人に見て貰いたい訳じゃない
鬱蒼と生い茂った木々の間を、男は黙って登っていた。まるで獣道のような険しく細い坂道は、ところどころに木の根がトラップのように地面から出ており、男は時折それに足を引っ掛けそうになっていた。
立ち止まり額に浮かぶ汗を拭ながら辺りを見渡すと、まるで水の中にいるかと錯覚する。
森林浴とはよく言ったものだ。
辺り一帯の苔むす木々が、周囲の空気すら彩っている。
その空間にもし魚が泳いでいても、不思議ではないくらいだ。
男は更に坂道を登り続けた。
すると遠くに小さな建物が見える。
そこを目指して歩き続けたら、それは大きな門だった。
「通神門」
門の真ん中には、縦書きでそう書かれていた。
読んで字の如し、神様が通るための門なのだろう。
茅葺き屋根も苔むしており、緑の空間に溶け込んでいる。
男は門をくぐろうとして、ふと目に入る。
門の右手には何も無いと思った場所に、絵が描かれている。
思わず左手も見たら、そちらにも描かれていた。
どちらの絵も年月をかけたのか色褪せており、ところどころハゲてる部分もあってボロボロだった。
それでも右手の絵は見てるだけでも心が柔らかくなるような、優しい光を感じる絵だ。
逆に左手の絵はなんだか不穏な空気を感じる絵だ。
「これはいったいなんだろう……」
男が呟くのもわかる。
絵といえば人物画か風景画くらいしか分からない男にとって、その2枚の絵はよく分からないものだった。
人物も風景も描かれてはいない。
それでも見れば伝わるものがあった。
門をくぐり抜けまたひたすら山道を登っていくと神社があった。
とても小さな神社だ。男は2礼2拍1礼し参拝すると、社務所に行く。
無人の社務所は、机に呼び鈴が置いてあり「御用の方は鳴らして下さい」と書いてある。
チリンッ
出てきた神主らしき人に御守りを頼むと、男はつい気になってた絵についてきいた。
「ところで、来る途中にあった門の絵はどんな意味があるのですか?」
神主らしき人はその質問に驚き、その後和かに笑いながら言う。
「珍しい事を聞きなさる。せっかくじゃ、上がって茶でも飲んで行きんさい」
「え?良いのですか?」
「ええって。こんな辺鄙な場所、滅多に人なんか来んからな」
男はせっかくなので上がらせて貰う事にした。
そこは六畳ほどの部屋で、真ん中にちゃぶ台が置いてある。
神主が用意してくれた座布団に座って、お茶を飲みながら話を聞いた。
「さて、あの絵についてじゃがな、実は意味などワシにも分からん」
その言葉にお茶を吹き出しそうになる。
「そもそもあの絵にはタイトルがあるのでしょうか?」
「タイトルどころか作者も不明なんじゃ。随分前になるがの、変わった学者さんが来てな、あの絵を調べさせて欲しいって頼まれたんじゃ。じゃから何も弄らないなら好きにして構わんと言うたら、色んな機材をわざわざ運んで調べてな、その時に教えてもらったんが、作者とかタイトルとか一切描かれてないって事じゃ」
そこまで話すと神主はお茶を啜る。
「その時、何か他の事も判明したのでしょうか?」
「右側の絵と左側の絵は描かれた時代が200年違うんじゃと。左側の絵の方が200年古いと言うておった」
「あの暗い感じの絵ですか?」
「ん?逆じゃよ。ワシは光の絵と呼んでおるが、明るい方が古いんじゃ」
「それは右手にありましたよ?」
男の言葉に神主は首を傾げたが、すぐ笑いながら言う。
「右側や左側は社から見るのが正しいんじゃよ」
それを聞いて男は思い出した。
確か国会議事堂も向かって右手に参議院があるが、実はあれも建物の中心から見て左側だという。
そして参議院はかつて貴族院であり、右と左では左の方が位が高いという話だ。
「つまり位の高い左側に光の絵を置いたという事でしょうか?」
「ふふふふ。面白い考えじゃが、ワシはただの先着順じゃと思うとるよ。それより面白いのが、実はあの光の絵が描かれた時代、この辺り一帯災害と飢饉で大勢人が亡くなっておる。その中で人はあんな優しい絵を描いておるって事と、逆に闇の絵は豊作が続きかなり豊かな時代じゃったらしい。」
「それはまたなんと言うべきか」
「人は苦難の中で優しくなり、豊かな中で醜くなるって考えるとなかなか面白いじゃろ」
神主の他愛ないその言葉は、男の心にくるものがあった。
だからこそ気になった。
「何故、あの素晴らしい絵を後世に残す為に修復しないのでしょうか?」
「ワシには美術や芸術にはとんと縁がなくての、じゃからあの絵の価値も分からん。それでも代々あの絵をそのままにしておくことが、言い伝えられておるからのぉ。」
「勿体無いと思います」
「はははは。まあ、人はそう思うじゃろ。じゃがな、あの絵は人に見て貰う為に描かれてはおらんと思うぞ。神様に見て欲しくて描かれておるから、名前もタイトルも描かれて無いとワシは思うのじゃ。じゃから風化するも自然なままにしておる。きっと跡形も無くなった時は、あの絵を神様が存分堪能したって事じゃろ」
人は地位や名声を求めるものだ。
だが、それでも違う人もいる。
自分がそうだからと、他者もそうあるべきと考えていた男はその話が聞けて本当に良かったと思った。
その後も神主との会話を楽しむと、男は社務所を後にして下山する。
帰り道でまた門をくぐる。
その時に左側には光の絵が、そして右側には闇の絵が描かれている。
「なるほど、同じ場所で見ているのに左右が逆になるものだ」
男はここに来て良かったと心底思った。
「もし今の時代を見たら、この絵を描いた人はどんな絵を描くのだろうか」
自分で呟くと、思わず色んな絵を想像した。
どうやらその想像だけで、家路への道も楽しくなりそうだった。




