分、あるわけないでしょう」
わたしはゆっくりと瑠奈に歩み寄った。
瑠奈は、じりじりと後退りする。
「な、なにを言って……」
「ま……なんとなく察しはつくわ」
わたしは冷たく言った。
「京香に言われたから。それだけでしょ」
「っ……!」
「あんたがどれだけあの女に心酔してるか知らないけど……わたしは」
「う……うるさい!」
瑠奈が叫んだ。
「あなたにわかるはずもない! 京香さんは、わたしたち魔法少女を魔獣から守ってくれた高尚な人で……!」
「守ってくれた……ねえ。その結果、利用されてるだけじゃないの。わたしにはあの女、魔女にしか見えなかったけど」
「黙れ! わたしは! 京香さんのために……!」
「あんたのそういう性格、付和雷同って言うのよ。雷ビリビリのあんたにはお似合いね」
静かに炎を纏った右腕を前に突き出すと、まっすぐ瑠奈の方を見ながら言った。
「邪魔するなら、容赦しないから。どきなさい」
燃える右手を目の前に突き付けられて、沈黙が流れる。
数秒の静寂のあと、瑠奈がゆっくりと口を開いた。
「……華蓮さん……確かにあなたの魔力はわたしよりも強い。それは認めます」
「だったら、おとなしく……」
「ですが……勝てないなんて言った覚えはありませんよ」




